第六節 成れの果て
怒りは、長くは続かなかった。
観察室で一人になってから、戒十はしばらく椅子に座っていた。
白昼局。
クイーン。
Q系統。
処分派。
危険因子。
不明系統と偽られた検査結果。
シンが「必要なら斬る」と言った声。
それらが頭の中で何度も並び替わる。
怒っている。
それは確かだった。
だが、怒りだけでは足りない。
怒り続けるには、相手が一つでなければならない。
白昼局へ怒ればいいのか。
リサへ怒ればいいのか。
シンへ怒ればいいのか。
自分の影へ怒ればいいのか。
それとも、こんな身体になった自分へ怒ればいいのか。
対象が多すぎて、怒りは途中で形を失っていく。
椅子の下で、戒十の影は短く沈んでいた。
拘束具の影止めが効いている。
左手の影は、いつものように先走らない。
そのかわり、足元に重い黒い錘をつけられているようだった。
戒十は右手で左手の拘束具をなぞる。
外せない。
無理に外そうとすれば、すぐ廊下のシンに気づかれるだろう。
いや、気づかれる前に、自分の影が暴れるかもしれない。
そう考えた時点で、また腹が立った。
自分の身体のことを考えるだけで、他人の許可や拘束の話になる。
それが、すでに檻だった。
白い昼の檻。
紫色の地下の檻。
守るための檻。
止めるための檻。
どれも同じ檻ではない。
だが、内側にいる側からすれば、扉に鍵があることは同じだった。
観察室の外で、足音が慌ただしくなった。
最初は一人。
次に二人。
遠くの廊下で誰かが低い声を上げる。
走るな、と注意する声。
その直後、警告音が鳴った。
大きくはない。
耳障りなサイレンではなく、地下の空気を震わせるような低い電子音だった。
廊下の照明が、柔らかな琥珀色から薄い赤へ変わる。
戒十は椅子から立ち上がった。
扉の向こうで、シンの声がした。
「隔離区画か」
別の男の声が答える。
「二号隔離室です。長瀬さんが――」
そこで言葉が途切れる。
言いにくいことを飲み込んだような間。
シンの声が低くなる。
「誰が開けた」
「本人が内側から。影鍵をこじ開けました」
「状態は」
「多重混濁。影紋が崩れています。保存血庫へ向かっている可能性が」
「リサは」
「向かっています」
足音が遠ざかる。
戒十は扉へ近づいた。
ノブに手をかける。
鍵はかかっていなかった。
外へ出ると、廊下にいた若いスタッフがぎょっとした顔をした。
「三倉くん、部屋に戻って」
「何があったんですか」
「今は――」
「長瀬さんって誰ですか」
スタッフは答えに詰まった。
その反応だけで、良くないことだとわかる。
廊下の奥で、赤い非常灯が点滅している。
人の気配が、そちらへ集まっている。
血の匂いがした。
保存血の冷たい匂いではない。
古い血。
温かい血。
それに混ざって、薬品と、焦げた樹脂のような匂い。
戒十の喉がわずかに反応する。
すぐに言葉にする。
「血の匂いがする。近づかないほうがいい」
自分で言ってから、少し驚いた。
手順が先に出た。
シンの訓練のせいだ。
腹立たしい。
だが、言えたことも事実だった。
スタッフはその言葉を聞いて、表情を変えた。
「じゃあ、なおさら部屋へ――」
「三倉」
シンが廊下の曲がり角から戻ってきた。
手には影縫刀。
もう鞘から抜かれている。
実物の刃は黒く沈み、足元には細長い影の刃が揺れていた。
「来い」
スタッフが驚く。
「シンさん?」
「近づけるな。だが、見せる」
戒十はシンを見た。
「何を」
「おまえがなり得るものだ」
その言い方に、背中が冷たくなる。
「脅しですか」
「現実だ」
「便利な言葉」
「今回は本当に現実だ」
シンは短く言い、歩き出した。
戒十は一瞬だけ迷った。
行きたくない。
見るべきではない。
そう思った。
だが、足は動いた。
知らない大人たちが自分の生死を決めていることに怒ったばかりだった。
