第四節 夜の戒十と純
三相検査のあと、戒十は地下の休憩室へ入れられた。
休憩室、という名前のわりに、そこは病室と寮室の中間のような場所だった。
壁は薄い灰色。
窓はない。
ベッドが一つ。
小さな机。
枕元には光量を細かく調整できる照明があり、壁には非常呼び出し用のボタンがついている。
扉には内側から鍵をかけられない。
そのことに気づいたとき、戒十は笑いそうになった。
休憩室。
保護。
管理。
どの言葉も、使い方次第で檻になる。
ベッドへ座ると、身体が急に重くなった。
訓練の疲れではない。
検査の疲れだった。
体力ではなく、もっと内側にあるものを削られた感じがする。
自分の影に、自分の秘密を喋られた。
純が好きだということ。
会いたかったこと。
助けてほしかったこと。
怖がられる前に突き放したこと。
中学生のころ、見ていたのに動かなかったこと。
それらは、戒十の中でまだ名前をつけずに置いておきたかったものだった。
少なくとも、他人の前で並べられるものではなかった。
リサは謝った。
けれど、止めなかった。
必要だから。
聞くべきだから。
そう言われても、納得できるわけがない。
戒十はベッドへ仰向けになり、天井を見上げた。
柔らかい照明。
光源は一つ。
影はベッドの下へ短く落ちている。
血の匂いはない。
退路は扉。
シンに叩き込まれた確認が、勝手に頭の中で始まる。
嫌になる。
なのに、その確認をしている間だけは、自分がまだ自分の側にいる気がした。
スマートフォンを取り出す。
純からのメッセージは来ていなかった。
朝、冷たく突き放した。
放課後も逃げた。
そのあと白昼局に囲まれ、シンに連れ戻され、地下で訓練を受け、検査で秘密を暴かれた。
たった一日とは思えない。
純は、今どうしているのだろう。
怒っているだろうか。
呆れているだろうか。
心配しているだろうか。
それとも、もう放っておくと決めたのだろうか。
戒十は返信欄を開いた。
何かを打とうとして、指が止まる。
何を言う。
朝はごめん。
昨日もごめん。
体調が悪い。
少し待って。
どれも本当で、どれも足りない。
足りない言葉を送れば、また純は近づいてくる。
近づけば危ない。
シンの言葉が頭に蘇る。
安全のために距離を置くなら、理由を渡せ。
理由。
どう渡せばいい。
今は近づくと危ない。
そう言えば、純はきっと聞いてくる。
どう危ないのか。
何があったのか。
病院へ行こう。
誰かに相談しよう。
そう言う。
彼女はそういう人間だ。
だから怖い。
スマートフォンの画面が、暗くなる。
戒十は再び点けようとして、左手が動かないことに気づいた。
いや、動かないのではない。
動こうとしていない。
自分の意思が、左手へ届くまでに薄い膜がある。
床の影が、ベッドの下でわずかに揺れた。
声がした。
今なら、言える。
「黙れ」
戒十は天井を見たまま言った。
影は笑ったようだった。
薬で黙らせても、君は言えなかった。
「黙れって言ってる」
じゃあ、僕が言う。
左手がスマートフォンへ伸びる。
戒十は右手で左手首を掴んだ。
力を込める。
だが、指先が画面へ触れる。
ロックが解除される。
返信欄が開く。
「やめろ」
声が掠れる。
ベッドの下の影が、ゆっくり伸びた。
光源は一つ。
影は一本。
その一本が、ベッドの脚を越え、床を這うようにスマートフォンの下へ回り込んでいる。
文字が入力される。
『駅裏の歩道橋。少しだけでいい』
戒十は息を呑んだ。
送信ボタンへ指が近づく。
「やめろ!」
今度は叫んだ。
扉の外で、誰かの足音がした。
だが、送信のほうが早かった。
メッセージが純へ飛ぶ。
既読はつかない。
その数秒が、奇妙に長かった。
戒十はスマートフォンを取り落とし、起き上がろうとした。
左手が動く。
足も動く。
身体がベッドから立ち上がる。
しかし、自分が動かしている感覚が薄い。
運転席から引きずり下ろされ、助手席に座らされたような感覚。
視界はある。
音も聞こえる。
だが、身体の中心に届かない。
扉が開いた。
リサが顔を出す。
「戒十くん?」
彼女の声が、少し遠く聞こえた。
戒十の身体が振り返る。
口が動く。
「大丈夫」
自分の声。
