第一節 設備事故
世間で最初に使われた言葉は、設備事故だった。
常盤再生医療財団湾岸研究施設、地下設備における大規模事故。
早朝のニュースでは、そう報じられた。
画面には、朝焼けの中で白く沈んだ財団ビルが映っていた。上層階の窓硝子は一部が割れ、敷地内には消防車、救急車、警察車両、そして所属のわからない白い車両が並んでいる。湾岸道路の一部は封鎖され、ヘリの映像は一定以上、建物へ近づかない。
アナウンサーは硬い声で読み上げる。
『昨夜未明、常盤再生医療財団の地下研究施設で火災を伴う設備事故が発生しました。周辺地域では一時、大規模な照明制御障害と停電が確認されており、市は原因の調査を進めています』
次の局では、言い方が変わった。
医療データ流出。
未承認の再生医療実験。
地下施設の違法改造。
集団幻覚。
影害テロの疑い。
説明は増えていった。
一つにまとまらないまま、増え続けた。
専門家は、強い光の明滅と煙が人間の認知へ影響した可能性を語った。別の専門家は、財団の研究倫理の問題を語った。匿名の関係者は、施設内に存在しないはずの地下区画があったと証言した。ネット上では、黒い獣のようなものが湾岸道路を横切る短い映像が拡散され、数時間後には削除された。
削除されても、残るものは残った。
誰かが保存していた。
誰かが切り抜いていた。
誰かが、これは自分が見たものと同じだと書き込んだ。
駅前で、自分の影が先に改札へ向かった人がいた。
病院で、患者の影だけがベッド脇に座っているのを見た看護師がいた。
住宅街で、子どもの影が塀を越えようとしたと訴える母親がいた。
その多くは、疲労、錯覚、事故後の混乱として片づけられた。
けれど、記憶までは消えなかった。
人々は、事件の翌日から、足元を見る回数が少し増えた。
◇
白昼局もまた、すべてを消すことには失敗していた。
映像は流出した。
処分派が現場で展開しようとした影脈遮断具の記録も残った。
常盤再生医療財団地下から回収された一部の資料には、影紋保存、人格継承、人工肉体、再接続といった語が並んでいた。
黒瀬理人。
財団の理事長として知られていた男の現在肉体は、施設崩壊時に死亡したと処理された。
主影核は崩壊し、継承設備も失われた。
少なくとも、黒瀬理人としての夜の王は、もう戻らない。
だが、記録は残った。
技術も、断片的に残った。
それを封じるのか、利用するのか、管理するのか。
白昼局内部では、その言葉の順番を巡って、すでに争いが始まっていた。
処分派は失脚した。
だが、消えたわけではない。
管理派と共生派は、VIOLET DRAGONとの限定協力を進めようとしている。
ただし、それは握手ではなかった。
互いの手首を見張りながら、同じ机に着いただけだった。
仮設対策室の片隅で、灰田はシンを見た。
シンは椅子に座っていた。
顔色は悪い。
右腕は固定され、黒い布で覆われている。
そのことについて、灰田は何も言わなかった。
謝罪もしなかった。
シンも、それを求めなかった。
しばらく沈黙があった。
先に口を開いたのは灰田だった。
「今回は、おまえたちが正しかった場面がある」
シンは灰田を見た。
その目は、疲れていた。
だが、逸れなかった。
「全部じゃない」
灰田は、少しだけ口元を歪めた。
「全部じゃない」
それだけだった。
和解ではない。
許しでもない。
白昼局が正しくなったわけでも、VIOLET DRAGONが安全な組織になったわけでもない。
ただ、昨夜のすべてを設備事故という言葉だけで閉じることは、もうできなかった。
灰田は書類へ視線を落とす。
「これから面倒になる」
「もう面倒だ」
「だろうな」
シンは自分の足元を見た。
照明の下に落ちた影には、右腕がなかった。
灰田もそれを見た。
何も言わなかった。
言わないまま、書類に署名した。
外では、報道ヘリの音がまだ遠く響いている。
世間では、設備事故。
だが、夜を見た者たちは知っていた。
あれは、ただの事故ではない。
そして、ただの事故ではないと知ってしまった者たちの朝が、もう始まっていた。




