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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第五章 夜の終焉
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第十二節 夜の終わり

 最初に戻ったのは、子どもの影だった。


 北部住宅地の小さな庭で、塀の上に立ち止まっていた影が、ゆっくりと芝生へ降りた。


 母親が泣きながら名前を呼んでいた。


 悠真。


 悠真。


 帰ってきて、ではなく。


 ここにいるよ、と。


 その声に引かれたのか。


 庭のセンサーライトが足元へ作った小さな影に気づいたのか。


 それとも、影自身がそこを選んだのか。


 外から見ている者には、わからない。


 ただ、影は塀を越えず、庭の芝生へ戻った。


 完全に肉体と重なったわけではない。


 ほんの少し、右足のあたりが遅れている。


 それでも、子どもは自分の影を見下ろし、それから泣いた。


 母親も泣いた。


 白昼局の若い隊員は遮断具を握ったまま、その場に膝をついた。


 灰田の怒号が通信から飛んだ。


『遮断具を下ろせ!』


『もう下ろしてます!』


『なら泣くな、次へ行け!』


『班長も声が変です!』


『うるさい!』


 駅前では、北口の街灯がひとつずつ角度を戻していた。


 湾岸へ向いていた白い光が、歩道へ、階段へ、改札前の床へ落ちていく。


 そこに生まれた短い影へ、長く引き延ばされていた人々の影が少しずつ戻ってくる。


 戻る影。


 立ち止まる影。


 まだ壁から離れない影。


 泣き出す人。


 笑う人。


 何も覚えていない顔をする人。


 自分の影が一瞬だけ自分より先に歩いたことを見てしまい、足元から目を離せなくなる人。


 旧市街の商店街では、VIOLET DRAGONのカウンターの男が、椅子を三段重ねにして看板照明の角度を直していた。


「これ、絶対あとで壊したってリサに怒られるやつだろ!」


 若いギタリストが下から椅子を押さえて叫ぶ。


「生きてたら弁償って言ってました!」


「縁起でもねえこと言うな!」


「でも、リサさんなら本当に請求しそうで!」


「するよ、あの女は!」


 そう言ってから、男は一瞬だけ口を閉じた。


 照明の角度を直す手が、止まりかける。


 だが、すぐに歯を食いしばって手を動かした。


「だから請求させるんだよ!」


 看板の光が、湾岸ではなく店先の石畳へ落ちる。


 そこに、暴走しかけていた常連の影が戻った。


 中央病院では、看護師が老人の名を呼び続けていた。


 宮田さん。


 宮田さん。


 戻っても戻らなくても、ここにいます。


 そう何度も言っていた。


 老人の影はベッド脇まで戻り、そこで止まった。


 肉体へ完全には重ならなかった。


 ベッドの横に座るように、影だけが床へ残った。


 医師が白昼局のスタッフへ尋ねる。


「これは、どうすれば」


 スタッフは答えられなかった。


 代わりに、通信越しの純が言った。


『無理に重ねないでください』


 声は掠れていた。


 けれど、まだ指示を出している。


『その人のそばにいます。光を変えずに、様子を見てください。戻る途中かもしれません。そこを選んでいるのかもしれません』


 病院の看護師は頷いた。


 影へ毛布をかけようとして、手を止める。


 影に毛布はかからない。


 それでも、彼女はベッド脇へ椅子を置いた。


 誰かがいる場所として。


     ◇


 宵浜市の光が、ひとつずつ戻っていく。


 夜の王が作った、一点へ集める光ではない。


 クイーンが開こうとした、肉体から影を引き離す光でもない。


 街のあちこちで、それぞれの足元を照らす小さな光。


 駅の階段。


 病室の床。


 庭の芝生。


 古い商店街の石畳。


 湾岸道路のガードレールの下。


 非常灯。


 懐中電灯。


 看板照明。


 スマートフォンのライト。


 誰かが手で庇った小さな明かり。


 それらが、戻る場所を作っていく。


 中央再接続室で、戒十は膝をついていた。


 左手が床に触れている。


 黒い傷はまだ光っていた。


 共生状態の影は、彼の足元で一つに見える。


 だが、その内側には獣の輪郭が重なっている。


