第六節 僕らの帰り道
放課後の光は、まだ戒十には少し強かった。
夕方と言うには早く、昼と言うには傾き始めた時間。校舎の窓硝子に反射した白い光が、廊下の壁へ四角く貼りついている。その前を通るたびに、戒十は無意識に目を細めた。
以前なら、眠いとか、目が疲れたとか、適当な言葉で済ませていた。
今は違う。
「日光、少し痛い」
小さく申告すると、隣を歩く純が頷いた。
「記録しますか?」
「今日はもうした」
「なら、追加ですね」
「厳しい」
「よく言われます」
純はそう言って、鞄の肩紐を持ち直した。
彼女も、完全に元通りではなかった。
図書室の前を通るとき、廊下に飾られた花瓶から淡い花の香りがした。白い小さな花だった。名前は知らない。けれど、その匂いが届いた瞬間、純の足が半歩だけ止まった。
右手が、右脇腹へ行く。
目が、足元へ落ちる。
自分の影の右側を確認する。
欠けていない。
遅れていない。
純は一度だけ息を吸い、それから歩き出した。
戒十は何も言わなかった。
大丈夫、と聞くのは簡単だった。
でも、聞かれるたびに純が考えなければならないことを知っている。
だから、代わりに自分の左手を軽く握った。
爪は伸びていない。
血の匂いも強くない。
ただ、昼の光に疲れた身体の奥で、影が少し不満そうに動いている。
「花、嫌い?」
影の戒十が内側で言った。
戒十は声に出さずに返す。
嫌いって決めるのは、純だろ。
「そうだった」
影は少し黙る。
それから、ぽつりと言う。
「でも、あの匂いは嫌い」
戒十は否定しなかった。
自分も、あの白い花の匂いは好きではなかった。
◇
二人は、以前と同じ帰り道を歩いた。
駅へ向かう大通りを避け、古い商店街の裏手を抜ける道。
雨の日に並んで歩いた道。
戒十が人のいない夜景ばかり撮っていた頃、純が「誰もいないのに、誰かを待ってるみたい」と言った写真の駅へ続く道。
街は少しずつ日常へ戻っている。
パン屋のシャッターは半分開いていた。
薬局の前には、照明点検中の貼り紙。
花屋の前を通るときだけ、純は道の反対側へ寄った。
戒十も、何も言わず同じ側へ移った。
「気を遣わせていますね」
純が言った。
「遣ってる」
「そこは否定しないんですね」
「否定したら嘘になる」
「正直」
「練習中だから」
純が少し笑った。
その笑い方も、以前とは少し違っていた。
明るく振る舞うための笑いではない。
怖いものを怖いと言ったあとで、それでも少しだけ笑うための笑いだった。
戒十はその横顔を見て、胸の奥が詰まった。
言いたいことがある。
でも、言葉にすると、何かが変わってしまう気がした。
変わらないままでいたいわけではない。
ただ、事件があったから、命を救ったから、影と向き合ったから、だから自動的に何かが決まる、というのは違う気がした。
純は、自分の選ぶ側にいるべきだ。
戒十や影に必要とされることで、居場所を決められるべきではない。
それを知っている。
知っているのに、欲しい言葉は消えない。
そばにいてほしい。
その願いは、まだある。
影の戒十が内側で言った。
「言え」
「急かすな」
「言わないと、また勝手に決める」
「それは嫌だ」
「じゃあ言え」
戒十は小さく息を吸った。
純が気づいて、こちらを見る。
「どうしました?」
「いや」
「その“いや”は、だいたい何かあります」
「観察が鋭い」
「前からです」
戒十は苦笑した。
そして、立ち止まった。
商店街の裏道。
夕方の光が斜めに差し、二人の影を長く伸ばしている。
戒十の影は一つに見える。
けれど、よく見ると内側に獣の輪郭が重なっていた。
純の影には、右脇腹のあたりに、細い縫合痕のような揺らぎが残っている。
どちらも、元通りではない。
それでも、並んでいる。
「僕は」
戒十は言った。
喉が少し乾く。
「君にそばにいてほしい」
