第三節 二人分の鏡
訓練が一段落したころには、戒十の喉は乾き、足元の感覚は少し曖昧になっていた。
走ったわけではない。
殴られたわけでも、組み伏せられたわけでもない。
それでも疲れている。
ただ光源を数え、影の位置を確認し、血の匂いの有無を声に出し、退路を選ぶ。それだけのことを何度も繰り返しただけで、頭の奥が熱くなっていた。
いや、熱いのは頭ではない。
左手だ。
サポーターの下で、黒い痣がずっと脈打っている。
薬の効果はまだ残っているはずだった。身体の感情はどこか鈍い。怒りも恐怖も、膜の向こうから遅れて届く。
それなのに、影だけが眠らない。
床に落ちる黒い輪郭は、照明の角度が変わるたびに形を変えた。戒十がそれを見ると、動かない。目を逸らすと、左手の影だけが先に何かへ伸びようとしている気配がある。
シンはそれを見逃さなかった。
何度も止められた。
何度も指摘された。
何度もやり直させられた。
「左手」
「わかってます」
「見ろ」
「見てます」
「見ていない。睨んでいるだけだ」
「違いがあるんですか」
「睨むのは感情だ。見るのは確認だ」
そう言われたとき、戒十は本気で言い返そうとした。
だが、リサが壁際でスプーンをくわえたまま、真顔でうんうんとうなずいていたため、逆に言葉が引っ込んだ。
「今のシン先生っぽいねえ。名言ぽい」
「茶化すな」
「でも正しいよ。見るのと睨むの、けっこう違うし」
「二人がかりで説教しないでください」
「説教じゃないよ。生存講座」
「余計に嫌です」
リサは空になったプリンの容器を小さなゴミ箱へ投げ入れた。
容器は音もなく吸い込まれるように入る。
何気ない動作なのに、やはり身体の使い方が普通ではなかった。
「じゃあ、そろそろ次にいこっか」
リサはそう言った。
戒十は眉をひそめる。
「まだあるんですか」
「あるよ。今のはシン担当。次はあたし担当」
「嫌な予感しかしない」
「ひどいなあ。シンの訓練よりは優しいよ?」
シンが刀を鞘へ納めながら言った。
「優しくはない」
「あ、言うね」
「おまえの検査は本人に負荷がかかる」
「でも必要」
「必要だが、優しくはない」
「そこは否定しないでほしかったなあ」
リサは肩をすくめた。
戒十は二人を交互に見る。
「検査?」
「三相検査」
リサは軽く指を三本立てた。
「肉体、鏡像、影。その三つのずれを見るの」
「もう昨日、診療室で見たんじゃないんですか」
「あれは簡易版。今日はちょっとちゃんとやる」
「ちょっとちゃんと、って何ですか」
「すごくちゃんとやると君がたぶん吐くから、ちょっとちゃんと」
「帰ります」
「白昼局がそのへん張ってるかもよ」
「卑怯だ」
「事実だよ」
リサはにこっと笑う。
シンは腕時計を見た。
「俺は外にいる」
「シン先生は来ないんですか」
「必要なら呼ばれる」
「必要って」
「おまえが暴れた場合だ」
「本当に会話が刺々しいですね」
「事実だ」
「便利な言葉ですね、本当に」
シンは何も答えず、訓練室の扉へ向かった。
出る直前、戒十のほうを見る。
「見たくないものが出ても、目を逸らすな」
「何が出るんですか」
「おまえだ」
それだけ言って、シンは出ていった。
扉が閉まる。
低いロック音。
訓練室には、戒十とリサだけが残された。
リサはしばらく扉を見てから、ふっと笑った。
「シンって、たまに親切が下手すぎて暴力みたいになるよね」
「たまに?」
「うん。かなり頻繁に」
「そこは訂正しないんだ」
「嘘はよくないから」
リサは訓練室の奥にある別の扉へ向かった。
戒十は少し迷ってから、ついていく。
逃げても意味はない。
そう思っている時点で、だいぶこの地下の空気に慣らされている気がして嫌だった。
◇
三相検査室は、訓練室よりもさらに静かだった。
