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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第二章 夜の侵食
14/49

第七節 お姉さま

 湾岸地区の夜は、街の中心部よりも広かった。


 駅前や旧市街の夜は、建物と看板と人の声で細かく区切られている。


 だが湾岸へ近づくと、空が急に大きくなる。


 倉庫。


 高架道路。


 貨物用の引き込み線。


 使われなくなった駐車場。


 潮の匂いを含んだ風。


 遠くで鳴る船の警笛。


 そこでは、光も影も雑だった。


 街灯は等間隔に並んでいるようで、ところどころ切れている。


 大型施設の看板は撤去され、照明だけが残っている場所もある。


 誰かに見せるためではなく、最低限の防犯のために残された光。


 だから、影も美しくない。


 伸び、切れ、重なり、潰れ、倉庫の壁やガードレールの下で黒く淀んでいる。


 戒十は黒いワゴン車の後部座席で、その光景を見ていた。


 隣にはシン。


 運転席にはリサ。


 昼間の白昼局との交渉のあと、戒十は暫定管理下に置かれた。


 日没後の外出は禁止。


 そう言われたはずだった。


 だが、夜になる直前、地下診療室の警告端末に湾岸地区からの影害反応が入った。


 閉鎖された商業施設。


 数年前に撤退した大型ショッピングモール跡。


 そこから、黒猫型落影に近い反応と、未登録の人型影反応が同時に出た。


 リサは最初、戒十を置いていこうとした。


 シンは逆に、短く言った。


 連れていく。


 戒十が問い返す前に、彼は理由を告げた。


「おまえの影紋へ反応している可能性がある。遠ざければ安全とは限らない」


「近づけたら安全なんですか」


「違う。管理しやすい」


「最悪の説明ですね」


「事実だ」


 いつもの言葉。


 いつもの声。


 その横で、リサはハンドルを握りながら、少しだけ黙っていた。


 彼女は普段なら、そこへ軽口を入れる。


 今日は入れなかった。


 長瀬透の処分。


 白昼局との交渉。


 クイーンという名。


 それらが、彼女の中でもまだ沈んでいないのだと、戒十にもわかった。


 車内の光は低く抑えられている。


 戒十の左手には拘束具。


 ポケットには影固定剤。


 シンの刀は膝の上。


 すべてが、彼を守るためであり、彼を止めるためのものだった。


 湾岸地区の外れで、ワゴン車は速度を落とした。


 前方に、巨大な建物が見える。


 かつての商業施設。


 湾岸ミラージュモール。


 名前だけは、戒十も知っていた。


 小学生のころ、家族で一度来た記憶がある。


 吹き抜けの中央に大きな観覧車の模型があり、フードコートには人が溢れ、ゲームセンターの音が遠くまで響いていた。


 今、その建物は巨大な抜け殻になっている。


 外壁の一部は黒ずみ、ガラス張りの入口には金属製の仮囲いが立てられている。


 駐車場には雑草が伸び、古い案内板だけが風に揺れていた。


 ただ、内部の一部に光がついている。


 あり得ない。


 閉鎖施設のはずだ。


 管理会社の点検でも、防犯灯でもない。


 建物のあちこちで、別々の色の照明が点滅していた。


 白。


 黄色。


 青。


 赤。


 緑。


 まるで、死んだ施設が無理やり営業を再開させられているようだった。


「光源が多い」


 戒十は呟いた。


 シンが隣で短く言う。


「数えろ」


「外から見えるだけで、十以上。中はもっとある」


「影は」


「車内だと二本。外に出たら増える」


「血の匂いは」


「ない。潮と埃と、古い油の匂い」


「影声は」


 戒十は足元を見た。


 影は拘束具の下で短く沈んでいる。


 声はしない。


 だが、眠ってはいない。


「今はない」


「よし。俺から離れるな」


「はい」


 素直に返事をしたあと、戒十は少し嫌になった。


 従順になりたいわけではない。


 しかし、長瀬透を見たあとでは、反発だけで動くことができなかった。


