第五節 白昼の檻
昼のVIOLET DRAGONは、夜よりも静かだった。
表のバー兼ライブハウスは営業していない。
紫色のネオンも消えている。
ステージの照明は落とされ、カウンターのグラスは伏せられたまま。夜には誰かの笑い声や、楽器の調整音や、氷の鳴る音が混ざっていた空間が、昼には古い木材と消毒液の匂いだけを残して眠っている。
だが、眠っているのは表だけだった。
地下では、人が動いていた。
廊下を行き来する足音。
診療室の電子音。
保存血庫の冷却装置。
どこかの居住区で低く流れるテレビ。
光量を調整する小さな機械音。
夜に生きる者たちの生活は、昼にも完全には止まらない。
ただ、昼の光が地上を支配しているあいだ、彼らは少し低い声で話し、少し慎重に歩く。
まるで、地上にいる誰かへ見つからないように。
戒十は休憩室のベッドに座っていた。
左手の拘束具は、まだ外されていない。
手首を縛るためのものではない。肉体の動きはある程度自由だ。だが、床へ落ちる左手の影だけが、短く、重く、鈍い。
影の側に錘をつけられているような感覚だった。
不快ではある。
しかし、完全に嫌悪することもできなかった。
昨夜、自分の影は純の前へ行った。
自分の口で、言うはずだったことを言った。
自分より先に。
その記憶は、眠っても薄れなかった。
いや、眠れたのかどうかも怪しい。
目を閉じれば、駅裏の歩道橋が浮かぶ。
純の顔。
風に揺れる髪。
「あなたが戒十なのはわかる」と言った声。
「でも、昼の戒十を裏切っていいことにはならない」と言った目。
あれは影へ向けられた言葉だった。
同時に、昼の自分へ向けられた言葉でもあった。
戒十は膝の上で右手を握った。
左手は拘束具のせいで、同じようには握れない。
足元の影だけが、わずかに拳を作りかけ、すぐに止まった。
「……真似するな」
小さく言う。
影は答えない。
拘束具の影止めが効いているのか、それとも影も疲れているのか。
声はしなかった。
静かすぎると、今度はそれが不安になる。
扉がノックされた。
戒十は顔を上げる。
「起きてる?」
リサの声だった。
「寝てません」
「それは起きてるに入れていいのかな」
「日本語の問題なら、入るんじゃないですか」
「皮肉が戻ってる。よかった」
扉が開き、リサが顔を出す。
いつもの軽い笑顔。
栗色の髪。
紫色のジャケット。
手には紙コップが二つ。
片方を戒十へ差し出す。
「飲めるやつ。血じゃないよ。無糖のほうじ茶」
「その説明、必要ですか」
「今の君には必要」
「……どうも」
戒十は紙コップを受け取った。
温かい。
鼻を近づけると、焙じた茶葉の匂いがした。
強すぎない。
甘くもない。
血の匂いではない。
それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。
リサは椅子へ座らず、扉のそばに立ったままだった。
いつもなら勝手に椅子へ座り、勝手に話し始める。
そのリサが立ったままなのを見て、戒十は嫌な予感を覚えた。
「何かあったんですか」
「うん」
リサはあっさり認めた。
「白昼局から、正式に引き渡し要求が来た」
紙コップの中の茶が、戒十の手の中で小さく揺れた。
「引き渡し」
「未登録離影者、三倉戒十。高危険度の影害反応あり。白昼局管理下での登録、検査、治療のため、身柄を移送せよ、だって」
「身柄」
言葉が喉に引っかかった。
自分は物か。
荷物か。
昨日は白昼局に囲まれ、今日は地下に拘束され、今度は引き渡せと言われている。
誰も「戒十に聞いたのか」とは言わない。
リサは言った。
「もちろん、はいどうぞとは言わない」
「言わないだけですか」
「突っぱねる」
「突っぱねたら?」
「揉める」
「揉めるだけで済むんですか」
