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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第二章 夜の侵食
10/49

第三節 二人分の鏡

 訓練が一段落したころには、戒十の喉は乾き、足元の感覚は少し曖昧になっていた。


 走ったわけではない。


 殴られたわけでも、組み伏せられたわけでもない。


 それでも疲れている。


 ただ光源を数え、影の位置を確認し、血の匂いの有無を声に出し、退路を選ぶ。それだけのことを何度も繰り返しただけで、頭の奥が熱くなっていた。


 いや、熱いのは頭ではない。


 左手だ。


 サポーターの下で、黒い痣がずっと脈打っている。


 薬の効果はまだ残っているはずだった。身体の感情はどこか鈍い。怒りも恐怖も、膜の向こうから遅れて届く。


 それなのに、影だけが眠らない。


 床に落ちる黒い輪郭は、照明の角度が変わるたびに形を変えた。戒十がそれを見ると、動かない。目を逸らすと、左手の影だけが先に何かへ伸びようとしている気配がある。


 シンはそれを見逃さなかった。


 何度も止められた。


 何度も指摘された。


 何度もやり直させられた。


「左手」


「わかってます」


「見ろ」


「見てます」


「見ていない。睨んでいるだけだ」


「違いがあるんですか」


「睨むのは感情だ。見るのは確認だ」


 そう言われたとき、戒十は本気で言い返そうとした。


 だが、リサが壁際でスプーンをくわえたまま、真顔でうんうんとうなずいていたため、逆に言葉が引っ込んだ。


「今のシン先生っぽいねえ。名言ぽい」


「茶化すな」


「でも正しいよ。見るのと睨むの、けっこう違うし」


「二人がかりで説教しないでください」


「説教じゃないよ。生存講座」


「余計に嫌です」


 リサは空になったプリンの容器を小さなゴミ箱へ投げ入れた。


 容器は音もなく吸い込まれるように入る。


 何気ない動作なのに、やはり身体の使い方が普通ではなかった。


「じゃあ、そろそろ次にいこっか」


 リサはそう言った。


 戒十は眉をひそめる。


「まだあるんですか」


「あるよ。今のはシン担当。次はあたし担当」


「嫌な予感しかしない」


「ひどいなあ。シンの訓練よりは優しいよ?」


 シンが刀を鞘へ納めながら言った。


「優しくはない」


「あ、言うね」


「おまえの検査は本人に負荷がかかる」


「でも必要」


「必要だが、優しくはない」


「そこは否定しないでほしかったなあ」


 リサは肩をすくめた。


 戒十は二人を交互に見る。


「検査?」


「三相検査」


 リサは軽く指を三本立てた。


「肉体、鏡像、影。その三つのずれを見るの」


「もう昨日、診療室で見たんじゃないんですか」


「あれは簡易版。今日はちょっとちゃんとやる」


「ちょっとちゃんと、って何ですか」


「すごくちゃんとやると君がたぶん吐くから、ちょっとちゃんと」


「帰ります」


「白昼局がそのへん張ってるかもよ」


「卑怯だ」


「事実だよ」


 リサはにこっと笑う。


 シンは腕時計を見た。


「俺は外にいる」


「シン先生は来ないんですか」


「必要なら呼ばれる」


「必要って」


「おまえが暴れた場合だ」


「本当に会話が刺々しいですね」


「事実だ」


「便利な言葉ですね、本当に」


 シンは何も答えず、訓練室の扉へ向かった。


 出る直前、戒十のほうを見る。


「見たくないものが出ても、目を逸らすな」


「何が出るんですか」


「おまえだ」


 それだけ言って、シンは出ていった。


 扉が閉まる。


 低いロック音。


 訓練室には、戒十とリサだけが残された。


 リサはしばらく扉を見てから、ふっと笑った。


「シンって、たまに親切が下手すぎて暴力みたいになるよね」


「たまに?」


「うん。かなり頻繁に」


「そこは訂正しないんだ」


「嘘はよくないから」


 リサは訓練室の奥にある別の扉へ向かった。