 自分が危険だと知ることと、自分がもう終わりだと思うことは違う。


 シンの言葉を、まだ噛み砕けたわけではない。


 だが、今は手順が必要だった。


 少なくとも、誰かの名前がシンの手帳へ増えるのを避けるためには。


 車を降りると、潮風が強く吹いた。


 リサは入口の仮囲いへ近づき、壊れた南京錠を見つけて眉をひそめる。


「先客あり、だね」


「白昼局か」


 シンが言う。


「違うと思う。こじ開け方が雑。でも、わざと見つけさせてる感じ」


「罠か」


「罠っぽいねえ」


「楽しそうに言うな」


「楽しくはないよ。嫌な予感が当たりそうで、ちょっと笑ってるだけ」


「同じだ」


「違う違う」


 リサは軽く手を振ったが、その表情は硬かった。


 戒十は仮囲いの隙間から、暗いエントランスを覗いた。


 中には埃が積もっている。


 フロア案内の看板は割れ、かつて店舗が並んでいた区画にはシャッターが下りている。


 しかし、通路の奥で照明が点いていた。


 非常灯ではない。


 店舗用のスポットライト。


 天井の装飾照明。


 フードコートの看板灯。


 ゲームセンター跡のネオン。


 それらが、不規則に点滅している。


 多すぎる。


 戒十は入る前から、頭が痛くなった。


 光源が多すぎれば、影も分かれる。


 シンの訓練で、それは何度も確認した。


 影が分かれれば、どの影が何をしているのか見えにくくなる。


 その意味を、この場所は最初から知っているようだった。


「シン」


 リサが低く言った。


「戒十くん、後ろに置く?」


「駄目だ。後ろから来られる」


「じゃあ真ん中」


「ああ」


 シンが先頭。


 戒十が中央。


 リサが後ろ。


 三人は閉鎖されたモールの中へ入った。


     ◇


 中は、過去の匂いがした。


 古い埃。


 湿ったコンクリート。


 腐りかけた木材。


 店内装飾に使われていたプラスチック。


 どこかに残った甘い菓子の匂い。


 油の染みたフードコートの床。


 そこへ、潮風が混ざっている。


 戒十は歩きながら、足元を見た。


 光源が多い。


 天井からの白いライト。


 斜め前の店舗内で点滅する赤い看板。


 割れたガラスを通して入る外の街灯。


 床に倒れた広告パネルの裏から漏れる青い光。


 自分の影が、四つに分かれていた。


 短い影。


 長い影。


 薄い影。


 濃い影。


 左手の部分だけ、どれも少し黒い。


「光源、十一」


 戒十は言った。


「影、四本。いや、五本。薄いのが右後方」


 シンがうなずく。


「危険な方向は」


「左前方。シャッターの隙間へ伸びてる。あと右後方、リサさんのほう」


「血の匂いは」


「ない。影声も、まだない」


「続けろ」


「僕に言ってます?」


「見失うなという意味だ」


「わかってます」


 言いながら、わかっていない気がした。


 影が多い。


 どれも自分の影だ。


 だが、一つ一つの黒が違う感情を持っているように見える。


 左前方の影は、何かへ飛び出したがっている。


 右後方の影は、リサを警戒している。


 足元に短く落ちた影は、拘束具の下で黙っている。


 長く伸びた影は、誰かを探している。


 誰を。


 考える前に、スマートフォンが震えた。


 純からだった。


『今日は話せる?』


 短いメッセージ。


 戒十は立ち止まりかけた。


 前方のシンが振り返る。


「どうした」


「純から」


 リサも足を止めた。


 その名前を聞いた瞬間、空気が少し変わる。


「返信はあと」


 シンが言った。


「わかってます」


 戒十は画面を消した。


 しかし、足元の長い影が少しだけ動いた。


 純。


 名前を呼ぶ声が、影の奥で生まれかける。


 戒十はすぐに申告した。


「影が反応しました。血の匂いはない。左手は熱い。スマホの通知が原因」


「距離を取れ」


「誰から」


「スマホからだ」


 シンに言われ、戒十はスマートフォンをポケットの奥へ入れ直した。


