表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第二章 夜の侵食
12/49

第五節 白昼の檻

 昼のVIOLET DRAGONは、夜よりも静かだった。


 表のバー兼ライブハウスは営業していない。


 紫色のネオンも消えている。


 ステージの照明は落とされ、カウンターのグラスは伏せられたまま。夜には誰かの笑い声や、楽器の調整音や、氷の鳴る音が混ざっていた空間が、昼には古い木材と消毒液の匂いだけを残して眠っている。


 だが、眠っているのは表だけだった。


 地下では、人が動いていた。


 廊下を行き来する足音。


 診療室の電子音。


 保存血庫の冷却装置。


 どこかの居住区で低く流れるテレビ。


 光量を調整する小さな機械音。


 夜に生きる者たちの生活は、昼にも完全には止まらない。


 ただ、昼の光が地上を支配しているあいだ、彼らは少し低い声で話し、少し慎重に歩く。


 まるで、地上にいる誰かへ見つからないように。


 戒十は休憩室のベッドに座っていた。


 左手の拘束具は、まだ外されていない。


 手首を縛るためのものではない。肉体の動きはある程度自由だ。だが、床へ落ちる左手の影だけが、短く、重く、鈍い。


 影の側に錘をつけられているような感覚だった。


 不快ではある。


 しかし、完全に嫌悪することもできなかった。


 昨夜、自分の影は純の前へ行った。


 自分の口で、言うはずだったことを言った。


 自分より先に。


 その記憶は、眠っても薄れなかった。


 いや、眠れたのかどうかも怪しい。


 目を閉じれば、駅裏の歩道橋が浮かぶ。


 純の顔。


 風に揺れる髪。


 「あなたが戒十なのはわかる」と言った声。


 「でも、昼の戒十を裏切っていいことにはならない」と言った目。


 あれは影へ向けられた言葉だった。


 同時に、昼の自分へ向けられた言葉でもあった。


 戒十は膝の上で右手を握った。


 左手は拘束具のせいで、同じようには握れない。


 足元の影だけが、わずかに拳を作りかけ、すぐに止まった。


「……真似するな」


 小さく言う。


 影は答えない。


 拘束具の影止めが効いているのか、それとも影も疲れているのか。


 声はしなかった。


 静かすぎると、今度はそれが不安になる。


 扉がノックされた。


 戒十は顔を上げる。


「起きてる?」


 リサの声だった。


「寝てません」


「それは起きてるに入れていいのかな」


「日本語の問題なら、入るんじゃないですか」


「皮肉が戻ってる。よかった」


 扉が開き、リサが顔を出す。


 いつもの軽い笑顔。


 栗色の髪。


 紫色のジャケット。


 手には紙コップが二つ。


 片方を戒十へ差し出す。


「飲めるやつ。血じゃないよ。無糖のほうじ茶」


「その説明、必要ですか」


「今の君には必要」


「……どうも」


 戒十は紙コップを受け取った。


 温かい。


 鼻を近づけると、焙じた茶葉の匂いがした。


 強すぎない。


 甘くもない。


 血の匂いではない。


 それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。


 リサは椅子へ座らず、扉のそばに立ったままだった。


 いつもなら勝手に椅子へ座り、勝手に話し始める。


 そのリサが立ったままなのを見て、戒十は嫌な予感を覚えた。


「何かあったんですか」


「うん」


 リサはあっさり認めた。


「白昼局から、正式に引き渡し要求が来た」


 紙コップの中の茶が、戒十の手の中で小さく揺れた。


「引き渡し」


「未登録離影者、三倉戒十。高危険度の影害反応あり。白昼局管理下での登録、検査、治療のため、身柄を移送せよ、だって」


「身柄」


 言葉が喉に引っかかった。


 自分は物か。


 荷物か。


 昨日は白昼局に囲まれ、今日は地下に拘束され、今度は引き渡せと言われている。


 誰も「戒十に聞いたのか」とは言わない。