リサは少しだけ笑みを薄くした。
「済ませるために、今から交渉する」
「僕は」
「休憩室にいて」
「僕の話なのに?」
「君が出ると、話がこじれる」
「僕の話なのに?」
同じ言葉を繰り返した。
自分でも声が低くなっているのがわかった。
リサは紙コップを持ったまま、少しだけ黙った。
「怒っていいよ」
「許可されなくても怒ります」
「うん」
「僕の生死を、知らない大人たちが会議で決めるんですか」
言った瞬間、空気が重くなる。
リサは否定しなかった。
否定できないのだと、戒十にもわかった。
「生死って言葉が大げさじゃないのが、最悪ですね」
「最悪だよ」
「それも否定しない」
「否定したら嘘になる」
リサはそう言って、紙コップを見つめた。
「でも、決めさせないために話す」
「話すって、誰と」
「白昼局の管理派と、処分派」
「処分派」
その言葉だけで、左手の痣が冷たくなる。
熱ではない。
冷えた。
影も、床の上でわずかに反応した。
「処分って、何ですか」
「色々ある。拘束、強制分離、長期隔離、影核除去」
「殺すって意味もある?」
リサは答えなかった。
答えないことが答えだった。
戒十は紙コップを机の上へ置いた。
喉が渇いているのに、飲めなかった。
「僕はまだ、誰も殺してない」
「うん」
「路地の男も死んでない」
「うん」
「白昼局の人間にも、何もしてない」
「うん」
「それでも処分?」
「君が何をしたかだけじゃなくて、君の影が何になる可能性があるかで判断される」
リサの声は、慎重だった。
何かを隠していると、すぐにわかった。
戒十は彼女を睨む。
「僕の影が何になるんですか」
「……今は、まだ言えない」
「またそれか」
「ごめん」
「謝れば済むと思ってます?」
「思ってない」
「じゃあ言ってください」
「言えない」
「僕のことなのに?」
リサは目を伏せた。
「君のことだから、言えないこともある」
戒十は笑った。
乾いた笑いだった。
「便利ですね、本当に。僕のことだから隠す。僕のことだから決める。僕のことだから拘束する。僕のことだから嘘もつく」
リサの指がわずかに止まった。
その反応を、戒十は見逃さなかった。
「嘘、つくんですね」
「……交渉には必要なこともある」
「何を偽るんですか」
リサはすぐには答えなかった。
廊下の向こうから足音がした。
シンのものだ。
彼は開いた扉の前に立ち、二人を見た。
「時間だ」
リサは頷く。
「うん」
戒十はシンを見た。
「僕も行きます」
「駄目だ」
「即答ですね」
「相手はおまえを拘束する口実を探している。今のおまえを会議室へ出せば、十秒で見つかる」
「僕が黙っていれば」
「黙れる状態じゃない」
「僕を信用してない」
「していない部分はな」
シンはまっすぐ言った。
「昨日話した通りだ」
戒十は言葉を失いかけ、奥歯を噛んだ。
昨日の訓練。
制御できないおまえを信用する理由がない。
戻ろうとしているおまえは信用する。
その言葉は覚えている。
だからこそ腹立たしい。
「じゃあ、戻ろうとしている僕の意見は?」
「聞く。だが交渉室へは入れない」
「結局、大人が決める」
「今はそうだ」
シンは逃げなかった。
都合の良い言葉で濁さなかった。
その正直さも、戒十には腹立たしかった。
リサが口を挟む。
「戒十くん。交渉室の隣に観察室がある。そこなら音声だけ聞ける」
シンがリサを見る。
「リサ」
「聞かせたほうがいい」
「危険だ」
「聞かせないほうが、あとで危険」
リサの声は珍しく強かった。
シンはしばらく彼女を見ていた。
やがて、短く息を吐く。
「拘束具は外さない」
「もちろん」
「影固定剤は持たせる」
「うん」
「暴れたら、俺が止める」
シンの言葉に、戒十は反射的に言った。