 少し馬鹿馬鹿しい。


 だが、必要だった。


 純の名前だけで影が反応する。


 それを自分でも認めなければならなかった。


 そのとき、モール全体の照明が一斉に点いた。


 白い光が天井から降り、赤い看板が強く光り、青いネオンが走り、緑の非常灯が点滅する。


 死んだ商業施設が、突然、夜の中で派手に目を覚ました。


 戒十は思わず目を覆う。


 光が痛い。


 ただ明るいだけではない。


 方向が多すぎる。


 足元の影が一気に増えた。


 五本。


 六本。


 七本。


 それぞれ別の方向へ伸びる。


 どれが自分の影なのか、感覚が裂ける。


「三倉、下がれ!」


 シンの声。


 戒十は動こうとした。


 だが、影の一つが先に動いた。


 長く伸びた影が、ポケットのスマートフォンへ手を伸ばす。


 純へ返事をしようとしている。


 別の影が、それを押さえようとする。


 左前方の影は、見えない敵へ爪を立てるように床を掻く。


 右後方の影は、リサの足元へ向いていた。


 リサを疑っている。


 そう感じた瞬間、戒十の中で声が分かれた。


 純を守らなきゃ。


 純は僕を見た。僕のものだ。


 リサは隠してる。クイーンを知ってる。


 シンは斬る。長瀬みたいに。


 力を消すな。薬を飲むな。夜を失うな。


 同時に。


 別々の方向から。


 全部、自分の声だった。


 戒十は膝をついた。


「う、あ……!」


 視界が揺れる。


 モールの床に、いくつもの自分がいる。


 影だけの自分。


 純の名を追う自分。


 純を遠ざけようとする自分。


 リサを睨む自分。


 シンから逃げようとする自分。


 夜の力を手放したくない自分。


 それらが一斉に動く。


 肉体は一つしかないのに、影が複数の意思を持って別々の方向へ走ろうとしている。


 拘束具が軋む。


 左手の痣が焼ける。


 シンの影縫刀が床へ走る。


 しかし、光源が多すぎる。


 シンの刀の影も分裂し、狙いが乱れる。


「リサ、照明を落とせ!」


「操作盤が見えない!」


 リサの声が後ろから聞こえる。


 その声より先に、別の声が吹き抜けの二階から落ちてきた。


「あらあら。猫ちゃん、ずいぶん賑やか」


 甘い声だった。


 若い女の声。


 ふざけているようで、どこか空っぽな響きがある。


 戒十は顔を上げた。


 二階の手すりに、女が立っていた。


 白いワンピース。


 薄紫のリボン。


 長い黒髪。


 年齢は十九歳くらいに見える。


 肌は白く、照明の色を受けるたびに、ほんの少し質感が変わる。


 人形のように整った顔。


 だが、完全な人形ではない。


 目が生きている。


 いや、生きようとしている。


 そう見えた。


 女は手すりへ片手を置き、戒十を見下ろした。


「かわいい。たくさんいるのね、あなた。どれが本物?」


 シンが刀を構える。


「誰だ」


 女は微笑んだ。


「わたくし? カオルコと申します」


 カオルコ。


 その名は、妙に軽く、妙に鮮やかだった。


 彼女は戒十の足元へ視線を移す。


「猫ちゃん。あなた、面白い影をしているわ。守りたい、欲しい、疑ってる、怖がってる、失いたくない。全部ばらばら。なのに全部、自分だと思っている」


「……何をした」


 戒十は声を絞り出した。


「照明をつけただけ」


 カオルコは楽しそうに言う。


「光が一つなら、嘘が一つ。光がたくさんなら、嘘もたくさん。影もたくさん。ねえ、どれを隠すの? どれを薬で眠らせるの? どれをシンさんに縫ってもらうの?」


 シンの目が鋭くなる。


「俺の名を知っているのか」


「処刑人さんでしょう?」


 カオルコは首を傾げる。


「怖いわね。斬る人。名前を書く人。最後まで覚えているふりをする人」


 空気が冷える。


 戒十はシンを見た。


 シンは表情を変えない。


 だが、刀の影が一瞬だけ濃くなった。


 カオルコは笑う。


「怒った? 怒った顔、いいわ。わたくし、強い感情って好きなの。熱があるから」