 戒十は少し迷ってから、ついていく。


 逃げても意味はない。


 そう思っている時点で、だいぶこの地下の空気に慣らされている気がして嫌だった。


     ◇


 三相検査室は、訓練室よりもさらに静かだった。


 中へ入った瞬間、音が落ちる。


 壁も床も深い灰色。


 天井は高くない。


 部屋の中央には、丸い黒い床面があり、その周囲を三枚の大きな鏡が囲んでいる。


 正面に一枚。


 左斜め前に一枚。


 右斜め前に一枚。


 それぞれ角度が微妙に違い、中央に立つ人間を、三方向から同時に映すようになっていた。


 鏡の縁は黒い金属で覆われている。


 装飾はない。


 ただ、鏡面だけが異様に澄んでいた。


 普通の鏡よりも深い。


 そこに映るものが、こちら側より少しだけ暗く見える。


 天井からは、細い照明が一本だけ吊り下がっていた。


 単一光源。


 リサがスイッチを入れると、部屋の他の光がすべて落ち、その一本だけが白でも黄色でもない、薄い月光のような色で点いた。


 戒十の影が、床へ一本だけ伸びる。


 複数に分かれていない。


 輪郭は濃く、長い。


 左手の影が、普通の手より少し大きく見えた。


「三相検査はね、光を一つにするの」


 リサが説明する。


「光源が多いと、影も分かれる。どの影がどの反応をしてるのか見えにくいから。ここではまず、影を一本にする」


「それで鏡が三枚?」


「うん。肉体を直接見る。鏡像を見る。影を見る。三つを同時に比べる」


「普通なら同じ動きをするはずですよね」


「普通ならね」


 リサは部屋の隅にある操作卓へ行き、画面を確認した。


「でも離影者は、だんだんずれる。肉体が動く前に影が動いたり、影が拒んで肉体が止まったり、鏡像だけが本音に近い顔をしたり」


「鏡像が本音?」


「鏡って、反射だけじゃないんだよ。人が自分をどう見ているかも拾う。まあ、難しい説明はあと。今日は見ればわかる」


「見たくないんですけど」


「だよね」


 リサは軽く笑った。


 その笑顔はいつも通りに見えたが、目だけが少し真面目だった。


「でも、見ないと、勝手に動くよ」


 戒十は何も言い返せなかった。


 昨夜の屋上。


 自分より先に振り返った影。


 自分の声で話した黒いもの。


 思い出した瞬間、左手が疼く。


 リサは中央の丸い床面を指差した。


「そこに立って」


「暴れたら?」


「外にシンがいる」


「答えになってるようで、最悪の答えですね」


「でも安心材料ではあるでしょ」


「安心の形が歪んでる」


「夜はだいたい歪んでるから」


 戒十は中央へ立った。


 足元へ影が伸びる。


 正面の鏡には、制服姿の自分が映っている。


 黒いサポーター。


 目元の疲れ。


 髪の乱れ。


 昨日より少し痩せたようにも見える頬。


 左の鏡には、同じ自分が少し斜めから映る。


 右の鏡にも同じ。


 同じはずだった。


 リサが操作卓から言う。


「右手を上げて」


 戒十は右手を上げた。


 肉体が動く。


 正面の鏡像も動く。


 左右の鏡も動く。


 影も動く。


 ほぼ同じ。


「下ろして」


 下ろす。


 問題ない。


「左手」


 戒十は少しだけ息を吸い、左手を上げた。


 その瞬間、ずれた。


 まず影が動いた。


 床へ伸びた左手の影が、肉体より先に持ち上がる。


 実際には床の上の影だから、持ち上がるはずがない。


 だが、輪郭が先に変わった。


 次に、正面の鏡像が動く。


 それは肉体とほぼ同時。


 だが、左の鏡の中の自分だけが、ほんの一瞬遅れて左手を上げた。


 右の鏡の中の自分は、左手を上げながら、口元だけを少し歪めた。


 笑った。


 戒十は手を下ろした。


 心臓が強く鳴る。


「今の」


「見えた?」


 リサの声は落ち着いていた。


「右の鏡、笑った」


「うん」


「僕は笑ってない」


「うん」


「影も先に動いた」


「うん」


「何でそんな落ち着いてるんですか」


