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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第五章 夜の終焉
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第十節 あなたはカオルコだった

 十秒。


 それだけの時間で、誰かを救えるはずがない。


 普通なら。


 けれど、今の戒十には、時間が違って見えていた。


 共生状態に入ってから、肉体の秒針と影の感覚がずれている。心臓が一度鳴る間に、影は何本もの道を嗅ぎ分ける。瞼を一度閉じる間に、街灯の下へ戻る影と、まだ壁際で震えている影の違いが見える。


 だが、それは万能ではない。


 むしろ、見えすぎる。


 クイーンの銀白色の身体の奥に、カオルコの固有影核があった。


 黒い花の蕾のような、小さな核。


 その周囲に、クイーンの影紋が絡みついている。


 王冠。


 黒猫。


 白い花。


 リサの影の欠片。


 夜の王が残した定着経路。


 それらが何重にも巻きつき、カオルコという小さな輪郭を押し潰そうとしていた。


 都市の影は、少しずつ外殻から剥がれ始めている。


 だが、カオルコだけは違う。


 彼女には戻る足元がない。


 自分の肉体そのものを、クイーンに使われているからだ。


『十秒』


 純の声が通信から届く。


『開始の合図で入ってください。リサさん、銀糸の準備を。戒十、影の戒十、中心部に触れすぎないでください。引きずり込まれます』


「触れすぎないって、どのくらい」


 戒十が聞く。


『わかりません』


「管制官」


『わからないことは、わからないと言います』


「正しいけど怖いな」


 影の戒十が内側で言う。


「じゃあ、僕が先に嗅ぐ」


「勝手に先に行くな」


「先に嗅ぐだけ」


「それを先に行くって言うんだよ」


『二人とも、言い合いは三秒以内にしてください』


 純が言った。


 リサが銀糸を指に絡めながら、ふっと笑う。


「純ちゃん、強い」


「治療直後なんですけどね」


「だから強いんだよ」


 リサはクイーンを見上げる。


 その顔から笑みが消えた。


 銀白色の巨体の胸元に、カオルコの顔がときおり浮かぶ。


 浮かぶたびに、クイーンの影がそれを押し戻す。


 そのたび、リサの指が強張った。


 カオルコ。


 呼ぶべき名前。


 ずっと呼べなかった名前。


 呼べば、何かを認めることになる。


 妹ではない。


 娘でもない。


 サリサの代替でもない。


 クイーンの器でもない。


 それなら何なのか。


 その問いから、リサは逃げていた。


 クイーンが、リサを見下ろす。


「来るの?」


 巨大な声に、カオルコの甘さが混ざっている。


「今さら」


 リサの肩がわずかに揺れる。


 戒十はその隣に立った。


「リサさん」


「わかってる」


 彼女は言った。


「わかってる。今さらだってことも、許してもらうためじゃないってことも」


 クイーンの胸元で、カオルコの顔が笑った。


 いや、笑わされたのかもしれない。


「お姉さまは、いつも遅い」


 その言葉に、リサは目を伏せなかった。


「そうね」


 彼女は答えた。


「遅かった」


 クイーンの表情が、わずかに曇る。


 責めても、言い訳が返ってこない。


 それは、クイーンにとってもカオルコにとっても、少しだけ予想外だったのかもしれない。


 純の声が入る。


『光源同期、来ます。五、四、三』


 中央再接続室の天井で、月光と施設照明と市内街灯の反射が、一瞬だけ同じ角度に揃う。


 クイーンの影の冠が、白く燃え上がる。


 その瞬間、胸元の影紋が薄くなった。


『二、一、今!』


 戒十は走った。


 リサも同時に駆ける。


 シンの影縫刀はない。