しかし、言い方が違う。
昼の自分より柔らかい。
迷いが少ない。
嘘をつくための声ではなく、嘘を嘘として扱わない声だった。
リサの表情が変わった。
「……君、どっち?」
戒十の身体が、少しだけ笑う。
「どっちも」
リサの目が細くなる。
廊下の向こうからシンの足音が近づいてくる。
戒十の身体は、扉の脇をすり抜けた。
速い。
夜の身体だ。
まだ完全ではない。
だが、影固定剤の効き目が切れかけ、日没が地下の時計の上で過ぎたことで、身体の奥に夜の感覚が戻ってきている。
廊下の光源は三つ。
影は二本。
リサの影はない。
シンの足音は後方。
退路は、居住区へ向かう通路ではなく、搬入口側。
戒十はそれを理解していた。
いや、理解したのは自分ではない。
影だ。
訓練で覚えた手順を、影が使っている。
自分よりうまく。
「止まれ!」
シンの声が響いた。
足元に、刀の影が走る。
しかし、戒十の身体は搬入口の照明の影へ滑り込んだ。
完全な暗闇ではない。
薄い紫色のネオンが外階段から差し込み、複数の細い影を作っている。
その中を、影は選んで進んだ。
危ない方向を避け、人の少ない退路を選び、血の匂いがする保存血庫には近づかない。
人を傷つけないための訓練を、逃げるために使っている。
戒十は内側から叫んだ。
やめろ。
純を巻き込むな。
返事はない。
ただ、身体の奥から、どうしようもない感情が溢れてくる。
会いたい。
それだけが、強かった。
◇
駅裏の歩道橋は、夕方と夜の境目にある場所だった。
駅前ほど明るくはない。
だが、完全に暗くもない。
歩道橋の下をバスロータリーへ向かう道路が通り、車のヘッドライトが断続的に金網へ流れる。
階段の踊り場には古い街灯があり、白ではなく、少し黄色い光を落としていた。
遠くには高架線。
電車が通るたび、鉄骨が低く震える。
戒十の身体は、その歩道橋の中央に立っていた。
息はほとんど乱れていない。
走ったはずなのに。
VIOLET DRAGONの地下からここまで、どうやって来たのか、戒十は断片でしか覚えていなかった。
旧市街の裏路地。
低い塀。
閉店後の商店。
駐輪場の屋根。
駅裏の細い階段。
そのすべてを、身体は迷わず選んだ。
夜の自分は、街の影の道を知っている。
そのことが、戒十には恐ろしかった。
歩道橋の金網越しに、駅の明かりが見える。
人の流れ。
改札。
バス停。
コンビニの白い看板。
その中から、純が現れた。
制服の上に薄いカーディガンを羽織っている。
鞄を肩にかけ、手にはいつもの救急ポーチが入っているらしい小さな袋。
息が少し上がっている。
急いで来たのだ。
戒十の身体が、金網から離れる。
純が階段を上がりきり、こちらを見る。
「戒十」
声に、安心と警戒が混ざっていた。
彼女は一歩近づき、そこで止まる。
すぐに気づいたのだ。
目の前にいる戒十が、昼間の戒十と違うことへ。
立ち方。
視線。
呼吸。
表情。
全部が少しずつ違う。
昼の戒十は、話す前に逃げ道を探す。
今の戒十は、まっすぐ純を見ている。
まっすぐ見すぎている。
「……体調、悪いんじゃなかったの」
純が言った。
戒十の口が動く。
「悪いよ」
声は静かだった。
「でも、会いたかった」
その言葉を聞いた瞬間、純は息を止めた。
戒十の内側でも、何かが凍る。
言うな。
それは言うな。
自分で言いたかった。
いつか、言うなら。
自分の意思で。
自分の口で。
なのに、声はもう外へ出ていた。
純はすぐには答えなかった。
歩道橋の下を車が通り、ヘッドライトが二人の影を金網へ伸ばす。
純の影は短く震え、戒十の影は長く、彼女の足元へ届きそうな位置で止まった。
純はその影を見る。
それから、戒十の目を見る。
「あなた、戒十?」
戒十の身体は少しだけ首を傾げた。
「うん」
「でも、昼間の戒十じゃない」
「昼も僕だよ」
「そういう意味じゃない」
純の声は震えていなかった。
怖がっていないわけではない。
怖いはずだ。
しかし、彼女は引かなかった。
「昨日、屋上にいた?」
「いた」
「教室から消えたのは?」
「僕が動かした」
純の目が揺れる。
戒十の内側で、昼の自分が叫んだ。
言うな。
それ以上言うな。
影の戒十は聞かない。