中へ入った瞬間、音が落ちる。
壁も床も深い灰色。
天井は高くない。
部屋の中央には、丸い黒い床面があり、その周囲を三枚の大きな鏡が囲んでいる。
正面に一枚。
左斜め前に一枚。
右斜め前に一枚。
それぞれ角度が微妙に違い、中央に立つ人間を、三方向から同時に映すようになっていた。
鏡の縁は黒い金属で覆われている。
装飾はない。
ただ、鏡面だけが異様に澄んでいた。
普通の鏡よりも深い。
そこに映るものが、こちら側より少しだけ暗く見える。
天井からは、細い照明が一本だけ吊り下がっていた。
単一光源。
リサがスイッチを入れると、部屋の他の光がすべて落ち、その一本だけが白でも黄色でもない、薄い月光のような色で点いた。
戒十の影が、床へ一本だけ伸びる。
複数に分かれていない。
輪郭は濃く、長い。
左手の影が、普通の手より少し大きく見えた。
「三相検査はね、光を一つにするの」
リサが説明する。
「光源が多いと、影も分かれる。どの影がどの反応をしてるのか見えにくいから。ここではまず、影を一本にする」
「それで鏡が三枚?」
「うん。肉体を直接見る。鏡像を見る。影を見る。三つを同時に比べる」
「普通なら同じ動きをするはずですよね」
「普通ならね」
リサは部屋の隅にある操作卓へ行き、画面を確認した。
「でも離影者は、だんだんずれる。肉体が動く前に影が動いたり、影が拒んで肉体が止まったり、鏡像だけが本音に近い顔をしたり」
「鏡像が本音?」
「鏡って、反射だけじゃないんだよ。人が自分をどう見ているかも拾う。まあ、難しい説明はあと。今日は見ればわかる」
「見たくないんですけど」
「だよね」
リサは軽く笑った。
その笑顔はいつも通りに見えたが、目だけが少し真面目だった。
「でも、見ないと、勝手に動くよ」
戒十は何も言い返せなかった。
昨夜の屋上。
自分より先に振り返った影。
自分の声で話した黒いもの。
思い出した瞬間、左手が疼く。
リサは中央の丸い床面を指差した。
「そこに立って」
「暴れたら?」
「外にシンがいる」
「答えになってるようで、最悪の答えですね」
「でも安心材料ではあるでしょ」
「安心の形が歪んでる」
「夜はだいたい歪んでるから」
戒十は中央へ立った。
足元へ影が伸びる。
正面の鏡には、制服姿の自分が映っている。
黒いサポーター。
目元の疲れ。
髪の乱れ。
昨日より少し痩せたようにも見える頬。
左の鏡には、同じ自分が少し斜めから映る。
右の鏡にも同じ。
同じはずだった。
リサが操作卓から言う。
「右手を上げて」
戒十は右手を上げた。
肉体が動く。
正面の鏡像も動く。
左右の鏡も動く。
影も動く。
ほぼ同じ。
「下ろして」
下ろす。
問題ない。
「左手」
戒十は少しだけ息を吸い、左手を上げた。
その瞬間、ずれた。
まず影が動いた。
床へ伸びた左手の影が、肉体より先に持ち上がる。
実際には床の上の影だから、持ち上がるはずがない。
だが、輪郭が先に変わった。
次に、正面の鏡像が動く。
それは肉体とほぼ同時。
だが、左の鏡の中の自分だけが、ほんの一瞬遅れて左手を上げた。
右の鏡の中の自分は、左手を上げながら、口元だけを少し歪めた。
笑った。
戒十は手を下ろした。
心臓が強く鳴る。
「今の」
「見えた?」
リサの声は落ち着いていた。
「右の鏡、笑った」
「うん」
「僕は笑ってない」
「うん」
「影も先に動いた」
「うん」
「何でそんな落ち着いてるんですか」
「落ち着いてないよ。慣れてるだけ」
リサは操作卓から離れ、鏡の外側をゆっくり歩いた。
彼女の影は、やはり見えない。
単一光源の下でも、床に落ちる影がほとんどない。
その事実が、三枚の鏡の中でいっそう不自然に見えた。
リサの肉体は映る。
鏡像も映る。
だが、彼女の足元だけが空白に近い。