 リサは言った。


「もちろん、はいどうぞとは言わない」


「言わないだけですか」


「突っぱねる」


「突っぱねたら?」


「揉める」


「揉めるだけで済むんですか」


 リサは少しだけ笑みを薄くした。


「済ませるために、今から交渉する」


「僕は」


「休憩室にいて」


「僕の話なのに?」


「君が出ると、話がこじれる」


「僕の話なのに?」


 同じ言葉を繰り返した。


 自分でも声が低くなっているのがわかった。


 リサは紙コップを持ったまま、少しだけ黙った。


「怒っていいよ」


「許可されなくても怒ります」


「うん」


「僕の生死を、知らない大人たちが会議で決めるんですか」


 言った瞬間、空気が重くなる。


 リサは否定しなかった。


 否定できないのだと、戒十にもわかった。


「生死って言葉が大げさじゃないのが、最悪ですね」


「最悪だよ」


「それも否定しない」


「否定したら嘘になる」


 リサはそう言って、紙コップを見つめた。


「でも、決めさせないために話す」


「話すって、誰と」


「白昼局の管理派と、処分派」


「処分派」


 その言葉だけで、左手の痣が冷たくなる。


 熱ではない。


 冷えた。


 影も、床の上でわずかに反応した。


「処分って、何ですか」


「色々ある。拘束、強制分離、長期隔離、影核除去」


「殺すって意味もある?」


 リサは答えなかった。


 答えないことが答えだった。


 戒十は紙コップを机の上へ置いた。


 喉が渇いているのに、飲めなかった。


「僕はまだ、誰も殺してない」


「うん」


「路地の男も死んでない」


「うん」


「白昼局の人間にも、何もしてない」


「うん」


「それでも処分?」


「君が何をしたかだけじゃなくて、君の影が何になる可能性があるかで判断される」


 リサの声は、慎重だった。


 何かを隠していると、すぐにわかった。


 戒十は彼女を睨む。


「僕の影が何になるんですか」


「……今は、まだ言えない」


「またそれか」


「ごめん」


「謝れば済むと思ってます?」


「思ってない」


「じゃあ言ってください」


「言えない」


「僕のことなのに?」


 リサは目を伏せた。


「君のことだから、言えないこともある」


 戒十は笑った。


 乾いた笑いだった。


「便利ですね、本当に。僕のことだから隠す。僕のことだから決める。僕のことだから拘束する。僕のことだから嘘もつく」


 リサの指がわずかに止まった。


 その反応を、戒十は見逃さなかった。


「嘘、つくんですね」


「……交渉には必要なこともある」


「何を偽るんですか」


 リサはすぐには答えなかった。


 廊下の向こうから足音がした。


 シンのものだ。


 彼は開いた扉の前に立ち、二人を見た。


「時間だ」


 リサは頷く。


「うん」


 戒十はシンを見た。


「僕も行きます」


「駄目だ」


「即答ですね」


「相手はおまえを拘束する口実を探している。今のおまえを会議室へ出せば、十秒で見つかる」


「僕が黙っていれば」


「黙れる状態じゃない」


「僕を信用してない」


「していない部分はな」


 シンはまっすぐ言った。


「昨日話した通りだ」


 戒十は言葉を失いかけ、奥歯を噛んだ。


 昨日の訓練。


 制御できないおまえを信用する理由がない。


 戻ろうとしているおまえは信用する。


 その言葉は覚えている。


 だからこそ腹立たしい。


「じゃあ、戻ろうとしている僕の意見は?」


「聞く。だが交渉室へは入れない」


「結局、大人が決める」


「今はそうだ」


 シンは逃げなかった。


 都合の良い言葉で濁さなかった。


 その正直さも、戒十には腹立たしかった。


 リサが口を挟む。


「戒十くん。交渉室の隣に観察室がある。そこなら音声だけ聞ける」


 シンがリサを見る。


「リサ」


「聞かせたほうがいい」


「危険だ」


