第十一節 私と一緒にいたもの
カオルコが作った拘束は、細かった。
紫色の光を帯びた黒い根が、クイーンの影核を内側から押さえている。だが、それは鎖というより、必死に絡みついた指に近かった。
握力は弱い。
震えている。
いつ剥がされてもおかしくない。
それでも、カオルコは離していなかった。
クイーンの銀白色の巨体は、中央再接続室の中央で硬直している。
都市の影は、まだ完全には戻っていない。純の管制と、白昼局共生派、VIOLET DRAGONの住人たちの呼びかけによって、多くの影が足元へ帰り始めている。
だが、女王の冠はまだそこにある。
影を解放するという声は弱まっただけで、消えてはいない。
リサは、クイーンの胸元を見上げていた。
そこには、カオルコの紫の核。
その奥に、もっと古く、もっと深い黒がある。
クイーンの影核。
百年以上、リサが見ないふりをしてきたもの。
リサの指先から、血が落ちた。
銀糸を伝って傷ついた指。
細い血の線が、白い床へ落ちる前に、彼女の影のない足元で揺れた。
リサはその血を見た。
それから、自分の掌を強く握りしめる。
爪が皮膚を破る。
新しい血が滲む。
「リサさん」
戒十が言った。
彼の瞳は琥珀色に光っている。
完全な獣化ではない。人の顔のまま、内側に影の獣が重なっている。
共生。
リサはそれを見ていた。
肉体と影が、どちらかを殺さず、どちらかを消さず、同じ身体の中で条件を交わしている姿。
完全ではない。
危うい。
いつかまた壊れるかもしれない。
それでも、今はそこにある。
リサは、それを見てしまった。
だから、もう以前の答えには戻れない。
「黒猫くん」
「はい」
「今から、たぶん、かなり馬鹿なことする」
「やめてください」
「即答」
「馬鹿なことって自分で言ったので」
影の戒十が内側から言う。
「自分が消えればいいと思ってるなら止める」
リサは少し笑った。
「影くんにも言われた」
「名前まだです」
「帰ったら会議するって約束したでしょ」
戒十は表情を歪める。
リサはその顔を見て、少しだけ柔らかく笑った。
「大丈夫、とは言わない」
「言ってほしくないです」
「だよね」
リサは自分の血で濡れた手を、銀糸へ滑らせた。
銀糸が赤く染まる。
血を吸った銀糸は、細い刃の形へ集まっていく。
短い刃。
ナイフほどの大きさ。
それは殺すための刃にも見えた。
縫うための針にも見えた。
自分の血を使った刃。
リサはそれを右手に持つ。
その手は震えていた。
クイーンが、硬直したまま笑う。
「ようやく、殺しに来るの」
声は巨大な女王のものだった。
けれど、その奥には、リサだけに向けられた古い響きがあった。
「それなら、早くすればよかったのに」
リサの瞳が揺れる。
戒十は一歩踏み出しかける。
リサが手で制した。
「行くのは、あたし」
「一人で?」
「一人じゃない」
リサは戒十を見た。
「道を作って」
戒十は歯を噛みしめる。
止めたい。
行かせたくない。
だが、それを自分が決めるのは違う。
彼は純へ通信をつないだ。
「純」
『聞いています』
「リサさんがクイーンの影核へ行く」
『……はい』
声が硬くなる。
純もわかっている。
止めたいはずだ。
だが、純は言った。
『リサさん、目的を説明してください』
リサは笑った。
「ほんと、純ちゃんは厳しい」
『必要です』
「うん。必要」
リサはクイーンの胸元を見上げたまま言った。
「クイーンを殺しに行くんじゃない。カオルコの身体から強制定着を切る。あたしとクイーンの間に残ってるものを、見に行く」
『戻る意思はありますか』
「ある」
『自分が消えれば終わると思っていませんか』
リサはすぐには答えなかった。
中央再接続室の中で、カオルコの拘束が軋む音が聞こえる。
クイーンの影核が少しずつ自由を取り戻そうとしている。
時間はない。
それでも、純は答えを待った。
リサは、苦笑した。
「少し、思ってた」
戒十の表情が強張る。
リサは続ける。
「クイーンを壊して、あたしも消えれば、綺麗に終わるかなって。サリサの失敗も、カオルコの器も、あたしが閉じ込めた百年も、一緒に終わるかなって」
『それは駄目です』
純の声は即答だった。
「うん」
リサは頷いた。
「今は、駄目だってわかる」
彼女は戒十の影を見る。
「この子たちを見たから」
戒十は息を呑む。
「片方を殺して、片方を残す。あるいは両方消して、元に戻ったことにする。それ、夜の王と同じなんだよね」
リサは血の刃を握る。