「降りてこい」


 シンが言う。


「嫌。下は影が多くて汚いもの」


 カオルコは手すりの上を、細いヒールで一歩歩いた。


 普通なら危険な動き。


 だが、彼女の足取りは軽い。


 人間の重さがない。


 リサが一歩前へ出た。


 その瞬間、カオルコの顔がぱっと明るくなった。


「あ」


 声が変わった。


 遊んでいた子どもが、探していた人を見つけたような声。


「お姉さま」


 リサの身体が、硬直した。


 戒十はその横顔を見た。


 リサの顔から、血の気が引いていた。


 いつもの笑みも、軽さも消えている。


 ただ、目だけがカオルコを見ている。


 見たくないものを、見てしまった人の目だった。


 カオルコは手すりから身を乗り出す。


「お姉さま。やっと会えた。ねえ、似ているでしょう? 声も、髪も、影の匂いも、少しだけ」


「黙りなさい」


 リサの声は低かった。


 戒十が聞いたことのない声だった。


 カオルコは嬉しそうに目を細める。


「怒ってる。嬉しい。わたくし、ちゃんと見てもらえてる」


「あなたの姉になった覚えはない」


 リサの言葉が、鋭く落ちた。


 カオルコは一瞬、止まった。


 笑顔のまま。


 しかし、その目だけが少し揺れた。


「ひどい」


 彼女は口元に手を当てる。


 悲しむふりのようで、少しだけ本当に傷ついているようにも見えた。


「わたくし、こんなに似せられたのに」


「誰に作られた」


 シンが問う。


 カオルコはシンを見下ろし、また笑う。


「それを言ったら、父さまに怒られるわ」


「夜の王か」


 リサが小さく呟いた。


 カオルコの笑みが深くなる。


「お姉さま、知ってるんだ」


「その呼び方をやめなさい」


「嫌。だって、わたくし、そう呼ぶために来たのよ」


 照明がさらに強くなる。


 戒十の影がまた揺れる。


 複数の自分の声が、頭の中でざわめく。


 純を守れ。


 純を渡すな。


 リサを信じるな。


 シンに斬られる。


 力を消すな。


 身体を取れ。


 最後の声は、自分の影のものだったのか。


 それとも、もっと別のところから来たのか。


 わからない。


 戒十は床に手をついた。


 左手が勝手に爪を立てる。


「三倉!」


 シンの声。


 リサが振り返る。


「戒十くん、申告!」


 言わなければならない。


 だが、言葉が分かれる。


 どの影の状態を申告すればいい。


 どの自分が危険なのか。


 全部だ。


「影が、多い……」


 戒十は息を荒くしながら言った。


「純の名前に反応してる。リサさんを疑ってる。シンさんを怖がってる。力を、失いたくないって思ってる。血の匂いはない。でも、左手が熱い。退路が、見えない」


「よし。そこにいろ」


 シンが前へ出る。


 刀の影が、もっとも濃い影へ向かって伸びる。


 だが、カオルコが指を鳴らした。


 ゲームセンター跡の照明が一斉に回転する。


 光が動く。


 影も動く。


 シンの刃が戒十の影を捉える直前、影の位置がずれた。


 床に走った影縫いが空を切る。


「動く光は嫌いでしょう、処刑人さん」


 カオルコが笑う。


「縫う場所が、決められないものね」


「リサ、照明盤!」


「わかってる!」


 リサがフードコート側へ走る。


 だが、カオルコはそれを待っていた。


 二階から黒いリボンのような影が垂れる。


 それがリサの前へ落ち、床へ小さな黒い穴を作った。


 リサは寸前で止まる。


 穴の中から、黒猫の鳴き声がした。


 カオルコが楽しそうに言う。


「落ちたら危ないわ、お姉さま。あなた、影が少ないんだもの」


 リサの顔が歪む。


 怒り。


 恐怖。


 そして、古い傷を触られたような痛み。


 戒十はそれを見た。


 リサにも、触れてはいけない場所がある。


 カオルコはそこを知っている。


「カオルコ」


 リサは名前を呼んだ。


 その瞬間、カオルコは本当に嬉しそうに笑った。


「名前、呼んでくれた」


