表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/21

第2章-夜の侵食-謎の女

 夏はまだ先だというのに、梅雨の合間のその日は、雲ひとつない日差しの強い日だった。

 額に滲んだ汗を体操着の袖で拭いて、戒十は乾いた下唇を舐めた。

「暑いな」

 そう呟きながら、戒十は床に落ちているボールを拾おうと背を丸めた。

 視界が揺れる。

 伸ばした自分の手とボールが2重に見えた。

 次の瞬間、全身に痺れが走り、意識が落ちたのだった。


 ――戒十は保健室のベッドで目を覚ました。

 身体に違和感はなく、すぐに戒十は上体を起こす。

 カーテンで仕切られたベッド。

 保健室は静かだった。

 まるで誰もいないような静寂。

 彼らの仲間となった戒十はすでに、日常から意識せずに気配を消していた。

 この部屋には戒十の気配すらないのだ。

 ベッドから降りた戒十は仕切りのカーテンを開けた。

 そして、戒十は心臓を鷲づかみにされた。

 思いもよらなかった。

 まさかヒトがいるなんて――。

 肉欲を誘う太ももを組んで座る女。

 黒のジャケットを押し上げる豊満な胸が、大きく開かれたシャツの合間から覗いている。その上で、ショートボブの女は妖しく笑っていた。

 戒十は驚きのあまり言葉を忘れていた。

 気配がない女。

 その答えしか頭に浮かばなかった。しかし、それを口にいたのは、戒十ではなく女。

「キャットピープル」

 吐息のような甘い声音だった。

 思わず戒十は息を呑んだ。まだ声は出せない。

 いったい目の前にいる女は誰なのか?

 保健医ではない。

 まだ教員の顔を全員覚えたわけではないが、明らかにそれとは異質なもの。

 そう、女自身も言ったではないか――キャットピープルと。

 女は片時も戒十から眼を離そうとしない。だが、戒十は何度も眼を逸らした。

 ケモノの摂理に戒十は負けた。

 言い知れない不安。

 目の前の女が、自分よりも各が上だと、戒十はひしひしと感じだ。

 このプレッシャーはまるで、あの晩と似ている。

 背筋に寒気が走った咆哮。

 底知れぬ力。

 あの時のリサと似ている。

 『成れの果て』と戦いを終え、独り森に残されたリサ。その咆哮を戒十は遠くから聴いた。

 ヒトの皮を被ったケモノ。

 手に掻いた汗を握り締め、戒十は出口に向かって逃げた。

 気配はない。

 ただ風が吹いた。

「なぜ逃げるの?」

 女の肉厚な唇から漏れた息が戒十の顔にかかった。

 瞬時に女は戒十の前に回りこんでいたのだ。

 戒十の足から力が抜け、思いもよらず床に尻をついてしまった。

 そして、やっと戒十の喉から絞り出した言葉は――。

「なんだ?」

 それは何を問うたものなのか?

