第二節 純の影
水城純が家へ戻った日の夕方、玄関の明かりはいつもより少し早く点いていた。
母がそうしてくれたのだと、靴を脱ぐ前にわかった。
廊下の奥まで、淡い黄色の光が続いている。暗い場所を作らないように、階段の途中の小さな灯りまで点いていた。普段なら「電気代がもったいない」と言われるような明るさだったが、その日は誰もそれを口にしなかった。
純は玄関で立ち止まり、自分の足元を見た。
影がある。
右側も欠けていない。
少しだけ遅れているように見えたが、瞬きをすると、影はきちんと自分の足元に重なっていた。
「純?」
背後で母が声をかける。
純は反射的に言いかけた。
大丈夫。
けれど、その言葉は喉の手前で止まった。
大丈夫かどうか、まだ確認していない。
歩ける。
息はできる。
右脇腹は冷たい。
でも、倒れそうではない。
玄関の影も、自分のものに見える。
「……今は、平気」
純はそう言った。
母は一瞬だけ目を見開いた。
それから、いつものように笑おうとして、少し失敗した顔になった。
「今は、なのね」
「うん」
「じゃあ、平気じゃなくなったら言って」
「……言えるようにします」
「練習?」
「練習」
母は小さく頷いた。
「じゃあ、付き合う」
その言い方が思っていたより軽くて、純は少しだけ息を吐けた。
家の匂いがする。
洗剤と、炊飯器の湯気と、朝に父が飲んだコーヒーの残り香。
その中に、花の匂いはない。
それだけで、少し安心した。
だが、洗面所に入った瞬間、蛍光灯が一度だけ点滅した。
ぱち、と音がする。
光が消えたのは、ほんの一瞬だった。
けれど、純の右脇腹が冷えた。
包帯の下、影咬の痕がある場所。
そこへ、氷の細い針を差し込まれたような感覚が走る。
息が詰まった。
洗面台の鏡の中で、自分の影の右側が欠けたように見えた。
純は洗面台の縁を掴んだ。
冷たい陶器。
流しっぱなしの水の音。
自分の手。
ちゃんと、ここにある。
「純」
母が入口に立つ。
純は、また「大丈夫」と言いそうになった。
止める。
考える。
今、何が起きているのか。
「電気が暗くなって、びっくりした」
純はゆっくり言った。
「右脇腹が冷えた。でも、今は戻ってきています」
母は何も言わず、洗面所の外に立っていた。
入ってこない。
触らない。
ただ、そこにいる。
それがありがたかった。
「廊下の電気、夜もつけておこうか」
「お願いします」
お願いします、と言うのに、思ったより勇気がいった。
母は頷いた。
「わかった」
純は蛇口を閉めた。
水の音が止まる。
自分の影は、洗面台の下に落ちていた。
右側も、ある。
◇
夕食の席で、父はしばらく何も聞かなかった。
味噌汁。
焼き魚。
ほうれん草のおひたし。
白いご飯。
いつもの献立に近いのに、茶碗を持つ手が少し震えた。
日常へ戻るとは、もっと楽なことだと思っていた。
だが、普通の食卓に座るだけで、胸の奥がざわついた。
全部を話すことはできない。
街の影が湾岸へ伸びたこと。
戒十の影が獣の輪郭を持っていること。
リサが落ちたこと。
カオルコが自分を噛んだこと。
クイーンの声。
夜の王の救済。
そんなものを、この食卓へ置くことはできない。
けれど、何もなかったことにもできなかった。
父が箸を置いた。
「どこまで聞いていい」
純は、少し驚いて顔を上げた。
何があった、と責めるのではなく。
どこまで聞いていい、と尋ねてくれた。
だから、答えられた。
「全部は、話せません」
父は頷いた。
「うん」
「でも、危険な事件に巻き込まれました。事故って報道されていますけど、ただの事故ではないです。怪我もしました。怖い思いもしました」
母が箸を握りしめる。
父は黙って聞いていた。
「しばらく、夜が怖いです。急に暗くなるのも、強い光も、少し苦手です。花の匂いも……駄目なものがあります」
花、と言った瞬間、白いワンピースの影が脳裏をよぎった。
お姉さま。
純さん。
忘れないで。
まだ夢で聞いただけの声。
現実ではない。
でも、身体は現実のように反応する。
純は右脇腹へ手を添えた。