「僕が暴れる前提ですか」
「可能性の話だ」
「便利な言葉」
「事実だ」
やはり同じ答え。
戒十は笑えなかった。
◇
観察室は、交渉室の隣にあった。
壁の一面が黒いガラスになっている。
向こうからはこちらが見えないらしい。
逆に、こちらからは交渉室の様子が見える。
白い長机。
椅子が六つ。
中央には通信端末。
床の照明は柔らかく、影が濃く出すぎないよう調整されている。
交渉室へはリサとシン、それから地下診療室の医師が入った。
医師の名前は、戒十はまだ聞いていない。
短髪の女性。
検査のとき、噛み痕を見て何か言いかけた人。
彼女はタブレットを持ち、リサの横へ座った。
シンは座らず、壁際に立つ。
まるで、会議の参加者ではなく、最後に力で止めるための刃のように。
通信端末が点く。
白昼局側の映像が三つ並んだ。
一人は、昨日公園で戒十を囲んだ灰色スーツの男。
灰田。
実働三課の主任。
もう一人は、白衣に近い薄いベージュのスーツを着た中年女性だった。髪をきっちりまとめ、表情は硬いが、目には疲れがある。
彼女の画面下には《管理局医療連携室・辰巳》と表示されている。
最後の一人は、年齢の読みにくい痩せた男だった。
黒いスーツ。
細い眼鏡。
表情にほとんど温度がない。
表示名は《危険影害対策審査部・鷺沼》。
その肩書きだけで、戒十は嫌なものを感じた。
通信越しに、灰田が最初に口を開く。
「VIOLET DRAGON代表代理、リサ。ならびに保安担当、シン。未登録離影者、三倉戒十の引き渡しについて協議する」
リサは軽く手を振った。
「はいはい。堅いねえ、灰田さん」
「茶化すな」
「昔からそう言うよね」
「昔話をする場ではない」
「じゃあ今の話をしよっか。戒十くんは渡さない」
あまりにあっさり言ったため、白昼局側の三人がそれぞれ違う反応をした。
灰田は眉を寄せた。
辰巳は小さく息を吐いた。
鷺沼は、表情を変えずに目だけを細めた。
「理由を」
鷺沼が言った。
声は乾いている。
「対象は高架下影害の中心個体であり、昨夜の路地事件、白昼の確保抵抗、さらに未確認の高危険度影紋を有する可能性がある。民間地下組織の管理下に置く根拠はない」
「民間地下組織って言い方、悪の秘密結社みたい」
「否定できるのか」
「そこまで悪じゃないと思う」
リサは笑った。
だが、声は少し硬い。
辰巳が口を開いた。
「三倉戒十は未成年です。現時点で確認されている被害は、路地事件の一名、右腕一時麻痺。後遺症なし。白昼局員への直接加害なし。登録と治療、監督措置が妥当です」
「管理派の意見ですね」
鷺沼が淡々と言う。
「医療的判断です」
「医療は処分を遅らせる口実になりやすい」
「処分は治療を奪う言葉です」
辰巳の声が強くなる。
戒十は観察室の中で、知らない大人たちが自分について話すのを聞いていた。
未成年。
対象。
中心個体。
加害。
後遺症なし。
登録。
治療。
処分。
自分の名前が、ときどきその単語の中に混じる。
それが奇妙だった。
自分はここにいる。
壁一枚隔てた隣に。
なのに、交渉室の中では、自分の存在が書類と数値になっている。
灰田が資料を表示した。
「我々の基本方針は、拘束ではなく登録管理だ。三倉戒十を白昼局指定施設へ移送し、影紋検査、血液検査、精神影響評価を行う。その後、危険度に応じて通学制限、夜間外出制限、薬物管理を決定する」
「通学制限」
戒十は小さく呟いた。
左手の拘束具が、かすかに軋む。
シンが交渉室で少しだけこちらを見た気がした。
見えないはずなのに。
リサが画面へ向かって言う。
「それ、白昼局の施設に入れた時点で、ほぼ社会的に死ぬよね」
「安全確保のためだ」
灰田が返す。
「安全って便利な言葉」
「おまえたちに言われたくない」