「落ち着いてないよ。慣れてるだけ」


 リサは操作卓から離れ、鏡の外側をゆっくり歩いた。


 彼女の影は、やはり見えない。


 単一光源の下でも、床に落ちる影がほとんどない。


 その事実が、三枚の鏡の中でいっそう不自然に見えた。


 リサの肉体は映る。


 鏡像も映る。


 だが、彼女の足元だけが空白に近い。


 戒十はそれを見て、言葉にできない不安を覚えた。


「リサさんは、三相検査をしたらどうなるんですか」


 思わず聞いた。


 リサは一瞬だけ足を止めた。


 それから笑う。


「あたしは検査する側」


「答えになってない」


「答えたくないとき用の答え」


「便利ですね」


「便利だよ。便利すぎる言葉は、だいたい危ないけど」


 リサは鏡の前へ戻った。


「戒十くん。今から、影と話してみて」


 戒十は顔をしかめる。


「嫌です」


「即答」


「話す相手じゃない」


「もう話しかけられたでしょ」


「幻聴です」


「薬で抑えようとしたのは知ってる。でも、薬で黙るものが全部幻聴とは限らないよ」


「医者みたいなこと言うんですね」


「医者じゃないけど、長く見てきたから」


「何を」


「自分の影から逃げる人たち」


 リサの声は柔らかかった。


 戒十は視線を逸らす。


 正面の鏡の中の自分も逸らす。


 左の鏡の中の自分は、少し遅れて逸らす。


 右の鏡の中の自分だけが、まだこちらを見ていた。


 嫌な感じだった。


「話したら、どうなるんですか」


「何がずれてるか、わかる」


「わかったら治る?」


「治るとは限らない」


「じゃあ意味ない」


「意味はあるよ。相手が黙って勝手に動くのと、何を怒ってるのか聞けるのは違う」


「怒ってる前提なんですね」


「たぶん怒ってるよ」


 リサは戒十の足元の影を見た。


「だって、ずっと押し込められてたんでしょ」


 その言い方に、戒十は反発した。


「僕が押し込めたわけじゃない」


「うん。そうかもしれない」


「そうかもしれないじゃなくて、違う。僕は普通に生きてただけです」


「普通に生きるために、どこかへ押し込めたものはない?」


 戒十は黙った。


 ある。


 そう思ってしまった。


 だが、認めたくはなかった。


 中学生のころの教室。


 見ないふり。


 純へ送られた言葉。


 羨ましさ。


 怖さ。


 怒り。


 それらを全部、自分のものではない場所へ押し込めてきた。


 押し込めたから、普通でいられた。


 少なくとも、そのつもりだった。


「……何を言えばいいんですか」


 戒十は低く尋ねた。


 リサは少し考えた。


「まず、一番言いたいこと」


「一番」


「うん。綺麗な言葉じゃなくていい。説得しようとしなくていい。怒ってるなら怒っていい。怖いなら怖いって言っていい」


「それで暴れたら?」


「シンがいる」


「最悪の安心材料、二回目ですね」


「使えるものは使おう」


 リサはそう言って、少しだけ後ろへ下がった。


 戒十は鏡の中央で、自分の影を見下ろす。


 影は床に落ちている。


 月光のような単一光源の下で、黒く濃く、逃げ場なく。


 それは、もうただの影には見えなかった。


 手足の輪郭。


 肩。


 首。


 頭。


 全部が自分の形をしている。


 左手だけが少し大きく、爪のように尖っている。


 戒十は唇を開いた。


 言いたいこと。


 一番言いたいこと。


 いくつもある。


 勝手に動くな。


 純へ勝手に送るな。


 人を傷つけるな。


 僕のふりをするな。


 僕の中から出てくるな。


 その中で、最初に出た言葉はこれだった。


「僕の身体を勝手に使うな」


 部屋の中が静まり返る。


 鏡の中の三人の戒十が、同じ言葉を口にしたように見えた。


 だが、音は一つしかなかった。


 戒十自身の声。


 その余韻が消えたあと、床の影がわずかに揺れた。


 左手の影が、ゆっくりと開く。


 肉体は動いていない。


 鏡像の戒十も動いていない。