「何が目的」


「わたくしを見てほしいだけ」


「嘘」


「半分」


「誰の命令」


「わたくしの意思」


 カオルコは胸に手を当てた。


「だって、わたくし、カオルコだもの。材料じゃなくて、器じゃなくて、代わりでもなくて。名前があるの」


 その言葉だけ、遊びではなかった。


 リサは何も言えなかった。


 カオルコはすぐに笑顔へ戻る。


「でも今日は挨拶だけ。猫ちゃんにも会えたし、お姉さまにも会えたし、シンさんの怖い顔も見られたし」


「逃がすと思うか」


 シンが言う。


「追ってきてもいいわ。でも、猫ちゃんが裂けちゃうかも」


 カオルコが両手を広げる。


 照明がまた激しく点滅する。


 戒十の影が七本、八本へ分裂する。


 それぞれが別々に動き出す。


 純へ手を伸ばす影。


 リサへ爪を向ける影。


 シンの刀から逃げる影。


 自分の胸を掻きむしる影。


 光を拒む影。


 薬瓶を踏み潰そうとする影。


 戒十は叫んだ。


 声にならない。


 自分が裂ける。


 影が裂けるのではない。


 自分の中の、同時に存在していたものが、光で引き裂かれて見えるようになる。


 シンが舌打ちし、刀の影を床へ深く突き立てた。


 強制的な影縫いではない。


 床全体へ重い影を落とすような動き。


 リサも黒い穴を迂回し、操作盤へ手を伸ばす。


 次の瞬間、モールの照明が半分落ちた。


 白と赤が消える。


 青と緑だけが残る。


 影の数が減った。


 戒十は床へ崩れ落ちた。


 息ができる。


 まだ多い。


 それでも、さっきよりはましだ。


 カオルコは二階の手すりから、ひらりと後ろへ下がる。


「またね、猫ちゃん」


「待て!」


 リサが叫ぶ。


 カオルコは最後に、リサへ向けて優雅にお辞儀をした。


「また会いましょう、お姉さま」


「あなたの姉になった覚えはないって言ったでしょう!」


 リサの声が、モールの吹き抜けに響いた。


 カオルコは笑った。


 傷ついたように。


 喜んだように。


 そして、壊れかけた人形のように。


「覚えてなくても、いいの」


 彼女は言った。


「作られたほうは、覚えているから」


 その言葉を残し、カオルコの姿は二階の暗い通路へ消えた。


 シンが追おうとする。


 だが、戒十が床の上で呻いた。


 影がまだ揺れている。


 シンは追跡を諦め、戒十の足元へ影縫刀の影を差し込んだ。


 戒十の肉体が固定される。


 痛みより、安堵が先に来た。


 止まった。


 裂けそうだった影が、一本へ押し戻される。


 リサは二階の暗がりを見上げたまま、動かなかった。


 その顔には、怒りと恐怖と、否認があった。


     ◇


 カオルコは、モール二階のバックヤードを歩いていた。


 照明は落ち、非常灯だけが細く足元を照らしている。


 さっきまでの軽やかな足取りはもうない。


 角を曲がったところで、彼女は壁へ手をついた。


 白いワンピースの袖口から、黒い影が滲む。


 人間の影とは違う。


 布の裏側から糸がほつれるように、彼女の輪郭がわずかに崩れていた。


「……っ」


 カオルコは唇を噛んだ。


 だが、血は出ない。


 出たとしても、それが自分の血なのか、材料の誰かの記憶なのか、彼女にはときどきわからなくなる。


 左肩がずれる。


 皮膚の下で、別の影紋が浮き上がり、すぐ沈む。


 誰かの笑い声。


 誰かの泣き声。


 知らない駅名。


 知らない母親の手。


 知らない少女が嗅いだ花の匂い。


 それらが、彼女の内側で一瞬だけ混ざった。


 カオルコは壁へ爪を立てる。


「わたくしは、カオルコ」


 小さく言う。


 言葉にしなければ、輪郭がほどけそうだった。


「材料じゃない。器じゃない。代わりじゃない。わたくしは、カオルコ」


 繰り返す。


 そのたびに、崩れた人工影身が少しだけ戻る。


 完全には戻らない。


 腕の影が一瞬、別の女の腕のように見えた。


 長い髪の影。


 王冠のような輪郭。


 カオルコは目を閉じ、息を整えた。