「それはそう」
リサはあっさり認めた。
その隣で医師がタブレットを操作する。
「当方の検査結果を提出します。三相検査において、肉体・鏡像・影の同調率低下。左影手の先行反応あり。ただし、影声発生後も申告行動が成立しており、手順訓練への反応は良好。影固定剤への反応も確認済み」
白昼局側の画面にデータが送られる。
戒十は息を詰めた。
自分の検査結果。
あの三枚の鏡の前で暴かれたもの。
どこまで送ったのか。
純のことは。
中学のことは。
自分の影が何を言ったのかは。
リサがこちらを見ることはなかった。
ただ、彼女の指先が机の下で少しだけ動いた。
鷺沼がデータを見て言う。
「影紋分類が、不明系統になっている」
リサは軽く頷く。
「うん。不明系統。黒猫型落影由来の混合影咬。進行早め。面倒だけど、現時点で確定分類はできない」
「本当に不明か」
「検査結果は出したよ」
「こちらへ匿名提供された解析では、Q系統との高い一致が示されている」
交渉室の空気が凍った。
観察室の中で、戒十も息を止める。
Q系統。
聞き慣れない言葉。
だが、リサの顔がわずかに変わった。
ほんの一瞬。
それだけで、それがただの記号ではないとわかった。
灰田も画面の中で険しい顔をしている。
辰巳は資料を見直した。
鷺沼だけが、最初からそこへ話を持っていくつもりだったように静かだった。
「Q系統影紋。旧分類名、クイーン。該当するなら、対象は治療管理ではなく危険個体審査へ移行する」
クイーン。
その名を聞いた瞬間、リサの指先が止まった。
戒十の左手の痣が、内側から冷たく脈打った。
足元の影が、拘束具の制御を越えてわずかに揺れる。
クイーン。
知らない名前。
しかし、影の奥で何かが反応した。
黒猫。
高架下の女の影。
見つけた、という声。
すべてが、その名前の周囲へ引き寄せられる。
戒十は喉を鳴らした。
「……何だよ、それ」
誰にも届かない声で呟く。
交渉室の中で、リサは笑った。
いつもの笑い方だった。
あまりにもいつも通りで、かえって怖かった。
「鷺沼さん、その匿名提供ってどこの誰から?」
「答える義務はない」
「じゃあ、こっちも匿名データへ答える義務はないね」
「逃げるのか」
「医療記録として出せる確定所見だけを出してるの」
「Q系統反応を隠しているのではないか」
「疑うなら令状持ってきて」
「白昼局に対してその言葉を使うか」
「必要なら何度でも」
リサの声は軽い。
しかし、目は笑っていなかった。
辰巳が間に入る。
「現時点でQ系統と断定するには、匿名解析だけでは不十分です。VIOLET DRAGON側の検査では不明系統。対象は未成年であり、自律申告も成立している。処分審査へ送るには根拠が弱い」
「根拠が弱いうちに放置した結果、何人死んだか忘れたか」
鷺沼の声が低くなる。
「クイーン影紋は、単なる高危険度ではない。感染性、誘引性、影人格の独立性、いずれも通常の離影者を超える。初期段階で止めるべきだ」
「止めるとは、何を指しますか」
辰巳が問う。
「対象影核の切除、ないし影人格の強制停止」
「未成年の人格形成中離影者へ、その処置を?」
「人格と呼ぶ根拠はまだない」
「では何と呼ぶのですか」
「危険因子」
戒十は、その言葉を聞いた瞬間、紙コップを握り潰しそうになった。
危険因子。
自分の影が。
いや、自分が。
怒りが胸の奥から上がってくる。
拘束具の下で、左手の影が爪を立てようとする。
光源は一つ。
観察室の照明は柔らかい。
影は短い。
血の匂いはない。
退路は後ろの扉。
申告。
しなければ。
しかし、誰に。
今ここには、自分しかいない。
いや、影がいる。
声がした。
危険因子だって。
黙れ。
僕たちのことらしいよ。
黙れ。
切除だって。
黙れ!