「聞かせないほうが、あとで危険」


 リサの声は珍しく強かった。


 シンはしばらく彼女を見ていた。


 やがて、短く息を吐く。


「拘束具は外さない」


「もちろん」


「影固定剤は持たせる」


「うん」


「暴れたら、俺が止める」


 シンの言葉に、戒十は反射的に言った。


「僕が暴れる前提ですか」


「可能性の話だ」


「便利な言葉」


「事実だ」


 やはり同じ答え。


 戒十は笑えなかった。


     ◇


 観察室は、交渉室の隣にあった。


 壁の一面が黒いガラスになっている。


 向こうからはこちらが見えないらしい。


 逆に、こちらからは交渉室の様子が見える。


 白い長机。


 椅子が六つ。


 中央には通信端末。


 床の照明は柔らかく、影が濃く出すぎないよう調整されている。


 交渉室へはリサとシン、それから地下診療室の医師が入った。


 医師の名前は、戒十はまだ聞いていない。


 短髪の女性。


 検査のとき、噛み痕を見て何か言いかけた人。


 彼女はタブレットを持ち、リサの横へ座った。


 シンは座らず、壁際に立つ。


 まるで、会議の参加者ではなく、最後に力で止めるための刃のように。


 通信端末が点く。


 白昼局側の映像が三つ並んだ。


 一人は、昨日公園で戒十を囲んだ灰色スーツの男。


 灰田。


 実働三課の主任。


 もう一人は、白衣に近い薄いベージュのスーツを着た中年女性だった。髪をきっちりまとめ、表情は硬いが、目には疲れがある。


 彼女の画面下には《管理局医療連携室・辰巳》と表示されている。


 最後の一人は、年齢の読みにくい痩せた男だった。


 黒いスーツ。


 細い眼鏡。


 表情にほとんど温度がない。


 表示名は《危険影害対策審査部・鷺沼》。


 その肩書きだけで、戒十は嫌なものを感じた。


 通信越しに、灰田が最初に口を開く。


「VIOLET DRAGON代表代理、リサ。ならびに保安担当、シン。未登録離影者、三倉戒十の引き渡しについて協議する」


 リサは軽く手を振った。


「はいはい。堅いねえ、灰田さん」


「茶化すな」


「昔からそう言うよね」


「昔話をする場ではない」


「じゃあ今の話をしよっか。戒十くんは渡さない」


 あまりにあっさり言ったため、白昼局側の三人がそれぞれ違う反応をした。


 灰田は眉を寄せた。


 辰巳は小さく息を吐いた。


 鷺沼は、表情を変えずに目だけを細めた。


「理由を」


 鷺沼が言った。


 声は乾いている。


「対象は高架下影害の中心個体であり、昨夜の路地事件、白昼の確保抵抗、さらに未確認の高危険度影紋を有する可能性がある。民間地下組織の管理下に置く根拠はない」


「民間地下組織って言い方、悪の秘密結社みたい」


「否定できるのか」


「そこまで悪じゃないと思う」


 リサは笑った。


 だが、声は少し硬い。


 辰巳が口を開いた。


「三倉戒十は未成年です。現時点で確認されている被害は、路地事件の一名、右腕一時麻痺。後遺症なし。白昼局員への直接加害なし。登録と治療、監督措置が妥当です」


「管理派の意見ですね」


 鷺沼が淡々と言う。


「医療的判断です」


「医療は処分を遅らせる口実になりやすい」


「処分は治療を奪う言葉です」


 辰巳の声が強くなる。


 戒十は観察室の中で、知らない大人たちが自分について話すのを聞いていた。


 未成年。


 対象。


 中心個体。


 加害。


 後遺症なし。


 登録。


 治療。


 処分。


 自分の名前が、ときどきその単語の中に混じる。


 それが奇妙だった。


 自分はここにいる。


 壁一枚隔てた隣に。


 なのに、交渉室の中では、自分の存在が書類と数値になっている。


 灰田が資料を表示した。


「我々の基本方針は、拘束ではなく登録管理だ。三倉戒十を白昼局指定施設へ移送し、影紋検査、血液検査、精神影響評価を行う。その後、危険度に応じて通学制限、夜間外出制限、薬物管理を決定する」