「ごめん。怖がらせた」
「それを、昼の戒十は覚えてるの?」
「覚えてる。少し。全部じゃないけど、見てる」
純は小さく息を吸った。
「今も?」
「見てる」
歩道橋の風が吹く。
純は、目の前の戒十と、その内側にいるもう一人の戒十を同時に見るような顔をした。
「じゃあ、聞いてるんだ」
「うん」
「だったら、勝手に話していいの?」
影の戒十は、すぐには答えなかった。
初めて、少し迷うように見えた。
その表情に、昼の戒十はぞっとした。
迷っている。
つまり、影は影なりに理解している。
これが裏切りだと。
秘密を勝手に使うことだと。
それでも、話したいのだ。
「隠したくない」
影の戒十は言った。
「もう、隠したくない」
「あなたが?」
「僕が」
「昼の戒十は?」
言葉が止まる。
純は一歩近づいた。
近づきすぎない距離で止まる。
シンの訓練を知らないはずなのに、彼女は自然に距離を選んでいた。
手を伸ばせば届く。
でも、影が飛びかかるには少し足りない。
そういう距離。
「昼の戒十は、隠したがってるんじゃないの?」
「怖いから」
「何が」
「嫌われるのが」
声が、少し低くなった。
だが、逃げなかった。
「隠したのは、君を守るためじゃない。嫌われるのが怖かったから」
純の顔が、痛むように歪んだ。
怒りではない。
悲しみだけでもない。
その二つが混ざっていた。
影の戒十は続ける。
「心配されるのが嫌だった。弱いと思われるのも嫌だった。化け物みたいだって思われるのも嫌だった。でも、気づいてほしかった」
「……うん」
「助けてって言いたかった」
「うん」
「でも、言ったら、君は来るだろ」
「行くよ」
「だから言えなかった」
「それは、私のせい?」
純の声が少しだけ硬くなる。
影の戒十は首を振った。
「違う」
「じゃあ、勝手に決めないで」
その言葉は静かだった。
だが、強かった。
昼の戒十が、内側で息を止める。
純は、影の戒十を拒まなかった。
怖がって逃げなかった。
それなのに、甘やかしもしなかった。
「来るかどうかは、私が決めることだよ」
影の戒十は黙る。
純は続ける。
「戒十が怖いのもわかる。言えなかったのも、たぶん少しはわかる。私だって、何でも言えるわけじゃないし。でも、私がどう思うかを、先に戒十が決めるのは違う」
「ごめん」
「それは、あなたの謝罪?」
「僕の」
「昼の戒十の?」
「……たぶん、両方」
純は目を伏せた。
歩道橋の下を電車が通る。
鉄の音が空気を震わせる。
その音の中で、純は静かに言った。
「あなたが戒十なのはわかる」
影の戒十が、少しだけ顔を上げる。
「昼の戒十じゃない、って言ったけど、別人だとは思ってない。たぶん、戒十が言えなかったことを、あなたが持ってるんだよね」
「うん」
「でも、昼の戒十を裏切っていいことにはならない」
その言葉に、影の戒十の表情が固まった。
昼の戒十も、内側で固まった。
裏切り。
そうだ。
これは裏切りだ。
純へ本音を言えた喜びが、足元から冷えていく。
影の戒十は、昼の戒十が言えなかった言葉を言った。
言ってしまった。
それは救いのようで、同時に奪取だった。
純は戒十の目を見たまま言う。
「私に話してくれたのは嬉しい。会いたかったって言われたのも、嬉しくないわけじゃない」
その言葉に、影の戒十の指がわずかに動く。
嬉しい。
その反応が、痛いほど素直だった。
「でも、それを昼の戒十が自分で言う機会を、あなたが取ったんだよ」
影の戒十は視線を落とした。
足元の影が金網に重なる。
長い左手が、純の影へ伸びかけて、止まる。
純はそれを見た。
「触らないで」
声は強くなかった。
しかし、影は止まった。
影の戒十が顔を上げる。
「怖い?」
「怖いよ」
純は正直に言った。
その正直さに、影の戒十は傷ついた顔をした。
昼の戒十も、同じように胸が痛んだ。
だが、純は続けた。
「でも、怖いから嫌いってことじゃない。怖いものを、怖くないふりで近づけるほうが危ないと思う」
「シンみたいなこと言う」
「誰?」
「嫌な大人」
「それ、あとで説明して」
「たぶん、君は怒る」
「もう怒ってる」
純は少しだけ息を吐いた。
ほんの少しだけ、いつもの彼女らしい顔になる。