戒十はそれを見て、言葉にできない不安を覚えた。
「リサさんは、三相検査をしたらどうなるんですか」
思わず聞いた。
リサは一瞬だけ足を止めた。
それから笑う。
「あたしは検査する側」
「答えになってない」
「答えたくないとき用の答え」
「便利ですね」
「便利だよ。便利すぎる言葉は、だいたい危ないけど」
リサは鏡の前へ戻った。
「戒十くん。今から、影と話してみて」
戒十は顔をしかめる。
「嫌です」
「即答」
「話す相手じゃない」
「もう話しかけられたでしょ」
「幻聴です」
「薬で抑えようとしたのは知ってる。でも、薬で黙るものが全部幻聴とは限らないよ」
「医者みたいなこと言うんですね」
「医者じゃないけど、長く見てきたから」
「何を」
「自分の影から逃げる人たち」
リサの声は柔らかかった。
戒十は視線を逸らす。
正面の鏡の中の自分も逸らす。
左の鏡の中の自分は、少し遅れて逸らす。
右の鏡の中の自分だけが、まだこちらを見ていた。
嫌な感じだった。
「話したら、どうなるんですか」
「何がずれてるか、わかる」
「わかったら治る?」
「治るとは限らない」
「じゃあ意味ない」
「意味はあるよ。相手が黙って勝手に動くのと、何を怒ってるのか聞けるのは違う」
「怒ってる前提なんですね」
「たぶん怒ってるよ」
リサは戒十の足元の影を見た。
「だって、ずっと押し込められてたんでしょ」
その言い方に、戒十は反発した。
「僕が押し込めたわけじゃない」
「うん。そうかもしれない」
「そうかもしれないじゃなくて、違う。僕は普通に生きてただけです」
「普通に生きるために、どこかへ押し込めたものはない?」
戒十は黙った。
ある。
そう思ってしまった。
だが、認めたくはなかった。
中学生のころの教室。
見ないふり。
純へ送られた言葉。
羨ましさ。
怖さ。
怒り。
それらを全部、自分のものではない場所へ押し込めてきた。
押し込めたから、普通でいられた。
少なくとも、そのつもりだった。
「……何を言えばいいんですか」
戒十は低く尋ねた。
リサは少し考えた。
「まず、一番言いたいこと」
「一番」
「うん。綺麗な言葉じゃなくていい。説得しようとしなくていい。怒ってるなら怒っていい。怖いなら怖いって言っていい」
「それで暴れたら?」
「シンがいる」
「最悪の安心材料、二回目ですね」
「使えるものは使おう」
リサはそう言って、少しだけ後ろへ下がった。
戒十は鏡の中央で、自分の影を見下ろす。
影は床に落ちている。
月光のような単一光源の下で、黒く濃く、逃げ場なく。
それは、もうただの影には見えなかった。
手足の輪郭。
肩。
首。
頭。
全部が自分の形をしている。
左手だけが少し大きく、爪のように尖っている。
戒十は唇を開いた。
言いたいこと。
一番言いたいこと。
いくつもある。
勝手に動くな。
純へ勝手に送るな。
人を傷つけるな。
僕のふりをするな。
僕の中から出てくるな。
その中で、最初に出た言葉はこれだった。
「僕の身体を勝手に使うな」
部屋の中が静まり返る。
鏡の中の三人の戒十が、同じ言葉を口にしたように見えた。
だが、音は一つしかなかった。
戒十自身の声。
その余韻が消えたあと、床の影がわずかに揺れた。
左手の影が、ゆっくりと開く。
肉体は動いていない。
鏡像の戒十も動いていない。
影だけが、指を開いた。
そして、声がした。
「僕の人生を、一人で使うな」
同じ声だった。
戒十自身の声。
だが、同じではない。
言葉の奥に、ずっと噛み殺してきたものが混ざっている。
怒り。
悲しみ。
笑い。
そして、羨望。
戒十は喉が詰まった。
リサは表情を変えなかった。
変えなかったが、操作卓の上に置いた指先が、ほんのわずかに強ばる。
「人生って何だよ」
