第四節 忘れないで
その夜、純はノートを閉じられなかった。
机の上には、記録ノートが開いたまま置かれている。布を一枚かけたライトが、紙の上にやわらかい円を作っていた。強すぎない光。影を濃くしすぎず、消しもしない光。
廊下の電気は点いている。
ドアも少しだけ開いている。
母は何も言わずにそうしてくれた。父も、夜更かしを責めなかった。ただ、寝る前に一度だけ部屋の前まで来て、「何かあったら呼びなさい」と言った。
純は「大丈夫」と言いかけて、やめた。
そして、「呼べるようにします」と答えた。
父は少し困ったような顔をして、それでも頷いた。
それから一時間ほど経っている。
家の中は静かだった。冷蔵庫の低い音と、遠くを走る車の音だけが聞こえる。外の街灯がカーテンの隙間から入り、部屋の床に細い線を引いていた。
純はその光の中に、自分の影を置いていた。
ベッドに座ると、影は足元から少し横へ伸びる。右側はある。欠けていない。遅れてもいない。
それを確認してから、ノートへ視線を戻す。
書いた文字が並んでいる。
急な消灯で右脇腹が冷える。
花の香りでカオルコを思い出す。
戒十の血の匂いに反応した。
夢の中で白いワンピースの女が「忘れないで」と言った。
そこまで書いたところで、ペンが止まっていた。
忘れないで。
その言葉が、夢のものだったのか、本当にどこかから届いたものだったのか、純にはわからない。
カオルコは生きているのか。
地下水脈へ落ちたあと、まだどこかにいるのか。
それとも、あの声はただ再縫合のときに残った影紋の記録なのか。
純の影に、ほんの少しだけ残っていた、白い花の匂いのようなものなのか。
わからない。
わからないまま、右脇腹が冷えた。
純はペンを置き、包帯の上からそっと手を当てる。
痛みは強くない。
でも、そこだけ身体の中に夜が残っているみたいだった。
「……もう、いないんですよね」
誰に向けた言葉でもない。
自分に言い聞かせるための言葉だった。
けれど、返事のように、部屋のライトがかすかに揺れた。
風はない。
エアコンも止めている。
純は動きを止めた。
足元を見る。
自分の影が、床にある。
右側もある。
ただ、その右脇腹のあたりから、細い煙のようなものが立ち上っていた。
黒ではない。
紫でもない。
光に溶けそうなほど薄い影。
それが、純の影からゆっくり剥がれていく。
純は息を吸った。
叫ばなかった。
立ち上がりもしなかった。
逃げたいと思った。
母を呼びたいと思った。
戒十へ連絡したいと思った。
けれど、今それをすれば、この影が何なのか見ないまま終わってしまう気がした。
純は自分の膝を強く掴む。
「……症状」
小さく呟いた。
「右脇腹の冷感。影の右側から、薄い残香の分離。花の匂い、少し。呼吸、乱れています。でも、意識はあります」
言葉にすると、影の揺れが少しだけ落ち着いた。
純は机のライトを動かさない。
光を増やさない。
消しもしない。
そのまま見ている。
薄い影は、壁へ移った。
白い壁に、小さな女の影が映る。
カオルコそのものではなかった。
輪郭はぼやけ、髪も顔もはっきりしない。ワンピースの裾のような形が揺れているだけで、手足も影絵のように細い。
それでも、純にはわかった。
これは、カオルコの形をしている。
正確には、カオルコが残したものの形をしている。
壁の小さな影は、純を見た。
顔はない。
目もない。
それでも、見られているとわかった。
花の匂いが、ほんの少し濃くなる。
純の喉が詰まった。
右脇腹が冷える。
あのときの痛みを思い出す。
影を噛まれた瞬間。
血は出なかった。
でも、身体の中から自分の場所を奪われるような痛みだった。
冷たくて、怖くて、自分の影が自分ではなくなるかもしれない恐怖。
その原因が、今、壁に小さく映っている。
女の影が、かすかに揺れた。
「忘れないで」
声は、ほとんど音になっていなかった。
耳で聞いたのではない。
影の縫合痕の奥から、言葉の形だけが浮かんできたようだった。
純は唇を噛んだ。
怒りが湧いた。
怖さより先に、怒りが来た。
どうして。
どうして自分に言うのか。
忘れられるわけがない。
忘れたくても、暗い場所で影を確認してしまう。
急に電気が消えただけで息が詰まる。
花の匂いで身体が冷える。
戒十の血の匂いにさえ反応してしまう。
あの夜のことを、どうやって忘れろと言うのか。
いや。
違う。
忘れろ、ではない。