「怒ってるけど、話は聞く」
「優しい」
「優しさだけじゃないよ」
「じゃあ何」
「知りたいから。戒十が何を隠してるのか。あなたが何なのか。どうしたら、戒十が自分で話せるのか」
影の戒十は、しばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「昼の僕より、僕のほうがちゃんと言える」
その言葉に、昼の戒十の胸がざわついた。
影の声には、寂しさと、誇りと、少しの挑発が混ざっていた。
「僕なら、君に会いたいって言える。助けてって言える。好きだって……」
「言わないで」
純が遮った。
影の戒十は動きを止める。
純はまっすぐ彼を見ていた。
「それは、あなたが今言うことじゃない」
「どうして」
「昼の戒十が、それをまだ私に渡してないから」
「でも、気持ちは同じだ」
「同じでも、渡し方は違う」
純の声は揺れなかった。
「あなたが言えば言うほど、昼の戒十は言えなくなる。あなたに先に言われたから、自分はもう言えないって思う」
その通りだった。
昼の戒十は、内側で言葉を失っていた。
会いたかった。
嫌われるのが怖かった。
助けてほしかった。
それらを影に先に言われた。
純が受け止めた。
叱った。
でも、拒まなかった。
その記憶を、昼の戒十は共有している。
だからこそ、痛い。
自分ではできなかったことを、影がした。
自分より先に。
自分より素直に。
純の前で。
影の戒十は、寂しそうに笑った。
「じゃあ、僕はいつ話していいの」
「昼の戒十と一緒に話せるようになってから」
「一緒に?」
「勝手にじゃなくて」
「難しい」
「うん。難しいと思う」
「君は僕にも厳しい」
「戒十にも厳しいよ」
「知ってる」
そこで、影の戒十は本当に少し笑った。
昼の戒十が普段する皮肉な笑いではない。
少しだけ泣きそうな笑いだった。
純は、その笑いを見て表情を柔らかくした。
「名前はあるの?」
影の戒十は首を傾げる。
「名前?」
「あなたのこと、何て呼べばいいのかわからない」
「僕は戒十」
「そうだね」
「でも、昼の僕も戒十」
「うん」
「じゃあ、呼ばないで」
影の戒十は言った。
「名前を呼ばれたら、たぶん欲しくなる」
「何が?」
「君が」
純の表情が固まる。
影の戒十も、自分で言った言葉の危うさに気づいたように息を止めた。
昼の戒十の内側が、急速に冷える。
それは好意だけではない。
独占欲。
嫉妬。
触れたいという欲。
自分だけを見てほしいという願い。
影はそれを隠さない。
隠せない。
純は一歩だけ後ろへ下がった。
逃げるためではない。
距離を取り直すために。
「それも、言っちゃ駄目」
純の声は静かだった。
「思うのは止められないかもしれない。でも、私を物みたいに言わないで」
「……ごめん」
「うん」
「怖がらせた」
「少し」
「嫌いになった?」
その問いは幼かった。
あまりにも剥き出しで、昼の戒十なら絶対に言わない問いだった。
純はすぐに答えなかった。
その間に、影の戒十の指が震える。
左手の影が、床の上で小さく爪を立てた。
純はそれを見てから、答えた。
「嫌いにはなってない」
影の戒十が息を吸う。
「でも、怒ってる」
「うん」
「怖いとも思ってる」
「うん」
「それでも、話す?」
「話す」
純はそう言った。
「ただし、勝手に秘密を持ち出すなら、私はあなたにも怒る。昼の戒十にも怒る。二人分、怒る」
影の戒十は少しだけ目を見開いた。
それから、困ったように笑った。
「二人分は、重い」
「だったら、二人で持って」
その言葉が、歩道橋の上に落ちた。
戒十の内側で、何かが揺れる。
二人で持つ。
昼の自分と、影の自分。
そんなことができるのか。
したいのか。
わからない。
影の戒十は純を見つめた。
「明日、昼の僕に怒って」
「もう怒ってる」
「もっと」
「注文しないで」
「逃げるから」
「逃がさない」
純は即答した。
その強さに、影の戒十はまた笑った。
今度は少しだけ、嬉しそうだった。
「やっぱり、会いたかった」
「それは聞いた」
「もう一回言いたかった」
「一回で十分」
「昼の僕にも、同じこと言わせて」
「それは、昼の戒十が決めること」
