第2章-夜の侵食-姉
自分の感情が抑えられない。
今まで感じたことのない感情の激しさ。
戒十は自分が自分でないような気がした。
これがキャットピープルの血なのか?
自分がどうなってしまうのか、戒十は底知れぬ恐ろしさを感じていた。
もう人間ではない。
肉体面では感じていたが、今になって精神面でそれを感じることになった。
そう、もう自分は人間ではないのだ。
この感情が続けば、もしかして……誰かを傷つけてしまうかもしれない。
朱色の夕焼けが沈もうとしている。
揺れる黒い影。
苦しそうに胸を鷲づかみする戒十の前に現れた人影。
「苦しそうね」
そうあざ笑うかのように言い、カオルコは戒十に手を差し伸べた。
野獣のような鋭い眼光で戒十は睨んだ。
「僕になんの用だ?」
「私たちの仲間になりなさい」
「またか……断れば、また僕を殺そうとするのか?」
「あれは冗談よ、殺す気なんかないわ」
「ならどうする?」
「無理にでも生け捕りにするだけよ」
その言葉を聞いて、なぜか戒十は伏目がちになった。
戒十の躰は震えていた。
恐怖か……それとも?
「無理にでも……か。今の僕は少し感情のブレーキが効かない……誰にも負ける気がしない」
上げられた戒十の顔は嗤っていた。
――狂気。
カオルコも同じ感情を胸で躍らせながら、やはり嗤った。
暴力の臭いがした。
それがはじまる寸前、カオルコの狂気が抜けるように消えた。
気配――この路に何者かの気配がした。
「人間に見られるのは不味いわね。また会いましょう、三倉戒十クン」
カオルコは風のように去ってしまった。
すぐに追おうとした戒十の肩が後ろから掴まれる。掴んだのはシンだった。
「追わなくていい、感情を沈めろ」
「うるさい」
戒十はシンの腕を振り払おうとした。だが、シンの指は強く肩を握り放さない。
「俺たちは闇に生きている。だが、闇に呑まれてはならない。そのまま感情の思うが侭に行動すれば、おまえはすぐに理性を失い人を殺すぞ?」
自分が誰かを殺す。
虫や動物の命を奪うのではなく、人間の命を奪う。
戒十はハッと息を呑んだ。
『成れの果て』と呼ばれるモノ。
自分もアレになるのかと思ったとき、戒十の感情から熱が奪われた。
「僕はケモノじゃない」
暗示のように呟いた。
シンはカオルコが消えた方向を眺めている。
「同属らしいが……見たことがない顔だ。実力はリサと同格かそれ以上、絶対に1人で闘おうと思うなよ」
冷静になった今、その言葉は言われなくとも理解できる。逃げることすら出来ないのではないか、そうとすら感じてしまう。
感情はすでに静まっている。だが、まだ戒十の躰は燃えるように熱かった。
「どうする?」
と、シンは尋ねた。
戒十はしばらく考え、静かに答える。
「独りになりたい」
また襲われるかもしれない。それに戒十は心身ともに不安定で、独りにすることは望ましくないように思えた。
だが、シンはそれを認めた。
「わかった、マンションまで送ろう」
こうして戒十は自宅に送り届けられた。
リサは明日の早朝に引っ越すと言っていたが、まだ戒十は決めかねていた。
ベッドで横になりながら、天井を仰ぎ見る戒十。
荷造りはまったくしてない。それどころか、何を持っていくのか、それすら決めていなかった。
それよりも頭を過ぎるのはカオルコという女のこと。
そして、自分の運命。
退屈だと思っていた生活が一変した。
はじめは人間以上の力を手に入れ心が躍った。くだらない周りの人間とは、違う存在になったのだと感じだ。
しかし、徐々に感じる底知れぬ恐怖。
キャットピープルが持つ闇。
それだけならば、いつかは克服できたかもしれない。
今、抱えている問題はこれだけじゃない。
謎の女カオルコ。
『姫』と呼ばれる存在のことは、まだよくわからないが、その『姫』の力を受け継いでしまったせいで、狙われることになってしまったらしい。
戒十はあの晩のことを思い出す。
すべてがはじまった夜のこと。戒十がキャットピープルになったあの夜のこと。
あれは本当に『黒猫』だったのか?
『姫』と呼ばれる存在と、戒十が襲われた『黒猫』と思われるモノ。
果たしてあれは本当に『黒猫』だったのか?
