第三節 右腕のない影
シンの右腕は、残らなかった。
正確には、最初の数日はそこにあった。
黒く沈んだ皮膚と、感覚のない指と、影を失った肉体だけが、医療用の固定具に吊られていた。医師たちは感染と壊死の広がりを止めるために何度も処置をした。白昼局の医療班も、VIOLET DRAGONの医師も、同じ結論を出すまでに時間をかけた。
だが、影の右腕が戻ることはなかった。
影のない腕は、肉体だけで生き残れない。
その事実を、誰もはっきり口にしたがらなかった。
シンだけが、最初から知っていたような顔をしていた。
処置が終わった後、彼の右肩から先には、義手を装着するための仮固定具がつけられた。包帯と黒い固定布と、白い樹脂の仮ソケット。まだ本格的な義手ではない。日常動作を補助するための、最低限のものだった。
地面に落ちた影には、右腕が映らなかった。
義手をつけても同じだった。
白い仮固定具は肉体の側にある。
けれど、影にはない。
左腕だけの影が、床へ静かに落ちている。
それを見るたび、周囲の人間のほうが目を逸らした。
シンは逸らさなかった。
自分の影を見て、短く言っただけだった。
「軽くなったな」
誰も笑わなかった。
彼自身も、笑わせるつもりで言ったわけではなかった。
◇
その日の午後、VIOLET DRAGONの地上店舗には、まだ営業再開の札は出ていなかった。
窓硝子には内側から遮影布が貼られ、カウンターの奥には壊れた照明器具や割れたグラス、地下から運び出された医療器具が積まれている。
以前なら、リサが勝手に選んだ紫色の小物や、妙に古い音楽機材や、誰が買ったのかわからない猫の置物が雑然と並んでいた場所だった。
今は、少し広すぎる。
リサがいないだけで、店の空気が抜けたように見えた。
その中央のテーブルに、シンは座っていた。
左手だけで書類を押さえ、右肩には黒い固定具。
彼の前には、VIOLET DRAGONの住人たちが集まっている。
カウンターの男。
医師。
若いギタリスト。
スーツ姿の女性。
ほかにも、普段は奥にいてあまり顔を見せない離影者たちが数人、壁際に立っていた。
戒十と純は、入口に近い席に並んで座っている。
純はまだ長く立っていられない。
戒十も日光が残る時間帯は少し眩しそうで、足元の影を何度も確認している。
だが、二人ともそこにいた。
シンは全員を見渡した。
「俺は、VIOLET DRAGONの実働責任者を退く」
店内の空気が、一瞬で硬くなった。
カウンターの男が真っ先に声を上げる。
「は?」
「戦えない人間が指揮を取るべきではない」
シンの声は平坦だった。
「影縫刀も、以前のようには使えない。右腕の影がない以上、縫界も維持できない。現場で判断を誤れば、住人を死なせる」
医師が眉を寄せる。
「判断を誤るのと、右腕がないのは別の話です」
「現場では別ではない」
「そうやって、いつも結論を急ぐ」
医師の声に、苛立ちより疲労が滲んでいた。
シンは続けようとした。
だが、その前に戒十が口を開いた。
「戦えるかどうかだけで決めるなら、それは白昼局と同じです」
店内が少し静かになる。
シンは戒十を見る。
戒十の声は強かった。
だが、怒鳴ってはいない。
「処分できるか。抑え込めるか。現場で役に立つか。それだけで人の役割を決めるなら、シンさんが嫌ったやり方と同じになります」
「現実の話だ」
「現実だからです」
戒十は言った。
「現実に、リサさんはいません。現実に、シンさんの右腕は戻りません。現実に、この店の人たちは残っています。だから、シンさん一人で“退く”って決めるのは違うと思います」
シンの目が細くなる。
「おまえに決定権はない」
「はい」
戒十は頷いた。
「だから、僕も一人では決めません」
純が、静かに続けた。
「それ、また一人で決めています」
シンの視線が、純へ移る。
純は膝の上に記録ノートを置いていた。
今日は開いていない。
けれど、持ってきている。