 影だけが、指を開いた。


 そして、声がした。


「僕の人生を、一人で使うな」


 同じ声だった。


 戒十自身の声。


 だが、同じではない。


 言葉の奥に、ずっと噛み殺してきたものが混ざっている。


 怒り。


 悲しみ。


 笑い。


 そして、羨望。


 戒十は喉が詰まった。


 リサは表情を変えなかった。


 変えなかったが、操作卓の上に置いた指先が、ほんのわずかに強ばる。


「人生って何だよ」


 戒十は影を睨む。


「おまえは影だろ。昨日まで喋りもしなかった」


「喋らせなかった」


「違う」


「違わない」


 影の声は、足元からだけでなく、三枚の鏡の中からも聞こえた。


 正面の鏡の戒十は唇を結んでいる。


 左の鏡の戒十は目を伏せている。


 右の鏡の戒十だけが、口元を少し歪めている。


 どれが喋っているのか、わからない。


「君が言わないから、僕が覚えてた」


「何を」


「言いたかったこと。殴りたかった相手。逃げたかった場所。助けてほしかった夜。全部」


「やめろ」


「純に会いたいって送ったのは僕だよ」


 戒十の顔が熱くなった。


 リサの前で。


 この部屋で。


 言われたくないことを、勝手に口にされた。


「黙れ」


「でも、言葉は君の中にあった」


「違う」


「違わない。間違えたって送ったとき、嘘だった。完全な間違いじゃなかった。会いたかった。見つけてほしかった。何が起きてるのか、全部じゃなくても気づいてほしかった」


「黙れって言ってるだろ」


「でも、来られたら困る。怖がられるのが嫌だから。嫌われるより先に突き放す。君はいつもそうだ」


 影の声は淡々としている。


 淡々としているから、余計に刺さった。


 戒十はリサを見た。


 彼女は何も言わない。


 ただ、検査を続けている。


 記録している。


 その沈黙が、戒十には耐えられなかった。


「リサさん、止めてください」


「まだ止めない」


「何で」


「危険域じゃない」


「僕にとっては危険です」


「うん。でも、聞いたほうがいい」


「聞きたくない」


「聞きたくないものほど、影は大きくなる」


 リサの声は優しかった。


 だが、その優しさも今は腹立たしかった。


 影が笑ったように揺れる。


「純が他の誰かと話してると、嫌なんだろ」


「やめろ」


「昼休み、別の女子と笑ってた。君は見てた。話しかければよかったのに、薬を言い訳にした。彼女が自分から来ないと不満なのに、来たら来たで遠ざける」


「違う」


「違わない。純が優しいから好き。だけど、誰にでも優しいところが嫌。自分だけ見てほしい。弱ってるところを見つけてほしい。でも見つけられると逃げたい」


「黙れ!」


 戒十の声が検査室の壁に跳ね返った。


 足元の影が濃くなる。


 左手の影の爪が床へ沈む。


 鏡の中の三つの戒十が、それぞれ違う表情をした。


 正面の戒十は怒っている。


 左の戒十は泣きそうに見える。


 右の戒十は笑っている。


 戒十はそれを見て、吐き気を覚えた。


 秘密を奪われている。


 自分の中だけで処理するはずだった感情を、影が勝手に拾い上げ、リサの前へ並べている。


 好き。


 会いたい。


 嫉妬。


 独占欲。


 怒り。


 こんなものは、誰にも見せるつもりがなかった。


 純にすら。


 まして、リサに見せるものではない。


「僕のものだ」


 戒十は低く言った。


「それは、僕のものだろ」


 影が答える。


「僕のものでもある」


「おまえのものじゃない」


「じゃあ、どこへ捨てたの」


 影の声が、少し冷たくなる。


「言わない感情は消えるの? 見ないふりをしたら、なかったことになるの? 君が使わないなら、僕が持つしかない」


「持たなくていい」


「持たせたのは君だ」


「違う!」


 左手が勝手に動きかけた。


 戒十は慌てて右手で左手首を掴む。


 手順。


 シンの声が頭に蘇る。


 光源は一つ。


 影は一本。


