第十節 あなたはカオルコだった
十秒。
それだけの時間で、誰かを救えるはずがない。
普通なら。
けれど、今の戒十には、時間が違って見えていた。
共生状態に入ってから、肉体の秒針と影の感覚がずれている。心臓が一度鳴る間に、影は何本もの道を嗅ぎ分ける。瞼を一度閉じる間に、街灯の下へ戻る影と、まだ壁際で震えている影の違いが見える。
だが、それは万能ではない。
むしろ、見えすぎる。
クイーンの銀白色の身体の奥に、カオルコの固有影核があった。
黒い花の蕾のような、小さな核。
その周囲に、クイーンの影紋が絡みついている。
王冠。
黒猫。
白い花。
リサの影の欠片。
夜の王が残した定着経路。
それらが何重にも巻きつき、カオルコという小さな輪郭を押し潰そうとしていた。
都市の影は、少しずつ外殻から剥がれ始めている。
だが、カオルコだけは違う。
彼女には戻る足元がない。
自分の肉体そのものを、クイーンに使われているからだ。
『十秒』
純の声が通信から届く。
『開始の合図で入ってください。リサさん、銀糸の準備を。戒十、影の戒十、中心部に触れすぎないでください。引きずり込まれます』
「触れすぎないって、どのくらい」
戒十が聞く。
『わかりません』
「管制官」
『わからないことは、わからないと言います』
「正しいけど怖いな」
影の戒十が内側で言う。
「じゃあ、僕が先に嗅ぐ」
「勝手に先に行くな」
「先に嗅ぐだけ」
「それを先に行くって言うんだよ」
『二人とも、言い合いは三秒以内にしてください』
純が言った。
リサが銀糸を指に絡めながら、ふっと笑う。
「純ちゃん、強い」
「治療直後なんですけどね」
「だから強いんだよ」
リサはクイーンを見上げる。
その顔から笑みが消えた。
銀白色の巨体の胸元に、カオルコの顔がときおり浮かぶ。
浮かぶたびに、クイーンの影がそれを押し戻す。
そのたび、リサの指が強張った。
カオルコ。
呼ぶべき名前。
ずっと呼べなかった名前。
呼べば、何かを認めることになる。
妹ではない。
娘でもない。
サリサの代替でもない。
クイーンの器でもない。
それなら何なのか。
その問いから、リサは逃げていた。
クイーンが、リサを見下ろす。
「来るの?」
巨大な声に、カオルコの甘さが混ざっている。
「今さら」
リサの肩がわずかに揺れる。
戒十はその隣に立った。
「リサさん」
「わかってる」
彼女は言った。
「わかってる。今さらだってことも、許してもらうためじゃないってことも」
クイーンの胸元で、カオルコの顔が笑った。
いや、笑わされたのかもしれない。
「お姉さまは、いつも遅い」
その言葉に、リサは目を伏せなかった。
「そうね」
彼女は答えた。
「遅かった」
クイーンの表情が、わずかに曇る。
責めても、言い訳が返ってこない。
それは、クイーンにとってもカオルコにとっても、少しだけ予想外だったのかもしれない。
純の声が入る。
『光源同期、来ます。五、四、三』
中央再接続室の天井で、月光と施設照明と市内街灯の反射が、一瞬だけ同じ角度に揃う。
クイーンの影の冠が、白く燃え上がる。
その瞬間、胸元の影紋が薄くなった。
『二、一、今!』
戒十は走った。
リサも同時に駆ける。
シンの影縫刀はない。
シン自身も今はここにいない。
だが、彼が作った三十秒が、まだこの場に残っている。影流が完全に暴走しきらず、足場がある。
戒十はその足場を踏む。
肉体の足で。
影の爪で。
同じ歩幅で。
クイーンの黒い花弁が襲いかかる。
それはカオルコの記憶を含んでいた。
レシート。
切符。
白いガウン。
調整室。
父さま。
お姉さま。
猫ちゃん。
純さん。
選ばれなかった夜。
それらが花弁となって、戒十の顔を裂こうとする。
戒十は切らない。
影の爪で逸らす。
リサが銀糸で花弁を縫い止める。
一枚一枚が痛みを持っている。
銀糸を通してリサの指へ、それが伝わる。
カオルコの嫉妬。
リサへの憧れ。
拒絶された怒り。
純を噛んだときの興奮。
自分が役割ではないと証明したかった必死さ。
リサの指先から血が滲む。
それでも、彼女は糸を離さなかった。
「カオルコ」
最初の呼びかけは、風に消えそうなほど小さかった。
クイーンが笑う。
「聞こえないわ」
リサは歯を食いしばる。
戒十がクイーンの胸元へ影の足場を作る。
影の戒十が内側で叫ぶ。
「右、穴!」
「見えてる!」
「リサを上げる!」
「触りすぎるな!」
「わかってる!」
戒十の影がクイーンの外殻に触れる。
都市の影ではない部分。
カオルコ固有影核へ続く、細い黒い根。