戒十は影を睨む。
「おまえは影だろ。昨日まで喋りもしなかった」
「喋らせなかった」
「違う」
「違わない」
影の声は、足元からだけでなく、三枚の鏡の中からも聞こえた。
正面の鏡の戒十は唇を結んでいる。
左の鏡の戒十は目を伏せている。
右の鏡の戒十だけが、口元を少し歪めている。
どれが喋っているのか、わからない。
「君が言わないから、僕が覚えてた」
「何を」
「言いたかったこと。殴りたかった相手。逃げたかった場所。助けてほしかった夜。全部」
「やめろ」
「純に会いたいって送ったのは僕だよ」
戒十の顔が熱くなった。
リサの前で。
この部屋で。
言われたくないことを、勝手に口にされた。
「黙れ」
「でも、言葉は君の中にあった」
「違う」
「違わない。間違えたって送ったとき、嘘だった。完全な間違いじゃなかった。会いたかった。見つけてほしかった。何が起きてるのか、全部じゃなくても気づいてほしかった」
「黙れって言ってるだろ」
「でも、来られたら困る。怖がられるのが嫌だから。嫌われるより先に突き放す。君はいつもそうだ」
影の声は淡々としている。
淡々としているから、余計に刺さった。
戒十はリサを見た。
彼女は何も言わない。
ただ、検査を続けている。
記録している。
その沈黙が、戒十には耐えられなかった。
「リサさん、止めてください」
「まだ止めない」
「何で」
「危険域じゃない」
「僕にとっては危険です」
「うん。でも、聞いたほうがいい」
「聞きたくない」
「聞きたくないものほど、影は大きくなる」
リサの声は優しかった。
だが、その優しさも今は腹立たしかった。
影が笑ったように揺れる。
「純が他の誰かと話してると、嫌なんだろ」
「やめろ」
「昼休み、別の女子と笑ってた。君は見てた。話しかければよかったのに、薬を言い訳にした。彼女が自分から来ないと不満なのに、来たら来たで遠ざける」
「違う」
「違わない。純が優しいから好き。だけど、誰にでも優しいところが嫌。自分だけ見てほしい。弱ってるところを見つけてほしい。でも見つけられると逃げたい」
「黙れ!」
戒十の声が検査室の壁に跳ね返った。
足元の影が濃くなる。
左手の影の爪が床へ沈む。
鏡の中の三つの戒十が、それぞれ違う表情をした。
正面の戒十は怒っている。
左の戒十は泣きそうに見える。
右の戒十は笑っている。
戒十はそれを見て、吐き気を覚えた。
秘密を奪われている。
自分の中だけで処理するはずだった感情を、影が勝手に拾い上げ、リサの前へ並べている。
好き。
会いたい。
嫉妬。
独占欲。
怒り。
こんなものは、誰にも見せるつもりがなかった。
純にすら。
まして、リサに見せるものではない。
「僕のものだ」
戒十は低く言った。
「それは、僕のものだろ」
影が答える。
「僕のものでもある」
「おまえのものじゃない」
「じゃあ、どこへ捨てたの」
影の声が、少し冷たくなる。
「言わない感情は消えるの? 見ないふりをしたら、なかったことになるの? 君が使わないなら、僕が持つしかない」
「持たなくていい」
「持たせたのは君だ」
「違う!」
左手が勝手に動きかけた。
戒十は慌てて右手で左手首を掴む。
手順。
シンの声が頭に蘇る。
光源は一つ。
影は一本。
血の匂いはない。
左手が熱い。
爪はまだ出ていない。
退路は後方の扉。
リサは右側。
シンは外。
危険域。
まだか。
まだなのか。
リサは操作卓のそばで、落ち着いた声を出した。
「戒十くん。申告」
戒十は息を荒くしながら言う。
「影声。左手が熱い。血の匂いはない。爪は……まだ出てない。退路は扉。でも、リサさんが近い」
「じゃあ、あたしが下がるね」
リサは静かに一歩下がった。
その動きに、戒十は少しだけ呼吸を取り戻す。