なら、自分が何を危険と呼ばれているのか、見ないままではいられない。
戒十はシンの後を追った。
◇
隔離区画へ向かう廊下は、地下の他の場所よりもさらに光が抑えられていた。
壁の灯りは足元だけを照らし、天井には細い補助光がいくつも走っている。
影が濃くなりすぎないように。
だが、今はその調整された光が乱れていた。
非常灯の赤。
隔離扉の白い警告ランプ。
スタッフが持つ携帯照射具の光。
複数の光源が、廊下へばらばらな影を落としている。
シンは歩きながら言った。
「数えろ」
「今ですか」
「今だ」
戒十は息を吸う。
血の匂いが濃くなる。
それでも、目を動かした。
「光源、固定が四。非常灯が二。スタッフの照射具が三。奥の隔離扉から漏れてる光が一」
「影」
「多すぎる。でも、僕の影は二本。左後方と、足元に短く」
「血の匂いは」
「強い。保存血じゃない。古い匂いと、生っぽい匂いが混ざってる」
「左手は」
「熱い。でも拘束具で鈍い」
「影声は」
戒十は足元を見た。
声はしない。
だが、息を潜めている気配がある。
「まだ、ない」
「よし」
シンはそれ以上何も言わない。
廊下の奥で、リサの声が聞こえた。
「トオルさん、こっち見て。あたし。リサだよ。わかる?」
声は明るくしようとしている。
だが、その奥には緊張がある。
戒十は隔離区画の入口で足を止めた。
大きなガラス越しに、内部が見える。
二号隔離室。
部屋の中は、破壊されていた。
床に白い液体のようなものが広がっている。
薬剤だろうか。
壁の一部は黒く焦げ、天井の照明は半分落ちている。
ベッドはひっくり返り、点滴台が曲がり、床の影が生き物のように蠢いていた。
その中央に、人がいた。
いや、人だったものがいた。
年配の男。
六十代ほどに見える。
痩せた肩。
薄い灰色の髪。
入院着のような服を着ている。
片方の足は裸足で、もう片方だけスリッパを履いていた。
その不揃いさが、妙に生々しかった。
完全な怪物ではない。
顔もある。
目もある。
手もある。
ただ、影が大きすぎた。
男の足元から、いくつもの影が広がっている。
人の腕のようなもの。
子どもの手のようなもの。
髪の束のようなもの。
猫の尾のようなもの。
黒い布。
割れた羽。
それらが男の身体へ絡みつき、また床へ流れ、壁へ這い上がっている。
男の口が動いた。
「美沙……お茶、ぬるいぞ」
低い男の声。
次の瞬間、同じ口から高い女の声が出る。
「やめて、違う、私のじゃない」
その次に、少年の声。
「お父さん、駅まで迎えに来て」
老人の声。
「薬、飲んだかい」
男は、ひとりで喋っていなかった。
複数の声が、彼の口から出ていた。
同時ではない。
順番に。
しかし、どれも別人の声に聞こえる。
戒十は胃の奥が冷たくなった。
相手は怪物ではない。
少なくとも、完全には。
そこにいるのは、壊れた何かだ。
だが、その壊れ方の中に、人の生活が残っている。
家族の名前。
昔の会話。
駅まで迎えに来て、という言葉。
薬を飲んだか、という声。
それらが全部、彼の中で絡まっている。
「長瀬透」
シンが低く言った。
「ここの古い住人だ。十七年前に影咬。家族とは離れて暮らしていた」
「どうして、こんな」
「他人の血を取り込みすぎた」
リサが隔離室の中から答えた。
彼女は男――長瀬透から数メートル離れた場所に立っていた。
手には細い注射器のようなもの。
もう片方の手には、銀色の糸が巻かれている。
いつもの軽さはなかった。
彼女はトオルさん、と呼んだ。
苗字ではなく、店の常連へ声をかけるように。
「保存血だけじゃ足りなくなって、外の血を買った。誰のものかわからない血。処理されていない血。影紋が混ざった血。少しずつ、記憶も混ざった」
「血で、記憶が?」
