第2章-夜の侵食-謎の女
夏はまだ先だというのに、梅雨の合間のその日は、雲ひとつない日差しの強い日だった。
額に滲んだ汗を体操着の袖で拭いて、戒十は乾いた下唇を舐めた。
「暑いな」
そう呟きながら、戒十は床に落ちているボールを拾おうと背を丸めた。
視界が揺れる。
伸ばした自分の手とボールが2重に見えた。
次の瞬間、全身に痺れが走り、意識が落ちたのだった。
――戒十は保健室のベッドで目を覚ました。
身体に違和感はなく、すぐに戒十は上体を起こす。
カーテンで仕切られたベッド。
保健室は静かだった。
まるで誰もいないような静寂。
彼らの仲間となった戒十はすでに、日常から意識せずに気配を消していた。
この部屋には戒十の気配すらないのだ。
ベッドから降りた戒十は仕切りのカーテンを開けた。
そして、戒十は心臓を鷲づかみにされた。
思いもよらなかった。
まさかヒトがいるなんて――。
肉欲を誘う太ももを組んで座る女。
黒のジャケットを押し上げる豊満な胸が、大きく開かれたシャツの合間から覗いている。その上で、ショートボブの女は妖しく笑っていた。
戒十は驚きのあまり言葉を忘れていた。
気配がない女。
その答えしか頭に浮かばなかった。しかし、それを口にいたのは、戒十ではなく女。
「キャットピープル」
吐息のような甘い声音だった。
思わず戒十は息を呑んだ。まだ声は出せない。
いったい目の前にいる女は誰なのか?
保健医ではない。
まだ教員の顔を全員覚えたわけではないが、明らかにそれとは異質なもの。
そう、女自身も言ったではないか――キャットピープルと。
女は片時も戒十から眼を離そうとしない。だが、戒十は何度も眼を逸らした。
ケモノの摂理に戒十は負けた。
言い知れない不安。
目の前の女が、自分よりも各が上だと、戒十はひしひしと感じだ。
このプレッシャーはまるで、あの晩と似ている。
背筋に寒気が走った咆哮。
底知れぬ力。
あの時のリサと似ている。
『成れの果て』と戦いを終え、独り森に残されたリサ。その咆哮を戒十は遠くから聴いた。
ヒトの皮を被ったケモノ。
手に掻いた汗を握り締め、戒十は出口に向かって逃げた。
気配はない。
ただ風が吹いた。
「なぜ逃げるの?」
女の肉厚な唇から漏れた息が戒十の顔にかかった。
瞬時に女は戒十の前に回りこんでいたのだ。
戒十の足から力が抜け、思いもよらず床に尻をついてしまった。
そして、やっと戒十の喉から絞り出した言葉は――。
「なんだ?」
それは何を問うたものなのか?
女は床に両膝を付き、未だ床に尻を置く戒十の胸に軽く触れ、そのまま押し倒して四つん這いで跨った。
「私の名前はカオルコ、貴方とお友達になりたいの」
お友達の誘いにしては、最初から大胆だ。
四つん這いの女――カオルコは戒十の上で微笑んでいる。
ようやく戒十は平常心を取り戻そうとしていた。
「僕はお断りだ」
その口調は冷たく固い。クラスメートに接するのと同じだ。
カオルコの口元が静かに動く。
「なら死になさい」
鋭く伸びた爪が戒十の喉を掻っ捌く寸前、カギを掛かったドアが音をガタガタと音を立てた。
気が付くとカオルコは消えていた。
開いた窓から吹き込む風でカーテンが揺れていた。
戒十は冷静を装いながら立ち上がり、ドアのカギを開けた。
開いたドアの向こうからこっちに倒れこんだ少女が声を上げる。
「わっ!?」
倒れ掛かってくる少女を抱きかかえた戒十。
すぐ間近で戒十の瞳を覗き込んだ少女は、慌てて戒十の身体から離れて顔を少し赤くした。
「ごめんなさい!」
頭を下げる少女を背にして立ち去ろうとする戒十。その背中に少女が声をかける。
「もう大丈夫なの三倉くん?」
「別に……」
意識が霞んだ。
床に手を付く戒十。
慌てて駆け寄って来た少女の手を振り払おうとするが、床に手が張り付いたように動かない。
身体が重い。
この感覚はまるで……。
戒十の身体の内でなにかが変わろうとしている。
ヒトからキャットピープルに変異する途中も、これと同じよう感覚が戒十を襲った。
あの朝と同じ感覚。
いや、それよりも酷い。