影は、それを待っていたように言った。
「中学のときも、そうやって数えた?」
空気が凍った。
戒十は、呼吸を忘れた。
リサの目がわずかに細くなる。
影は続ける。
「人数。声。誰が笑ってたか。誰が見て見ぬふりをしてたか。どこへ言えばいいか。先生の席まで何歩か。職員室まで何分か。全部わかってた」
「……やめろ」
声が出ない。
出ても、弱い。
「机の中に濡れた雑巾が入ってた。上履きがなくなった。トイレで笑い声がした。君は知ってた。見た。覚えた。写真みたいに」
「やめろって」
「でも、動かなかった」
影の声は、責めるだけではなかった。
そこには怒りがあった。
自分へ向けた怒り。
相手へ向けた怒り。
あの教室全体へ向けた怒り。
「証拠が足りないって言った。本人が助けを求めてないって言った。下手に動けば悪くなるって言った。自分が標的になるかもしれないって言った。全部、正しい理由みたいに並べた」
「違う……」
「違わない。転校の日、あいつは言った」
影の輪郭が揺れる。
鏡の中の右の戒十が、口元だけで笑う。
左の鏡の戒十は、泣いているように見えた。
「知ってたんだろ」
その言葉が、検査室の中央へ落ちた。
戒十は膝から力が抜けそうになった。
忘れていたわけではない。
忘れようとしていただけだ。
名前も、顔も、完全には消えていない。
ただ、思い出さないようにしてきた。
写真のフォルダを別名で隠すように。
見えない場所へ置けば、存在しないことにできると思っていた。
「君はあのとき、殴りたかった」
影が言う。
「止めたかった。言いたかった。僕は知ってるって。やめろって。見てるぞって。自分が見てたことを、証拠にできたはずだった」
「できなかったんだよ」
戒十はようやく言った。
「中学生が何をできたって言うんだよ」
「何もできなかったんじゃない」
影の声が強くなる。
「何もしないほうを選んだ」
「違う!」
「違わない!」
影が叫んだ。
戒十と同じ声で。
しかし、戒十よりずっと剥き出しの声で。
その瞬間、床の影が立ち上がりかけた。
黒い腕が、戒十の足元から膝の高さまで持ち上がる。
リサが素早く操作卓へ手を伸ばす。
単一光源の明るさが少し上がり、影の輪郭が床へ押し戻される。
同時に、扉の外でシンの足音がした。
「リサ」
扉越しに声が響く。
「まだ大丈夫」
リサは答えた。
その声は平静だった。
平静すぎた。
戒十はリサを見た。
彼女の顔はいつものように落ち着いている。
だが、唇の色が少し薄い。
指先が操作卓の縁を強く掴んでいる。
リサは何かを見ている。
戒十の影だけではない。
その向こうに、別の誰かを。
影は低く言った。
「僕は、あのときからいた」
戒十は何も言えなかった。
「君が動かなかったぶん、僕はずっと爪を立ててた。次は動けって。次は黙るなって。次は見てるだけで終わるなって」
「それで、路地の男を殺しかけたのか」
「止めた」
「殺しかけた」
「止めた!」
影が吠えた。
床の黒い輪郭が激しく揺れる。
「君がまた見てるだけになろうとしたから、僕が動いた。あの女の人は逃げられた。あいつは手を離した。君はまた理由を並べてた。通報。人を呼ぶ。事情を知らない。関係ない。そうやって、また遅れるところだった」
「だからって、人を壊していい理由にはならない」
「じゃあ、何ならよかったの」
「わからない」
「いつもそれだ。わからないって言って、止まる。止まって、誰かが傷ついてから、後悔する」
「黙れ……」
「黙らない。もう黙らない」
影の声が少し低くなる。
「君が僕を薬で黙らせても、昼の光で押し潰しても、僕は消えない。僕は君が捨てたものだから。君が使わなかった怒りだから。君が欲しいって言えなかった手だから」
戒十は自分の左手を見た。
黒い痣。