そこへ、リサの銀糸を導く。
リサが跳んだ。
彼女は戦闘員ではない。
シンのようには動けない。
戒十のように影を走れない。
それでも、銀糸を足場に、黒い花弁の間を抜ける。
クイーンの巨大な手が、リサを払い落とそうとした。
戒十が影でそれを逸らす。
衝撃が左手へ返ってくる。
痛い。
だが、離さない。
『あと七秒!』
純の声。
リサが、クイーンの胸元の黒い蕾へ手を伸ばす。
そこに、カオルコがいた。
正確には、カオルコの固有影核だった。
小さく、黒く、潰れかけた核。
周囲をクイーンの影紋が覆い、内側から白い花の形をした拘束が刺さっている。
カオルコは、その中で膝を抱えていた。
少女の姿。
白いワンピース。
髪は乱れ、顔は青白い。
彼女は目を開けている。
でも、誰も見ていない。
見られることを諦めかけた目だった。
リサは息を吸った。
今度は、逃げなかった。
「カオルコ!」
声が、影核の中へ届いた。
カオルコの目が動く。
ほんの少しだけ。
「……呼ばないで」
弱い声が返る。
「今さら」
「今さらでも呼ぶ」
リサは銀糸を伸ばす。
クイーンの拘束影紋が、リサの糸を焼く。
指先に痛みが走る。
それでも、糸は核の表面へ触れた。
「あなたは誰かの器じゃない」
カオルコの表情が歪む。
「嘘」
「嘘じゃない」
「お姉さまは、わたくしを妹とは言わなかった」
「言えなかった」
「父さまは、わたくしを娘とは呼ばなかった」
「うん」
「お母さまは、わたくしを肉体にした」
「うん」
「なら、わたくしは何」
声が震える。
怒りと恐怖が混ざる。
「何なら、残ってよかったの」
リサはすぐには答えなかった。
都合のいい言葉を探さないために。
妹だと言えば、嘘になる。
許すと言えば、純の痛みを踏みにじる。
かわいそうだと言えば、カオルコの加害を薄める。
だから、リサは痛いまま言った。
「あなたがしたことは許せない」
カオルコの目が見開かれる。
リサは続けた。
「純ちゃんを傷つけたことも、戒十くんを追い詰めたことも、なかったことにはしない」
カオルコの口元が、笑いそうに歪む。
「なら、どうして」
「それでも」
リサの声が強くなる。
「あなたがカオルコだったことまで否定しない」
銀糸が、カオルコの固有影核に巻きつく。
拘束ではない。
足場。
核が崩れないように支える糸。
「あなたは、誰かの器じゃない」
リサは言った。
「私の複製でもない。クイーンの肉体でもない。夜の王の作品でもない。あなたは、カオルコだった」
カオルコの顔が、くしゃりと歪んだ。
泣くのかと思った。
だが、涙は出ない。
代わりに、笑った。
「だった?」
リサの表情が痛む。
「今も、って言いたい」
「言えばいいのに」
「言う」
リサは息を吸った。
「あなたは、カオルコ」
その瞬間、黒い核が脈打った。
弱く。
しかし確かに。
カオルコの足元に、影が落ちる。
小さな影。
誰かから借りたものではない。
クイーンの王冠でも、リサの失われた影でも、夜の王の定着経路でもない。
カオルコ自身の影核が作った、小さな足元の影。
カオルコはそれを見た。
驚いたように。
そして、唇を震わせた。
「……消えたくない」
その言葉は、正義ではなかった。
償いでもなかった。
純を傷つけた罪を悔いているから、ではない。
リサを救いたいから、でもない。
ただ、自分自身の願い。
消えたくない。
妹としてではなく。
娘としてではなく。
器としてではなく。
完成体の一部としてでもなく。
カオルコとして、消えたくない。
その願いが、固有影核の中心に火を灯した。
黒い花の蕾が開く。
中から、白ではなく、濃い紫の光が漏れた。
カオルコは立ち上がる。
弱々しく。
しかし、自分の足で。
クイーンの声が、頭上から響いた。
「無駄よ」
巨大な影が核の内側へ伸びる。
「あなたは私の肉体」
カオルコは顔を上げた。
その目はまだ恐れている。
けれど、さっきまでとは違う。
「お母さま」
そう言いかけて、彼女は止まった。
唇を噛む。
そして、言い直す。
「クイーン」
クイーンの気配が、一瞬だけ固まった。
カオルコは笑った。
ひどく疲れた、でも確かな笑いだった。
「あなたも、わたくしを器にした」
黒い花の根が、カオルコの足元から伸びる。
外へではない。
内側へ。
クイーンの影核へ向かって。
戒十の影が反応する。
「拘束する気だ」
「カオルコが?」
「うん」
「自分の核から?」
「うん」
純の声が通信から飛ぶ。
『あと三秒! リサさん、戻ってください!』
リサは銀糸を引こうとする。
だが、カオルコがその糸を掴んだ。