「全部じゃない。でも、影には残る。名前、癖、怖かったこと、帰りたかった場所。そういう細かいものが、血と一緒にくっついてくる」
リサは長瀬へ一歩近づいた。
「トオルさん。聞こえる? あなたの名前は長瀬透。ここはVIOLET DRAGON。今日は六月十一日。あなたはまだここにいる」
長瀬の顔がリサへ向く。
目が合っているのか、合っていないのかわからない。
彼の瞳は黒と灰色が混ざり、時折、別人の目のように色が変わった。
「リサちゃん」
今度は、柔らかい男の声だった。
リサの表情がわずかに緩む。
「うん。リサだよ」
「プリン、買ってきたか」
「買ったよ。冷蔵庫にある」
「そうか。限定のやつは、早く食べないとな」
「そうだね」
何気ない会話。
その一瞬だけ、隔離室の空気が戻ったように見えた。
長瀬透という人間が、そこにいた。
だが、すぐに別の声が割り込む。
「悠斗、靴履きなさい。雨が降るから」
女の声。
続いて子どもの笑い声。
「パパ、今日帰る?」
長瀬の身体がびくりと震える。
彼の足元の影が一気に広がった。
リサが後退する。
シンが隔離室へ入った。
その動きは速いが、焦ってはいない。
刀の影が床を走り、長瀬の影の縁を縫い止める。
黒い腕のようなものが、壁へ伸びる寸前で固定された。
「リサ、近づきすぎるな」
「まだ戻れる」
「核が崩れている」
「まだ名前に反応した」
「反応は残る。戻るとは限らない」
「わかってる!」
リサが初めて声を荒げた。
戒十はその声に驚く。
リサはすぐに息を整えた。
「ごめん」
誰へ向けた謝罪なのか、わからなかった。
シンは返事をしない。
刀の影をさらに深く床へ差し込む。
長瀬の影が、縫い止められた場所で震えた。
そのたびに、彼の口から違う声が漏れる。
「寒い」
「ここ、どこ」
「美沙、電話に出てくれ」
「返して」
「私の名前を返して」
「お父さん」
「長瀬透さん、あなたの検査結果ですが――」
最後の声は医師の声のようだった。
昔、ここで聞いた誰かの声。
長瀬はそれを全部抱え込み、全部を吐き出している。
戒十はガラス越しに見ていた。
足が動かない。
見たくない。
だが、目が離せない。
これが、成れの果て。
誰かがそう言ったわけではない。
だが、自然にその言葉が浮かんだ。
離影者が、血と記憶と影を取り込みすぎ、自分の輪郭を保てなくなったもの。
完全な怪物ではない。
だから余計に怖い。
長瀬透は、まだそこにいる。
しかし、何人もの誰かが彼の中で泣き、笑い、名前を呼び、帰りたがっている。
リサは注射器を構えた。
「影固定剤、強めで入れる。シン、三秒だけ抑えて」
「二秒だ」
「三秒」
「二秒」
「じゃあ二秒半」
「二秒だ」
「本当に融通が利かない」
リサは軽口を挟んだ。
だが、声は震えていた。
シンが踏み込む。
刀の影が複数に分かれ、長瀬の足元の黒い腕を床へ縫いつけた。
影縫い。
戒十が何度も受けた拘束。
だが、相手の影は大きすぎる。
一本縫えば、別の腕が剥がれる。
シンは無言で刃を動かし続ける。
実物の刀よりも、影の刃が忙しく走っていた。
リサが間合いを詰める。
「トオルさん、少し痛いよ」
「痛いのは嫌だな」
長瀬の声。
次の瞬間、女の声が重なる。
「刺さないで!」
黒い影が跳ね上がる。
リサの腕へ向かう。
戒十は思わず一歩前へ出た。
ガラスの向こうなのに。
左手の影が、拘束具の制御を越えて伸びかける。
その瞬間、シンが叫んだ。
「三倉、申告!」
戒十は息を詰めた。
反射的に言葉を探す。
「血の匂いが強い。影声はない。左手が熱い。助けようとして影が動きかけた。退路は後方」
「下がれ!」
命令。
戒十は一歩下がった。
左手の影が戻る。
ガラスの向こうで、シンの影刃がリサへ伸びた黒い腕を縫い止める。
リサはその隙に長瀬の肩へ注射を打った。
薬液が入る。