 震えている。


 疲れている。


 それでも離れていない。


「あと、どこ」


 戒十は息を切らしながら聞いた。


 自分の声の奥に、影の声も混じっていた。


 純の返答が少し遅れる。


『湾岸北側、まだ影流が残っています。倉庫街の一部。あと、財団施設内の保存庫周辺』


「保存庫……」


 戒十は奥歯を噛む。


 死者の影紋。


 保存された影。


 自分が誰か答えられなかった人工肉体。


 あそこに残った影たちは、どこへ戻るのか。


 戻る肉体があるのか。


 戻らないことを選べる意識があるのか。


 わからない。


 わからないことばかりだった。


 影の戒十が内側で言う。


「全部は無理」


「わかってる」


「でも、放っておきたくない」


「わかってる」


「どうする」


 戒十は床を見た。


 影網の残り火が見える。


 保存庫の方角には、黒い霧のようなものが漂っている。戻る線を持たない影紋。夜の王が保存し、再構成を待たせていた死者たち。


 それらを今、勝手に解放することも、勝手に消すこともできない。


 戒十は唇を噛んだ。


「留める」


「どこに」


「保存庫に。外へ流れないように。あとで、ちゃんと考えられるように」


「それ、夜の王と違う?」


 影の問いは厳しかった。


 戒十は一瞬答えられない。


 保存する。


 留める。


 その言葉は、夜の王のものに似ている。


 だが、放置すれば影は散る。


 勝手に解放すれば、死者たちの影をもう一度利用することになる。


 純の声が入った。


『今すぐ決めないために、留めるんだと思います』


 戒十は顔を上げる。


『夜の王は、留めたあと、自分で使い道を決めました。私たちは、決めないために留める。調べて、記録して、考えるために』


 辰巳の声が続く。


『白昼局共生派が、保存庫を封鎖します。処分派には触らせません。記録の保全を優先する』


 スーツ姿の女性の声も混ざった。


『VIOLET DRAGON側も立ち会います。封鎖手続き、共同記録とします』


 灰田が短く言う。


『俺が責任者名を出す。灰田だ。辰巳も連名にしろ』


『承知しました』


 戒十は息を吐いた。


「保存庫周辺、留めます。外へ流さない。でも、中身は使わない。勝手に戻さない」


 影の戒十が答える。


「同意」


 二人は左手を床へ押しつけた。


 黒い傷から伸びた影が、保存庫へ向かう霧を囲む。


 閉じ込めるのではない。


 外へ散らないように、薄い膜を作る。


 それは、いつか破られるかもしれない。


 誰かに利用されるかもしれない。


 それでも、今この瞬間、彼らが選べる中では最もましな保留だった。


 純が言った。


『保存庫周辺、影流停止。外部流出なし』


 戒十はその言葉を聞いて、ようやく床に手をついたまま頭を垂れた。


 身体が重い。


 影も重い。


 共生状態は、強い。


 けれど、何倍も疲れる。


 自分一人の疲労ではない。


 二人分の意志を、同じ身体で支え続ける疲労。


「まだ、立てる?」


 影が聞く。


「立てる」


「嘘?」


「少し」


「正直に」


「かなり、きつい」


「同じ」


 戒十は笑いそうになった。


「そこは張り合わなくていい」


「張り合ってない。共有」


「そうかよ」


 そのとき、中央再接続室の奥で、大きな音がした。


 制御盤が、ひとつずつ落ちていく音だった。


 光源制御装置。


 夜の王が宵浜市全域の照明網をつないだ巨大設備。


 それが、順番に停止していく。


 赤い表示が青へ変わり、青が灰色へ落ちる。


 市内へ伸びていた強制制御の線が、地図上から消えていく。


 天井の光源が、最後に一度だけ明滅した。


 そして消えた。


 中央再接続室は、闇に沈みかける。


 完全な暗闇になる前に、管制室側が非常用の足元灯を起動した。


 弱い琥珀色の光。


 床に、戒十の影が落ちる。


 一つの影。


 内側に、獣の輪郭を抱えた影。


 その影は、もう湾岸へ引かれていなかった。


 しばらくして、純が言った。


『夜の王の照明制御設備、停止しました』


 誰もすぐには返事をしなかった。


 リサの声はない。


 カオルコの声もない。


 クイーンの声もない。


 水の音だけが、遠い縦坑の下から響いている。


 戒十は、顔を上げた。