「だから、殺しに行くんじゃない。見に行く。切るなら、強制定着の接続だけ」
『記録しました』
純の声が、少しだけ震えた。
『戻れなくなりそうなら、呼びます』
「呼んで」
『戻ってきてください』
「うん」
リサは頷いた。
嘘ではない。
少なくとも、今は。
戒十は左手を伸ばした。
クイーンの影核へ向かう道を探る。
共生状態の視界で、銀白色の巨体の内部構造を読む。
都市の影は外殻。
カオルコの紫の固有影核は胸元。
その奥にクイーンの黒い影核。
さらに深く、十六歳の少女の残像のようなものがある。
サリサ。
いや、本物のサリサではない。
リサとクイーンの両方が失ったもの。
夜の王が救おうとした少女。
肉体と影へ裂かれる前の、誰にも戻れない姿。
戒十は息を吸う。
「道を作ります」
影の戒十が内側で言う。
「十秒じゃ無理」
「じゃあ?」
「十五秒」
『十二秒です』
純が即答した。
「間を取られた」
「純らしい」
『余計な会話で一秒使いました。十一秒です』
リサが笑った。
「ほんと強い」
戒十はクイーンの胸元へ影を伸ばす。
切らない。
抉らない。
道を作る。
カオルコが内側から拘束している間だけ開く細い道。
リサはその道へ踏み出した。
◇
クイーンの影核内部は、病室だった。
古い病室。
窓の外には夜がある。
雨は降っていない。
風もない。
ベッドの横には、花瓶が一つ。
白い花が挿してある。
匂いはない。
すべてが、記憶の中の病室だった。
リサはそこに立っていた。
手には血の刃。
足元には、ほとんど影がない。
けれど、ここではその影のなさが、かえって痛々しく見えた。
ベッドの上に、少女がいた。
十六歳ほど。
痩せた身体。
長い髪。
白い寝間着。
サリサ。
リサは喉が詰まった。
その名を、自分の口で呼ぶのが怖かった。
ベッドの横に、黒い女が立っている。
クイーンだった。
今の巨大な女王ではない。
肉体を持たない影身としての姿。
サリサと同じ顔をしている。
だが、瞳は黒く、髪は夜のようで、足元は床に接していない。
クイーンはリサを見て笑った。
「来たのね」
リサは血の刃を握る。
「来た」
「私を殺しに?」
リサは刃を持ち上げかけた。
最初の衝動は、確かにそれだった。
ここでクイーンを刺す。
自分も巻き込まれる。
サリサの影核ごと崩れれば、クイーンの肉体化は止まる。
カオルコは救えるかもしれない。
都市の影も戻るかもしれない。
全部、自分の責任として終わらせられるかもしれない。
綺麗な結末。
痛みのある結末。
許されないけれど、わかりやすい結末。
だが、その瞬間、戒十と影の姿が脳裏に浮かんだ。
勝手に消えるな。
消すな。
奪うな。
閉じ込めるな。
危険だと知っているから条件を結ぶ。
完全に信じていないから、言葉にする。
あの二人は、完全ではないまま共生を選んだ。
なら、自分がここでクイーンを殺して終わらせるのは、何なのか。
片方を消して、残った片方が正しいことにする。
それは、百年前と同じではないのか。
夜の王がしたことと、何が違うのか。
リサは、刃を下げた。
クイーンの瞳がわずかに揺れる。
「刺さないの?」
「刺すかも」
リサは正直に答えた。
「でも、殺すためじゃない」
クイーンの顔が歪む。
「まだ綺麗なことを言う」
「綺麗じゃないよ」
リサは病室を見回した。
ベッドの上のサリサは動かない。
目を閉じている。
呼吸もしていない。
それは本物ではない。
失われたものの形をした残像。
リサは、それをようやく理解した。
「私たちは、ここには戻れない」
クイーンが鋭く言う。
「あなたは戻る気がないだけ」
「違う」
「違わない。肉体を持っていたあなたは、リサになった。店を持った。仲間を持った。新しい名前で生きた。私はここに置かれたまま、あなたが戻るのを待っていた」
リサは何も言わない。
クイーンの声が震える。
「私も、サリサだった」
「うん」
「私も、あの子の影だった」
「うん」
「なのに、あなたは私を閉じ込めた」
「うん」
「危険だから。憎んでいるから。肉体を欲しがるから。そう言って」
「うん」
「私のほうが、ずっと覚えていた!」
クイーンの叫びで、病室の窓ガラスがひび割れた。
「サリサの痛みも、怖さも、死にたくないって願いも、久世を信じたことも、裏切られたことも、全部覚えていた! あなたは忘れたふりをした!」
リサは拳を握る。
反論したかった。
忘れていないと言いたかった。
でも、忘れたふりはした。
見ないようにした。
クイーンの声を、悪意と呼んだ。
