終節 夜明けの写真
朝の駅前は、夜よりも静かだった。
人がいないわけではない。
始発を待つ会社員がいる。自動販売機の前で缶コーヒーを選んでいる老人がいる。コンビニの搬入口では、制服姿の店員が段ボールを運んでいる。
けれど、夜の沈黙とは違っていた。
誰もいないから静かなのではなく、それぞれが一日の始まりへ向かっている途中だから、まだ声が少ない。
空は薄い青だった。
雨は降っていない。
高架の下に残っていた水たまりも、今はほとんど乾いている。アスファルトには、夜の名残のように鈍い光が薄く残っていた。
戒十は、カメラを首から下げて立っていた。
この駅前を撮ったことがある。
誰もいないベンチ。
濡れた舗道。
街灯の下に伸びる、自分だけの影。
あの頃の写真には、人が写っていなかった。
人がいると、写真の中で誰かが演技をする気がした。笑おうとする。よく見られようとする。何でもないふりをする。そういうものを写すのが怖かった。
本当は、見抜かれるのが怖かったのかもしれない。
自分が、誰も写さないことで何かを避けていると。
「眠そうですね」
隣で純が言った。
薄い朝日が彼女の肩にかかっている。制服の上に羽織ったカーディガンの袖を、少しだけ握っていた。
「朝だから」
「夜型ですもんね」
「それだけじゃない」
戒十は目を細めた。
朝日は、まだ少し痛い。
昼ほどではない。
でも、皮膚の奥に細い熱が入ってくるような感覚がある。
「日光、少し痛い」
「申告しましたね」
「した」
「偉いです」
「小学生みたいに褒めないで」
「練習中ですから」
純は真面目にそう言った。
それから、自分の足元を見た。
朝の光の中で、純の影は細く伸びている。
右側は欠けていない。
けれど、脇腹のあたりにだけ、ごく薄い縫い目のような揺らぎが残っていた。
純はそれを確認して、顔を上げる。
「大丈夫?」
戒十は聞きかけて、途中で止めた。
純が少しだけ笑う。
「今は、平気です」
「先に言われた」
「聞きそうな顔でした」
「そんな顔してた?」
「していました」
戒十は苦笑した。
足元で、影が小さく揺れる。
「純、朝も平気?」
影の声が内側で言う。
戒十は少し考えてから、そのまま伝えた。
「影が、朝も平気かって」
純は足元の影へ視線を落とした。
「今は平気です。夜よりは、少し」
影が満足そうに揺れた。
「よかった」
「よかったって」
「伝えなくていい」
「今さら?」
純が笑った。
その笑い方を見て、戒十はカメラに手をかけた。
純が気づく。
「撮るんですか?」
「うん」
「駅前を?」
「違う」
戒十はファインダーを覗いた。
朝の光の中に、純が立っている。
無理に笑っていない。
ポーズも取っていない。
ただ、そこにいる。
それだけでよかった。
純は少しだけ目を細めた。
「人は撮らないんじゃなかったの?」
戒十はファインダー越しに答えた。
「演技しないで立っていられるなら」
純は笑わなかった。
照れもしなかった。
少しだけ息を吸い、ただ戒十を見た。
真正面から。
怖がりすぎず、強がりすぎず、許しすぎず、拒みすぎず。
その目の中に、あの夜の痛みがまだ残っている。
でも、それだけではない。
朝の光も、そこにあった。
戒十はシャッターを切った。
小さな機械音が、駅前の静けさに落ちる。
一枚。
それだけだった。
画面を確認する。
写真には、朝の光の中に立つ純が写っていた。
その足元には、彼女自身の影。
右脇腹に、細い縫い目のような揺らぎ。
そして、画面の手前には、カメラを構える戒十の影が写り込んでいる。
それは一つではなかった。
濃い人間の影。
その隣に重なる、獣の輪郭。
二つは完全には一つになっていない。
境界は曖昧で、ときどき重なり、ときどき離れている。
けれど、互いを食い合ってはいなかった。
同じ方向へ、朝の光に押されるように伸びている。
戒十はしばらく、その写真を見ていた。
「変?」
純が聞く。
「変」
戒十は正直に答えた。
「でも、悪くない」
「見せてください」
「あとで」
「今は?」
「恥ずかしい」
「撮った側なのに?」
「撮った側だから」
純は少しだけ首を傾げ、それ以上は追及しなかった。
「じゃあ、あとで」
「うん」
彼女は先に歩き出した。
駅前のベンチの横を抜け、朝の光のほうへ。
戒十は呼び止めようとして、少しためらった。
名前を呼ぶのは簡単だ。
でも、今この瞬間、何を言いたいのかがわからなかった。
ありがとう。
待って。
また明日。
そばにいてほしい。
考えるって言った返事、急がないから。
言葉はいくつもあった。
どれも少し違った。
その瞬間、戒十本人が手を上げるより一瞬早く、足元の影が純へ手を振った。
獣の輪郭を持つ影の腕が、朝の舗道の上でゆっくり揺れる。
戒十は目を見開いた。
「おまえ」
純が振り返る。
そして、影へ手を振り返した。
自然に。
まるで、そこにいるのが当然だというように。
戒十は呆れたように息を吐いた。
「先にやるなよ」
「遅い」
影が言う。
「うるさい」
それでも、戒十は自分の手を上げた。
純へ合図する。
純は今度は、戒十本人にも手を振った。
朝日が昇る。
高架の向こうから、薄い金色の光が街へ広がっていく。
影は消えなかった。
純の足元にも。
戒十の足元にも。
人間の影と、獣の輪郭。
傷の残る影と、まだ名前のつかない関係。
夜は終わった。
けれど、影は終わらない。
影を残したまま、朝へ歩き出す。
戒十はカメラを胸元に戻し、純のあとを追った。
足元の影も、同じ歩幅でついてくる。
夜明けは、影を消さない。
ただ、その影がどこへ伸びるのかを、少しだけ明るく見せる。
完