長瀬の身体が大きく震えた。
「っ……あ、」
長瀬自身の声のように聞こえた。
リサが顔を近づける。
「トオルさん。名前、言える?」
長瀬の唇が震える。
「なが……せ……」
「うん」
「とおる」
「うん。そう。長瀬透」
「美沙は……」
「今はここにはいない」
「悠斗は……」
「ここにはいない」
「帰らなきゃ」
「今日は帰れない」
「帰らなきゃ」
声が重なる。
長瀬の瞳の中で、いくつもの光が揺れた。
「帰らなきゃ」
「帰りたい」
「帰して」
「返して」
「私の」
「僕の」
「お父さん」
「長瀬さん」
「違う」
長瀬の影が膨らんだ。
部屋の光が一斉に暗くなる。
照明が影に飲まれたのではない。
影が光の隙間を探して、壁や床へ流れ込んでいく。
シンが刀を構え直す。
「リサ、出ろ」
「まだ――」
「出ろ!」
シンの声が鋭く飛ぶ。
リサは一瞬だけ長瀬を見た。
その一瞬が長かった。
助けたい。
まだ呼べる。
まだ名前が残っている。
その顔だった。
だが、次の瞬間、長瀬の胸のあたりから黒い亀裂が走った。
影核。
戒十にはそうとしか見えなかった。
肉体の心臓ではない。
胸の前に重なっている、黒い球のようなもの。
そこにひびが入り、内部からいくつもの声が漏れ出す。
「入れて」
「寒い」
「誰か」
「私を覚えて」
「名前を」
「血を」
「帰りたい」
影核が崩れる。
その瞬間、隔離室の黒い影が一斉に外へ向かった。
リサへ。
シンへ。
ガラスの向こうのスタッフへ。
そして、戒十へ。
隔離ガラスに黒い手が何本も張りついた。
戒十は息を呑む。
手。
手。
手。
大人の手。
子どもの手。
爪のない手。
指の長すぎる手。
それらがガラス越しに、こちらへ伸びようとしている。
取り込もうとしている。
名前を。
血を。
記憶を。
輪郭を。
自分の欠けた場所へ、他人を継ぎ足そうとしている。
戒十の左手が激しく疼いた。
影が囁く。
逃げろ。
今度は責める声ではなかった。
本能に近い声。
戒十は足を動かそうとした。
しかし、目が離せない。
長瀬はまだ、そこにいる。
口を開け、何かを言おうとしている。
リサが叫ぶ。
「トオルさん!」
長瀬の口が動いた。
声は小さかった。
だが、戒十には聞こえた。
「リサちゃん、プリン……冷蔵庫……」
その直後、シンが動いた。
迷いはなかった。
刀を振る。
実物の刃ではなく、影の刃が長瀬の胸へ走った。
影核へ。
黒い球の中心へ。
音はなかった。
ただ、隔離室のすべての影が一瞬だけ止まった。
次に、黒い亀裂が白く光る。
長瀬の身体が仰け反った。
複数の声が同時に途切れる。
まるで、何十本もの糸を一度に切ったようだった。
影が崩れる。
床へ落ちる。
壁を伝っていた黒が、砂のようにほどける。
ガラスに張りついていた手も、形を保てず溶けていく。
長瀬透の身体だけが、中央に残った。
痩せた男。
灰色の髪。
片方だけスリッパを履いた足。
彼は立っていられず、膝をついた。
リサが駆け寄ろうとする。
シンが腕で制した。
「まだ触るな」
「もう、」
「まだだ」
シンは長瀬の影核があった場所を見ていた。
黒い破片が、床の上で小さく震えている。
最後の反応。
シンは刀の影を短く差し込み、その破片を完全に縫い止めた。
震えが止まる。
隔離室に、音が戻った。
空調の音。
警告灯の点滅。
誰かの荒い呼吸。
リサの息。
戒十の心臓。
長瀬透は、もう動かなかった。
◇
処置は、淡々と進んだ。
スタッフが入る。
照明が安定光へ切り替えられる。
床の影残滓が吸引され、黒い粉のようなものが密閉容器へ回収される。
医師が長瀬の肉体を確認する。
リサは隔離室の壁際に立っていた。
さっきまでの軽さはない。
誰も彼女へ声をかけなかった。
シンは刀を拭い、鞘へ納めた。
実物の刃には血がついていない。
