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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第六章 夜明け
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第五節 紫色の店

 VIOLET DRAGONの地上店舗が再び開いたのは、事件から十日後の夜だった。


 開いた、といっても、以前のような営業ではない。


 入口の紫色のネオンは、半分だけ点いていた。Dの文字が時々ちらつき、Gの右上にはひびが入っている。扉の硝子には修理跡が残り、店内の照明も本来のものではなく、仮設の琥珀色ライトがカウンターとテーブルだけを照らしていた。


 地下へ降りる階段は、まだ封鎖されている。


 遮影布が二重にかけられ、白昼局共生派とVIOLET DRAGONの共同封印札が貼られていた。


 そこには、以前のような軽さはなかった。


 紫色の地下。


 離影者たちの隠れ家。


 リサが笑って、嘘と本当を混ぜながら新入りを迎え入れていた場所。


 その地下は、まだ戻っていない。


 地上店舗だけが、先に息をし始めた。


「仮営業って言ったのに、なんでこんなに人が来るんだよ」


 カウンターの男が、割れずに残ったグラスを拭きながらぼやいた。


 店内には十人ほどの住人がいた。客ではない。戻ってきた者、戻る場所を確認しに来た者、何か手伝えることはないかと顔を出した者たちだった。


 若いギタリストが、コードの抜けたアンプの上に腰かけて言う。


「みんな、店があるか確認したかったんじゃないですか」


「見りゃわかるだろ。あるよ。半壊だけどな」


「半分あれば、半分帰れます」


「うまいこと言ったつもりか」


「ちょっと」


「リサなら採用してたな」


 その名前が出た瞬間、店内の空気が少しだけ止まった。


 カウンターの男は、グラスを拭く手を止めなかった。


「……採用して、あとで請求書押しつけるな」


 誰かが小さく笑った。


 笑いは短かったが、消えなかった。


 店の奥の壁には、リサが昔から貼っていた紫色のポスターが一枚だけ残っている。角が焦げ、下半分が破れていた。それでも剥がされていない。


 その隣に、新しい紙が貼られていた。


 夜間相談受付。


 影声の申告訓練。


 落影目撃時の連絡先。


 白昼局共生派との共同対応窓口。


 そして、いちばん下に小さく書かれている。


 ――勝手に身体を渡さない。勝手に影を奪わない。異常があれば言葉にする。


 戒十はその紙を見て、少しだけ顔をしかめた。


「誰が書いたんですか、これ」


 カウンターの男が顎でスーツ姿の女性を示す。


「あの人」


 スーツの女性は、書類を揃えながら淡々と言った。


「あなたの事例を参考にしました」


「事例って言わないでください」


「では、経験」


「それも微妙です」


「本人提供の実例」


「もっと嫌です」


 影の戒十が足元で揺れた。


「でも正しい」


「おまえは黙ってろ」


「黙らない契約」


「そうだけど」


 戒十が小声で言い返すと、近くにいた若いギタリストが笑った。


「三倉くん、今どっちと話してる?」


「足元です」


「普通に言うようになったね」


「言わないと、勝手に話すので」


 影が、床の上で不満そうに揺れた。


「勝手に話すのは君も同じ」


「声に出す分、僕のほうがまだまし」


「ずるい」


 カウンターの男が、グラスを置いてため息をつく。


「おまえら、会議中にそれ始めるなよ」


「始めたくて始めてるわけじゃないです」


「始めてるだろ」


 戒十は言い返せなかった。


 以前なら、こんなふうに人前で影と会話するなど考えられなかった。


 隠す。


 誤魔化す。


 自分だけで処理する。


 そうしてきた。


 だが、今は違う。


 隠したままにしておくほうが危険だと、もう知っている。


 影の声を無視すれば、影は別の形で動く。


 身体を渡すと言えば、影は怒る。


 影が奪おうとすれば、戒十が止める。


 共生は、完成した答えではない。


 毎日、細かい交渉を続けることだった。


 その面倒さが、今の彼らの生活だった。


     ◇


 店の奥のテーブルでは、白昼局共生派の担当者二人と、VIOLET DRAGON側の住人が向かい合っていた。


 灰田はいない。


 辰巳も来ていない。


 代わりに、現場担当の若い職員と、記録係らしい女性が来ていた。


 テーブルの上には、協力覚書の案が広げられている。


 離影者の緊急治療。


 影害発生時の連絡手順。


 落影回収時の立会い。


 未成年の離影兆候者に対する保護と同意。


 登録制度の保留項目。


 監視ではなく支援であること。


 支援と称した強制収容を禁じること。


 文言の一つ一つを巡って、スーツの女性が容赦なく赤を入れていた。