「厳しい」
「だから、二人分怒るって言ったでしょ」
下の道路をバスが通り過ぎる。
風が強く吹いた。
その風に混じって、遠くから黒い車のブレーキ音が聞こえた。
影の戒十がわずかに顔を上げる。
シンの気配。
リサの気配。
追ってきたのだ。
歩道橋の階段の下に、黒いワゴン車が止まっている。
シンが運転席から降りる。
リサも反対側から降り、歩道橋の上を見上げた。
純もそれに気づく。
「誰?」
「嫌な大人と、夜のお姉さん」
「説明になってない」
「明日、昼の僕から聞いて」
「また逃げる?」
「たぶん」
「じゃあ、逃げたら追う」
影の戒十は目を細めた。
「君は、本当に来るんだね」
「行くよ。私が決めることだから」
影の戒十は、少しだけ泣きそうな顔をした。
それから、左手を胸元へ引き寄せる。
影も同じように動く。
今度は、純の影へ伸びなかった。
「ありがとう」
小さな声だった。
純は何も言わず、ただ頷いた。
次の瞬間、戒十の身体が大きく揺れた。
主導権が剥がれる。
夜の身体の奥から、昼の戒十が押し戻される。
視界が歪む。
歩道橋の金網。
純の顔。
街灯。
階段を駆け上がってくるシンの足音。
リサの声。
全部が一度に遠ざかり、近づく。
戒十は倒れかけた。
純が反射的に手を伸ばす。
「戒十!」
触れようとした瞬間、シンの声が飛んだ。
「水城、下がれ!」
純は驚きながらも、半歩だけ引いた。
シンが戒十の身体を支える。
影の刃が足元へ短く伸び、暴れかけた左手の影を押さえる。
リサが歩道橋の上へ上がってくる。
「間に合った……って言っていいのかな、これ」
シンは戒十を支えたまま、純を見た。
「君が水城純か」
「そうです」
純はシンを睨む。
その視線には怯えよりも怒りが強かった。
「あなたたち、戒十に何をしたんですか」
シンはすぐには答えなかった。
リサが間に入る。
「純ちゃん。ごめん、説明が遅れたね。あたしはリサ」
「名前より説明してください」
「うん。だよね」
リサは苦笑した。
戒十はシンに支えられたまま、ほとんど意識を失っていた。
しかし、完全には消えていない。
純の声が聞こえる。
リサの声も。
シンの硬い呼吸も。
そして、身体の奥に残る影の声も。
約束したよ。
何を。
明日、怒られる。
それだけを最後に、意識が沈んだ。
◇
翌朝、戒十はVIOLET DRAGONの地下の休憩室で目を覚ました。
天井は灰色。
照明は低く絞られている。
左手には拘束具がついていた。
黒いベルト。
内側に金属糸の入った、訓練室で見せられたもの。
手首を固定されているわけではない。
だが、影の左手が大きく動けないように、床へ短い影止めが落とされている。
戒十はしばらくそれを見つめた。
怒るべきだと思った。
だが、怒りより先に、記憶が戻ってきた。
駅裏の歩道橋。
純。
会いたかった。
嫌われるのが怖かった。
助けてって言いたかった。
昼の戒十を裏切っていいことにはならない。
あなたが戒十なのはわかる。
二人分、怒る。
全部、覚えていた。
自分が話したわけではない。
だが、自分の口で話した。
自分の声で。
自分の身体で。
自分が言えなかった言葉を、影が言った。
純は、それを聞いた。
拒まなかった。
怒った。
叱った。
それでも、話すと言った。
戒十は右手で顔を覆った。
感情が遅れて押し寄せる。
恥ずかしい。
怖い。
ありがたい。
そして、それ以上に。
悔しい。
胸の奥から、黒いものが湧いてくる。
自分より先に、影が純へ会った。
自分より先に、本音を言った。
自分より先に、純に受け止められた。
自分が何日も隠して、傷つけて、逃げて、薬で黙らせて、それでも言えなかったことを。
影は、たった一晩で言ってしまった。
しかも、純はそれを聞いた。
影を戒十だと認めた。
昼の戒十とは違うと気づいたうえで、戒十だと認めた。
それが、どうしようもなく悔しかった。
「……ふざけるな」
声が漏れる。
足元の影は動かない。
拘束具の影止めが効いているのだろう。
だが、声だけは聞こえた。
嫉妬してる。
「黙れ」
うん。
影の声は、少し疲れていた。
でも、言えた。
戒十は歯を食いしばる。
「僕が言うはずだった」
いつ?