噛み痕。
指先に残る、影の爪の感覚。
影は続ける。
「純に助けてほしいんだろ」
「やめろ」
「助けてって言いたい。怖いって言いたい。自分じゃ止められないかもしれないって言いたい。でも、言ったら弱いから嫌。怖がられたら嫌。嫌われたら嫌。だから先に冷たくする」
「やめろ!」
「それで、彼女が離れたら怒る。別の誰かに笑ったら嫌になる。自分から突き放しておいて、追いかけてこないと寂しい」
「違う!」
「違わない!」
影の左手が、戒十の足元から伸びる。
自分へ向けて。
リサへではない。
鏡へでもない。
戒十自身の足首へ。
まるで、逃がさないと言うように。
「僕は、君より正しいわけじゃない」
影が言った。
その言葉に、戒十は息を止める。
「君より優しいわけでもない。僕は怒ってる。欲しい。殴りたい。壊したい。純に見てほしい。君だけが悪者にならないように、誰かを悪者にしたい。そういうものも全部、僕だ」
リサの呼吸が、ほんのわずかに乱れた。
彼女はそれを隠すように、静かに息を吸う。
戒十は気づかなかった。
だが、彼女の目の奥には、別の影が映っていた。
長い髪。
黒い輪郭。
置き去りにされた声。
かつて、自分の半身だったもの。
クイーン。
リサは瞬きをした。
目の前にいるのは戒十だ。
十七歳の少年。
噛まれたばかりの離影者。
彼の影は、まだ生まれたばかりに近い。
それでも、言葉を持っている。
怒りを持っている。
「僕の人生を、一人で使うな」と言った。
リサは喉の奥が冷たくなるのを感じた。
その言葉を、別の声で聞いたことがある気がした。
聞いたのか。
聞かなかったことにしたのか。
わからない。
リサは平静を装い、操作卓へ視線を落とした。
数値は危険域の手前で揺れている。
まだ止められる。
まだ。
「戒十くん」
リサは声をかけた。
自分の声がいつも通りに聞こえるように、少しだけ意識した。
「呼吸して」
戒十は荒い息を吐いていた。
影の言葉に引き裂かれたような顔をしている。
怒りと羞恥と恐怖。
そして、秘密を盗まれた人間の顔。
「僕のものを勝手に喋らせた」
戒十はリサを見た。
その目には、責める色があった。
リサは受け止めた。
「うん」
「検査って、こういうことですか」
「こういうこともある」
「最低だ」
「そうだね」
「僕の秘密ですよ」
「うん」
「僕が言うかどうか決めることだった」
「うん」
「どうして止めなかったんですか」
リサはすぐには答えられなかった。
検査だから。
必要だから。
影の自律度を測るためだから。
そういう言葉はいくらでもある。
だが、今それを言えば、戒十をさらに傷つける。
それでも、何も言わないのも違う。
リサは静かに言った。
「影が勝手に喋ったことは、あたしが止めなかった。そこは謝る」
「止められたんですか」
「たぶん、途中からなら」
「なら、何で」
「君が、聞く必要があると思ったから」
「僕が?」
「うん。君が」
戒十は笑った。
乾いた笑いだった。
「勝手に決めるんですね。みんな」
「そうだね」
「最悪だ」
「うん」
リサは否定しない。
否定できなかった。
戒十は足元の影を見る。
影はもう喋らない。
ただ、床に落ちている。
だが、さっきまで聞こえていた言葉は消えない。
純が好き。
助けを求めたい。
嫉妬している。
突き放しておいて追いかけてほしい。
中学生のころ、見捨てた。
見ていた。
知っていた。
その全部が、リサの前で暴かれた。
戒十は自分の胸を押さえた。
そこに穴が開いたような感じがする。
隠していたものを引きずり出されたせいで、空洞になっている。
「……これ、記録されてるんですか」
戒十が低く聞いた。
リサは操作卓の画面を見た。
「検査データとしては」
「会話も?」
「音声は残る」
