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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第六章 夜明け
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第二節 純の影

 水城純が家へ戻った日の夕方、玄関の明かりはいつもより少し早く点いていた。


 母がそうしてくれたのだと、靴を脱ぐ前にわかった。


 廊下の奥まで、淡い黄色の光が続いている。暗い場所を作らないように、階段の途中の小さな灯りまで点いていた。普段なら「電気代がもったいない」と言われるような明るさだったが、その日は誰もそれを口にしなかった。


 純は玄関で立ち止まり、自分の足元を見た。


 影がある。


 右側も欠けていない。


 少しだけ遅れているように見えたが、瞬きをすると、影はきちんと自分の足元に重なっていた。


「純?」


 背後で母が声をかける。


 純は反射的に言いかけた。


 大丈夫。


 けれど、その言葉は喉の手前で止まった。


 大丈夫かどうか、まだ確認していない。


 歩ける。


 息はできる。


 右脇腹は冷たい。


 でも、倒れそうではない。


 玄関の影も、自分のものに見える。


「……今は、平気」


 純はそう言った。


 母は一瞬だけ目を見開いた。


 それから、いつものように笑おうとして、少し失敗した顔になった。


「今は、なのね」


「うん」


「じゃあ、平気じゃなくなったら言って」


「……言えるようにします」


「練習?」


「練習」


 母は小さく頷いた。


「じゃあ、付き合う」


 その言い方が思っていたより軽くて、純は少しだけ息を吐けた。


 家の匂いがする。


 洗剤と、炊飯器の湯気と、朝に父が飲んだコーヒーの残り香。


 その中に、花の匂いはない。


 それだけで、少し安心した。


 だが、洗面所に入った瞬間、蛍光灯が一度だけ点滅した。


 ぱち、と音がする。


 光が消えたのは、ほんの一瞬だった。


 けれど、純の右脇腹が冷えた。


 包帯の下、影咬の痕がある場所。


 そこへ、氷の細い針を差し込まれたような感覚が走る。


 息が詰まった。


 洗面台の鏡の中で、自分の影の右側が欠けたように見えた。


 純は洗面台の縁を掴んだ。


 冷たい陶器。


 流しっぱなしの水の音。


 自分の手。


 ちゃんと、ここにある。


「純」


 母が入口に立つ。


 純は、また「大丈夫」と言いそうになった。


 止める。


 考える。


 今、何が起きているのか。


「電気が暗くなって、びっくりした」


 純はゆっくり言った。


「右脇腹が冷えた。でも、今は戻ってきています」


 母は何も言わず、洗面所の外に立っていた。


 入ってこない。


 触らない。


 ただ、そこにいる。


 それがありがたかった。


「廊下の電気、夜もつけておこうか」


「お願いします」


 お願いします、と言うのに、思ったより勇気がいった。


 母は頷いた。


「わかった」


 純は蛇口を閉めた。


 水の音が止まる。


 自分の影は、洗面台の下に落ちていた。


 右側も、ある。


     ◇


 夕食の席で、父はしばらく何も聞かなかった。


 味噌汁。


 焼き魚。


 ほうれん草のおひたし。


 白いご飯。


 いつもの献立に近いのに、茶碗を持つ手が少し震えた。


 日常へ戻るとは、もっと楽なことだと思っていた。


 だが、普通の食卓に座るだけで、胸の奥がざわついた。


 全部を話すことはできない。


 街の影が湾岸へ伸びたこと。


 戒十の影が獣の輪郭を持っていること。


 リサが落ちたこと。


 カオルコが自分を噛んだこと。


 クイーンの声。


 夜の王の救済。


 そんなものを、この食卓へ置くことはできない。


 けれど、何もなかったことにもできなかった。


 父が箸を置いた。


「どこまで聞いていい」


 純は、少し驚いて顔を上げた。


 何があった、と責めるのではなく。


 どこまで聞いていい、と尋ねてくれた。


 だから、答えられた。


「全部は、話せません」


 父は頷いた。


「うん」


「でも、危険な事件に巻き込まれました。事故って報道されていますけど、ただの事故ではないです。怪我もしました。怖い思いもしました」


 母が箸を握りしめる。


 父は黙って聞いていた。


「しばらく、夜が怖いです。急に暗くなるのも、強い光も、少し苦手です。花の匂いも……駄目なものがあります」


 花、と言った瞬間、白いワンピースの影が脳裏をよぎった。


 お姉さま。


 純さん。