「通学制限」


 戒十は小さく呟いた。


 左手の拘束具が、かすかに軋む。


 シンが交渉室で少しだけこちらを見た気がした。


 見えないはずなのに。


 リサが画面へ向かって言う。


「それ、白昼局の施設に入れた時点で、ほぼ社会的に死ぬよね」


「安全確保のためだ」


 灰田が返す。


「安全って便利な言葉」


「おまえたちに言われたくない」


「それはそう」


 リサはあっさり認めた。


 その隣で医師がタブレットを操作する。


「当方の検査結果を提出します。三相検査において、肉体・鏡像・影の同調率低下。左影手の先行反応あり。ただし、影声発生後も申告行動が成立しており、手順訓練への反応は良好。影固定剤への反応も確認済み」


 白昼局側の画面にデータが送られる。


 戒十は息を詰めた。


 自分の検査結果。


 あの三枚の鏡の前で暴かれたもの。


 どこまで送ったのか。


 純のことは。


 中学のことは。


 自分の影が何を言ったのかは。


 リサがこちらを見ることはなかった。


 ただ、彼女の指先が机の下で少しだけ動いた。


 鷺沼がデータを見て言う。


「影紋分類が、不明系統になっている」


 リサは軽く頷く。


「うん。不明系統。黒猫型落影由来の混合影咬。進行早め。面倒だけど、現時点で確定分類はできない」


「本当に不明か」


「検査結果は出したよ」


「こちらへ匿名提供された解析では、Q系統との高い一致が示されている」


 交渉室の空気が凍った。


 観察室の中で、戒十も息を止める。


 Q系統。


 聞き慣れない言葉。


 だが、リサの顔がわずかに変わった。


 ほんの一瞬。


 それだけで、それがただの記号ではないとわかった。


 灰田も画面の中で険しい顔をしている。


 辰巳は資料を見直した。


 鷺沼だけが、最初からそこへ話を持っていくつもりだったように静かだった。


「Q系統影紋。旧分類名、クイーン。該当するなら、対象は治療管理ではなく危険個体審査へ移行する」


 クイーン。


 その名を聞いた瞬間、リサの指先が止まった。


 戒十の左手の痣が、内側から冷たく脈打った。


 足元の影が、拘束具の制御を越えてわずかに揺れる。


 クイーン。


 知らない名前。


 しかし、影の奥で何かが反応した。


 黒猫。


 高架下の女の影。


 見つけた、という声。


 すべてが、その名前の周囲へ引き寄せられる。


 戒十は喉を鳴らした。


「……何だよ、それ」


 誰にも届かない声で呟く。


 交渉室の中で、リサは笑った。


 いつもの笑い方だった。


 あまりにもいつも通りで、かえって怖かった。


「鷺沼さん、その匿名提供ってどこの誰から?」


「答える義務はない」


「じゃあ、こっちも匿名データへ答える義務はないね」


「逃げるのか」


「医療記録として出せる確定所見だけを出してるの」


「Q系統反応を隠しているのではないか」


「疑うなら令状持ってきて」


「白昼局に対してその言葉を使うか」


「必要なら何度でも」


 リサの声は軽い。


 しかし、目は笑っていなかった。


 辰巳が間に入る。


「現時点でQ系統と断定するには、匿名解析だけでは不十分です。VIOLET DRAGON側の検査では不明系統。対象は未成年であり、自律申告も成立している。処分審査へ送るには根拠が弱い」


「根拠が弱いうちに放置した結果、何人死んだか忘れたか」


 鷺沼の声が低くなる。


「クイーン影紋は、単なる高危険度ではない。感染性、誘引性、影人格の独立性、いずれも通常の離影者を超える。初期段階で止めるべきだ」


「止めるとは、何を指しますか」


 辰巳が問う。


「対象影核の切除、ないし影人格の強制停止」


「未成年の人格形成中離影者へ、その処置を?」


「人格と呼ぶ根拠はまだない」


「では何と呼ぶのですか」


「危険因子」


 戒十は、その言葉を聞いた瞬間、紙コップを握り潰しそうになった。


 危険因子。


 自分の影が。


 いや、自分が。


 怒りが胸の奥から上がってくる。


 拘束具の下で、左手の影が爪を立てようとする。


 光源は一つ。


 観察室の照明は柔らかい。


 影は短い。


 血の匂いはない。


 退路は後ろの扉。


 申告。


 しなければ。


 しかし、誰に。


 今ここには、自分しかいない。


 いや、影がいる。


 声がした。


 危険因子だって。


 黙れ。


 僕たちのことらしいよ。


 黙れ。


 切除だって。


 黙れ!