忘れないで。
その言葉は、自分が消えることへの恐怖から来ているのかもしれなかった。
カオルコは、器にされることを拒んだ。
誰かの妹でも、娘でも、母の肉体でもなく、自分の名前で残ろうとした。
そのことを、純は知っている。
リサが彼女を呼んだことも。
カオルコが消えたくないと願ったことも。
クイーンを内側から止めたことも。
知っている。
だからといって。
純はゆっくり立ち上がった。
足元の影が、遅れずについてくる。
右側もある。
純は壁の小さな影と向き合った。
「忘れません」
声は震えた。
けれど、言えた。
小さな影が、揺れを止める。
「あなたが、カオルコだったことは忘れません」
純は続けた。
「器じゃなかったことも。誰かに作られて、誰かに使われて、それでも自分の名前で残ろうとしたことも。最後に、クイーンを止めたことも」
壁の影が、少しだけ濃くなる。
純の胸が痛む。
ここで終わらせれば、きれいな言葉になる。
かわいそうだった。
存在していた。
忘れない。
それで終わりにすれば、痛みを美しくまとめられる。
でも、それは違う。
純は右脇腹に手を当てた。
冷たい。
この冷たさは、まだここにある。
「でも、許したわけではありません」
はっきり言った。
壁の影が揺れた。
「私は、あなたに傷つけられました。怖かったです。痛かったです。今も暗いところが怖いです。花の匂いで息が止まります。戒十の血の匂いにも反応します」
言葉にするたび、胸の奥が熱くなる。
涙が出そうだった。
でも、泣くより先に言わなければならなかった。
「あなたを理解することと、あなたを許すことは違います」
壁の影は動かない。
ただ、薄く揺れている。
「だから、忘れません」
純は言った。
「でも、許したわけではありません」
沈黙が落ちた。
廊下の光が、部屋の床に細い線を作っている。
机のライトの布が、少しだけ揺れた。
壁の小さな女の影は、しばらくそこにいた。
表情はない。
声もない。
けれど、純には、少しだけ笑ったように見えた。
それが本当にカオルコの反応なのか、純の記憶が見せたものなのかはわからない。
次の瞬間、影は崩れた。
黒い花びらのような細かい影になり、壁から離れて、空気に溶ける。
花の匂いが薄くなる。
右脇腹の冷たさも、少しだけ遠のいた。
完全に消えたわけではない。
奥に、まだ小さな冷えが残っている。
でも、さっきまでのように、自分の影から何かが剥がれていく感覚はなかった。
純はしばらく壁を見つめていた。
それから、膝の力が抜けた。
ベッドの端へ座り込む。
泣きそうだった。
泣いてもよかった。
けれど、その前に、ノートへ手を伸ばした。
震える手でペンを持つ。
日付の下へ、新しい項目を書く。
――影から残香らしきものが分離。
そこで一度、手が止まる。
残香らしきもの。
本当にそうなのかはわからない。
でも、今はそう書くしかない。
――壁に小さな女の影。カオルコの形。声:「忘れないで」。
純は息を整えた。
次の行を書く。
――返答:「忘れません。でも、許したわけではありません」。
その文字を書いた瞬間、涙が落ちた。
インクが少し滲む。
純は慌てて手の甲で拭おうとして、やめた。
滲んだままにした。
泣いたことも、残しておいていい。
最後に、ページの下へ大きめに書く。
――忘れないことと、許すことは違う。
書き終えたあと、純はペンを置いた。
部屋は静かだった。
影は足元にある。
右側もある。
完全に元通りではない。
けれど、今の影は自分のものだと思えた。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
純はノートを閉じなかった。
開いたまま、机の上へ置いておく。
もしまた夢を見るなら、起きてから書く。
もしまた花の匂いがしたら、どのくらい怖かったか書く。
もしまた忘れないでと聞こえたら、自分がどう答えたか、もう一度書く。
純はベッドに横になった。
廊下の光は、まだ細く差し込んでいる。
目を閉じる前に、彼女は壁を見た。
小さな女の影は、もう映っていない。
ただ、薄い黒い花びらのような痕が、一瞬だけ残っているように見えた。
瞬きをすると、それも消えた。
「忘れません」
純は小さく言った。
それから、少し間を置いて、もう一度言った。
「でも、許したわけではありません」
その言葉を最後に、部屋は静かになった。
影は、純の足元から離れなかった。