自分が持ちきれない怒りを、彼女のものにした。
自分が耐えきれない欲望を、彼女のものにした。
それで百年を生きた。
リサは、ゆっくり顔を上げた。
「あなたは」
声が震える。
それでも言う。
「あなたは、私が捨てた悪意じゃない」
クイーンの表情が止まった。
リサは続けた。
「私と一緒にいたものだった」
病室の空気が止まった。
クイーンの黒い瞳が揺れる。
それは怒りではない。
驚きでもない。
もっと古い、もっと幼い表情だった。
百年以上待っていた言葉を、ようやく聞いてしまった顔。
「……遅い」
クイーンの声は小さかった。
「うん」
「遅すぎる」
「うん」
「私は、ずっと」
「うん」
「ずっと、それが聞きたかった」
クイーンの声が涙に濡れる。
影に涙はない。
それでも、その声は泣いていた。
リサの目にも涙が浮かぶ。
だが、そこで抱きしめることはできなかった。
そこで、全部許すこともできなかった。
リサは一歩近づく。
「でも」
その言葉に、クイーンの顔が歪む。
「でも、って言うのね」
「言う」
リサは血の刃を握り直した。
「だからって、私を消していいわけじゃない」
クイーンの瞳に怒りが戻る。
「私の身体を奪っていいわけじゃない」
「あなたの身体は、私の身体でもある!」
「そうだったとしても、今の私はリサ」
リサは強く言った。
「私の身体を奪っていい理由にはならない」
クイーンが震える。
「カオルコを器にしていいわけでもない」
「彼女は私のために作られた」
「それを決めたのは夜の王でしょ」
「彼女も私を呼んだ!」
「呼ばされてた。欲しがってた。怒ってた。混ざってた。でも、彼女はカオルコだった」
クイーンの顔が、さらに歪む。
「みんな、名前を持っている」
声が低くなる。
「リサ。カオルコ。戒十。純。シン。みんな、今の名前を持っている。私は?」
病室の壁が黒く染まっていく。
「私は何? サリサ? クイーン? 影? 悪意? 失敗?」
クイーンがリサへ詰め寄る。
「答えて、サリサ!」
リサの胸が痛む。
その名で呼ばれると、身体の奥が裂けるようだった。
戻れない名前。
自分だったかもしれない名前。
でも、今の自分ではない名前。
リサは震えながら答えた。
「私はリサ」
クイーンが泣きそうな顔で睨む。
「でも」
リサは続けた。
「あなたがサリサを覚えていることまで否定しない」
クイーンの動きが止まる。
ベッドの上のサリサの残像が、わずかに揺れた。
それは本物ではない。
でも、二人の間に残った喪失の形だった。
リサは血の刃を持ち上げた。
クイーンが身構える。
「やっぱり刺すのね」
「刺す」
リサは言った。
「でも、あなたを消すためじゃない」
「何を」
「あなたとカオルコの肉体を、夜の王が作った定着経路で縛ってる。そこを切る」
クイーンの表情が変わる。
「切れば、私はまた肉体を失う」
「そうかもしれない」
「あなたは、また私を影へ戻すの」
「違う」
「何が違う!」
クイーンが叫ぶ。
病室が大きく揺れる。
外の中央再接続室も揺れているのがわかった。
カオルコの拘束が限界に近い。
時間がない。
リサは叫び返した。
「私にも、わからない!」
クイーンが息を呑む。
「救出なのか、再接続なのか、道連れなのか、わからない! でも、このままカオルコの身体をあなたの肉体として固定させることだけは、違うってわかる!」
クイーンがリサを見つめる。
リサは血の刃を握りしめる。
「私も、今度こそ見る。あなたを。カオルコを。サリサを失ったことを」
そして、刃を突き出した。
刃はクイーンの胸ではなく、彼女の背後に伸びる黒い接続点へ刺さった。
クイーンの影核と、カオルコの肉体を結ぶ強制定着の束。
夜の王が残した王鍵の残骸。
カオルコの固有影核へ食い込んでいた黒い鎖。
そこへ、リサの血の刃が刺さる。
痛みが、三人へ同時に走った。
クイーンが叫ぶ。
カオルコが叫ぶ。
リサも叫んだ。
刃は切断であり、縫合でもあった。
接続を断つ。
同時に、リサとクイーンの間へ、細い影脈のようなものが再び生まれる。
百年前に切られたもの。
完全には戻らない。
でも、なかったことにはできないもの。
それが、血の刃を通して一瞬だけつながった。
リサの足元に、影が生まれた。
ほんの薄い影。
自分のものなのか、クイーンのものなのか、サリサの残滓なのか、わからない。
でも、そこにあった。
「リサ!」
外から戒十の声が聞こえた。
遠い。
病室が崩れる。
窓が割れる。