戒十は左手を右手で掴んだ。
拘束具が軋む。
痛みが走る。
その痛みで、少しだけ意識が戻った。
交渉室では、シンが初めて口を開いた。
「三倉が暴走した場合は、俺が止める」
低い声。
短い言葉。
通信越しの三人が、同時にシンを見た。
灰田が言う。
「個人の責任で済む問題ではない」
「俺が止める」
「おまえが止められない場合は」
「その場合も想定する。VIOLET DRAGON地下の隔離区画を一室空ける。影固定剤、拘束具、影縫い、医療班を配置する。外部被害は出さない」
「保証できるのか」
「保証はない」
シンはいつものように言った。
「だが、白昼局がおまえたちの照射具で昼に追い詰めるより、生存率は高い」
灰田の表情が硬くなる。
「昨日の確保行動を批判しているのか」
「している」
「こちらは市民被害を防ぐために動いた」
「四人で未登録の十七歳を昼に囲み、照射具を三本向け、影止めを使った。逃走経路を塞いだ。暴走させる条件を整えている」
「結果として暴走はしていない」
「俺が介入したからだ」
シンの言葉は淡々としていた。
だからこそ、灰田は反論を一瞬失った。
鷺沼が細い目でシンを見る。
「あなたが止めると言うが、かつて白昼局にいた者が、現在は未登録組織の保安担当として対象を抱え込む。その判断を信用しろと?」
「信用しなくていい」
シンは即答した。
「監査員を置け。医療データも必要分は共有する。ただし、三倉本人を引き渡すことはしない」
「なぜそこまでして守る」
「守るためだけではない」
シンは少しだけ間を置いた。
「止めるためだ。近くに置く。訓練する。危険を申告させる。逃げたら追う。暴れたら縫う。必要なら薬を使う」
戒十は観察室で、その言葉を聞いていた。
守る。
止める。
近くに置く。
訓練する。
暴れたら縫う。
どれも、自分を人間扱いしているのか、危険物扱いしているのか、わからない。
たぶん、両方なのだ。
それが一番厄介だった。
リサが静かに言う。
「戒十くんは、もう申告できる」
その声が聞こえた瞬間、戒十の胸が少しだけ揺れた。
「血の匂い、影声、左手の熱、退路。訓練初日だけど、自分で言えた。純ちゃんの前でも、影は止まった。まだ危ない。でも、まだ戻れる」
鷺沼が冷たく言った。
「戻れるという希望的観測で、クイーン影紋を抱えた個体を社会へ残すのか」
「だから、不明系統だって言ってるでしょ」
リサの声は軽かった。
しかし、戒十にはもうわかっていた。
嘘だ。
リサは知っている。
正式な検査結果を、彼女は偽っている。
Q系統。
クイーン。
その名が何を意味するのかは知らない。
だが、彼女がそれを隠していることだけはわかる。
自分を守るために。
あるいは、別の誰かを守るために。
それとも、自分自身の過去を守るために。
どれかはわからない。
ただ、嘘をついている。
白昼局に。
組織に。
医療記録に。
戒十は怒りと、別の感情が混ざるのを感じた。
守られている。
それは事実だ。
だが、嘘で守られている。
自分が知らない名前を隠され、自分の危険を偽装され、その上で「戻れる」と言われている。
ありがたいと思うべきなのか。
腹を立てるべきなのか。
どちらもあった。
どちらかだけにできなかった。
辰巳が画面の中で資料を閉じる。
「医療連携室としては、即時引き渡しではなく、VIOLET DRAGON管理下での暫定観察を提案します。条件は三つ。第一に、毎日の影紋データ共有。第二に、外出時の同行または位置情報管理。第三に、暴走兆候が出た場合、白昼局へ即時通報」
「処分派としては反対です」
鷺沼が即座に言った。
