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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第六章 夜明け
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第四節 忘れないで

 その夜、純はノートを閉じられなかった。


 机の上には、記録ノートが開いたまま置かれている。布を一枚かけたライトが、紙の上にやわらかい円を作っていた。強すぎない光。影を濃くしすぎず、消しもしない光。


 廊下の電気は点いている。


 ドアも少しだけ開いている。


 母は何も言わずにそうしてくれた。父も、夜更かしを責めなかった。ただ、寝る前に一度だけ部屋の前まで来て、「何かあったら呼びなさい」と言った。


 純は「大丈夫」と言いかけて、やめた。


 そして、「呼べるようにします」と答えた。


 父は少し困ったような顔をして、それでも頷いた。


 それから一時間ほど経っている。


 家の中は静かだった。冷蔵庫の低い音と、遠くを走る車の音だけが聞こえる。外の街灯がカーテンの隙間から入り、部屋の床に細い線を引いていた。


 純はその光の中に、自分の影を置いていた。


 ベッドに座ると、影は足元から少し横へ伸びる。右側はある。欠けていない。遅れてもいない。


 それを確認してから、ノートへ視線を戻す。


 書いた文字が並んでいる。


 急な消灯で右脇腹が冷える。


 花の香りでカオルコを思い出す。


 戒十の血の匂いに反応した。


 夢の中で白いワンピースの女が「忘れないで」と言った。


 そこまで書いたところで、ペンが止まっていた。


 忘れないで。


 その言葉が、夢のものだったのか、本当にどこかから届いたものだったのか、純にはわからない。


 カオルコは生きているのか。


 地下水脈へ落ちたあと、まだどこかにいるのか。


 それとも、あの声はただ再縫合のときに残った影紋の記録なのか。


 純の影に、ほんの少しだけ残っていた、白い花の匂いのようなものなのか。


 わからない。


 わからないまま、右脇腹が冷えた。


 純はペンを置き、包帯の上からそっと手を当てる。


 痛みは強くない。


 でも、そこだけ身体の中に夜が残っているみたいだった。


「……もう、いないんですよね」


 誰に向けた言葉でもない。


 自分に言い聞かせるための言葉だった。


 けれど、返事のように、部屋のライトがかすかに揺れた。


 風はない。


 エアコンも止めている。


 純は動きを止めた。


 足元を見る。


 自分の影が、床にある。


 右側もある。


 ただ、その右脇腹のあたりから、細い煙のようなものが立ち上っていた。


 黒ではない。


 紫でもない。


 光に溶けそうなほど薄い影。


 それが、純の影からゆっくり剥がれていく。


 純は息を吸った。


 叫ばなかった。


 立ち上がりもしなかった。


 逃げたいと思った。


 母を呼びたいと思った。


 戒十へ連絡したいと思った。


 けれど、今それをすれば、この影が何なのか見ないまま終わってしまう気がした。


 純は自分の膝を強く掴む。


「……症状」


 小さく呟いた。


「右脇腹の冷感。影の右側から、薄い残香の分離。花の匂い、少し。呼吸、乱れています。でも、意識はあります」


 言葉にすると、影の揺れが少しだけ落ち着いた。


 純は机のライトを動かさない。


 光を増やさない。


 消しもしない。


 そのまま見ている。


 薄い影は、壁へ移った。


 白い壁に、小さな女の影が映る。


 カオルコそのものではなかった。


 輪郭はぼやけ、髪も顔もはっきりしない。ワンピースの裾のような形が揺れているだけで、手足も影絵のように細い。


 それでも、純にはわかった。


 これは、カオルコの形をしている。


 正確には、カオルコが残したものの形をしている。


 壁の小さな影は、純を見た。


 顔はない。


 目もない。


 それでも、見られているとわかった。


 花の匂いが、ほんの少し濃くなる。


 純の喉が詰まった。


 右脇腹が冷える。


 あのときの痛みを思い出す。


 影を噛まれた瞬間。


 血は出なかった。


 でも、身体の中から自分の場所を奪われるような痛みだった。


 冷たくて、怖くて、自分の影が自分ではなくなるかもしれない恐怖。


 その原因が、今、壁に小さく映っている。


 女の影が、かすかに揺れた。


「忘れないで」


 声は、ほとんど音になっていなかった。


 耳で聞いたのではない。


 影の縫合痕の奥から、言葉の形だけが浮かんできたようだった。


 純は唇を噛んだ。


 怒りが湧いた。


 怖さより先に、怒りが来た。


 どうして。


 どうして自分に言うのか。


 忘れられるわけがない。


 忘れたくても、暗い場所で影を確認してしまう。


 急に電気が消えただけで息が詰まる。


 花の匂いで身体が冷える。