 忘れないで。


 まだ夢で聞いただけの声。


 現実ではない。


 でも、身体は現実のように反応する。


 純は右脇腹へ手を添えた。


「学校には戻りたいです」


 母が顔を上げる。


「怖いのに?」


「怖いです。でも、戻りたい」


 父は少し長く沈黙した。


 それから言った。


「休む選択もある」


「はい」


「戻る選択もある」


「はい」


「どちらにしても、一人で決めないこと」


 その言葉に、純は息を止めた。


 一人で決めない。


 自分が戒十へ言ってきたことだった。


 シンへも言った。


 必要だと決めた人の名前を出してください、と。


 今度は、自分の番だった。


「……はい」


 純は頷いた。


「勝手に一人で抱えないようにします」


 父は頷いた。


「約束だ」


「約束します」


 母が、少し涙ぐみながら笑った。


「ご飯、少しでも食べられそう?」


 純は茶碗を見る。


 食欲はあまりない。


 けれど、味噌汁の匂いは怖くなかった。


 これは家の匂いだ。


「少しなら」


「少しでいいよ」


 純は箸を持った。


 右脇腹はまだ冷たい。


 でも、箸は持てる。


 それを、今は大丈夫と呼んでもいいのかもしれない。


     ◇


 翌日の午後、戒十が荷物を届けに来た。


 玄関先だけ。


 母が少し離れたところにいて、父は仕事で不在だった。


 戒十は、以前より少し眩しそうに立っていた。まだ日が残っている時間で、玄関の外の光が白く強い。彼の足元には、ひとつの影が落ちている。


 ただし、その内側に、獣の輪郭が重なって見えた。


 純はそれを見て、少しだけ息を呑んだ。


 戒十も気づいたらしい。


「怖い?」


 すぐに聞いてきた。


 その聞き方が、以前と違っていた。


 逃げる準備をしている声ではない。


 答えを先に決めている声でもない。


 ただ、確認する声だった。


 純は自分の影を見た。


 右側はある。


 息もできる。


「少し」


 正直に答えた。


 戒十の表情が痛む。


 純は続ける。


「でも、見ないふりをしたい怖さではないです」


「それ、難しい」


「私も言ってから思いました」


 戒十が少しだけ笑う。


 その拍子に、彼の手の甲の小さな傷から、乾いた血の匂いがした。


 本当にわずかだった。


 普通なら気づかないほどの匂い。


 けれど、純の身体は反応した。


 右脇腹が、ひやりと冷える。


 喉の奥に、知らない空腹のようなものが一瞬だけ浮かんだ。


 欲しい、ではない。


 でも、反応した。


 純は思わず一歩下がった。


 戒十がすぐに手を引いた。


「ごめん」


「待って」


 純は息を整える。


 ここで黙ると、あとで怖くなる。


 ここで「大丈夫」と言うと、記録できなくなる。


「血の匂いに、反応しました」


 戒十の顔が強張る。


 影の内側にある獣の輪郭も、ぴくりと動いた。


「僕の?」


「たぶん」


「離れたほうがいい?」


 純は考える。


 右脇腹は冷たい。


 でも、強くはない。


 呼吸は戻っている。


 自分の影は、足元にある。


「今は、この距離なら平気です」


「今は」


「はい。今は」


 戒十は頷いた。


「記録する?」


 純は少しだけ目を丸くした。


 それから、笑いそうになって、恥ずかしくなった。


「します」


「僕も?」


「戒十も、してください」


「わかった」


 彼は真面目に頷いた。


 その足元で、影が小さく揺れる。


「影の戒十も」


 純が言うと、戒十は少し困った顔をした。


 影が、本人より一瞬早く頷いた。


「します」


 声は聞こえない。


 けれど、純にはそう言ったように見えた。


 彼女は頷いた。


「お願いします」


 戒十が荷物を差し出す。


 学校から預かったプリントと、図書室で借りっぱなしになっていた本と、純の記録ノートだった。


 ノートは、薄い封筒に入れられていた。


「リサさんの字で、付箋がありました」


 戒十は言った。


 純の胸が痛む。


「何て」


「“捨てないこと。捨てるなら、自分で決めること”って」


 リサらしい。


 軽いようで、逃げ道を塞ぐ言い方。


 純は封筒を受け取った。


「捨てません」


「うん」


「たぶん、恥ずかしいことも書いてありますけど」


「……僕も聞いたから」


「忘れてください」


「無理」


「努力してください」


「努力はする」


「影の戒十も」


 戒十は足元を見た。


「努力するって」


「本当ですか」


「たぶん」


「信用は保留します」


 戒十が小さく笑った。


「厳しい」