「学校には戻りたいです」
母が顔を上げる。
「怖いのに?」
「怖いです。でも、戻りたい」
父は少し長く沈黙した。
それから言った。
「休む選択もある」
「はい」
「戻る選択もある」
「はい」
「どちらにしても、一人で決めないこと」
その言葉に、純は息を止めた。
一人で決めない。
自分が戒十へ言ってきたことだった。
シンへも言った。
必要だと決めた人の名前を出してください、と。
今度は、自分の番だった。
「……はい」
純は頷いた。
「勝手に一人で抱えないようにします」
父は頷いた。
「約束だ」
「約束します」
母が、少し涙ぐみながら笑った。
「ご飯、少しでも食べられそう?」
純は茶碗を見る。
食欲はあまりない。
けれど、味噌汁の匂いは怖くなかった。
これは家の匂いだ。
「少しなら」
「少しでいいよ」
純は箸を持った。
右脇腹はまだ冷たい。
でも、箸は持てる。
それを、今は大丈夫と呼んでもいいのかもしれない。
◇
翌日の午後、戒十が荷物を届けに来た。
玄関先だけ。
母が少し離れたところにいて、父は仕事で不在だった。
戒十は、以前より少し眩しそうに立っていた。まだ日が残っている時間で、玄関の外の光が白く強い。彼の足元には、ひとつの影が落ちている。
ただし、その内側に、獣の輪郭が重なって見えた。
純はそれを見て、少しだけ息を呑んだ。
戒十も気づいたらしい。
「怖い?」
すぐに聞いてきた。
その聞き方が、以前と違っていた。
逃げる準備をしている声ではない。
答えを先に決めている声でもない。
ただ、確認する声だった。
純は自分の影を見た。
右側はある。
息もできる。
「少し」
正直に答えた。
戒十の表情が痛む。
純は続ける。
「でも、見ないふりをしたい怖さではないです」
「それ、難しい」
「私も言ってから思いました」
戒十が少しだけ笑う。
その拍子に、彼の手の甲の小さな傷から、乾いた血の匂いがした。
本当にわずかだった。
普通なら気づかないほどの匂い。
けれど、純の身体は反応した。
右脇腹が、ひやりと冷える。
喉の奥に、知らない空腹のようなものが一瞬だけ浮かんだ。
欲しい、ではない。
でも、反応した。
純は思わず一歩下がった。
戒十がすぐに手を引いた。
「ごめん」
「待って」
純は息を整える。
ここで黙ると、あとで怖くなる。
ここで「大丈夫」と言うと、記録できなくなる。
「血の匂いに、反応しました」
戒十の顔が強張る。
影の内側にある獣の輪郭も、ぴくりと動いた。
「僕の?」
「たぶん」
「離れたほうがいい?」
純は考える。
右脇腹は冷たい。
でも、強くはない。
呼吸は戻っている。
自分の影は、足元にある。
「今は、この距離なら平気です」
「今は」
「はい。今は」
戒十は頷いた。
「記録する?」
純は少しだけ目を丸くした。
それから、笑いそうになって、恥ずかしくなった。
「します」
「僕も?」
「戒十も、してください」
「わかった」
彼は真面目に頷いた。
その足元で、影が小さく揺れる。
「影の戒十も」
純が言うと、戒十は少し困った顔をした。
影が、本人より一瞬早く頷いた。
「します」
声は聞こえない。
けれど、純にはそう言ったように見えた。
彼女は頷いた。
「お願いします」
戒十が荷物を差し出す。
学校から預かったプリントと、図書室で借りっぱなしになっていた本と、純の記録ノートだった。
ノートは、薄い封筒に入れられていた。
「リサさんの字で、付箋がありました」
戒十は言った。
純の胸が痛む。
「何て」
「“捨てないこと。捨てるなら、自分で決めること”って」
リサらしい。
軽いようで、逃げ道を塞ぐ言い方。
純は封筒を受け取った。
「捨てません」
「うん」
「たぶん、恥ずかしいことも書いてありますけど」
「……僕も聞いたから」
「忘れてください」
「無理」
「努力してください」
「努力はする」
「影の戒十も」
戒十は足元を見た。
「努力するって」
「本当ですか」
「たぶん」
「信用は保留します」
戒十が小さく笑った。
「厳しい」
「よく言われます」
その会話は短かった。