「お姉さま」
リサの動きが止まる。
「許しませんわ」
カオルコは言った。
声は弱い。
それでも、いつものような棘が戻っていた。
「今さら呼んだこと。今さら認めたこと。わたくしを救うふりをして、結局また置いていくかもしれないこと。全部、許しません」
リサは頷いた。
「うん」
「でも」
カオルコは、黒い根をさらに伸ばす。
クイーンの影核が揺れる。
「消えるのは、もっと嫌」
その言葉とともに、カオルコの固有影核がクイーンの内側へ根を張った。
拘束。
細く、弱く、長くは持たない。
だが、確かにクイーンの動きを止めた。
銀白色の巨体が、中央再接続室で硬直する。
冠の動きが止まる。
都市の影を引き込む力が、一瞬だけ途切れる。
純が叫ぶ。
『今です! 影流、止まりました!』
リサの銀糸が切れかける。
戒十が走る。
共生状態の影が、リサの足元へ滑り込み、彼女を引き戻す足場を作る。
「リサさん!」
「わかってる!」
リサは最後にもう一度だけ、カオルコを見た。
カオルコは、クイーンの内側で黒い根を抱え込むように立っている。
苦しそうだった。
怖そうだった。
でも、消えていない。
「カオルコ!」
リサが叫ぶ。
「あとで怒っていい!」
カオルコは笑った。
「当然ですわ」
次の瞬間、戒十がリサを引き戻した。
銀糸が弾ける。
クイーンの内側から、巨大な怒号が轟く。
「カオルコ!」
クイーンの声。
それは怒りだった。
裏切られた怒り。
器だと思っていたものに、内側から足を掴まれた怒り。
「あなたまで、私を縛るの!」
カオルコの声が、遠くから返る。
「縛られる側は、もう飽きましたの」
クイーンの巨体が震える。
だが、まだ動けない。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
その一瞬を、全員が見た。
戒十はリサを支えながら、クイーンの胸元を見る。
カオルコの固有影核が、紫色に光っている。
正義へ目覚めたわけではない。
許されたわけでもない。
罪が消えたわけでもない。
ただ、消えたくないという願いが、誰かの器ではない自分を支えている。
純の声が通信から響く。
『クイーン停止、推定八秒。戒十、リサさん、次の行動を』
リサは息を荒げながら立ち上がった。
指から血が流れている。
銀糸は何本も切れている。
それでも、目はまっすぐだった。
「あたしが、次に行く」
戒十は彼女を見る。
「リサさん?」
「クイーンのところへ」
「危険です」
「知ってる」
「また、自分が消えればいいって思ってませんか」
リサは一瞬だけ黙った。
それから、苦笑した。
「思った」
戒十が顔を強張らせる。
リサは続けた。
「でも、それだけじゃない」
彼女はクイーンの胸元を見る。
カオルコの紫の光。
その奥にいる、百年以上閉じ込めた影。
「カオルコが、自分の名前で止めた」
リサの声は震えていた。
「じゃあ、あたしも行かなきゃ」
純の声が通信から入る。
『リサさん』
「純ちゃん、また怒る?」
『怒ります』
「うん」
『でも、説明してください』
リサは少しだけ目を閉じた。
そして、はっきり言った。
「クイーンを殺しに行くんじゃない」
その言葉が、中央再接続室に落ちる。
「私が閉じ込めたものを、見に行く」
クイーンの拘束が、少しずつ軋み始める。
八秒は、もう半分を過ぎている。
戒十は左手を握る。
影の戒十が内側で言う。
「行かせる?」
「止めたい」
「でも?」
「聞く」
戒十はリサを見た。
「戻ってくる気はありますか」
リサは、ほんの少しだけ驚いた顔をした。
それから、笑った。
「ある」
「嘘じゃないですか」
「嘘じゃない」
「綺麗に消えようとしてませんか」
「してたら、純ちゃんに怒られる」
『怒ります』
通信越しに即答が来る。
リサは笑った。
「ほらね」
クイーンの拘束が、さらに軋む。
カオルコの声が、苦しげに響いた。
「長くは、持ちませんわよ……!」
リサは銀糸を握り直した。
「十分」
戒十は頷く。
「なら、行きます」
「黒猫くんも?」
「僕らは、道を作ります」
影の戒十が続けた。
「戻る道も」
リサの表情が、少しだけ柔らかくなった。
「頼もしいね」
「今だけです」
「今だけでいいよ」
クイーンの身体が動き出す直前、カオルコの紫の核がもう一度強く光った。
その光は、誰かを許すためのものではない。
誰かに許されるためのものでもない。
ただ、自分がいたと示すための光だった。
あなたはカオルコだった。
その言葉が、黒い女王の胸の奥で、確かに足場になっていた。