「純」


『はい』


「街は」


 少し沈黙。


 端末の向こうで、純が複数の画面を確認している気配がある。


『大きな影流は止まりました。影は……戻っています。全部ではありません。でも、戻っています』


 戒十は目を閉じた。


 よかった。


 そう思った。


 思った瞬間、別の痛みが胸に来た。


 リサは戻っていない。


「リサさんは」


 自分で聞いた。


 聞きたくなかった。


 でも、聞かなければならない。


 純の声が詰まる。


『信号、ありません』


 リサの銀糸に埋め込まれていた追跡反応。


 VIOLET DRAGONの識別影紋。


 どちらも拾えない。


 戒十は縦坑を見る。


 暗い。


 水の音。


 黒い穴。


 そこへ落ちていく三つの影を、まだ目が覚えているように見ていた。


 影の戒十が内側で言う。


「探しに行きたい」


「行きたい」


「でも」


「今は脱出」


「……うん」


 二人の声が重なる。


 苦い。


 それでも、同じだった。


     ◇


 脱出路は、純が作った。


 正確には、純が管制室から崩落状況を読み、辰巳が施設図を照合し、白昼局共生派が生きている扉を開け、VIOLET DRAGONの住人が外側から遮影布を張った。


 だが、戒十にとっては、純の声が道だった。


『正面通路は崩れています。左の補助制御室へ戻ってください』


「シンさんは」


『まだそこにいます。医療班が接近中。でも、床が落ちかけています。先に合流してください』


「了解」


 戒十は立ち上がる。


 膝が笑う。


 影もふらつく。


「歩ける?」


 影が聞く。


「歩ける」


「嘘」


「歩く」


「それなら同意」


 戒十は足を踏み出す。


 床のひび割れを避ける。


 崩れた影紋柱の間を抜ける。


 夜の王の継承記録の残骸が、床に散っていた。


 黒いガラス片のような影。


 その中に、いくつもの顔が映る。


 久世玄理だったかもしれないもの。


 黒瀬理人だったもの。


 自分はまだ継続していると言い聞かせ続けた記録。


 戒十はそれを踏まないように避けた。


 許したわけではない。


 だが、踏みにじることも違う気がした。


 補助制御室に戻ると、シンがまだ座っていた。


 顔色は悪い。


 唇の色も失われている。


 右腕は応急固定されたまま、黒く沈んでいる。


 左手には、影縫刀ではなく、通信端末が握られていた。


 シンは戒十を見ると、短く言った。


「遅い」


「助けに来た相手にそれですか」


「来なくてよかった」


「またですか」


「……来たことは評価する」


「すごく譲歩した」


 影の戒十が内側で言う。


 戒十は思わず少し笑った。


 シンが眉を寄せる。


「何がおかしい」


「いえ」


 リサの銀糸で固定された右腕を見て、笑みはすぐに消えた。


「右腕」


「動かない」


 シンは淡々と言った。


「影の右腕はない。肉体側も回復は見込めないだろう」


 あまりに平坦な声だった。


 戒十は何も言えない。


 シンは続ける。


「だが、生きている」


 その言葉は、先ほどより少しだけ自然だった。


 自分を残すことを、作戦の一部として認めた男の声だった。


 純の声が通信から入る。


『シンさん、医療班があと二分で到着します。意識は?』


「ある」


『痛みは?』


「ある」


『どれくらいですか』


「申告する必要があるか」


『あります』


「七」


『記録しました。八になったら言ってください』


「九になったら言う」


『八で言ってください』


 シンは少し黙った。


「……わかった」


 戒十は、驚いてシンを見た。


「素直ですね」


「黙れ」


 影の戒十が内側で言う。


「八で言うかな」


「言わないかもな」


『聞こえています』


 純の声が入る。


 戒十は口を閉じた。


 シンの口元が、ほんの少し動いた。


 笑ったのかもしれない。


 今度は、さっきより確かにそう見えた。


 医療班が到着した。


 白昼局共生派と、VIOLET DRAGONの医師が混じった班だった。


 互いにまだぎこちない。


 だが、同じ担架を持っていた。


「シンさんを先に」


 戒十が言う。


 シンが即座に返す。


「おまえも立っているのがやっとだろう」