「Q系統疑いを残したまま、民間施設へ留めることは許容できない」
「疑いで未成年を処分審査へ送ることは、もっと許容できません」
辰巳も譲らない。
灰田は沈黙していた。
やがて、彼はシンを見た。
「シン」
「何だ」
「おまえが止めると言ったな」
「ああ」
「対象が逃走し、一般市民へ加害する恐れがある場合。対象が影人格に主導権を奪われ、交渉不能になった場合。対象がクイーン影紋として確定した場合。そのすべてで、おまえが前線責任を持つのか」
「持つ」
シンは迷わなかった。
リサが横でほんのわずかに目を伏せる。
「必要なら、俺が斬る」
その言葉は、静かに落ちた。
戒十の呼吸が止まる。
斬る。
止める、ではなく。
縫う、でもなく。
斬る。
シンは自分を守ると言ったわけではない。
暴走すれば止める。
必要なら斬る。
それが、彼の約束だった。
灰田はしばらくシンを見ていた。
その目には、過去を知る者同士の重さがあった。
「その言葉を正式記録に残す」
「構わない」
「VIOLET DRAGONは、三倉戒十を七十二時間、暫定管理下に置く。期間中、白昼局は監査員一名を派遣。日没後の外出は禁止。通学は保留」
「学校は」
リサが言った。
「本人の生活を完全に切るのは逆効果だよ」
「通学時に再度逃走、または影暴走が発生すれば、市民被害が出る」
「完全に閉じ込めたら、本人が壊れる」
「こちらの知るところではない」
鷺沼が言う。
リサの目が鋭くなった。
「知るところにしてもらう」
軽さが消えていた。
「閉じ込めて、薬で鈍らせて、本人の怒りも恐怖も奪って、それで安全になったと思うなら、それこそ危険因子を作ってるのと同じだよ」
「感情論だ」
「感情を切り捨てて影だけ処理できると思ってるほうが、ずっと感情的だよ」
沈黙が落ちる。
辰巳が小さく頷いた。
「通学については、条件付きで再協議を。七十二時間の観察後、白昼局、VIOLET DRAGON、本人、保護者または代理同席で判断する」
「本人」
戒十は小さく繰り返した。
今、ようやく出てきた。
本人。
自分の話に、自分が入るまでに、こんなに時間がかかる。
灰田が結論をまとめる。
「本件は暫定管理へ移行。三倉戒十はVIOLET DRAGON管理下。ただし、白昼局の監査対象とする。七十二時間以内に再評価。クイーン影紋疑いについては追加解析を行う」
「不明系統ね」
リサが言う。
鷺沼は彼女を見た。
「嘘があれば、次は交渉では済まない」
「こっちも、匿名情報で未成年を処分審査へ送ろうとするなら、次は黙ってない」
リサは笑っていた。
だが、その笑みは刃に近かった。
通信が切れる。
交渉室のモニターが暗くなった。
室内に、低い機械音だけが残る。
◇
観察室の扉が開いた。
シンが入ってくる。
続いてリサ。
医師は交渉室に残ったまま、データの整理をしているようだった。
戒十は椅子から立ち上がっていた。
左手の拘束具が、床へ短い影を落としている。
「聞いていたな」
シンが言った。
「聞ける場所に置いたのはそっちです」
「そうだ」
「僕は七十二時間、ここに監禁ですか」
「暫定管理だ」
「言い方を変えただけだろ」
「そうだ」
シンは否定しない。
戒十はリサを見た。
「不明系統」
リサの表情が少しだけ動く。
「何のこと?」
「とぼけないでください。Q系統。クイーン。何ですか、それ」
リサは笑おうとした。
だが、うまくいかなかった。
「今は、まだ言えない」
「またそれ」
「うん」
「検査結果、偽装しましたよね」
リサは黙った。
それが答えだった。
シンも否定しない。