「よく言われます」


 その会話は短かった。


 それ以上、二人は踏み込まなかった。


 今はまだ、玄関先で荷物を受け取るだけで十分だった。


 戒十が帰る前に、純は一度だけ言った。


「届けてくれて、ありがとう」


「うん」


「血の匂いのことは、戒十のせいにしているわけじゃありません」


「わかってる」


「でも、反応はしました」


「うん」


「だから、次からも言います」


「言って」


 その返事が、思っていたより自然だったので、純は少しだけ安心した。


 戒十は帰っていく。


 夕方の光の中で、彼の影は本人と同じ歩幅で伸びていた。


 純はその影が曲がり角を消えるまで見送った。


     ◇


 その夜、純は記録ノートを開いた。


 机のライトには、薄い布をかけてある。


 強い光はまだ苦手だった。


 カーテンは閉めた。


 鏡には、布をかけたままにしている。


 廊下の電気は点いていて、ドアは少しだけ開いている。


 以前なら落ち着かなかった。


 今は、細く差し込む光がありがたかった。


 ノートの最初のほうには、あの治療の記録が残っている。


 自分で書いた同意。


 症状。


 痛み。


 怖い、逃げたい、必要とされたいという言葉。


 読み返すと、顔が熱くなった。


 あの場にいた全員が聞いていた。


 戒十も。


 影の戒十も。


 リサも。


 シンも。


 思い出すだけで、布団に潜り込みたくなる。


 けれど、消さなかった。


 あれは、自分の影を戻すために必要だった言葉だ。


 恥ずかしいからといって消したら、怖かった自分まで消すことになる。


 純は新しいページを開いた。


 日付を書く。


 その下に、ゆっくり文字を並べた。


 ――帰宅後の状態。


 ・急な消灯で右脇腹が冷える。

 ・花の香りでカオルコを思い出す。

 ・影の右側を確認する癖がある。

 ・強い光を見ると、影の輪郭が痛む気がする。

 ・戒十の血の匂いに反応した。距離があれば落ち着く。本人に伝えた。

 ・家族へ一部説明。全部は話していない。

 ・「大丈夫」と言う前に確認する。


 そこまで書いて、ペンを止めた。


 手は震えていない。


 でも、胸の奥は重い。


 純はページの端に、小さく追記した。


 ――大丈夫ではないことを言っても、日常は壊れなかった。


 その一文を書いたあと、少しだけ泣きそうになった。


 日常は、壊れなかった。


 母は廊下の電気をつけてくれた。


 父は約束を求めた。


 戒十は血の匂いのことを聞いたあと、離れるかどうかを確認してくれた。


 全部が元通りではない。


 でも、戻る場所はある。


 純はノートを閉じず、ベッドへ入った。


 眠るのはまだ少し怖い。


 夢を見るかもしれない。


 白いワンピースの女が、また出てくるかもしれない。


 それでも、今日は書いた。


 だから、夢を見ても、起きたあとに書ける。


 そう思って、目を閉じた。


     ◇


 夢の中で、白いワンピースの女が立っていた。


 顔ははっきりしない。


 カオルコのようでもあり、そうではないようでもある。


 花の匂いがした。


 甘く、冷たい匂い。


 純は逃げようとしたが、足が動かない。


 女は、純の影の右側を見ていた。


 縫合痕のあたりへ、白い指を伸ばす。


 そして、言った。


「忘れないで」


 純は目を覚ました。


 部屋は暗くない。


 廊下の光が差し込んでいる。


 机のライトも、弱く灯っている。


 右脇腹は冷たい。


 けれど、影はある。


 ベッドの横に、ちゃんとある。


 純は震える手でノートを引き寄せた。


 時刻を書く。


 夢の内容を書く。


 白いワンピース。


 花の匂い。


 忘れないで。


 そこまで書いて、しばらくペンを止めた。


 怖い。


 腹が立つ。


 どうして自分の夢にまで来るのかと思う。


 それでも、忘れてしまうのも違うと思う。


 純はページの下に、まだ答えではない言葉を書いた。


 ――忘れないことと、許すことは違う。


 その文字を見て、少しだけ呼吸が落ち着いた。


 これは、まだ結論ではない。


 たぶん、これから何度も考える。


 でも今夜は、この言葉があれば眠れる気がした。


 純はノートを枕元に置く。


 目を閉じる前に、もう一度だけ自分の影を見た。


 右側はある。


 遅れていない。


 完全に元通りではない。


 けれど、誰かのものでもない。


「水城純」


 小さく、自分の名前を呼んだ。


 影は、彼女の足元から離れなかった。

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