「僕は歩けます」


「嘘が下手だ」


「歩きます」


「それは嘘ではないか」


「シンさんに言われたくない」


 リサがいれば、ここで笑っただろう。


 そう思った瞬間、胸が痛くなった。


 戒十は唇を噛む。


 今は立っている。


 今は脱出する。


 あとで崩れていい。


 今は。


     ◇


 財団地下からの脱出は、夢の中を歩くようだった。


 白い研究区画は、もう白くなかった。


 照明の多くが落ち、非常灯の琥珀色だけが床を照らしている。


 影紋保存庫の前には、白昼局共生派の封鎖テープが張られていた。


 VIOLET DRAGONのスーツ姿の女性が、すでに書面を作成している。


 封鎖対象。


 影紋保存記録。


 人格継承記録。


 人工肉体管理記録。


 久世玄理継承関連資料。


 処分不可。


 無断使用不可。


 共同監査対象。


 彼女はペンを走らせながら、灰田へ言った。


「署名を」


「今か」


「今です」


「血がついてるぞ」


「証拠性が増します」


「強すぎるだろ」


 灰田はぼやきながら署名した。


 辰巳も署名する。


 VIOLET DRAGON側の代表として、カウンターの男が乱暴な字で署名する。


「リサの代わりだ」


 その声が、少し震えていた。


 誰も指摘しなかった。


 保存庫の中から、黒い水のような影紋が静かに揺れている。


 戒十はその前で足を止めた。


 九歳の子どもの影紋が入った筒。


 自分が誰かと問うた人工肉体。


 救おうとした痕跡と、保存物にしてしまった罪。


 それらは、ここに残った。


 終わっていない。


 夜の王は死んだ。


 だが、夜の王が残したものは消えていない。


 技術も。


 記録も。


 思想も。


 それをどう扱うかは、これからの問題だった。


 灰田が戒十へ言う。


「三倉戒十」


「何ですか」


「この記録の扱いについて、おまえと水城純にも後日話を聞く」


「白昼局に?」


「共同監査だ。VIOLET DRAGONも入る」


「断ったら?」


「断る権利はある」


 灰田は少しだけ顔をしかめる。


「……と、辰巳が言うだろうな」


 戒十は疲れた顔で笑った。


「灰田さんは?」


「逃げられると面倒だ」


「正直ですね」


「嘘をつく余力がない」


 その声は本当に疲れていた。


 白昼局も、無傷ではない。


 処分派と共生派の対立は、これから表へ出るだろう。


 隠せないものが増えすぎた。


 戒十は返事をせず、再び歩き出した。


 地下水脈へ続く通路の前で、リサたちの痕跡が見つかった。


 崩落した中央縦坑から離れた、補助排水路の入口。


 そこへ、白昼局の捜索班とVIOLET DRAGONの住人が集まっていた。


 水の匂い。


 古い地下の冷気。


 壁には黒い水跡がある。


 その手前の床に、紫色の血が落ちていた。


 リサの血なのか。


 カオルコの血なのか。


 クイーンの影が混じったものなのか。


 判別できない。


 そのそばに、銀糸の切れ端があった。


 細く、千切れた銀色の糸。


 リサのもの。


 カウンターの男が、それを拾おうとして手を止めた。


 スーツ姿の女性が、静かに遮影用の小箱を差し出す。


「素手では触らないほうが」


「……わかってる」


 男は小箱へ銀糸を入れた。


 さらに奥に、紙片が一枚落ちていた。


 濡れている。


 古いレシートだった。


 文字の一部は滲んでいるが、まだ読める。


 湾岸第三保管区近くの自販機。


 白桃ソーダ。


 購入時刻。


 数日前。


 何の価値もない紙。


 ただ、カオルコが集めていた、自分が存在した証の一つ。


 戒十はそれを見た瞬間、胸が締めつけられた。


 彼女は許されない。


 純を噛んだ。


 自分を追い詰めた。


 多くの人を傷つけた。


 それでも、存在しなかったことにはできない。


 リサが言った言葉が蘇る。


 あなたがカオルコだったことまで否定しない。


 戒十はレシートへ手を伸ばしかけた。


 影の戒十が止める。


「素手は駄目」


「わかってる」


「でも、拾いたい?」


「うん」


 VIOLET DRAGONの若いギタリストが、震える手で透明な袋を差し出した。


「俺、やります」