 血の匂いはない。


 左手が熱い。


 爪はまだ出ていない。


 退路は後方の扉。


 リサは右側。


 シンは外。


 危険域。


 まだか。


 まだなのか。


 リサは操作卓のそばで、落ち着いた声を出した。


「戒十くん。申告」


 戒十は息を荒くしながら言う。


「影声。左手が熱い。血の匂いはない。爪は……まだ出てない。退路は扉。でも、リサさんが近い」


「じゃあ、あたしが下がるね」


 リサは静かに一歩下がった。


 その動きに、戒十は少しだけ呼吸を取り戻す。


 影は、それを待っていたように言った。


「中学のときも、そうやって数えた?」


 空気が凍った。


 戒十は、呼吸を忘れた。


 リサの目がわずかに細くなる。


 影は続ける。


「人数。声。誰が笑ってたか。誰が見て見ぬふりをしてたか。どこへ言えばいいか。先生の席まで何歩か。職員室まで何分か。全部わかってた」


「……やめろ」


 声が出ない。


 出ても、弱い。


「机の中に濡れた雑巾が入ってた。上履きがなくなった。トイレで笑い声がした。君は知ってた。見た。覚えた。写真みたいに」


「やめろって」


「でも、動かなかった」


 影の声は、責めるだけではなかった。


 そこには怒りがあった。


 自分へ向けた怒り。


 相手へ向けた怒り。


 あの教室全体へ向けた怒り。


「証拠が足りないって言った。本人が助けを求めてないって言った。下手に動けば悪くなるって言った。自分が標的になるかもしれないって言った。全部、正しい理由みたいに並べた」


「違う……」


「違わない。転校の日、あいつは言った」


 影の輪郭が揺れる。


 鏡の中の右の戒十が、口元だけで笑う。


 左の鏡の戒十は、泣いているように見えた。


「知ってたんだろ」


 その言葉が、検査室の中央へ落ちた。


 戒十は膝から力が抜けそうになった。


 忘れていたわけではない。


 忘れようとしていただけだ。


 名前も、顔も、完全には消えていない。


 ただ、思い出さないようにしてきた。


 写真のフォルダを別名で隠すように。


 見えない場所へ置けば、存在しないことにできると思っていた。


「君はあのとき、殴りたかった」


 影が言う。


「止めたかった。言いたかった。僕は知ってるって。やめろって。見てるぞって。自分が見てたことを、証拠にできたはずだった」


「できなかったんだよ」


 戒十はようやく言った。


「中学生が何をできたって言うんだよ」


「何もできなかったんじゃない」


 影の声が強くなる。


「何もしないほうを選んだ」


「違う!」


「違わない!」


 影が叫んだ。


 戒十と同じ声で。


 しかし、戒十よりずっと剥き出しの声で。


 その瞬間、床の影が立ち上がりかけた。


 黒い腕が、戒十の足元から膝の高さまで持ち上がる。


 リサが素早く操作卓へ手を伸ばす。


 単一光源の明るさが少し上がり、影の輪郭が床へ押し戻される。


 同時に、扉の外でシンの足音がした。


「リサ」


 扉越しに声が響く。


「まだ大丈夫」


 リサは答えた。


 その声は平静だった。


 平静すぎた。


 戒十はリサを見た。


 彼女の顔はいつものように落ち着いている。


 だが、唇の色が少し薄い。


 指先が操作卓の縁を強く掴んでいる。


 リサは何かを見ている。


 戒十の影だけではない。


 その向こうに、別の誰かを。


 影は低く言った。


「僕は、あのときからいた」


 戒十は何も言えなかった。


「君が動かなかったぶん、僕はずっと爪を立ててた。次は動けって。次は黙るなって。次は見てるだけで終わるなって」


「それで、路地の男を殺しかけたのか」


「止めた」


「殺しかけた」


「止めた!」


 影が吠えた。


 床の黒い輪郭が激しく揺れる。


「君がまた見てるだけになろうとしたから、僕が動いた。あの女の人は逃げられた。あいつは手を離した。君はまた理由を並べてた。通報。人を呼ぶ。事情を知らない。関係ない。そうやって、また遅れるところだった」