それ以上、二人は踏み込まなかった。
今はまだ、玄関先で荷物を受け取るだけで十分だった。
戒十が帰る前に、純は一度だけ言った。
「届けてくれて、ありがとう」
「うん」
「血の匂いのことは、戒十のせいにしているわけじゃありません」
「わかってる」
「でも、反応はしました」
「うん」
「だから、次からも言います」
「言って」
その返事が、思っていたより自然だったので、純は少しだけ安心した。
戒十は帰っていく。
夕方の光の中で、彼の影は本人と同じ歩幅で伸びていた。
純はその影が曲がり角を消えるまで見送った。
◇
その夜、純は記録ノートを開いた。
机のライトには、薄い布をかけてある。
強い光はまだ苦手だった。
カーテンは閉めた。
鏡には、布をかけたままにしている。
廊下の電気は点いていて、ドアは少しだけ開いている。
以前なら落ち着かなかった。
今は、細く差し込む光がありがたかった。
ノートの最初のほうには、あの治療の記録が残っている。
自分で書いた同意。
症状。
痛み。
怖い、逃げたい、必要とされたいという言葉。
読み返すと、顔が熱くなった。
あの場にいた全員が聞いていた。
戒十も。
影の戒十も。
リサも。
シンも。
思い出すだけで、布団に潜り込みたくなる。
けれど、消さなかった。
あれは、自分の影を戻すために必要だった言葉だ。
恥ずかしいからといって消したら、怖かった自分まで消すことになる。
純は新しいページを開いた。
日付を書く。
その下に、ゆっくり文字を並べた。
――帰宅後の状態。
・急な消灯で右脇腹が冷える。
・花の香りでカオルコを思い出す。
・影の右側を確認する癖がある。
・強い光を見ると、影の輪郭が痛む気がする。
・戒十の血の匂いに反応した。距離があれば落ち着く。本人に伝えた。
・家族へ一部説明。全部は話していない。
・「大丈夫」と言う前に確認する。
そこまで書いて、ペンを止めた。
手は震えていない。
でも、胸の奥は重い。
純はページの端に、小さく追記した。
――大丈夫ではないことを言っても、日常は壊れなかった。
その一文を書いたあと、少しだけ泣きそうになった。
日常は、壊れなかった。
母は廊下の電気をつけてくれた。
父は約束を求めた。
戒十は血の匂いのことを聞いたあと、離れるかどうかを確認してくれた。
全部が元通りではない。
でも、戻る場所はある。
純はノートを閉じず、ベッドへ入った。
眠るのはまだ少し怖い。
夢を見るかもしれない。
白いワンピースの女が、また出てくるかもしれない。
それでも、今日は書いた。
だから、夢を見ても、起きたあとに書ける。
そう思って、目を閉じた。
◇
夢の中で、白いワンピースの女が立っていた。
顔ははっきりしない。
カオルコのようでもあり、そうではないようでもある。
花の匂いがした。
甘く、冷たい匂い。
純は逃げようとしたが、足が動かない。
女は、純の影の右側を見ていた。
縫合痕のあたりへ、白い指を伸ばす。
そして、言った。
「忘れないで」
純は目を覚ました。
部屋は暗くない。
廊下の光が差し込んでいる。
机のライトも、弱く灯っている。
右脇腹は冷たい。
けれど、影はある。
ベッドの横に、ちゃんとある。
純は震える手でノートを引き寄せた。
時刻を書く。
夢の内容を書く。
白いワンピース。
花の匂い。
忘れないで。
そこまで書いて、しばらくペンを止めた。
怖い。
腹が立つ。
どうして自分の夢にまで来るのかと思う。
それでも、忘れてしまうのも違うと思う。
純はページの下に、まだ答えではない言葉を書いた。
――忘れないことと、許すことは違う。
その文字を見て、少しだけ呼吸が落ち着いた。
これは、まだ結論ではない。
たぶん、これから何度も考える。
でも今夜は、この言葉があれば眠れる気がした。
純はノートを枕元に置く。
目を閉じる前に、もう一度だけ自分の影を見た。
右側はある。
遅れていない。
完全に元通りではない。
けれど、誰かのものでもない。
「水城純」
小さく、自分の名前を呼んだ。
影は、彼女の足元から離れなかった。