 女は床に両膝を付き、未だ床に尻を置く戒十の胸に軽く触れ、そのまま押し倒して四つん這いで跨った。

「私の名前はカオルコ、貴方とお友達になりたいの」

 お友達の誘いにしては、最初から大胆だ。

 四つん這いの女――カオルコは戒十の上で微笑んでいる。

 ようやく戒十は平常心を取り戻そうとしていた。

「僕はお断りだ」

 その口調は冷たく固い。クラスメートに接するのと同じだ。

 カオルコの口元が静かに動く。

「なら死になさい」

 鋭く伸びた爪が戒十の喉を掻っ捌く寸前、カギを掛かったドアが音をガタガタと音を立てた。

 気が付くとカオルコは消えていた。

 開いた窓から吹き込む風でカーテンが揺れていた。

 戒十は冷静を装いながら立ち上がり、ドアのカギを開けた。

 開いたドアの向こうからこっちに倒れこんだ少女が声を上げる。

「わっ!?」

 倒れ掛かってくる少女を抱きかかえた戒十。

 すぐ間近で戒十の瞳を覗き込んだ少女は、慌てて戒十の身体から離れて顔を少し赤くした。

「ごめんなさい!」

 頭を下げる少女を背にして立ち去ろうとする戒十。その背中に少女が声をかける。

「もう大丈夫なの三倉くん?」

「別に……」

 意識が霞んだ。

 床に手を付く戒十。

 慌てて駆け寄って来た少女の手を振り払おうとするが、床に手が張り付いたように動かない。

 身体が重い。

 この感覚はまるで……。

 戒十の身体の内でなにかが変わろうとしている。

 ヒトからキャットピープルに変異する途中も、これと同じよう感覚が戒十を襲った。

 あの朝と同じ感覚。

 いや、それよりも酷い。

「三倉くん大丈夫なの?」

 声が遠くに聞こえる。

「三倉くん、ここで待ってるんだよ、すぐに先生呼んでくるから」

「……呼ばなくていい」

「呼ばなくていいって……」

 戸惑った表情をしながら少女に戒十は念を押す。

「大丈夫だから、水城さん」

 その言葉のどこに反応したのか、水城純は少しはにかんだ。

「わたしの名前覚えててくれたんだ」

 そんなくだらないことで笑ったのかと戒十は思った。

 水城純は戒十のクラスメートだ。特に仲が良いわけでもなく、交わしたことのある会話と言えば、事務的な会話くらいものだ。

 戒十は立ち上がろうとした。だが、身体がまだ言うことを聞かない。それどころか身体が重くなる一方だ。

「やっぱり先生呼ぼうか?」

「大丈夫だから」

 そう言って戒十は無理にでも立とうとした。

 しかし、脚が崩れて立てない。

 結局、純の肩を借りて立つのが精一杯だった。

 今になって、なぜ、という気持ちが戒十の中で沸いた。

 自分の身体に降りかかった不調や謎の女カオルコに気を取られ、純がなぜここにいて、なぜ自分は純に肩を借りているのか、そこに考えが及んでいなかった。

 それは珍しいことだった。

「どうして水城さんがここに?」

 戒十から話題を切り出した。

「……それは……三倉くんが倒れたって聞いて心配で……放課後になっても教室に戻って来ないからもっと心配になって……」

「もう放課後なのか……」

 倒れたのは確か4時間目の体育だった。ずいぶんと意識が落ちたままだったらしい。

「三倉くんの家まで送ろうか?」

「別にいいよ、水城さんが遠回りになるだろ」

「ううん、実は三倉くんと同じマンションに住んでるんだ。高校生になって越してきたばかりなの」

 戒十は声には出さなかったが、少し驚いた表情をした。

 興味もなかったし、同じマンションに住んでいるなんて知るはずもなかった。

 独りでは立つこともままならない戒十は、この場にずっといるわけにも行かず、純の手を借りて帰宅するほかなかった。

 女の子の肩を借りて歩くなんて、戒十にしてみれば恥辱に近いものがあったが、それでもワガママを言っていられる状況ではない。

 生徒の帰宅ラッシュはすでに過ぎ、校内で他の生徒に出くわすことは少なかった。

 二人が校門を出てすぐ、壁に寄りかかっていた少女が声を掛けてきた。

「授業中に倒れたんだって、カイト?」

 他の学校の制服を着た少女――リサだった。

 リサは戒十に肩を貸している純に眼を配ったが、話かけることはせずに戒十の前に立った。

「心配して来てみたら、女の子とイチャイチャしちゃって、もしかしてお邪魔だったぁ?」

 それは少し意地の悪い言い方だった。

「うるさい、そんなんじゃない」

 言い返した戒十とリサを純は交互に見ながら、二人の関係を模索しているようだった。

 そして純は、

「もしかして三倉くんの彼女? 可愛い人だね」

 と、笑顔を作る純に戒十はすぐさま反論しようとしたが、口を開いたのは純が先だった。

「そうだ、わたし大事な用があったんだ。ごめんね、送ってあげるってわたしから言ったのに……でも大丈夫だよね、彼女が来てくれたんだから」

 この場から早く立ち去りたいというの気持ちがにじみ出た早口で、純は言いたいことだけ言うと、戒十をリサに預けて逃げるように走り去ってしまった。

 二人は残され、リサは意地悪く言う。

「あの子、カイトの彼女?」