「だからって、人を壊していい理由にはならない」


「じゃあ、何ならよかったの」


「わからない」


「いつもそれだ。わからないって言って、止まる。止まって、誰かが傷ついてから、後悔する」


「黙れ……」


「黙らない。もう黙らない」


 影の声が少し低くなる。


「君が僕を薬で黙らせても、昼の光で押し潰しても、僕は消えない。僕は君が捨てたものだから。君が使わなかった怒りだから。君が欲しいって言えなかった手だから」


 戒十は自分の左手を見た。


 黒い痣。


 噛み痕。


 指先に残る、影の爪の感覚。


 影は続ける。


「純に助けてほしいんだろ」


「やめろ」


「助けてって言いたい。怖いって言いたい。自分じゃ止められないかもしれないって言いたい。でも、言ったら弱いから嫌。怖がられたら嫌。嫌われたら嫌。だから先に冷たくする」


「やめろ!」


「それで、彼女が離れたら怒る。別の誰かに笑ったら嫌になる。自分から突き放しておいて、追いかけてこないと寂しい」


「違う!」


「違わない!」


 影の左手が、戒十の足元から伸びる。


 自分へ向けて。


 リサへではない。


 鏡へでもない。


 戒十自身の足首へ。


 まるで、逃がさないと言うように。


「僕は、君より正しいわけじゃない」


 影が言った。


 その言葉に、戒十は息を止める。


「君より優しいわけでもない。僕は怒ってる。欲しい。殴りたい。壊したい。純に見てほしい。君だけが悪者にならないように、誰かを悪者にしたい。そういうものも全部、僕だ」