 戒十は左手を右手で掴んだ。


 拘束具が軋む。


 痛みが走る。


 その痛みで、少しだけ意識が戻った。


 交渉室では、シンが初めて口を開いた。


「三倉が暴走した場合は、俺が止める」


 低い声。


 短い言葉。


 通信越しの三人が、同時にシンを見た。


 灰田が言う。


「個人の責任で済む問題ではない」


「俺が止める」


「おまえが止められない場合は」


「その場合も想定する。VIOLET DRAGON地下の隔離区画を一室空ける。影固定剤、拘束具、影縫い、医療班を配置する。外部被害は出さない」


「保証できるのか」


「保証はない」


 シンはいつものように言った。


「だが、白昼局がおまえたちの照射具で昼に追い詰めるより、生存率は高い」


 灰田の表情が硬くなる。


「昨日の確保行動を批判しているのか」


「している」


「こちらは市民被害を防ぐために動いた」


「四人で未登録の十七歳を昼に囲み、照射具を三本向け、影止めを使った。逃走経路を塞いだ。暴走させる条件を整えている」


「結果として暴走はしていない」


「俺が介入したからだ」


 シンの言葉は淡々としていた。


 だからこそ、灰田は反論を一瞬失った。


 鷺沼が細い目でシンを見る。


「あなたが止めると言うが、かつて白昼局にいた者が、現在は未登録組織の保安担当として対象を抱え込む。その判断を信用しろと?」


「信用しなくていい」


 シンは即答した。


「監査員を置け。医療データも必要分は共有する。ただし、三倉本人を引き渡すことはしない」


「なぜそこまでして守る」


「守るためだけではない」


 シンは少しだけ間を置いた。


「止めるためだ。近くに置く。訓練する。危険を申告させる。逃げたら追う。暴れたら縫う。必要なら薬を使う」


 戒十は観察室で、その言葉を聞いていた。


 守る。


 止める。


 近くに置く。


 訓練する。


 暴れたら縫う。


 どれも、自分を人間扱いしているのか、危険物扱いしているのか、わからない。


 たぶん、両方なのだ。


 それが一番厄介だった。


 リサが静かに言う。


「戒十くんは、もう申告できる」


 その声が聞こえた瞬間、戒十の胸が少しだけ揺れた。


「血の匂い、影声、左手の熱、退路。訓練初日だけど、自分で言えた。純ちゃんの前でも、影は止まった。まだ危ない。でも、まだ戻れる」


 鷺沼が冷たく言った。


「戻れるという希望的観測で、クイーン影紋を抱えた個体を社会へ残すのか」


「だから、不明系統だって言ってるでしょ」


 リサの声は軽かった。


 しかし、戒十にはもうわかっていた。


 嘘だ。


 リサは知っている。


 正式な検査結果を、彼女は偽っている。


 Q系統。


 クイーン。


 その名が何を意味するのかは知らない。


 だが、彼女がそれを隠していることだけはわかる。


 自分を守るために。


 あるいは、別の誰かを守るために。


 それとも、自分自身の過去を守るために。


 どれかはわからない。


 ただ、嘘をついている。


 白昼局に。


 組織に。


 医療記録に。


 戒十は怒りと、別の感情が混ざるのを感じた。


 守られている。


 それは事実だ。


 だが、嘘で守られている。


 自分が知らない名前を隠され、自分の危険を偽装され、その上で「戻れる」と言われている。


 ありがたいと思うべきなのか。


 腹を立てるべきなのか。


 どちらもあった。


 どちらかだけにできなかった。


 辰巳が画面の中で資料を閉じる。


「医療連携室としては、即時引き渡しではなく、VIOLET DRAGON管理下での暫定観察を提案します。条件は三つ。第一に、毎日の影紋データ共有。第二に、外出時の同行または位置情報管理。第三に、暴走兆候が出た場合、白昼局へ即時通報」