「“保護対象を必要に応じて移送する”は削除」


 白昼局の職員が困った顔をする。


「緊急時には移送が必要になる場合があります」


「本人の同意、または意識不明時の暫定措置、第三者記録、後日の異議申立て権を明記してください」


「そこまで書くと現場が動けません」


「書かないと、現場が勝手に動きます」


 カウンターの男が小声で言う。


「強い」


 若いギタリストが頷く。


「リサさんと別方向に強い」


 白昼局の記録係が、苦笑しながら言った。


「正直、こちらもその文言は危ないと思っていました」


「なら最初から削ってください」


「上の案なので」


「上はここにいません」


「ですね」


 そのやり取りを、戒十は少し離れた席で聞いていた。


 白昼局。


 以前なら、ただ警戒する相手だった。


 捕まえる側。


 処分する側。


 昼の光で影を裁く側。


 今も、信用できるわけではない。


 処分派は消えていない。


 管理と支援の境界も曖昧だ。


 だが、共生派と呼ばれる人たちは、少なくとも同じ机についている。


 それを信用とは呼べない。


 ただ、監視しながら協力する。


 今は、その程度がちょうどいいのかもしれない。


 シンは、カウンターの端に座っていた。


 義手はまだ仮のものだ。黒い固定具に包まれた右腕は動かない。影には右腕がない。


 彼は会話に口を挟まない。


 だが、聞いている。


 必要なところで、短く訂正する。


「落影回収時、現場判断で切断処理を許可する文言は削れ」


 白昼局職員が資料を見る。


「しかし、暴走時には」


「切断処理を最終手段と書くなら、最終と判断した責任者名を記録しろ」


 スーツの女性が即座に書き込む。


「採用します」


「勝手に採用するな」


「必要です」


 シンは軽く息を吐いた。


「なら採用しろ」


 カウンターの男が、にやりとする。


「シンが丸くなったな」


「丸くはない」


「角が一本折れた」


「右腕だ」


「冗談にしづらい返しやめろよ」


 店内に小さな笑いが起きる。


 シンは表情を変えなかった。


 けれど、拒まなかった。


     ◇


 戒十の役割も、そこで決まっていった。


 最初は、相談役などと言われても実感がなかった。


 彼はまだ高校生だ。


 昼間は学校がある。


 小テストもある。


 進路調査票もある。


 家族には、夜のことを全部話せていない。


 日光にはまだ完全に慣れていないし、強い血の匂いにも反応する。


 影の戒十は、時々純に会いたがる。


 夜になると、落影の気配を追いたくなる。


 それでも、彼はもうただの保護対象ではなかった。


「新規離影兆候者の一次相談に同席」


 スーツの女性が読み上げる。


「影声の申告訓練。共同操作時の自己申告手順。若年者向け説明補助。夜間落影回収は、成人同行時のみ」


「成人同行時のみ、って」


 戒十が眉を寄せる。


「子ども扱いですか」


「未成年です」


「正論」


 影が言う。


「おまえは黙ってて」


「正論なのに」


 白昼局の職員が苦笑する。


「三倉くんの場合、保護対象でもあります。協力者でもあります。その境界は、まだ整理中です」


「便利に使われるやつでは」


「それを防ぐために文書化します」


 スーツの女性が言う。


「拒否権、休養権、学校生活優先、夜間活動の上限。全部入れます」


 戒十は少し驚いた。


「学校生活優先?」


「当然です」


 シンが言った。


「学校は辞めるな」


「辞めるなんて言ってません」


「夜へ逃げ込む顔をしている」


 戒十は言葉に詰まった。


 そう見えるのか。


 いや、見えるのだろう。


 夜のほうが、自分の変化を説明しやすい。


 VIOLET DRAGONにいれば、影と話しても奇異の目で見られにくい。


 落影回収に出れば、自分が特別になった意味を感じられる。


 昼の学校では、また普通の顔をしなければならない。


 日光は眩しい。


 教室の白い蛍光灯は痛い。


 クラスメイトの会話は遠い。


 それでも、逃げ込んではいけない。


 昼からも、夜からも。


 どちらか一方へ行くのではなく、両方を維持する。


 それが、今の自分に必要な手順なのだとわかってしまった。


「辞めません」


 戒十は言った。


「学校には行きます」


 影の戒十が足元で言う。


「夜も行く」


「条件つきで」


「面倒」


「共生は面倒なんだよ」


「知ってる」


 カウンターの男が笑った。


「もうちょい隠して話せないのか?」


「最近、隠すと余計に面倒になるので」


「それは正しい」


 若いギタリストが、紙コップの水を差し出す。


「三倉くん、今日の申告は?」


「今ですか」


「訓練って書いてあるので」


 戒十は少し嫌そうな顔をした。