 リサの呼吸が、ほんのわずかに乱れた。


 彼女はそれを隠すように、静かに息を吸う。


 戒十は気づかなかった。


 だが、彼女の目の奥には、別の影が映っていた。


 長い髪。


 黒い輪郭。


 置き去りにされた声。


 かつて、自分の半身だったもの。


 クイーン。


 リサは瞬きをした。


 目の前にいるのは戒十だ。


 十七歳の少年。


 噛まれたばかりの離影者。


 彼の影は、まだ生まれたばかりに近い。


 それでも、言葉を持っている。


 怒りを持っている。


 「僕の人生を、一人で使うな」と言った。


 リサは喉の奥が冷たくなるのを感じた。


 その言葉を、別の声で聞いたことがある気がした。


 聞いたのか。


 聞かなかったことにしたのか。


 わからない。


 リサは平静を装い、操作卓へ視線を落とした。


 数値は危険域の手前で揺れている。


 まだ止められる。


 まだ。


「戒十くん」


 リサは声をかけた。


 自分の声がいつも通りに聞こえるように、少しだけ意識した。


「呼吸して」


 戒十は荒い息を吐いていた。


 影の言葉に引き裂かれたような顔をしている。


 怒りと羞恥と恐怖。


 そして、秘密を盗まれた人間の顔。


「僕のものを勝手に喋らせた」


 戒十はリサを見た。


 その目には、責める色があった。


 リサは受け止めた。


「うん」


「検査って、こういうことですか」


「こういうこともある」


「最低だ」


「そうだね」


「僕の秘密ですよ」


「うん」


「僕が言うかどうか決めることだった」


「うん」


「どうして止めなかったんですか」


 リサはすぐには答えられなかった。


 検査だから。


 必要だから。


 影の自律度を測るためだから。


 そういう言葉はいくらでもある。


 だが、今それを言えば、戒十をさらに傷つける。


 それでも、何も言わないのも違う。


 リサは静かに言った。


「影が勝手に喋ったことは、あたしが止めなかった。そこは謝る」


「止められたんですか」


「たぶん、途中からなら」


「なら、何で」


「君が、聞く必要があると思ったから」


「僕が?」


「うん。君が」


 戒十は笑った。


 乾いた笑いだった。


「勝手に決めるんですね。みんな」


「そうだね」


「最悪だ」


「うん」


 リサは否定しない。


 否定できなかった。


 戒十は足元の影を見る。


 影はもう喋らない。


 ただ、床に落ちている。


 だが、さっきまで聞こえていた言葉は消えない。


 純が好き。


 助けを求めたい。


 嫉妬している。


 突き放しておいて追いかけてほしい。


 中学生のころ、見捨てた。


 見ていた。


 知っていた。


 その全部が、リサの前で暴かれた。


 戒十は自分の胸を押さえた。


 そこに穴が開いたような感じがする。


 隠していたものを引きずり出されたせいで、空洞になっている。


「……これ、記録されてるんですか」


 戒十が低く聞いた。


 リサは操作卓の画面を見た。


「検査データとしては」


「会話も?」


「音声は残る」


「消してください」


「医療記録として必要な部分は残す」


 戒十の目が鋭くなる。


「僕の秘密を、医療記録にするんですか」


「全部は残さない」


「信用しろって?」


「今の君にそれを求めるのは、ずるいね」


 リサは操作卓を操作した。


 録音データの一部にロックをかけ、自由閲覧不可の設定へ変える。


「少なくとも、シンや医師以外が見ることはないようにする。必要な所見だけ残す。会話の内容は、君の同意なしに共有しない」


「もう聞いた人がいる」


「あたしは忘れない」


「最低ですね」


「うん」


 リサは小さく笑った。


 笑おうとしたが、うまくいかなかった。


「あたし、忘れるのは得意じゃないんだ」


 その声が少しだけ沈んだため、戒十はリサを見た。


 リサはすぐにいつもの顔へ戻る。


「今日の検査はここまで」


「逃げるんですか」


「君を休ませるの」


「優しいふり?」


「ふりでも、休めるなら使って」


 リサは照明をゆっくり上げた。


 単一光源が弱まり、部屋の補助灯が点く。


 影が薄くなる。


 三枚の鏡に映る戒十も、少しずつ普通に戻っていく。


 正面の鏡。


 左の鏡。


 右の鏡。


 どの鏡の中の自分も、同じように疲れた顔をしていた。


 ただ、右の鏡の中の口元だけが、最後まで少し笑っているように見えた。


 戒十はその鏡から目を逸らした。


「シンを呼ぶ?」


 リサが聞く。


「呼ばないでください」


「ひとりで歩ける?」


「歩けます」


「影固定剤は?」


「飲みません」


「今は飲まなくていいと思う」


「意外ですね」


「今飲むと、たぶん大事な痛みまで鈍るから」


 戒十は顔を歪めた。


「痛いままでいろってことですか」


「痛みを全部消すと、どこが傷なのかわからなくなることがある」


「それも経験談ですか」


 リサは一瞬だけ黙った。


 それから、いつもの調子で笑おうとした。


「まあね」


 その笑顔は、少しだけ失敗していた。


 戒十はそれ以上聞かなかった。


 聞く余裕がなかった。


 検査室の扉が開く。


 外の廊下には、シンが立っていた。


 腕を組み、壁に背を預けている。


 最初からずっとそこにいたのだろう。


 戒十はシンを睨んだ。


「聞いてました?」


「異常音がないかは確認していた」


「会話は」


「扉越しに全部は聞こえない」


「聞こえた分は?」


「必要なら聞いたことにする」


「便利ですね、みんな」


 シンは戒十の顔を見た。


 責めるでもなく、慰めるでもなく。


 ただ、状態を見る。


「歩けるか」


「歩けます」


「影は」


「喋りません」


「今は、だろ」


「今は」


 戒十は言い直した。


 シンは小さくうなずく。


「なら休め」


「命令ですか」


「助言だ」


「そうですか」


 戒十は廊下へ出た。


 リサは検査室の中に残った。


 扉が閉まりかけたとき、戒十はふと振り返る。


 リサは三枚の鏡の中央に立っていた。


 単一光源はもう消えている。


 補助灯の中で、彼女の影はやはりほとんど見えない。


 リサは鏡の中の自分を見ていた。


 いや、鏡の中に映らない何かを見ていたのかもしれない。


 その横顔は、いつもの軽いリサではなかった。


 ずっと昔から、誰かの声を聞かないふりをしてきた人の顔だった。


 戒十は何か言おうとして、やめた。


 言えることがなかった。


 扉が閉まる。


 三枚の鏡と、影のない女が、向こう側に隠れる。


 廊下の柔らかい灯りの中で、戒十は自分の足元を見た。


 影は黙っている。


 だが、いなくなったわけではない。


 そこにいる。


 使われなかった人生のように。


 言われなかった言葉のように。


 戒十は足を踏み出した。


 影も、同じように動く。


 今度は、肉体とほぼ同時に。


 それが安心なのか、また喋る準備なのかは、まだわからなかった。

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