戒十は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「僕を守るためですか」
リサは少し迷ってから、頷いた。
「それもある」
「それも?」
「君を処分審査へ送らせないため。君の影を、まだ危険因子って名前だけで切り捨てさせないため。あと……」
リサは言葉を止めた。
「あと何ですか」
「それは、あたしの問題」
「僕の影紋の話なのに?」
「そう」
「本当に最悪だな」
「うん」
リサは逃げなかった。
いつもなら冗談で薄めるところを、薄めなかった。
「ごめん」
「謝らないでください」
戒十は吐き捨てるように言った。
「謝られると、こっちが許さないといけないみたいになる」
「許さなくていい」
「守られてるのに?」
「うん」
「嘘つかれてるのに?」
「うん」
「どっちかにしてくださいよ」
声が震えた。
怒りだけではない。
混乱。
恐怖。
そして、悔しさ。
「僕を物みたいに扱うなって思った。白昼局も、あなたたちも、知らないところで勝手に決めるなって。でも、あなたたちは僕を守るために嘘をついてる。シンさんは僕が暴走したら止めるって言った。斬るって言った。なのに、たぶん、それも僕を守るためなんだろ」
シンは答えない。
リサも答えない。
戒十は左手を見た。
「どう怒ればいいんですか」
それは、誰に向けた言葉でもなかった。
自分自身への問いに近かった。
足元の影が、拘束具の下でわずかに揺れる。
影の声はしない。
だが、同じ問いを持っている気配がした。
リサが静かに言う。
「全部に怒っていいよ」
「便利ですね」
「うん。でも本当」
「僕を守るためでも?」
「守るって言葉で、勝手なことをしたのは事実だから」
「白昼局に渡さないためでも?」
「それでも」
「僕の影紋を隠した理由が、僕のためだけじゃなくても?」
リサは少しだけ目を伏せる。
「それでも」
戒十は息を吐いた。
長く、深く。
光源は一つ。
影は短い。
血の匂いはない。
左手は熱い。
退路は扉。
リサは正面。
シンは左側。
自分は怒っている。
申告するなら、そうだ。
「怒ってます」
戒十は言った。
リサが頷く。
「うん」
「血の匂いはない。影声も、今はない。左手が熱い。暴れたいわけじゃない。でも、怒ってます」
「うん」
「だから、今は一人にしてください」
シンが少しだけ眉を動かす。
「拘束具は外さない」
「わかってます」
「扉の外にいる」
「それも、わかってます」
リサは少し迷ったあと、頷いた。
「一時間だけ。何かあったら呼んで」
「呼びたくなくても?」
「呼びたくなくても」
「最悪だ」
「うん」
リサは小さく笑った。
今度の笑みは、少しだけ弱かった。
二人が観察室を出ていく。
扉が閉まる。
戒十は一人になった。
いや、完全に一人ではない。
足元に影がある。
拘束具に押さえられた、短く濃い影。
白昼局は、それを危険因子と呼んだ。
リサは、その名を隠した。
シンは、必要なら斬ると言った。
大人たちは、自分の周りに檻を作っている。
白い昼の檻。
紫色の地下の檻。
守るための檻。
殺さないための檻。
そのどれもが、自分の意思より先に閉まっていく。
戒十は椅子へ座り込み、拘束具のついた左手を見下ろした。
影の左手も、床の上で同じように見えた。
しばらくして、足元から小さな声がした。
怒ってるね。
戒十は目を閉じた。
「うん」
今度は否定しなかった。
影は続けない。
ただ、同じ怒りを、同じ足元で持っている。
それだけがわかった。
戒十はその怒りを薬で鈍らせなかった。
怒っていなければ、自分がまだ自分の生死を他人に決められていることに、気づけなくなる気がしたからだ。