ベッドの上のサリサの残像が、白い花びらのようにほどけていく。
クイーンはリサへ手を伸ばした。
怒っている。
泣いている。
憎んでいる。
それでも、その手は、突き飛ばすためだけではなかった。
「サリサ」
クイーンが呼んだ。
リサは泣きながら首を横に振る。
「私はリサ」
そして、手を伸ばした。
◇
中央再接続室で、クイーンの巨体が崩れた。
銀白色の外殻から、都市の影が一斉に剥がれていく。
純の管制で作られた足元の光へ。
白昼局とVIOLET DRAGONが呼ぶ名前のほうへ。
戻る影。
留まる影。
まだ迷う影。
それぞれが、女王の身体から離れていく。
だが、中央に残ったカオルコの肉体と、クイーンの影核と、リサの銀糸は絡み合ったままだった。
リサの身体が、クイーンの胸元から外へ弾き出される。
同時に、カオルコの肉体も崩れ落ちるように前へ倒れた。
その背後に、黒い女の影が重なる。
リサ。
クイーン。
カオルコ。
三つの影が、同じ場所で重なり、互いを押し出し、引き留め、ほどけようとしている。
施設が崩れ始めた。
夜の王の主影核が砕け、クイーンの定着経路が切れ、中央再接続室の制御盤が限界を超えたのだ。
床が割れる。
中央の縦坑が開く。
その下には、地下水脈があった。
宵浜市の古い地下を流れる黒い水。
夜の王が影紋保存液の冷却に利用していた水路。
そこへ、崩落した床片が落ちていく。
戒十は走った。
「リサさん!」
左手を伸ばす。
影の戒十も同時に手を伸ばした。
リサの指先が見えた。
銀糸が舞う。
カオルコの白い手が、リサの袖を掴んでいる。
クイーンの黒い影が、その二人を包んでいる。
助けたい。
間に合う。
届く。
戒十は身体ごと飛び込もうとした。
だが、足が止まった。
影が止めた。
「離せ!」
戒十が叫ぶ。
自分の影へ向かって。
「離せよ!」
影の戒十も叫んだ。
「離したい!」
その声は、苦しそうだった。
「僕も助けたい!」
「じゃあ!」
「でも、今離れたら、都市の影網が落ちる!」
戒十は息を止めた。
見えていた。
リサが強制定着を切ったことで、都市の影は一気に戻り始めている。
だが、まだ道が安定していない。
ここで戒十が共生状態を崩し、縦坑へ飛び込めば、影網への接続が切れる。
戻りかけた影が迷う。
クイーンから剥がれた影が、落影化するかもしれない。
病院の影。
駅前の影。
あの庭の子どもの影。
全部が、まだ途中にいる。
純の声が、通信から震えながら届く。
『戒十、影網を維持してください』
その声も、泣いていた。
『まだ、戻りきっていません』
「でも!」
『私も、助けたいです』
純の声が崩れそうになる。
『でも、今は街を戻してください』
戒十の左手が震える。
リサの姿が落ちていく。
クイーンの黒い影がそれを包む。
カオルコの紫の光が、一瞬だけ見えた。
リサの声が聞こえた気がした。
「黒猫くん!」
呼び声なのか、幻聴なのか、わからない。
「戻る道、作って!」
それだけが、はっきり届いた。
戒十は歯を食いしばる。
影の戒十も、同じ痛みで震えている。
初めてだった。
二人が同じ喪失を共有したのは。
昼の戒十だけの痛みではない。
影の戒十だけの痛みでもない。
同じ人を助けたい。
同じ手を伸ばしたい。
同じ理由で、それができない。
「助けたい」
戒十が言った。
「助けたい」
影も言った。
同じ言葉。
同じ痛み。
同じ声ではない。
それでも、同じだった。
「でも」
戒十は、涙が出そうなほど左手を握った。
「今は、街を戻す」
影の戒十が、苦しげに答えた。
「うん」
縦坑の底へ、リサ、クイーン、カオルコの影が落ちていく。
三つの影は、最後まで完全には一つにならなかった。
絡み合い、離れ、重なりながら、黒い地下水脈へ呑まれた。
轟音。
床が崩れる。
水の音。
そして、何も見えなくなった。
戒十は膝をつきそうになりながら、影網への接続を維持した。
純が、管制室で泣きながら光源を切り替える。
シンが補助制御室で左手だけを伸ばし、壁の影へ残った縫界を押し込む。
灰田が地上で怒鳴り続ける。
VIOLET DRAGONの住人たちが、名前を呼び続ける。
リサが落ちた。
クイーンも落ちた。
カオルコも落ちた。
それでも、夜はまだ終わっていない。
戒十は震える声で言った。
「戻れ、じゃない」
影の戒十が続ける。
「戻る場所を、選べ」
都市の影が、ゆっくりと、それぞれの足元へ帰っていく。
その黒い流れの中で、リサの薄い影だけは、最後まで見つからなかった。