「お姉さま、名前を呼んでくれた」


 それだけは本当だった。


 拒まれても。


 否定されても。


 名前を呼ばれた。


 カオルコは顔を上げた。


 崩れかけた笑顔を、もう一度形にする。


「次は、もっと見てくれる」


 彼女は暗いバックヤードの奥へ消えていった。


     ◇


 モールの一階では、ようやく照明のほとんどが落とされていた。


 青い非常灯と、外から入る街灯だけが残っている。


 戒十は床に座り込み、荒い息を整えていた。


 シンの影縫いはまだ外されていない。


 左手の拘束具も熱を持っている。


 それでも、影は一本に戻っていた。


 完全に落ち着いたわけではない。


 床の上で、まだ細かく震えている。


 リサは少し離れた場所に立っていた。


 二階を見上げている。


 シンは周囲を確認し、追跡が無理だと判断したのか、刀を下ろした。


「撤収する」


「待ってください」


 戒十は声を出した。


 喉がひりつく。


 自分の声が少し掠れている。


 シンが振り返る。


「今は動くな」


「動きません。だから、答えてください」


 戒十はリサを見た。


 リサはすぐにはこちらを見なかった。


 見たくないのだとわかった。


「今の人は誰なんですか」


 モールの中に沈黙が落ちた。


 遠くで、壊れたネオンが一度だけ点滅する。


 リサは答えない。


 シンも答えない。


 戒十は続けた。


「あの人、リサさんをお姉さまって呼んだ。あなたは否定した。でも、名前を知ってた。カオルコって呼んだ。何なんですか。クイーンと関係あるんですか。夜の王って、誰なんですか」


「三倉」


 シンが低く言う。


 止める声だった。


 だが、戒十は止まらなかった。


「また、今は言えないですか」


 リサの肩がわずかに揺れた。


「僕の影紋のことも、あの人のことも、全部そうやって隠すんですか。僕を守るため? それとも、リサさん自身が見たくないから?」


 言った瞬間、少し言い過ぎたと思った。


 だが、言葉は戻らない。


 リサはゆっくり振り返った。


 その顔には、怒りはなかった。


 それが逆に痛かった。


「……ごめん」


 リサは言った。


 また謝罪。


 また答えではない言葉。


 戒十は歯を食いしばる。


「答えないんですね」


 リサは答えなかった。


 本当に答えなかった。


 戒十は目を伏せる。


 足元の影が、かすかに動いた。


 怒り。


 恐怖。


 疑い。


 それらがまだ中に残っている。


 だが、その奥から、別の声がした。


 戒十自身の声ではなかった。


 女の声。


 高架下の暗闇で聞いた声。


 写真の端に立っていた肉体のない女の影。


 その声が、戒十の影の奥から、はっきりと囁いた。


「肉体を取れば、もう誰にも決められない」


 戒十の全身が凍った。


 今のは、影の戒十ではない。


 自分の声ではない。


 女の声。


 リサが息を呑んだ。


 シンが即座に刀を構える。


「三倉、何が聞こえた」


 戒十は口を開いた。


 申告しなければならない。


 手順。


 光源。


 影。


 血の匂い。


 左手。


 影声。


 内容。


 しかし、声が出ない。


 足元の影が、拘束具の下でゆっくりと濃くなる。


 その黒の中に、女の輪郭が一瞬だけ浮かんだ。


 長い髪。


 王冠にも、折れた角にも見える影。


 戒十はようやく声を絞り出した。


「女の声が……」


 リサの顔が、完全に血の気を失った。


 戒十は彼女を見る。


 聞きたいことが山ほどあった。


 だが、リサはもう答えられる顔をしていなかった。


 影の奥で、女の声がもう一度笑う。


 肉体を取れば。


 もう誰にも。


 決められない。


 モールの壊れた照明が、最後に一度だけ白く瞬いた。


 その瞬間、戒十の影は、彼の足元で彼自身の形をしていなかった。

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