「処分派としては反対です」


 鷺沼が即座に言った。


「Q系統疑いを残したまま、民間施設へ留めることは許容できない」


「疑いで未成年を処分審査へ送ることは、もっと許容できません」


 辰巳も譲らない。


 灰田は沈黙していた。


 やがて、彼はシンを見た。


「シン」


「何だ」


「おまえが止めると言ったな」


「ああ」


「対象が逃走し、一般市民へ加害する恐れがある場合。対象が影人格に主導権を奪われ、交渉不能になった場合。対象がクイーン影紋として確定した場合。そのすべてで、おまえが前線責任を持つのか」


「持つ」


 シンは迷わなかった。


 リサが横でほんのわずかに目を伏せる。


「必要なら、俺が斬る」


 その言葉は、静かに落ちた。


 戒十の呼吸が止まる。


 斬る。


 止める、ではなく。


 縫う、でもなく。


 斬る。


 シンは自分を守ると言ったわけではない。


 暴走すれば止める。


 必要なら斬る。


 それが、彼の約束だった。


 灰田はしばらくシンを見ていた。


 その目には、過去を知る者同士の重さがあった。


「その言葉を正式記録に残す」


「構わない」


「VIOLET DRAGONは、三倉戒十を七十二時間、暫定管理下に置く。期間中、白昼局は監査員一名を派遣。日没後の外出は禁止。通学は保留」


「学校は」


 リサが言った。


「本人の生活を完全に切るのは逆効果だよ」


「通学時に再度逃走、または影暴走が発生すれば、市民被害が出る」


「完全に閉じ込めたら、本人が壊れる」


「こちらの知るところではない」


 鷺沼が言う。


 リサの目が鋭くなった。


「知るところにしてもらう」


 軽さが消えていた。


「閉じ込めて、薬で鈍らせて、本人の怒りも恐怖も奪って、それで安全になったと思うなら、それこそ危険因子を作ってるのと同じだよ」


「感情論だ」


「感情を切り捨てて影だけ処理できると思ってるほうが、ずっと感情的だよ」


 沈黙が落ちる。


 辰巳が小さく頷いた。


「通学については、条件付きで再協議を。七十二時間の観察後、白昼局、VIOLET DRAGON、本人、保護者または代理同席で判断する」


「本人」


 戒十は小さく繰り返した。


 今、ようやく出てきた。


 本人。


 自分の話に、自分が入るまでに、こんなに時間がかかる。


 灰田が結論をまとめる。


「本件は暫定管理へ移行。三倉戒十はVIOLET DRAGON管理下。ただし、白昼局の監査対象とする。七十二時間以内に再評価。クイーン影紋疑いについては追加解析を行う」