純は黙って聞いていた。
戒十はすぐに言い直した。
「僕らは、かな」
その瞬間、内側から影の声が飛んだ。
「勝手に一緒にするな」
「今それを言う?」
思わず声に出た。
純が目を丸くする。
それから、堪えきれないように笑った。
大きな笑いではない。
でも、ちゃんと笑っていた。
「影の戒十ですか?」
「うん」
「何て?」
「勝手に一緒にするなって」
「大事な訂正ですね」
「今じゃなくてよくない?」
「今だからでは?」
純は少しだけ楽しそうに言った。
戒十は額を押さえる。
影は足元で不満そうに揺れた。
「僕にも意見がある」
「あるのはわかってる」
「じゃあ言う」
「言い方」
純は笑いを収め、少し真面目な顔になった。
「戒十」
「うん」
「言ってくれたことは、嬉しいです」
その言葉に、戒十の胸が強く鳴った。
だが、純はそこで終わらせなかった。
「でも」
彼女は自分の影を一度見た。
右側を確認し、それから戒十を見る。
「二人がどうしたいかだけじゃなくて、私がどうしたいかも聞いて」
戒十は言葉を失った。
言われるまで、また忘れかけていた。
自分が言うこと。
影が言うこと。
二人の間で条件を決めること。
それに必死になって、純がどうしたいのかを、まだ聞いていなかった。
以前なら、きっと先に決めていた。
巻き込まないほうがいい。
離れたほうがいい。
そばにいてほしい。
必要だ。
危ない。
守りたい。
全部、こちら側の言葉だった。
戒十は息を吸った。
影の戒十も、内側で黙っている。
今は、口を挟まなかった。
「純は」
戒十はゆっくり言った。
「どうしたい?」
純はすぐには答えなかった。
夕方の風が、商店街の古い看板をかすかに鳴らす。
遠くで自転車のベルが聞こえる。
花屋のほうから、薄い香りが届きかけて、すぐに風に流された。
純は自分の鞄の紐を握る。
「考えます」
戒十は少しだけ拍子抜けした。
「今じゃないの」
「今じゃないです」
「厳しい」
「よく言われます」
純は真面目な顔でそう言ってから、少しだけ笑った。
「でも、考えます。逃げるためじゃなくて、ちゃんと考えます」
「うん」
「戒十も、影の戒十も、急がないでください」
足元の影が揺れた。
「急ぎたい」
戒十は小さく言う。
「急ぎたいって」
純は頷いた。
「それも、言ってくれれば考えます」
「考えることが増えますね」
「増えましたね」
「面倒?」
純は少しだけ首を傾げる。
「面倒です」
戒十は固まった。
純は続けた。
「でも、面倒だから嫌だ、とは今は思っていません」
戒十は息を吐いた。
「それ、すごく純っぽい」
「褒めていますか?」
「たぶん」
「たぶんですか」
影の戒十が内側で言う。
「僕は褒めてる」
「言わなくていい」
「純に伝えて」
「今?」
「今」
戒十は純を見る。
純も、何か察したように見返してくる。
「今度は何ですか」
「影が、褒めてるって」
純は少しだけ目を丸くしたあと、丁寧に足元の影へ向かって言った。
「ありがとうございます」
影が満足そうに揺れた。
戒十は小さく呟く。
「なんで僕より素直に受け取るの」
「戒十も褒めてくれたんでしょう?」
「たぶん」
「そこです」
「厳しい」
「よく言われます」
三度目の言葉に、今度は二人とも笑った。
笑いながら、また歩き出す。
恋人になったわけではない。
何かが確定したわけでもない。
純の返事は保留のまま。
戒十の中には、まだ影の声がある。
日光は眩しい。
血の補給も、影固定剤の管理も、申告訓練も続く。
純の右脇腹には冷たさが残り、花の匂いに身構える。
それでも、二人は同じ帰り道を歩いていた。
答えを急がずに。
誰かのかわりに決めずに。
自分たちの影を、足元に残したまま。
夕方の光が、二人と一つの獣の輪郭を、長く道の先へ伸ばしていた。