 戒十の血の匂いにさえ反応してしまう。


 あの夜のことを、どうやって忘れろと言うのか。


 いや。


 違う。


 忘れろ、ではない。


 忘れないで。


 その言葉は、自分が消えることへの恐怖から来ているのかもしれなかった。


 カオルコは、器にされることを拒んだ。


 誰かの妹でも、娘でも、母の肉体でもなく、自分の名前で残ろうとした。


 そのことを、純は知っている。


 リサが彼女を呼んだことも。


 カオルコが消えたくないと願ったことも。


 クイーンを内側から止めたことも。


 知っている。


 だからといって。


 純はゆっくり立ち上がった。


 足元の影が、遅れずについてくる。


 右側もある。


 純は壁の小さな影と向き合った。


「忘れません」


 声は震えた。


 けれど、言えた。


 小さな影が、揺れを止める。


「あなたが、カオルコだったことは忘れません」


 純は続けた。


「器じゃなかったことも。誰かに作られて、誰かに使われて、それでも自分の名前で残ろうとしたことも。最後に、クイーンを止めたことも」


 壁の影が、少しだけ濃くなる。


 純の胸が痛む。


 ここで終わらせれば、きれいな言葉になる。


 かわいそうだった。


 存在していた。


 忘れない。


 それで終わりにすれば、痛みを美しくまとめられる。


 でも、それは違う。


 純は右脇腹に手を当てた。


 冷たい。


 この冷たさは、まだここにある。


「でも、許したわけではありません」


 はっきり言った。


 壁の影が揺れた。


「私は、あなたに傷つけられました。怖かったです。痛かったです。今も暗いところが怖いです。花の匂いで息が止まります。戒十の血の匂いにも反応します」


 言葉にするたび、胸の奥が熱くなる。


 涙が出そうだった。


 でも、泣くより先に言わなければならなかった。


「あなたを理解することと、あなたを許すことは違います」


 壁の影は動かない。


 ただ、薄く揺れている。


「だから、忘れません」


 純は言った。


「でも、許したわけではありません」


 沈黙が落ちた。


 廊下の光が、部屋の床に細い線を作っている。


 机のライトの布が、少しだけ揺れた。


 壁の小さな女の影は、しばらくそこにいた。


 表情はない。


 声もない。


 けれど、純には、少しだけ笑ったように見えた。


 それが本当にカオルコの反応なのか、純の記憶が見せたものなのかはわからない。


 次の瞬間、影は崩れた。


 黒い花びらのような細かい影になり、壁から離れて、空気に溶ける。


 花の匂いが薄くなる。


 右脇腹の冷たさも、少しだけ遠のいた。


 完全に消えたわけではない。


 奥に、まだ小さな冷えが残っている。


 でも、さっきまでのように、自分の影から何かが剥がれていく感覚はなかった。


 純はしばらく壁を見つめていた。


 それから、膝の力が抜けた。


 ベッドの端へ座り込む。


 泣きそうだった。


 泣いてもよかった。


 けれど、その前に、ノートへ手を伸ばした。


 震える手でペンを持つ。


 日付の下へ、新しい項目を書く。


 ――影から残香らしきものが分離。


 そこで一度、手が止まる。


 残香らしきもの。


 本当にそうなのかはわからない。


 でも、今はそう書くしかない。


 ――壁に小さな女の影。カオルコの形。声:「忘れないで」。


 純は息を整えた。


 次の行を書く。


 ――返答:「忘れません。でも、許したわけではありません」。


 その文字を書いた瞬間、涙が落ちた。


 インクが少し滲む。


 純は慌てて手の甲で拭おうとして、やめた。


 滲んだままにした。


 泣いたことも、残しておいていい。


 最後に、ページの下へ大きめに書く。


 ――忘れないことと、許すことは違う。


 書き終えたあと、純はペンを置いた。


 部屋は静かだった。


 影は足元にある。


 右側もある。


 完全に元通りではない。


 けれど、今の影は自分のものだと思えた。


 少しだけ。


 ほんの少しだけ。


 純はノートを閉じなかった。


 開いたまま、机の上へ置いておく。


 もしまた夢を見るなら、起きてから書く。


 もしまた花の匂いがしたら、どのくらい怖かったか書く。


 もしまた忘れないでと聞こえたら、自分がどう答えたか、もう一度書く。


 純はベッドに横になった。


 廊下の光は、まだ細く差し込んでいる。


 目を閉じる前に、彼女は壁を見た。


 小さな女の影は、もう映っていない。


 ただ、薄い黒い花びらのような痕が、一瞬だけ残っているように見えた。


 瞬きをすると、それも消えた。


「忘れません」


 純は小さく言った。


 それから、少し間を置いて、もう一度言った。


「でも、許したわけではありません」


 その言葉を最後に、部屋は静かになった。


 影は、純の足元から離れなかった。

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