 彼はレシートを袋へ入れた。


 大事なもののように。


 証拠品としてだけではなく。


 誰かがそこにいた印として。


 通路の奥では、黒い花びらのような影の痕が壁に残っていた。


 触れると崩れそうな、薄い影。


 クイーンのものなのか。


 カオルコのものなのか。


 リサが切った接続の残りなのか。


 誰にもわからなかった。


 捜索班が地下水脈へライトを向ける。


 水面は暗い。


 何も浮かんでいない。


 遺体は見つからない。


 リサも。


 クイーンも。


 カオルコも。


 誰の身体も、誰の影核も、そこにはなかった。


 戒十は、暗い水面を見つめた。


「リサさん」


 名前を呼んだ。


 返事はない。


 影の戒十も、足元で黙っていた。


 呼びたかったのかもしれない。


 でも、呼ばなかった。


 今呼べば、崩れてしまいそうだった。


 純の声が、通信から静かに届いた。


『戒十』


「うん」


『戻ってきてください』


 その言葉に、戒十は目を閉じた。


 戻ってきて。


 それは命令ではない。


 でも、戻る場所を示す言葉だった。


「戻る」


 戒十は答えた。


 影の戒十も、同じ声で言った。


「戻る」


     ◇


 地上へ出たとき、夜は終わりかけていた。


 常盤再生医療財団の湾岸施設は、半分以上が崩落していた。


 白い外壁に亀裂が走り、ガラス張りの上層階は朝焼けを歪んで映している。


 湾岸道路には、白昼局の車両、市の防災車両、救急車、VIOLET DRAGONの古いバンが入り乱れていた。


 処分派の一部は、灰田たちによって拘束されている。


 共生派の隊員は、疲れ切った顔で市民の誘導を続けている。


 落影回収用の遮影袋が、路肩にいくつも並んでいた。


 消えずに残った落影もいる。


 肉体へ戻らなかった影もいる。


 影が薄くなった人。


 記憶が曖昧になった人。


 一晩だけ、自分の影が自分より先に動いたことを覚えてしまった人。


 何も覚えていないが、足元を見ると涙が出る人。


 完全には戻らなかった。


 完全な勝利ではなかった。


 だが、街は朝を迎えていた。


 東の空が白み始める。


 湾岸の海の向こうから、日が昇ろうとしている。


 朝日が差すと、街の影は短くなる。


 消えるのではない。


 ただ、足元へ近づく。


 戒十はその光を見た。


 明るすぎる朝が、以前は怖かった。


 日差しは、自分を狩る側のものだと思っていた。


 今も眩しい。


 左手は痛い。


 影は疲れている。


 それでも、その光の中で足元を見ると、影はそこにあった。


 一つの影。


 内側に、獣の輪郭を抱えた影。


 影の戒十が言う。


「眩しい」


「僕も」


「帰りたい」


「うん」


「純のところ」


「うん」


 戒十は歩き出した。


 その足は重い。


 身体中が痛い。


 でも、歩ける。


 途中で、担架に乗せられたシンとすれ違った。


 右腕は厳重に固定されている。


 顔色は悪い。


 それでも、意識はある。


 戒十が近づくと、シンは目だけを動かした。


「生きてるか」


「そっちの台詞ですか」


「確認だ」


「生きてます」


「影は」


 戒十は足元を見る。


「います」


 影の戒十が短く言った。


「いる」


 シンは小さく頷いた。


「ならいい」


「シンさんは」


「右腕は失った」


 彼は同じ言葉を、もう一度言った。


 だが、今度は少しだけ違って聞こえた。


「だが、俺は残った」


 戒十は頷く。


「はい」


 シンは目を閉じる。


「行け。水城が待っている」


「はい」


 担架が運ばれていく。


 VIOLET DRAGONの医師と白昼局の医療班が、同じ速度でそれを支えている。


 奇妙な光景だった。


 でも、今はその奇妙さが必要だった。


     ◇


 管制室へ戻ったとき、純はまだ端末を握っていた。


 簡易ベッドに横になったまま、目の下に濃い影を作り、顔色は紙のように白い。


 それでも、画面から視線を外していなかった。


 医師が横で言っている。


「もう交代して」


「あと一件」


「さっきも言った」


「今度は本当にあと一件です」


「信用できない」


「私も少しそう思います」


 戒十は入口で立ち止まった。