斬ったのは肉体ではない。
影核だ。
それでも、戒十には彼が人を斬ったように見えた。
いや、実際に斬ったのだ。
影核を切断した。
それが、長瀬透という人間の終わりを決定した。
シンは隔離室を出て、廊下の端にある小さなベンチへ座った。
ポケットから、古い手帳を取り出す。
黒い革の表紙。
角が擦り切れている。
彼はペンを出し、静かに一行を書いた。
戒十は少し離れた場所から見ていた。
何を書いているのかは見えない。
だが、想像はついた。
名前。
長瀬透。
たぶん、日付も。
シンは書き終えると、しばらく手帳を閉じなかった。
その横顔は、交渉室で「必要なら斬る」と言ったときと同じように冷静だった。
だが、冷たいわけではなかった。
冷たいふりをしているのでもない。
そうしなければ、立っていられないのだと、なぜか戒十にはわかった。
リサが隔離室から出てきた。
彼女はシンの前に立つ。
「トオルさん、最後に名前、言えた」
「ああ」
「プリンのことも覚えてた」
「ああ」
「救えたと思う?」
シンは手帳を閉じた。
「救えなかった」
リサの顔が少し歪む。
「言い方」
「嘘はつけない」
「知ってる」
リサは小さく笑おうとして、失敗した。
「でも、最後に名前は残った」
「そうだ」
シンは手帳をコートの内側へしまう。
「だから書いた」
戒十はその言葉を聞いていた。
処分。
成れの果て。
名前を残す。
それは慰めなのか。
責任なのか。
わからない。
ただ一つ、はっきりと想像できることがあった。
いつか、自分がああなる。
血の匂いを求め、誰かの記憶を取り込み、影核が崩れ、いくつもの声で純の名前を呼び、家族の声を真似、何が自分で何が他人かわからなくなる。
そして、シンが影縫刀を抜く。
リサが名前を呼ぶ。
純は遠くで泣いているかもしれない。
白昼局は「危険因子の処分完了」と記録する。
シンは手帳へ書く。
三倉戒十。
その未来が、あまりにも鮮明に浮かんだ。
戒十は左手を押さえた。
拘束具の下で、影が静かに震えている。
恐怖。
怒り。
そして、別のもの。
生き残りたいという、ひどく単純で、ひどく獣じみた感情。
足元から声がした。
殺される前に身体を取ればいい。
戒十の呼吸が止まった。
声は、影の声だった。
そう思った。
だが、本当にそうか。
それは足元から聞こえたのか。
胸の内側から湧いたのか。
自分の恐怖が、自分の言葉になっただけではないのか。
殺される前に。
身体を取ればいい。
夜の戒十が囁いたのか。
昼の戒十が考えたのか。
境目がわからなかった。
戒十は自分の口元を手で押さえた。
吐きそうだった。
血の匂いがまだ残っている。
影の崩れた匂い。
薬剤。
焼けたような空気。
その全部が喉に絡む。
シンがこちらを見た。
「三倉」
戒十は返事ができない。
「申告しろ」
言葉が出ない。
シンが立ち上がる。
リサもこちらを見る。
戒十は必死に息を吸った。
手順。
光源。
影。
血の匂い。
左手。
影声。
退路。
言わなければならない。
言えなければ、手順は崩れる。
崩れれば、また誰かが勝手に決める。
戒十は震える声で言った。
「血の匂いが、強い」
シンは動かずに聞く。
「左手が、熱い。拘束具の下で、影が震えてる。影声が……あった」
「内容は」
言いたくない。
だが、言わなければならない。
言わなければ、きっとそれは大きくなる。
戒十は歯を食いしばった。
「殺される前に、身体を取ればいいって」
リサの顔色が変わった。
シンの目が鋭くなる。
戒十は続けた。
「でも、わからない。影が言ったのか、僕が考えたのか、わからない」
沈黙が落ちた。
廊下の赤い非常灯は、もう消えかけている。
通常照明へ戻りつつある。
その中で、シンはゆっくりと近づいた。
刀には手をかけていない。
ただ、戒十の正面で止まる。