「シンさんが退くべきかどうかを、シンさんだけで決めています」
「俺の役割だ」
「その役割を、誰が決めたんですか」
その問いに、シンはすぐに答えなかった。
以前にも似た問いを投げられたことがある。
必要だと決めた人の名前を出してください。
全部背負わないでください。
あの夜、縫界を展開するとき、彼は初めて「俺一人では無理だ」と言った。
そして、生き残った。
右腕は失った。
だが、自分自身まで失わせる必要はなかった。
その言葉を、自分で言った。
だからこそ、今ここで「俺が決める」とだけ言うのは、少し難しくなっていた。
シンは左手で書類の端を押さえた。
「戦闘指揮は」
「それも含めて、みんなで考えるべきです」
純は言った。
「リサさんがいない今、シンさん一人が組織の将来を決めるのは、ほかの人の選択肢を奪うことになります」
カウンターの男が、低く唸った。
「……ま、そうだな。勝手に退かれても困る」
シンは彼を見る。
「困る?」
「困るだろ。地上店舗の再建、誰が現場を仕切るんだ。俺がやるけど、全部は無理だ。仕入れ先も、修理業者も、近所への説明もある。リサがいたら全部ノリで誤魔化すけど、俺にはあの顔と口はない」
若いギタリストが手を上げる。
「連絡係なら、俺やります。白昼局との正式な連絡とかは無理ですけど、住人への伝達とか、見回り班の予定とか。あと、若い離影者相手なら、俺のほうが話しやすい場合もあると思います」
スーツ姿の女性が眼鏡を上げた。
「白昼局との交渉資料は、私が作成します。協定文案、治療同意書、影害登録の拒否権、監視と支援の境界線。リサさんなら面倒だから後回しにした部分も、今回は文書化します」
カウンターの男が小声で言う。
「あいつ、後回し多かったよな」
「多かったです」
「本人がいたら怒るぞ」
「いても言います」
その会話に、何人かが少しだけ笑った。
笑いはすぐに消えた。
だが、店の空気がほんの少し動いた。
医師が続ける。
「診療体制は私が再構築します。地下施設は使えませんが、地上奥と協力医療機関で最低限の処置は可能です。影固定剤の在庫管理も引き受けます。ただし、戦闘後の無断処置は禁止にします」
シンが眉を寄せる。
「俺に言っているのか」
「主に」
「……了解」
壁際にいた離影者の一人が、遠慮がちに言った。
「落影回収の補助なら、できます。前線は無理でも、遮影袋の準備とか、周辺の人払いとか」
別の住人も続ける。
「新人の申告訓練なら手伝える。自分も昔、暴れかけたから」
「夜間の電話番、交代制にしませんか」
「リサさん一人で受けすぎてたんですよ」
「シンさんもですけど」
「それはそう」
シンは黙っていた。
責められているわけではない。
だが、逃げ道は塞がれていく。
自分一人が退けば済む。
自分一人が責任を負えば済む。
そういう形には、もう誰も乗ってこない。
戒十が言った。
「シンさんができないことは、誰かがやればいいんです」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないです」
戒十は真っ直ぐ返した。
「でも、シンさんは僕に言いました。止まる練習をしろって。傷つけない練習をしろって。だったら、シンさんも練習してください」
「何の」
純が答えた。
「頼む練習です」
シンは、少しだけ嫌そうな顔をした。
それを見て、カウンターの男が笑いそうになり、堪えた。
若いギタリストは堪えきれず、少し吹き出した。
シンがそちらを見る。
「何だ」
「いえ、すみません。シンさんにも練習があるんだなと思って」
「ある」
純は真面目に言った。
「誰にでもあります」
シンは純を見る。
彼女はまだ完全に回復していない。
顔色もよくない。
けれど、声はしっかりしていた。
右脇腹に傷を残したまま、それでも自分の状態を言葉にする少女。
その言葉から逃げることは、シンにはできなかった。
長い沈黙のあと、シンは左手で書類を閉じた。