 シン自身も今はここにいない。


 だが、彼が作った三十秒が、まだこの場に残っている。影流が完全に暴走しきらず、足場がある。


 戒十はその足場を踏む。


 肉体の足で。


 影の爪で。


 同じ歩幅で。


 クイーンの黒い花弁が襲いかかる。


 それはカオルコの記憶を含んでいた。


 レシート。


 切符。


 白いガウン。


 調整室。


 父さま。


 お姉さま。


 猫ちゃん。


 純さん。


 選ばれなかった夜。


 それらが花弁となって、戒十の顔を裂こうとする。


 戒十は切らない。


 影の爪で逸らす。


 リサが銀糸で花弁を縫い止める。


 一枚一枚が痛みを持っている。


 銀糸を通してリサの指へ、それが伝わる。


 カオルコの嫉妬。


 リサへの憧れ。


 拒絶された怒り。


 純を噛んだときの興奮。


 自分が役割ではないと証明したかった必死さ。


 リサの指先から血が滲む。


 それでも、彼女は糸を離さなかった。


「カオルコ」


 最初の呼びかけは、風に消えそうなほど小さかった。


 クイーンが笑う。


「聞こえないわ」


 リサは歯を食いしばる。


 戒十がクイーンの胸元へ影の足場を作る。


 影の戒十が内側で叫ぶ。


「右、穴!」


「見えてる!」


「リサを上げる!」


「触りすぎるな!」


「わかってる!」


 戒十の影がクイーンの外殻に触れる。


 都市の影ではない部分。


 カオルコ固有影核へ続く、細い黒い根。


 そこへ、リサの銀糸を導く。


 リサが跳んだ。


 彼女は戦闘員ではない。


 シンのようには動けない。


 戒十のように影を走れない。


 それでも、銀糸を足場に、黒い花弁の間を抜ける。


 クイーンの巨大な手が、リサを払い落とそうとした。


 戒十が影でそれを逸らす。


 衝撃が左手へ返ってくる。


 痛い。


 だが、離さない。


『あと七秒!』


 純の声。


 リサが、クイーンの胸元の黒い蕾へ手を伸ばす。


 そこに、カオルコがいた。


 正確には、カオルコの固有影核だった。


 小さく、黒く、潰れかけた核。


 周囲をクイーンの影紋が覆い、内側から白い花の形をした拘束が刺さっている。


 カオルコは、その中で膝を抱えていた。


 少女の姿。


 白いワンピース。


 髪は乱れ、顔は青白い。


 彼女は目を開けている。


 でも、誰も見ていない。


 見られることを諦めかけた目だった。


 リサは息を吸った。


 今度は、逃げなかった。


「カオルコ!」


 声が、影核の中へ届いた。


 カオルコの目が動く。


 ほんの少しだけ。


「……呼ばないで」


 弱い声が返る。


「今さら」


「今さらでも呼ぶ」


 リサは銀糸を伸ばす。


 クイーンの拘束影紋が、リサの糸を焼く。


 指先に痛みが走る。


 それでも、糸は核の表面へ触れた。


「あなたは誰かの器じゃない」


 カオルコの表情が歪む。


「嘘」


「嘘じゃない」


「お姉さまは、わたくしを妹とは言わなかった」


「言えなかった」


「父さまは、わたくしを娘とは呼ばなかった」


「うん」


「お母さまは、わたくしを肉体にした」


「うん」


「なら、わたくしは何」


 声が震える。


 怒りと恐怖が混ざる。


「何なら、残ってよかったの」


 リサはすぐには答えなかった。


 都合のいい言葉を探さないために。


 妹だと言えば、嘘になる。


 許すと言えば、純の痛みを踏みにじる。


 かわいそうだと言えば、カオルコの加害を薄める。


 だから、リサは痛いまま言った。


「あなたがしたことは許せない」


 カオルコの目が見開かれる。


 リサは続けた。


「純ちゃんを傷つけたことも、戒十くんを追い詰めたことも、なかったことにはしない」


 カオルコの口元が、笑いそうに歪む。


「なら、どうして」


「それでも」