「三倉くん大丈夫なの?」
声が遠くに聞こえる。
「三倉くん、ここで待ってるんだよ、すぐに先生呼んでくるから」
「……呼ばなくていい」
「呼ばなくていいって……」
戸惑った表情をしながら少女に戒十は念を押す。
「大丈夫だから、水城さん」
その言葉のどこに反応したのか、水城純は少しはにかんだ。
「わたしの名前覚えててくれたんだ」
そんなくだらないことで笑ったのかと戒十は思った。
水城純は戒十のクラスメートだ。特に仲が良いわけでもなく、交わしたことのある会話と言えば、事務的な会話くらいものだ。
戒十は立ち上がろうとした。だが、身体がまだ言うことを聞かない。それどころか身体が重くなる一方だ。
「やっぱり先生呼ぼうか?」
「大丈夫だから」
そう言って戒十は無理にでも立とうとした。
しかし、脚が崩れて立てない。
結局、純の肩を借りて立つのが精一杯だった。
今になって、なぜ、という気持ちが戒十の中で沸いた。
自分の身体に降りかかった不調や謎の女カオルコに気を取られ、純がなぜここにいて、なぜ自分は純に肩を借りているのか、そこに考えが及んでいなかった。
それは珍しいことだった。
「どうして水城さんがここに?」
戒十から話題を切り出した。
「……それは……三倉くんが倒れたって聞いて心配で……放課後になっても教室に戻って来ないからもっと心配になって……」
「もう放課後なのか……」
倒れたのは確か4時間目の体育だった。ずいぶんと意識が落ちたままだったらしい。
「三倉くんの家まで送ろうか?」
「別にいいよ、水城さんが遠回りになるだろ」
「ううん、実は三倉くんと同じマンションに住んでるんだ。高校生になって越してきたばかりなの」
戒十は声には出さなかったが、少し驚いた表情をした。
興味もなかったし、同じマンションに住んでいるなんて知るはずもなかった。
独りでは立つこともままならない戒十は、この場にずっといるわけにも行かず、純の手を借りて帰宅するほかなかった。
女の子の肩を借りて歩くなんて、戒十にしてみれば恥辱に近いものがあったが、それでもワガママを言っていられる状況ではない。
生徒の帰宅ラッシュはすでに過ぎ、校内で他の生徒に出くわすことは少なかった。
二人が校門を出てすぐ、壁に寄りかかっていた少女が声を掛けてきた。
「授業中に倒れたんだって、カイト?」
他の学校の制服を着た少女――リサだった。
リサは戒十に肩を貸している純に眼を配ったが、話かけることはせずに戒十の前に立った。
「心配して来てみたら、女の子とイチャイチャしちゃって、もしかしてお邪魔だったぁ?」
それは少し意地の悪い言い方だった。
「うるさい、そんなんじゃない」
言い返した戒十とリサを純は交互に見ながら、二人の関係を模索しているようだった。
そして純は、
「もしかして三倉くんの彼女? 可愛い人だね」
と、笑顔を作る純に戒十はすぐさま反論しようとしたが、口を開いたのは純が先だった。
「そうだ、わたし大事な用があったんだ。ごめんね、送ってあげるってわたしから言ったのに……でも大丈夫だよね、彼女が来てくれたんだから」
この場から早く立ち去りたいというの気持ちがにじみ出た早口で、純は言いたいことだけ言うと、戒十をリサに預けて逃げるように走り去ってしまった。
二人は残され、リサは意地悪く言う。
「あの子、カイトの彼女?」
「そんなんじゃないのわかるだろ」
「でも、あの子はカイトに気があるみただけど?」
「うるさい!」
声を張り上げた瞬間、戒十の脚から力が抜けた。
地面に倒れそうになった戒十をリサが瞬時に支えた。
「はいはい、病人が無理しないの」
リサは意地悪く笑っていた。
相変わらず、今日も両親はいない。
父親の顔なんてどのくらい見ていないのか、戒十は考えることすらしなかった。母親は今日も父がいないことを好くして、どっかで若い男と遊んでいるのだろう。
そんな日常にも戒十は慣れしまっていた。
ソファに座らされた戒十のもとに、水の入ったコップを持ってリサが現れた。
「はい、水」
「ありがと」
受け取った水を一気に飲み干した。