「不明系統ね」


 リサが言う。


 鷺沼は彼女を見た。


「嘘があれば、次は交渉では済まない」


「こっちも、匿名情報で未成年を処分審査へ送ろうとするなら、次は黙ってない」


 リサは笑っていた。


 だが、その笑みは刃に近かった。


 通信が切れる。


 交渉室のモニターが暗くなった。


 室内に、低い機械音だけが残る。


     ◇


 観察室の扉が開いた。


 シンが入ってくる。


 続いてリサ。


 医師は交渉室に残ったまま、データの整理をしているようだった。


 戒十は椅子から立ち上がっていた。


 左手の拘束具が、床へ短い影を落としている。


「聞いていたな」


 シンが言った。


「聞ける場所に置いたのはそっちです」


「そうだ」


「僕は七十二時間、ここに監禁ですか」


「暫定管理だ」


「言い方を変えただけだろ」


「そうだ」


 シンは否定しない。


 戒十はリサを見た。


「不明系統」


 リサの表情が少しだけ動く。


「何のこと?」


「とぼけないでください。Q系統。クイーン。何ですか、それ」


 リサは笑おうとした。


 だが、うまくいかなかった。


「今は、まだ言えない」


「またそれ」


「うん」


「検査結果、偽装しましたよね」


 リサは黙った。


 それが答えだった。


 シンも否定しない。


 戒十は胸の奥が熱くなるのを感じた。


「僕を守るためですか」


 リサは少し迷ってから、頷いた。


「それもある」


「それも?」


「君を処分審査へ送らせないため。君の影を、まだ危険因子って名前だけで切り捨てさせないため。あと……」


 リサは言葉を止めた。


「あと何ですか」


「それは、あたしの問題」


「僕の影紋の話なのに?」


「そう」


「本当に最悪だな」


「うん」


 リサは逃げなかった。


 いつもなら冗談で薄めるところを、薄めなかった。


「ごめん」


「謝らないでください」


 戒十は吐き捨てるように言った。


「謝られると、こっちが許さないといけないみたいになる」


「許さなくていい」


「守られてるのに?」


「うん」


「嘘つかれてるのに?」


「うん」


「どっちかにしてくださいよ」


 声が震えた。


 怒りだけではない。


 混乱。


 恐怖。


 そして、悔しさ。


「僕を物みたいに扱うなって思った。白昼局も、あなたたちも、知らないところで勝手に決めるなって。でも、あなたたちは僕を守るために嘘をついてる。シンさんは僕が暴走したら止めるって言った。斬るって言った。なのに、たぶん、それも僕を守るためなんだろ」


 シンは答えない。


 リサも答えない。


 戒十は左手を見た。


「どう怒ればいいんですか」


 それは、誰に向けた言葉でもなかった。


 自分自身への問いに近かった。


 足元の影が、拘束具の下でわずかに揺れる。


 影の声はしない。


 だが、同じ問いを持っている気配がした。


 リサが静かに言う。


「全部に怒っていいよ」


「便利ですね」


「うん。でも本当」


「僕を守るためでも?」


「守るって言葉で、勝手なことをしたのは事実だから」


「白昼局に渡さないためでも?」


「それでも」


「僕の影紋を隠した理由が、僕のためだけじゃなくても?」


 リサは少しだけ目を伏せる。


「それでも」


 戒十は息を吐いた。


 長く、深く。


 光源は一つ。


 影は短い。


 血の匂いはない。


 左手は熱い。


 退路は扉。


 リサは正面。


 シンは左側。


 自分は怒っている。


 申告するなら、そうだ。


「怒ってます」


 戒十は言った。


 リサが頷く。


「うん」


「血の匂いはない。影声も、今はない。左手が熱い。暴れたいわけじゃない。でも、怒ってます」


「うん」


「だから、今は一人にしてください」


 シンが少しだけ眉を動かす。


「拘束具は外さない」


「わかってます」


「扉の外にいる」


「それも、わかってます」


 リサは少し迷ったあと、頷いた。


「一時間だけ。何かあったら呼んで」


「呼びたくなくても?」


「呼びたくなくても」


「最悪だ」


「うん」


 リサは小さく笑った。


 今度の笑みは、少しだけ弱かった。


 二人が観察室を出ていく。


 扉が閉まる。


 戒十は一人になった。


 いや、完全に一人ではない。


 足元に影がある。


 拘束具に押さえられた、短く濃い影。


 白昼局は、それを危険因子と呼んだ。


 リサは、その名を隠した。


 シンは、必要なら斬ると言った。


 大人たちは、自分の周りに檻を作っている。


 白い昼の檻。


 紫色の地下の檻。


 守るための檻。


 殺さないための檻。


 そのどれもが、自分の意思より先に閉まっていく。


 戒十は椅子へ座り込み、拘束具のついた左手を見下ろした。


 影の左手も、床の上で同じように見えた。


 しばらくして、足元から小さな声がした。


 怒ってるね。


 戒十は目を閉じた。


「うん」


 今度は否定しなかった。


 影は続けない。


 ただ、同じ怒りを、同じ足元で持っている。


 それだけがわかった。


 戒十はその怒りを薬で鈍らせなかった。


 怒っていなければ、自分がまだ自分の生死を他人に決められていることに、気づけなくなる気がしたからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