「そんなんじゃないのわかるだろ」

「でも、あの子はカイトに気があるみただけど?」

「うるさい!」

 声を張り上げた瞬間、戒十の脚から力が抜けた。

 地面に倒れそうになった戒十をリサが瞬時に支えた。

「はいはい、病人が無理しないの」

 リサは意地悪く笑っていた。


 相変わらず、今日も両親はいない。

 父親の顔なんてどのくらい見ていないのか、戒十は考えることすらしなかった。母親は今日も父がいないことを好くして、どっかで若い男と遊んでいるのだろう。

 そんな日常にも戒十は慣れしまっていた。

 ソファに座らされた戒十のもとに、水の入ったコップを持ってリサが現れた。

「はい、水」

「ありがと」

 受け取った水を一気に飲み干した。

 酷く喉が渇いている。それは水を飲んだだけでは収まりそうもなかった。

 戒十はリサが自分の顔を、じっと食い入るように見ていることに気づいた。

「なに?」

「そろそろ日常生活に限界が来たんじゃない?」

「僕が倒れたことを言ってるのか?」

「第2次変異期に入ったんだと思うんだよねー」

「なんだよそれ?」

 キャットピープルの世界や生態について、リサやシンから話を聞かされていたが、その単語ははじめてだった。

「あれ、言ってなかった?」

「聞いてない」

「そうだっけ、あたしも歳だかんね、ボケちゃってるのかなー」

 そう言ってリサはわざとらしく笑って見せた。

「第1次変異期は俗に覚醒とも呼ばれ、我々の血を受けた直後に起こる」

 その声は戒十でもリサでもなく、ベランダから現れた長身の影が発した。

 戒十は呆れたように呟く。

「ちゃんと玄関から入って来いよ」

 6階にある部屋のベランダから入って来たのは、長い黒髪を揺らすシンだった。

 聴力の発達したシンに戒十の声が届いていないはずがないが、まるで聞こえていないように彼は話を続けた。

「第2次変異期は覚醒から間を置いてから起きる。この時期は光、主に日光に敏感になり、高い気温にも弱くなる。それも異常なまでに過敏になるため、もっとも酷い時期は日中の外出が不可能に陥る」

「どのくらいで治るんだよ?」

 戒十が尋ねると、リサがさらっと言い放った。

「数年」

「うそだろ?」

 怪訝な表情をする戒十。

 今の時代、日中に外出しなくてもいくらでも生きていける。家から一歩も出なくても生きていける世の中だ。だが、その生活は今の日常を壊さなければできなかった。

 シンがリサの言葉に補足を加えた。

「数年というのは最悪の場合だ。早ければ数週間で日差しの下を歩けることになる」

「ウチらみたいにね」

 リサは世間では中学3年生という設定で通している。日中は普通の学校生活を送っているのだ。

「で、どうするカイト?」

 リサは戒十の瞳を覗き込みながら尋ねた。

「何が?」

「今の生活を捨てる時期が来たんじゃないのってこと」

 これから人前で倒れることも増え、日中の活動が制限されれば学校に通えない。それを周りに隠し続けることは不可能だ。

 では、日差しの下を歩けるようになるまで姿を消すか?

 しかし、またいつか今の生活を捨てるときが来る。

 リサの実年齢は定かではないが、シンは江戸時代から生きているらしい。キャットピープルは長い時間の中で、外的な年齢が変化しないのだ。

 戒十は高校1年生だ。心も身体も変化が激しい時期、いつまで『平凡』な日常を演じ続けられるか?

 深い息を吐きながら戒十は言う。

「もう覚悟はできてるよ。もとから今の生活に未練もないからね」

 両親は元から存在してないようなもの。学校の付き合いは表面上だけで思い入れはない。今の生活で捨てて惜しいモノはない。

 今すぐにでも家を出る覚悟する戒十にリサは促す。

「住む場所はカイトの希望もあるだろうし、まだこっちで決めてないんだけど、ウチでいい?」

「ウチって……リサって独り暮らし?」

「そうだけど?」

 その言葉を聞いて戒十はシンに助けを求める視線を送った。

「シンの家はダメなのか?」

 シンは無言で首を横に振った。

 満面の笑みでリサは戒十の腕に抱きついた。

「ひとつ屋根の下で男女が二人っきり。どうしちゃう〜カイトぉ?」

「どうもしないよ」

 と、吐き捨てながらも戒十の頬は少し赤らんでいた。

「カイトちゃんったら、顔赤くしちゃってぇ」

「してないってば!」

「ふふん、照れなくてもいんだよぉ。じゃ、そゆことで、さっさと荷造りして引越しは明日の早朝ね」

 話は急速に進んでいた。

 だが、ここで突然、シンがこんな話題を振った。

「ところでマンションの前に変な奴らがいたぞ」

「ウチらが入ったときは気づかなかったけどー?」

「俺がそこから入ったのはそのためだ」

 そことはベランダのことだ。

 リサはめんどくさそうにソファから立ち上がった。

「ったく、なんで早く言わないかなぁ……そんな面白いこと」

 無邪気に笑うリサ。だが、その瞳の奥は闇色に染まっていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