 リサの声が強くなる。


「あなたがカオルコだったことまで否定しない」


 銀糸が、カオルコの固有影核に巻きつく。


 拘束ではない。


 足場。


 核が崩れないように支える糸。


「あなたは、誰かの器じゃない」


 リサは言った。


「私の複製でもない。クイーンの肉体でもない。夜の王の作品でもない。あなたは、カオルコだった」


 カオルコの顔が、くしゃりと歪んだ。


 泣くのかと思った。


 だが、涙は出ない。


 代わりに、笑った。


「だった?」


 リサの表情が痛む。


「今も、って言いたい」


「言えばいいのに」


「言う」


 リサは息を吸った。


「あなたは、カオルコ」


 その瞬間、黒い核が脈打った。


 弱く。


 しかし確かに。


 カオルコの足元に、影が落ちる。


 小さな影。


 誰かから借りたものではない。


 クイーンの王冠でも、リサの失われた影でも、夜の王の定着経路でもない。


 カオルコ自身の影核が作った、小さな足元の影。


 カオルコはそれを見た。


 驚いたように。


 そして、唇を震わせた。


「……消えたくない」


 その言葉は、正義ではなかった。


 償いでもなかった。


 純を傷つけた罪を悔いているから、ではない。


 リサを救いたいから、でもない。


 ただ、自分自身の願い。


 消えたくない。


 妹としてではなく。


 娘としてではなく。


 器としてではなく。


 完成体の一部としてでもなく。


 カオルコとして、消えたくない。


 その願いが、固有影核の中心に火を灯した。


 黒い花の蕾が開く。


 中から、白ではなく、濃い紫の光が漏れた。


 カオルコは立ち上がる。


 弱々しく。


 しかし、自分の足で。


 クイーンの声が、頭上から響いた。


「無駄よ」


 巨大な影が核の内側へ伸びる。


「あなたは私の肉体」


 カオルコは顔を上げた。


 その目はまだ恐れている。


 けれど、さっきまでとは違う。


「お母さま」


 そう言いかけて、彼女は止まった。


 唇を噛む。


 そして、言い直す。


「クイーン」


 クイーンの気配が、一瞬だけ固まった。


 カオルコは笑った。


 ひどく疲れた、でも確かな笑いだった。


「あなたも、わたくしを器にした」


 黒い花の根が、カオルコの足元から伸びる。


 外へではない。


 内側へ。


 クイーンの影核へ向かって。


 戒十の影が反応する。


「拘束する気だ」


「カオルコが?」


「うん」


「自分の核から?」


「うん」


 純の声が通信から飛ぶ。


『あと三秒! リサさん、戻ってください!』


 リサは銀糸を引こうとする。


 だが、カオルコがその糸を掴んだ。


「お姉さま」


 リサの動きが止まる。


「許しませんわ」


 カオルコは言った。


 声は弱い。


 それでも、いつものような棘が戻っていた。


「今さら呼んだこと。今さら認めたこと。わたくしを救うふりをして、結局また置いていくかもしれないこと。全部、許しません」


 リサは頷いた。


「うん」


「でも」


 カオルコは、黒い根をさらに伸ばす。


 クイーンの影核が揺れる。


「消えるのは、もっと嫌」


 その言葉とともに、カオルコの固有影核がクイーンの内側へ根を張った。


 拘束。


 細く、弱く、長くは持たない。


 だが、確かにクイーンの動きを止めた。


 銀白色の巨体が、中央再接続室で硬直する。


 冠の動きが止まる。


 都市の影を引き込む力が、一瞬だけ途切れる。


 純が叫ぶ。


『今です! 影流、止まりました!』


 リサの銀糸が切れかける。


 戒十が走る。


 共生状態の影が、リサの足元へ滑り込み、彼女を引き戻す足場を作る。


「リサさん!」


「わかってる!」


 リサは最後にもう一度だけ、カオルコを見た。