 純が顔を上げる。


 目が合った。


 その瞬間、彼女の表情が崩れた。


「戒十」


「戻った」


 声がかすれた。


 何を言えばいいのかわからなかった。


 無事だよ。


 終わったよ。


 戻ったよ。


 リサさんは。


 全部が喉に詰まる。


 純は端末を置こうとして、手が震えて落としそうになった。


 戒十が駆け寄り、右手で受け止める。


「起きるな」


「起きません」


「嘘だろ」


「起きようとしました」


「言い直しただけじゃん」


 純は泣きそうに笑った。


 そして、戒十の足元を見る。


 影がそこにある。


 彼と同じ場所に。


 内側に獣の輪郭を残したまま。


「影の戒十も」


「いる」


 影が答える。


 純は頷いた。


「戻ってきたんですね」


「うん」


 戒十が答える。


「戻った」


 純はようやく端末を手放した。


 医師が即座に回収する。


「はい、終了。水城さん、もう寝て」


「まだ」


「寝て」


「でも」


「寝て」


 医師の声が強くなる。


 純は少しだけ悔しそうに眉を寄せる。


 戒十が言った。


「寝て」


 純は彼を見る。


「戒十に言われると、少し腹が立ちます」


「なんで」


「自分も無理しているからです」


「それは」


「でも、寝ます」


 純は目を閉じかけた。


 その前に、また開く。


「リサさんは」


 戒十は答えられなかった。


 純は、その沈黙だけで理解した。


 目に涙が浮かぶ。


 でも、声は出さなかった。


 しばらくして、彼女は小さく言った。


「見つかっていない、ですか」


「うん」


「カオルコも」


「うん」


「クイーンも」


「うん」


 純は目を閉じた。


 涙が一筋、こめかみへ流れる。


「……記録、してください」


 戒十は喉が詰まる。


「今?」


「忘れないように」


 影の戒十が内側で静かに言う。


「僕が覚える」


 戒十は頷いた。


「僕も覚える」


 純は小さく息を吐いた。


「じゃあ、少し寝ます」


「うん」


「起こしてください」


「いつ」


「朝になったら」


 戒十は窓のない地下室で、少しだけ笑った。


「もう朝だよ」


 純は目を閉じたまま言った。


「じゃあ、もう少し朝になったら」


「わかった」


 純の呼吸が、少しずつ深くなる。


 今度は、影咬に引きずり込まれる眠りではない。


 疲れ切った人間の眠りだった。


 彼女の影は、右側に細い縫合痕を残しながら、ベッドの下に静かに落ちている。


 戒十はそれを見て、ようやく息を吐いた。


     ◇


 夜の終わりは、歓声ではなかった。


 誰も勝ったと叫ばなかった。


 宵浜市には、救急車のサイレンと、壊れた照明の警告音と、名前を呼ぶ声が残った。


 白昼局は崩壊した財団施設から、影紋保存記録の一部を回収した。


 VIOLET DRAGONの住人たちは、それを監視した。


 辰巳は処分派の介入を封じるため、灰田とともに責任者名を書面へ残した。


 灰田は何度も舌打ちした。


 スーツ姿の女性は、それをすべて記録した。


 保存庫は封鎖された。


 人工肉体の培養槽は停止された。


 それでも、中の存在をどう扱うかは決まらない。


 決めないまま、朝を迎えた。


 地下水脈へ続く暗い通路には、紫色の血痕が残った。


 リサの銀糸の切れ端。


 カオルコが集めていたレシートの一枚。


 黒い花びらのような影の痕。


 それだけが、そこに三人がいたことを示していた。


 遺体は見つからない。


 リサも。


 クイーンも。


 カオルコも。


 どこかへ流されたのか。


 消えたのか。


 まだ影のどこかにいるのか。


 誰にもわからなかった。


 朝日が、湾岸施設の割れたガラスに差し込む。


 光を受けて、壊れた床に影が落ちた。


 短い影だった。


 もう湾岸へ引かれてはいない。


 その影の端に、風で動いた黒い花びらの痕が、ほんの少しだけ揺れた。


 夜は終わった。


 けれど、影は消えなかった。


 宵浜市は、影を足元に残したまま、傷ついた朝を迎えた。


 そして、戒十もまた、自分の影を連れて、その朝の中に立っていた。

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