酷く喉が渇いている。それは水を飲んだだけでは収まりそうもなかった。
戒十はリサが自分の顔を、じっと食い入るように見ていることに気づいた。
「なに?」
「そろそろ日常生活に限界が来たんじゃない?」
「僕が倒れたことを言ってるのか?」
「第2次変異期に入ったんだと思うんだよねー」
「なんだよそれ?」
キャットピープルの世界や生態について、リサやシンから話を聞かされていたが、その単語ははじめてだった。
「あれ、言ってなかった?」
「聞いてない」
「そうだっけ、あたしも歳だかんね、ボケちゃってるのかなー」
そう言ってリサはわざとらしく笑って見せた。
「第1次変異期は俗に覚醒とも呼ばれ、我々の血を受けた直後に起こる」
その声は戒十でもリサでもなく、ベランダから現れた長身の影が発した。
戒十は呆れたように呟く。
「ちゃんと玄関から入って来いよ」
6階にある部屋のベランダから入って来たのは、長い黒髪を揺らすシンだった。
聴力の発達したシンに戒十の声が届いていないはずがないが、まるで聞こえていないように彼は話を続けた。
「第2次変異期は覚醒から間を置いてから起きる。この時期は光、主に日光に敏感になり、高い気温にも弱くなる。それも異常なまでに過敏になるため、もっとも酷い時期は日中の外出が不可能に陥る」
「どのくらいで治るんだよ?」
戒十が尋ねると、リサがさらっと言い放った。
「数年」
「うそだろ?」
怪訝な表情をする戒十。
今の時代、日中に外出しなくてもいくらでも生きていける。家から一歩も出なくても生きていける世の中だ。だが、その生活は今の日常を壊さなければできなかった。
シンがリサの言葉に補足を加えた。
「数年というのは最悪の場合だ。早ければ数週間で日差しの下を歩けることになる」
「ウチらみたいにね」
リサは世間では中学3年生という設定で通している。日中は普通の学校生活を送っているのだ。
「で、どうするカイト?」
リサは戒十の瞳を覗き込みながら尋ねた。
「何が?」
「今の生活を捨てる時期が来たんじゃないのってこと」
これから人前で倒れることも増え、日中の活動が制限されれば学校に通えない。それを周りに隠し続けることは不可能だ。
では、日差しの下を歩けるようになるまで姿を消すか?
しかし、またいつか今の生活を捨てるときが来る。
リサの実年齢は定かではないが、シンは江戸時代から生きているらしい。キャットピープルは長い時間の中で、外的な年齢が変化しないのだ。
戒十は高校1年生だ。心も身体も変化が激しい時期、いつまで『平凡』な日常を演じ続けられるか?
深い息を吐きながら戒十は言う。
「もう覚悟はできてるよ。もとから今の生活に未練もないからね」
両親は元から存在してないようなもの。学校の付き合いは表面上だけで思い入れはない。今の生活で捨てて惜しいモノはない。
今すぐにでも家を出る覚悟する戒十にリサは促す。
「住む場所はカイトの希望もあるだろうし、まだこっちで決めてないんだけど、ウチでいい?」
「ウチって……リサって独り暮らし?」
「そうだけど?」
その言葉を聞いて戒十はシンに助けを求める視線を送った。
「シンの家はダメなのか?」
シンは無言で首を横に振った。
満面の笑みでリサは戒十の腕に抱きついた。
「ひとつ屋根の下で男女が二人っきり。どうしちゃう〜カイトぉ?」
「どうもしないよ」
と、吐き捨てながらも戒十の頬は少し赤らんでいた。
「カイトちゃんったら、顔赤くしちゃってぇ」
「してないってば!」
「ふふん、照れなくてもいんだよぉ。じゃ、そゆことで、さっさと荷造りして引越しは明日の早朝ね」
話は急速に進んでいた。
だが、ここで突然、シンがこんな話題を振った。
「ところでマンションの前に変な奴らがいたぞ」
「ウチらが入ったときは気づかなかったけどー?」
「俺がそこから入ったのはそのためだ」
そことはベランダのことだ。
リサはめんどくさそうにソファから立ち上がった。
「ったく、なんで早く言わないかなぁ……そんな面白いこと」
無邪気に笑うリサ。だが、その瞳の奥は闇色に染まっていた。