そして、住人たちを見た。
「地上店舗の再建」
カウンターの男を見る。
「頼む」
男は一瞬だけ目を丸くした。
それから、乱暴に頭を掻いた。
「……おう。頼まれた」
シンは医師を見る。
「診療体制の再構築」
「はい」
「頼む」
「引き受けます」
若いギタリストへ。
「連絡係」
「はい!」
「頼む」
「はい、頼まれました!」
「返事が大きい」
「すみません!」
「そこまで謝らなくていい」
スーツ姿の女性へ。
「白昼局との交渉資料」
「承知しました」
「頼む」
「記録しました」
「それはしなくていい」
「します」
壁際の住人たちへ。
「落影回収補助、電話番、新人の申告訓練。できる範囲で分担してくれ」
数人が頷いた。
誰かが小さく「頼まれた」と呟いた。
その言葉が、店内のあちこちに広がる。
頼まれた。
任された。
押しつけられたのではなく。
信じきられたのでもなく。
今できる範囲を、渡された。
シンは最後に、戒十と純を見た。
「三倉」
「はい」
「新規離影者の相談に入るときは、必ず申告手順を守れ。独断で接触するな」
「まだ僕、何も引き受けるって言ってません」
「言う顔をしていた」
「そんな顔あります?」
影の戒十が足元で揺れた。
「してた」
戒十が足元を見る。
「おまえまで」
純が少し笑った。
シンは淡々と言う。
「頼む」
戒十は口を閉じた。
その短い言葉が、思ったより重かった。
「……できる範囲で」
「それでいい」
シンは純へ視線を移す。
「水城」
「はい」
「無理はするな」
純は少しだけ眉を上げた。
「シンさんに言われると、説得力が複雑です」
店内で、今度は何人かが本当に笑った。
シンは無表情のまま言う。
「俺も練習中だ」
純は頷いた。
「では、私も練習中です」
「ならいい」
その会話で、張り詰めていたものが少し緩んだ。
リサがいれば、きっと大げさに拍手しただろう。
あるいは、茶化して、笑わせて、最後に少しだけ泣いただろう。
誰もそれを口にしなかった。
でも、全員が少しだけ同じことを考えていた。
◇
会議が終わったあと、シンは店の奥に残った。
地上店舗の照明は、まだ仮のものだ。
強すぎない琥珀色のライトが、カウンターの上だけを照らしている。
床に落ちたシンの影には、やはり右腕がない。
彼はしばらく、その影を見ていた。
それから、左手で内ポケットを探った。
取り出したのは、古い手帳だった。
処分記録。
彼がかつて止めた離影者、救えなかった者、斬るしかなかった者の名前を書き続けてきた手帳。
右手で書いていた文字は、小さく、硬く、乱れが少なかった。
今は右手がない。
シンは左手でペンを持った。
慣れない指が、うまく動かない。
ペン先が紙の上で震える。
最初の線は、斜めに歪んだ。
彼は眉を寄せた。
書き直そうとして、やめた。
これはこれで、今の自分の字だ。
ページの上に、ゆっくり名前を書く。
長瀬透。
以前、彼が止めた男の名前。
もう何度も書いたはずの名前。
それでも、もう一度書いた。
右手ではなく、左手で。
字は歪んでいた。
線は震えていた。
けれど、読めた。
シンはその下に、少し間を空けてもう一行書いた。
必要という言葉で消さない。
文字はさらに歪んだ。
それでも書いた。
背後から、カウンターの男が声をかけた。
「手伝うか」
シンは振り返らない。
「これは俺が書く」
「そう言うと思った」
「だが」
シンは少しだけ言葉を止めた。
「照明を、もう少し下げてくれ。強い」
カウンターの男は、しばらく黙った。
それから、照明のスイッチへ向かう。
「頼まれた」
ライトが少し落ちる。
シンの影が、床で濃くなる。
右腕のない影。
それでも、そこにある影。
シンは左手で手帳を閉じた。
以前と同じ形ではない。
同じ役割にも戻れない。
だが、書くことはやめない。
頼むことも、覚えなければならない。
それが、右腕のない影と生きていく最初の手順だった。