その問いに、戒十は答えられなかった。
いつか。
ちゃんとしたときに。
危なくなくなったら。
普通に戻れたら。
怖がられない方法がわかったら。
そんな「いつか」は、たぶん来なかった。
影はそれを知っていた。
だから先に言った。
そのことが腹立たしい。
図星だから余計に。
扉がノックされた。
リサが顔を出す。
「起きた?」
戒十は顔を覆ったまま言った。
「最悪です」
「うん。だと思った」
「見てたんですか」
「途中から。シンも」
「純は?」
「帰ったよ。ちゃんと送った。怒ってたけど、落ち着いてた」
「何を説明したんですか」
「全部は言ってない。言える範囲だけ。離影者のこと、影が喋ること、君が危険な状態にあること」
「勝手に?」
「うん。勝手に」
リサは否定しなかった。
戒十は顔から手を離し、彼女を睨んだ。
「みんな勝手ですね」
「そうだね」
「僕のことなのに」
「君のことだから、君だけじゃ抱えきれない部分もある」
「そういう言い方、嫌いです」
「知ってる」
リサは部屋へ入り、ベッド脇の椅子へ座った。
「純ちゃん、今日の放課後に話したいって」
戒十の身体が強ばる。
「誰と」
「君と」
「どっちの」
「昼の君」
戒十は黙った。
胸の奥で、また嫉妬が動く。
会いたい。
会いたくない。
怒られたくない。
でも、影だけが彼女と話したまま終わるのはもっと嫌だ。
リサはその表情を見て、少しだけ笑った。
「嫉妬してる顔」
「言わないでください」
「言わなくても出てる」
「最悪だ」
「うん。でも、その嫉妬は君のものだよ」
戒十は足元の影を見る。
影は拘束されている。
それでも、声は残っている。
自分の内側で。
影に奪われたと思った言葉も、嫉妬も、怒りも。
全部、どこかでつながっている。
だからこそ、余計に苦しい。
リサが静かに言った。
「今日、逃げる?」
戒十は答えなかった。
「逃げてもいいけど、純ちゃんはたぶん追ってくるよ」
「わかってます」
「じゃあ、どうする?」
戒十は天井を見た。
光源は一つ。
影は短い。
血の匂いはない。
左手は熱い。
心臓は痛い。
退路は扉。
だが、今回は逃げ道ではなく、出ていく道にしなければならない。
自分の口で。
自分の言葉で。
影に先を越されたままにしないために。
「……話します」
戒十は低く言った。
リサは頷いた。
「うん」
「でも、影を出さない」
「それは約束できない」
「じゃあ、出ても勝手に喋らせない」
「それは練習できる」
リサは少しだけ笑った。
「二人分、怒られる準備しよっか」
「本当に最悪だ」
「うん」
戒十は拘束具のついた左手を見た。
影の左手も、短く床へ落ちている。
昨日までなら、その影を消したいと思った。
今も思わないわけではない。
だが、それ以上に、別の感情がある。
負けたくない。
自分の影に。
自分より先に本音を言える、夜の自分に。
その嫉妬が、朝の地下室で一番はっきりとした感情だった。
戒十はその感情を、今度は薬で押し潰さなかった。
押し潰せばまた、影が先に使う。
そうわかってしまったからだ。