 だが、拒まなかった。


「日光の疲れあり。左手の熱は弱い。血の匂い反応なし。影声あり。純に会いたがってる」


 店内が一瞬静かになる。


 影が、足元で大きく揺れた。


「そこまで言う?」


「申告」


「恥ずかしい」


「僕も恥ずかしい」


 カウンターの男が吹き出した。


 若いギタリストは腹を抱えた。


 スーツの女性は真顔でメモを取ろうとして、戒十に止められた。


「そこは記録しないでください」


「訓練記録としては有用です」


「有用でも駄目です」


 シンが言った。


「今のは記録しなくていい」


 戒十はほっとした。


 影も、少しだけ落ち着く。


 シンは続ける。


「ただし、本人には言え」


 戒十は固まった。


「本人?」


「水城に」


「それは」


「後回しにして、勝手に態度へ出すな」


 影が内側で小さく言う。


「正論」


「おまえ、今日は正論ばっかりだな」


「だって正しい」


 戒十は額を押さえた。


 店の中にまた笑いが起きる。


 それは以前のVIOLET DRAGONの笑いとは少し違っていた。


 リサが中心にいて、何もかもを軽く見せていた頃の笑いではない。


 傷の跡を避けきれず、それでも誰かが冗談を言い、誰かが拾い、誰かが少しだけ息をするための笑いだった。


 紫色の店は、同じではない。


 でも、終わってもいなかった。


     ◇


 夜遅く、仮営業の札を裏返すころ、戒十は店の外に出た。


 紫色のネオンは、まだ半分だけ点いている。


 アスファルトに落ちる影は、一つ。


 内側に、獣の輪郭。


 その影が、店の扉の前で少しだけ伸びた。


「ここにいる?」


 影の戒十が言った。


「何が」


「夜」


 戒十は店を振り返る。


 ひびの入った硝子。


 遮影布。


 半分だけ点いたネオン。


 リサのいないカウンター。


 シンの右腕のない影。


 書類を積み上げるスーツの女性。


 笑いながら椅子を直す若いギタリスト。


 ぶつぶつ言いながらグラスを拭くカウンターの男。


「いるな」


 戒十は答えた。


「でも、ここだけじゃない」


 影が揺れる。


「昼も?」


「昼も」


「学校、面倒」


「面倒」


「でも行く?」


「行く」


「純に会えるから?」


 戒十は少し黙った。


「それだけじゃない」


「でも、それもある」


「ある」


「申告?」


「今は誰に?」


「僕に」


 戒十は小さく笑った。


「純に会いたい」


 影が満足そうに揺れる。


「僕も」


「勝手に会いに行くなよ」


「行かない」


「本当か?」


「条件があるから」


「条件がなかったら?」


「行くかも」


「正直すぎる」


「共生だから」


 戒十は深く息を吐いた。


 夜の空気は、まだ少し冷たい。


 血の匂いはしない。


 落影の気配も、近くにはない。


 ただ、街のどこかに残っている小さな影のざわめきだけが、遠く聞こえる。


 それを追いたい気持ちはある。


 でも、今夜は追わない。


 学校の課題が残っている。


 明日の朝、起きなければならない。


 日光は眩しい。


 それでも、起きる。


 戒十はポケットからスマートフォンを取り出した。


 純へメッセージを送ろうとして、少し迷う。


 遅い時間だ。


 体調もまだ戻っていないはずだ。


 送らないほうがいいかもしれない。


 影が言う。


「送れ」


「夜遅い」


「短く」


「何て」


「会いたい」


「送れるか」


「じゃあ、明日学校行く、は?」


「それは報告として自然」


「本当は会いたい」


「知ってる」


 戒十は少し考え、短く打った。


 ――明日、学校行く予定。無理はしない。


 送信する前に、影が口を出す。


「冷たい」


「じゃあ何を足す」


「純も無理するな」


「それはあり」


 戒十は追記した。


 ――純も、無理しないで。


 送信。


 しばらくして、返事が来た。


 ――お互いに、です。


 戒十は画面を見て、小さく笑った。


 影も足元で揺れる。


「厳しい」


「よく言われるやつ」


「言われたい」


「本人に言え」


「君も」


「……そのうち」


「逃げた」


「今日は帰る」


 戒十はスマートフォンをしまった。


 VIOLET DRAGONのネオンが背後でちらつく。


 紫色の光が、彼の影にかすかに重なった。


 保護されるだけの場所ではない。


 逃げ込むだけの夜でもない。


 そこは、戻る場所の一つになった。


 そして、そこから出ていく場所にもなった。


 戒十は歩き出す。


 夜の店を背にして。


 明日の学校へ向かうために。


 足元の影は、同じ歩幅でついてきた。

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