 カオルコは、クイーンの内側で黒い根を抱え込むように立っている。


 苦しそうだった。


 怖そうだった。


 でも、消えていない。


「カオルコ!」


 リサが叫ぶ。


「あとで怒っていい!」


 カオルコは笑った。


「当然ですわ」


 次の瞬間、戒十がリサを引き戻した。


 銀糸が弾ける。


 クイーンの内側から、巨大な怒号が轟く。


「カオルコ!」


 クイーンの声。


 それは怒りだった。


 裏切られた怒り。


 器だと思っていたものに、内側から足を掴まれた怒り。


「あなたまで、私を縛るの!」


 カオルコの声が、遠くから返る。


「縛られる側は、もう飽きましたの」


 クイーンの巨体が震える。


 だが、まだ動けない。


 一瞬。


 本当に一瞬だけ。


 その一瞬を、全員が見た。


 戒十はリサを支えながら、クイーンの胸元を見る。


 カオルコの固有影核が、紫色に光っている。


 正義へ目覚めたわけではない。


 許されたわけでもない。


 罪が消えたわけでもない。


 ただ、消えたくないという願いが、誰かの器ではない自分を支えている。


 純の声が通信から響く。


『クイーン停止、推定八秒。戒十、リサさん、次の行動を』


 リサは息を荒げながら立ち上がった。


 指から血が流れている。


 銀糸は何本も切れている。


 それでも、目はまっすぐだった。


「あたしが、次に行く」


 戒十は彼女を見る。


「リサさん?」


「クイーンのところへ」


「危険です」


「知ってる」


「また、自分が消えればいいって思ってませんか」


 リサは一瞬だけ黙った。


 それから、苦笑した。


「思った」


 戒十が顔を強張らせる。


 リサは続けた。


「でも、それだけじゃない」


 彼女はクイーンの胸元を見る。


 カオルコの紫の光。


 その奥にいる、百年以上閉じ込めた影。


「カオルコが、自分の名前で止めた」


 リサの声は震えていた。


「じゃあ、あたしも行かなきゃ」


 純の声が通信から入る。


『リサさん』


「純ちゃん、また怒る?」


『怒ります』


「うん」


『でも、説明してください』


 リサは少しだけ目を閉じた。


 そして、はっきり言った。


「クイーンを殺しに行くんじゃない」


 その言葉が、中央再接続室に落ちる。


「私が閉じ込めたものを、見に行く」


 クイーンの拘束が、少しずつ軋み始める。


 八秒は、もう半分を過ぎている。


 戒十は左手を握る。


 影の戒十が内側で言う。


「行かせる?」


「止めたい」


「でも?」


「聞く」


 戒十はリサを見た。


「戻ってくる気はありますか」


 リサは、ほんの少しだけ驚いた顔をした。


 それから、笑った。


「ある」


「嘘じゃないですか」


「嘘じゃない」


「綺麗に消えようとしてませんか」


「してたら、純ちゃんに怒られる」


『怒ります』


 通信越しに即答が来る。


 リサは笑った。


「ほらね」


 クイーンの拘束が、さらに軋む。


 カオルコの声が、苦しげに響いた。


「長くは、持ちませんわよ……!」


 リサは銀糸を握り直した。


「十分」


 戒十は頷く。


「なら、行きます」


「黒猫くんも?」


「僕らは、道を作ります」


 影の戒十が続けた。


「戻る道も」


 リサの表情が、少しだけ柔らかくなった。


「頼もしいね」


「今だけです」


「今だけでいいよ」


 クイーンの身体が動き出す直前、カオルコの紫の核がもう一度強く光った。


 その光は、誰かを許すためのものではない。


 誰かに許されるためのものでもない。


 ただ、自分がいたと示すための光だった。


 あなたはカオルコだった。


 その言葉が、黒い女王の胸の奥で、確かに足場になっていた。

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