「消してください」
「医療記録として必要な部分は残す」
戒十の目が鋭くなる。
「僕の秘密を、医療記録にするんですか」
「全部は残さない」
「信用しろって?」
「今の君にそれを求めるのは、ずるいね」
リサは操作卓を操作した。
録音データの一部にロックをかけ、自由閲覧不可の設定へ変える。
「少なくとも、シンや医師以外が見ることはないようにする。必要な所見だけ残す。会話の内容は、君の同意なしに共有しない」
「もう聞いた人がいる」
「あたしは忘れない」
「最低ですね」
「うん」
リサは小さく笑った。
笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「あたし、忘れるのは得意じゃないんだ」
その声が少しだけ沈んだため、戒十はリサを見た。
リサはすぐにいつもの顔へ戻る。
「今日の検査はここまで」
「逃げるんですか」
「君を休ませるの」
「優しいふり?」
「ふりでも、休めるなら使って」
リサは照明をゆっくり上げた。
単一光源が弱まり、部屋の補助灯が点く。
影が薄くなる。
三枚の鏡に映る戒十も、少しずつ普通に戻っていく。
正面の鏡。
左の鏡。
右の鏡。
どの鏡の中の自分も、同じように疲れた顔をしていた。
ただ、右の鏡の中の口元だけが、最後まで少し笑っているように見えた。
戒十はその鏡から目を逸らした。
「シンを呼ぶ?」
リサが聞く。
「呼ばないでください」
「ひとりで歩ける?」
「歩けます」
「影固定剤は?」
「飲みません」
「今は飲まなくていいと思う」
「意外ですね」
「今飲むと、たぶん大事な痛みまで鈍るから」
戒十は顔を歪めた。
「痛いままでいろってことですか」
「痛みを全部消すと、どこが傷なのかわからなくなることがある」
「それも経験談ですか」
リサは一瞬だけ黙った。
それから、いつもの調子で笑おうとした。
「まあね」
その笑顔は、少しだけ失敗していた。
戒十はそれ以上聞かなかった。
聞く余裕がなかった。
検査室の扉が開く。
外の廊下には、シンが立っていた。
腕を組み、壁に背を預けている。
最初からずっとそこにいたのだろう。
戒十はシンを睨んだ。
「聞いてました?」
「異常音がないかは確認していた」
「会話は」
「扉越しに全部は聞こえない」
「聞こえた分は?」
「必要なら聞いたことにする」
「便利ですね、みんな」
シンは戒十の顔を見た。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、状態を見る。
「歩けるか」
「歩けます」
「影は」
「喋りません」
「今は、だろ」
「今は」
戒十は言い直した。
シンは小さくうなずく。
「なら休め」
「命令ですか」
「助言だ」
「そうですか」
戒十は廊下へ出た。
リサは検査室の中に残った。
扉が閉まりかけたとき、戒十はふと振り返る。
リサは三枚の鏡の中央に立っていた。
単一光源はもう消えている。
補助灯の中で、彼女の影はやはりほとんど見えない。
リサは鏡の中の自分を見ていた。
いや、鏡の中に映らない何かを見ていたのかもしれない。
その横顔は、いつもの軽いリサではなかった。
ずっと昔から、誰かの声を聞かないふりをしてきた人の顔だった。
戒十は何か言おうとして、やめた。
言えることがなかった。
扉が閉まる。
三枚の鏡と、影のない女が、向こう側に隠れる。
廊下の柔らかい灯りの中で、戒十は自分の足元を見た。
影は黙っている。
だが、いなくなったわけではない。
そこにいる。
使われなかった人生のように。
言われなかった言葉のように。
戒十は足を踏み出した。
影も、同じように動く。
今度は、肉体とほぼ同時に。
それが安心なのか、また喋る準備なのかは、まだわからなかった。