今になってみれば、記憶が断片的で、夢の出来事だったように、よく思い出すことができない。
『姫』とはいったい何なのか?
リサは言っていた。
キャットピープルの中でも絶大な力を持っている存在なのだと。
まだまだキャットピープルの世界は知らないことが多い。
身体も精神も、知識すら付いていけない。そんな状態で今の生活を捨てられるのか?
戒十はうつぶせになって、枕に顔を鎮めた。
時間は待ってはくれない。
すでに日中の生活に支障が出てきた以上、後戻りなどできないのだ。今の生活を維持することなどできないのだ。戒十は先に進むほか選択肢がなかった。
再び戒十は天井を仰ぎ見た。
家を出た後、しばらくの間はリサの家で厄介にならなくてはいけないらしい。他に行く宛がないのだから、仕方がないとあきらめるしかないのだろう。
その生活に必要な物は何か?
荷造りをするほど荷物はないだろう。
しばらくの間は今の家とリサの家を行き来して、その都度に必要な荷物を運べばいいかもしれない。けれど、決心を付けるという意味では、もうここには戻らないほうがいいのかもしれない。
――後戻りはできないのだから。
まだ荷造りをする気にはなれなかった。
後戻りができないのはわかっている。今の生活に未練があるわけでもない。ただ、先に進むことが怖いのだ。
まるで真っ暗な闇に足を踏み入れるように、今後自分が送る人生の想像がつかない。
キャットピープルになってしまったのだって、突拍子もないことだ。そんな人生を送るだなんて、なる前は1度だって考えるはずがない。
そのことすら想像も及んでいなかったのに、今度はそのことでカオルコに狙われるハメになった。この先、まだまだ想像もしなかったことが起こるに違いない。
もう戒十は人間の道を外れてしまったのだ。
「……どちらが良かったのかな?」
人間のまま人生を終えたほうがよかったのか、それともキャットピープルとして生きることがいいのか?
くだらないと思っていたあの生活。未来になれば変わっていたかもしれない。
問題に巻き込まれてしまっている今。未来はどうなるのか?
戒十は跳ねるようにベッドから起きた。
「夕飯でも食べるかな」
今日も家には誰もいない。
キッチンに向かう途中で、部屋の明かりが急に消えた。
明かりがなくても目は昼間のように見える。
「……停電?」
この部屋だけブレーカーを落ちていると考えづらい。電力を食うことなどしていない。
マンション全体か、地域で起きているのか、雷などの自然災害もないのに、なぜ?
戒十はベランダに出て町の様子を伺った。
町は明るかった。
電気が落ちているのはこのマンションだけらしい。
「ついてないな」
食事の準備をやめて、戒十はベランダから飛び降りた。
人間なら死ぬ可能性がある高さだが、戒十は難なく地面に着地した。
夜空に浮かぶ星が綺麗だ。
散歩でもしようと戒十は歩き出した。
キャットピープルになってから、無駄に夜の散歩が増えた。
梅雨時の今、夜もじめじめした風が吹くことが多い。それに比べて、今日は心地よい夜風が肌をくすぐる。
戒十は人気のない場所を選んで歩く。
まだまだ夜と呼ぶには賑やかな時間だ。少し路を外れれば繁華街に出て、その賑やかさは騒がしさに変わる。だが、また路を少し外れれば人気のない路に出る。
公園と予備には遊具がない、空き地のような場所。
昼間は子供たちの遊び場になっているが、夜は該当もなく人影も無い。
戒十はベンチに座って空を眺めた。
静かな夜だった。
しかし、それを壊す気配。
目の前に来るまでわからなかった。
再び戒十の前に現れたのはカオルコ。
戒十はうんざりそうに息を吐いた。
「またか……」
「目的を達成するまでは何度でも姿を見せるわ」
「僕を仲間にしてどうする?」
「クイーンの力を持つ貴方は磨けば光るわ。戦力としての魅力かしらね」
「戦力なんて集めて誰と戦おうとしてるんだ?」
「私たちに抗う者すべてかしら」
カオルコの背後に垣間見える組織の影。
質問をしても、核心の外れた答えしか返ってこない。
カオルコたちはいったい何を企んでいるのか?
それを知るには仲間になる他ないのか?
