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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第六章 夜明け
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終節 夜明けの写真

 朝の駅前は、夜よりも静かだった。


 人がいないわけではない。


 始発を待つ会社員がいる。自動販売機の前で缶コーヒーを選んでいる老人がいる。コンビニの搬入口では、制服姿の店員が段ボールを運んでいる。


 けれど、夜の沈黙とは違っていた。


 誰もいないから静かなのではなく、それぞれが一日の始まりへ向かっている途中だから、まだ声が少ない。


 空は薄い青だった。


 雨は降っていない。


 高架の下に残っていた水たまりも、今はほとんど乾いている。アスファルトには、夜の名残のように鈍い光が薄く残っていた。


 戒十は、カメラを首から下げて立っていた。


 この駅前を撮ったことがある。


 誰もいないベンチ。


 濡れた舗道。


 街灯の下に伸びる、自分だけの影。


 あの頃の写真には、人が写っていなかった。


 人がいると、写真の中で誰かが演技をする気がした。笑おうとする。よく見られようとする。何でもないふりをする。そういうものを写すのが怖かった。


 本当は、見抜かれるのが怖かったのかもしれない。


 自分が、誰も写さないことで何かを避けていると。


「眠そうですね」


 隣で純が言った。


 薄い朝日が彼女の肩にかかっている。制服の上に羽織ったカーディガンの袖を、少しだけ握っていた。


「朝だから」


「夜型ですもんね」


「それだけじゃない」


 戒十は目を細めた。


 朝日は、まだ少し痛い。


 昼ほどではない。


 でも、皮膚の奥に細い熱が入ってくるような感覚がある。


「日光、少し痛い」


「申告しましたね」


「した」


「偉いです」


「小学生みたいに褒めないで」


「練習中ですから」


 純は真面目にそう言った。


 それから、自分の足元を見た。


 朝の光の中で、純の影は細く伸びている。


 右側は欠けていない。


 けれど、脇腹のあたりにだけ、ごく薄い縫い目のような揺らぎが残っていた。


 純はそれを確認して、顔を上げる。


「大丈夫?」


 戒十は聞きかけて、途中で止めた。


 純が少しだけ笑う。


「今は、平気です」


「先に言われた」


「聞きそうな顔でした」


「そんな顔してた?」


「していました」


 戒十は苦笑した。


 足元で、影が小さく揺れる。


「純、朝も平気?」


 影の声が内側で言う。


 戒十は少し考えてから、そのまま伝えた。


「影が、朝も平気かって」


 純は足元の影へ視線を落とした。


「今は平気です。夜よりは、少し」


 影が満足そうに揺れた。


「よかった」


「よかったって」


「伝えなくていい」


「今さら?」


 純が笑った。


 その笑い方を見て、戒十はカメラに手をかけた。


 純が気づく。


「撮るんですか?」


「うん」


「駅前を?」


「違う」


 戒十はファインダーを覗いた。


 朝の光の中に、純が立っている。


 無理に笑っていない。


 ポーズも取っていない。


 ただ、そこにいる。


 それだけでよかった。


 純は少しだけ目を細めた。


「人は撮らないんじゃなかったの?」


 戒十はファインダー越しに答えた。


「演技しないで立っていられるなら」


 純は笑わなかった。


 照れもしなかった。


 少しだけ息を吸い、ただ戒十を見た。


 真正面から。


 怖がりすぎず、強がりすぎず、許しすぎず、拒みすぎず。


 その目の中に、あの夜の痛みがまだ残っている。


 でも、それだけではない。


 朝の光も、そこにあった。


 戒十はシャッターを切った。


 小さな機械音が、駅前の静けさに落ちる。


 一枚。


 それだけだった。


 画面を確認する。


 写真には、朝の光の中に立つ純が写っていた。


 その足元には、彼女自身の影。


 右脇腹に、細い縫い目のような揺らぎ。


 そして、画面の手前には、カメラを構える戒十の影が写り込んでいる。


 それは一つではなかった。


 濃い人間の影。


 その隣に重なる、獣の輪郭。


 二つは完全には一つになっていない。


 境界は曖昧で、ときどき重なり、ときどき離れている。


 けれど、互いを食い合ってはいなかった。


 同じ方向へ、朝の光に押されるように伸びている。


 戒十はしばらく、その写真を見ていた。


「変?」


 純が聞く。


「変」


 戒十は正直に答えた。


「でも、悪くない」


「見せてください」


「あとで」


「今は?」


「恥ずかしい」


「撮った側なのに?」


「撮った側だから」


 純は少しだけ首を傾げ、それ以上は追及しなかった。


「じゃあ、あとで」


「うん」


 彼女は先に歩き出した。


 駅前のベンチの横を抜け、朝の光のほうへ。


 戒十は呼び止めようとして、少しためらった。


 名前を呼ぶのは簡単だ。


 でも、今この瞬間、何を言いたいのかがわからなかった。


 ありがとう。


 待って。


 また明日。


 そばにいてほしい。


 考えるって言った返事、急がないから。


 言葉はいくつもあった。


 どれも少し違った。


 その瞬間、戒十本人が手を上げるより一瞬早く、足元の影が純へ手を振った。


 獣の輪郭を持つ影の腕が、朝の舗道の上でゆっくり揺れる。


 戒十は目を見開いた。


「おまえ」


 純が振り返る。


 そして、影へ手を振り返した。


 自然に。


 まるで、そこにいるのが当然だというように。


 戒十は呆れたように息を吐いた。


「先にやるなよ」


「遅い」


 影が言う。


「うるさい」


 それでも、戒十は自分の手を上げた。


 純へ合図する。


 純は今度は、戒十本人にも手を振った。


 朝日が昇る。


 高架の向こうから、薄い金色の光が街へ広がっていく。


 影は消えなかった。


 純の足元にも。


 戒十の足元にも。


 人間の影と、獣の輪郭。


 傷の残る影と、まだ名前のつかない関係。


 夜は終わった。


 けれど、影は終わらない。


 影を残したまま、朝へ歩き出す。


 戒十はカメラを胸元に戻し、純のあとを追った。


 足元の影も、同じ歩幅でついてくる。


 夜明けは、影を消さない。


 ただ、その影がどこへ伸びるのかを、少しだけ明るく見せる。


 完

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