「その区別がつかないと申告できた」
シンは言った。
「今は、それでいい」
「よくないだろ」
戒十の声は掠れた。
「こんなの、よくないだろ。僕は今、自分が何を考えたのかもわからない」
「だから一人で判断するな」
「また管理ですか」
「違う。共有だ」
「同じに聞こえる」
「違う」
シンは短く言った。
「管理は、おまえの外側で決めることだ。共有は、おまえが言うことから始まる」
戒十は言葉を失った。
リサが静かに言う。
「今、言えたよ」
戒十は彼女を見た。
リサの目は赤くない。
泣いていない。
だが、泣く寸前の人に見えた。
「トオルさんは、最後のほう、自分の中で何が起きてるか言えなくなってた。だから、こっちが外から止めるしかなかった」
「僕もそうなる?」
リサはすぐに答えなかった。
少し前なら、「ならないよ」と言ってほしかったかもしれない。
今は、その嘘を聞きたくなかった。
リサは静かに言った。
「なる可能性はある」
胸が冷える。
「でも、今の君は言えた」
「それだけ?」
「うん。それだけ」
リサは小さく頷いた。
「でも、その“それだけ”が、成れの果てとの境目になることがある」
戒十は足元を見た。
影は震えている。
けれど、床から立ち上がってはいない。
誰かを取り込もうともしていない。
ただ、彼と同じように怖がっているように見えた。
本当に影が怖がっているのか。
それとも、自分がそう見たいだけなのか。
わからない。
シンが言った。
「今日の同行は終わりだ。休め」
「……見せるために連れてきたんですか」
「ああ」
「僕を脅すために?」
「違う」
「じゃあ何のために」
シンは少しだけ黙った。
その沈黙のあと、低く答える。
「自分が危険だと知ることと、自分がもう終わりだと思うことは違う。それを間違えるな」
戒十は顔を上げた。
シンの表情は相変わらず読みにくい。
「長瀬は終わった。だが、終わるまで長瀬だった。だから名前を書く」
シンは手帳の入った胸元へ触れた。
「おまえはまだ終わっていない。だから手順を覚えろ。申告しろ。影と区別がつかなくなったら、区別がつかないと言え」
「言えなかったら?」
「止める」
「斬る?」
「必要なら」
その答えは変わらなかった。
だが、先ほどより冷たくは聞こえなかった。
戒十は笑いそうになった。
笑えなかった。
「嫌な大人ですね」
「ああ」
「否定しない」
「事実だ」
いつもの言葉。
いつもの平坦な声。
それが、今は少しだけありがたかった。
リサが言う。
「戻ろっか。ほうじ茶、冷めちゃったし」
「今それですか」
「今だから。冷めたお茶って、けっこう寂しいよ」
「意味がわからない」
「わからなくていいよ。あたしも言いながらよくわかってない」
リサは無理に笑った。
その無理が見えてしまい、戒十は何も言えなくなる。
隔離室の中では、スタッフが長瀬透の残したものを片づけている。
片方のスリッパ。
倒れた点滴台。
床の黒い残滓。
そして、名前の残った手帳。
戒十はそれを目に焼きつけた。
見たくなかった。
でも、見なければならない気がした。
自分が危険だと知ることと、自分がもう終わりだと思うことは違う。
その違いを、まだ理解できたわけではない。
ただ、今は言葉だけを持って帰るしかなかった。
戒十は歩き出した。
足元の影も動く。
拘束具のせいで、左手の影は少し遅れる。
だが、ついてくる。
離れずに。
短く、重く、震えながら。
廊下の照明が通常の琥珀色へ戻った。
その光の中で、戒十はもう一度だけ心の中で繰り返した。
殺される前に身体を取ればいい。
その言葉が影のものなのか、自分のものなのか、まだわからない。
だからこそ、今は誰にも隠せなかった。
隠せば、いつかそれが自分の知らないところで、大きな影になる。
それだけは、もうわかり始めていた。