戒十は嗤った。
「もし、僕が君たちに仲間になったら、何を得ることができる?」
「人間を支配する地位」
「悪くない条件だね」
本気で戒十はそう思った。
しかし、それは実現可能なのか?
人間を支配する――すなわちカオルコたちが戦う相手は、人間なのだ。
キャットピープルは生物的に人間より優れているかもしれない。けれど、数の上では圧倒的に不利なのだろう。もし、キャットピープルという種族が、人間ほどの人口を持っていれば、すでに世界を支配、もしくは共存しているはずだ。
本気でカオルコは人間を支配できると思っているのか?
だとすれば、なにか『手立て』を持っているか、もしくは手に入れようとしているのか?
戦力は1人でも多いほうがいいが、なぜ戒十を勧誘するのか?
例え秘めたる力を持っていても、1人くらい増えたくらいで、なにが変わる?
仲間を増やすのならば、何度も説得して仲間になる相手より、思想の同じ者を仲間にしたほうがデメリットもないし、手駒としても扱いやすいはずだ。
カオルコが戒十の前に現れたのはこれで3度目。
なぜ、そこまでして戒十を必要としているのかという問いは、考え過ぎなのだろうか?
そして、戒十は言った。
「仲間になってもいいよ」
その言葉は夜風に乗り、この場に身を潜めていたシンの耳にも届いた。
「本当にいいのか、戒十?」
戒十たちの前に姿を現すシン。彼はずっと戒十を見張っていたのだ。でなければ簡単に独りにするはずがなかった。
そしてもう1人、小柄な少女が姿を見せた。
「マジでカイトが決めたならしょーがないケド、ウチら敵同士になるかもよぉ?」
リサは戒十に告げ、さらにカオルコに向かって言う。
「久しぶり、カオルコ」
その言葉にカオルコは微笑んだ。
「久しぶりね、お姉さま」
シンと戒十は注意を払って眼を光らせた。
明らかに面識がある二人の関係。
カオルコはリサと距離を縮めたが、まだ手を伸ばして届かない距離に立っている。
「お姉さまったら、だいぶ変わってしまったわね……見た目が」
「今風な感じでイイでしょ? カオルコは変わらないんだね、髪形」
「あれから何年経ったかしら、覚えてるお姉さま?」
「さぁ、100年はまだ経ってないけど、一目見てカオルコだってわかったよ」
「私もよ、貴女のことを忘れるハズがないもの」
「アタシも忘れるハズない。だって長い人生の中でも、最上級の汚点だから……」
苦笑いするリサに対して、カオルコは妖しく笑っていた。
知り合いと呼ぶにはふさわしくなく、二人の関係はもっと深いように思われる。
リサは再び戒十に顔を向け、軽い口調で話し始めた。
「でさ、カイトはアタシとカオルコ、どっちと仲良くしたわけー?」
黙る戒十にリサは畳み掛ける。
「言っとくけど、アタシとシンは人間と争う気ゼロだから、いつかはカオルコの敵になるよ、でしょカオルコ?」
「そうね、人間との全面戦争の前に、キャットピープルを手中に収める必要があるわ。すなわち、従わないキャットピープルは力ずくってことになるかしら」
両方と仲良くすることは困難らしい。
戒十の考えでは、リサについて行ってもいつかは、カオルコの組織に潰されるように感じた。ならば付くならカコルコ側か?
ゆっくりと歩き出した戒十はリサの横で止まった。
「まだ反抗期が治らなくてね。大きな権力に反発したくなるんだ」
戒十が選んだのはリサだった。
リサは戒十の顔を見て嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱりアタシに惚れてるから?」
冗談交じりの言葉に、戒十はきっぱり否定した。
「違う、あの女の性格が悪そうだから。あいつの下で使われるなんてごめんだね」
「にゃはは、正解。カオルコってば昔から性悪女だから」
リサに言われたカオルコは少しムッとした。
「言ってくれるわ。お姉さまのほうが性質の悪い性格でなくて?」
「アタシのどこが性格悪いっていうの?」
「ご自分で気づかないあたりかしらね」
いつの間にかリサとカオルコは向かい合い、二人だけの世界を作っていた。
言われずとも手出しは無用。シンは殺気を放ちながらも武器から手を離し、戒十もただ二人を見守った。
リサが地面を強く蹴り上げた。
「カイトが欲しいならアタシを倒してからね!」
「望むところよ、お姉さま!」
二人の闘いが幕を開けた。