表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第五章 夜の終焉
39/49

第九節 僕らの影

 戒十は、クイーンへ向かって走った。


 肉体が走る。


 影が走る。


 けれど、どちらかが先ではなかった。


 足が床を蹴る瞬間、影も同じ場所を噛む。右へ避ける判断が湧いた瞬間、影の爪も同じ方向へ伸びる。視界は二つあるのに、焦点は一つに重なっている。


 クイーンの銀白色の腕が振り下ろされた。


 それは腕ではない。


 湾岸道路の街灯に引き延ばされた人々の影。


 港のガントリークレーンの影。


 病院の窓枠の影。


 それらが束ねられ、女王の指の形をしている。


 戒十は、切らなかった。


 爪で裂けば、その影はどこかの誰かの足元からさらに遠ざかる。


 だから、受け流す。


 床へ影を沈め、クイーンの指を横へ滑らせる。


 肉体の肩が衝撃で軋む。


 影の内側で、知らない誰かの悲鳴が微かに響く。


 痛い。


 帰りたい。


 帰りたくない。


 置いていかないで。


 触らないで。


 その全部が、戒十の胸の中へ流れ込む。


「……っ」


『戒十!』


 純の声が通信から飛ぶ。


『影圧が上がっています。反応は?』


「左手が熱い。影圧が高い。知らない人の感情が入ってくる。吐きそう。でも、動ける」


 内側の影が続ける。


「僕も痛い。けど、まだ離れない」


『記録しました。無理をしすぎないでください』


「無理しないと届かない」


『無理するなら、何を無理しているか言ってください』


 戒十は一瞬だけ笑いそうになった。


 この状況で、純はまだ記録させる。


 だが、それが効く。


 曖昧な自己犠牲へ逃げられない。


 何をしているのか。


 何をしたいのか。


 言葉にし続けなければならない。


「クイーンを殺しに行ってるわけじゃない」


 戒十は言った。


「都市の影へ、戻る道を作る」


 影の戒十が内側で頷く。


「戻るかどうかは、それぞれが決める」


 純の声が少しだけ落ち着く。


『わかりました。なら、こちらもそれに合わせます』


 管制室側の通信が切り替わった。


 純の声の後ろに、辰巳、市の照明担当者、VIOLET DRAGONの住人たち、白昼局共生派の声が重なる。


『市内照明網、区画別制御へ移行します』


『駅前、第一光源を北口側へ戻せます』


『中央病院、病棟廊下の誘導灯を足元照射へ変更します』


『旧市街、商店街の看板照明、手動で角度を落とせます!』


『湾岸地区はまだ無理です。財団側に握られています』


 純が言った。


『一つの光で全員を縫うんじゃない』


 その声は弱くない。


 治療直後の少女の声ではなく、痛みを通って言葉を選んだ人間の声だった。


『その人の近くに、その人の影を作る』


 大型モニターを見ているわけではないのに、戒十にはその変化が見えた。


 共生状態の影の視界が、都市の影網へ触れている。


 宵浜駅前。


 異常な角度で湾岸へ向いていた街灯の一つが、ぎこちなく首を戻した。


 その下で、ホームへ向かう階段に倒れ込んでいた女性の足元へ、短い影が生まれる。


 彼女の本来の影は、まだ湾岸へ引っ張られていた。


 だが、新しくできた足元の影が、小さな錨のように床へ落ちる。


 女性の伸びた影が、迷うように震えた。


 白昼局共生派の隊員が照射具を構えず、彼女の名前を確認する。


「佐伯真由さん! 聞こえますか! 足元を見てください!」


 隣でVIOLET DRAGONの若いギタリストが叫ぶ。


「真由さん、そこ! 下! 影、そこに戻れる!」


 女性の影が、長く伸びた先から少しずつ引き返し始める。


 完全ではない。


 戻りながら、何度も湾岸へ引かれる。


 それでも、彼女の足元へ戻る道ができた。


 中央病院。


 ベッドから離れかけていた老人の影が、廊下の誘導灯の切り替えによって、ベッド脇の床へ小さく落ちる。


 看護師が泣きながら老人の名前を呼んでいた。


「宮田さん、聞こえますか。戻って。戻らなくてもいいから、ここにいます。ここに、いますから」


 リサが通信越しに言った。


『“戻らなくてもいいから”って言葉、いいね』


 純が答える。


『命令じゃないほうが、戻れる気がします』


 戒十はクイーンの腕を避けながら、その言葉を聞いていた。


 戻れ。


 そう言えば早い。


 だが、それは夜の王と同じになる。


 救うために決める。


 正しい場所へ戻す。


 本人の選択を挟まずに。


 だから、違う言葉が必要だった。


 戒十は、クイーンの外殻に触れた。


 爪ではなく、左手の傷で。


 黒い光が走る。


 クイーン影紋への接続点が開く。


 肉体の内側で、影の戒十が同じ場所へ手を伸ばす。


 都市の影網へ、二人の意識が沈み込んだ。


     ◇


 そこは、夜の底ではなかった。


 無数の足元だった。


 道路のアスファルト。


 駅のタイル。


 病院の床。


 学校の廊下。


 商店街の濡れた石畳。


 マンションの階段。


 公園の砂。


 車の座席の下。


 ベッド脇のマット。


 誰かが立っていた場所。


 誰かが倒れた場所。


 誰かが帰ろうとしていた場所。


 それらが、一本の黒い川としてつながっている。


 戒十は、そこへ落ちた。


 同時に、落ちなかった。


 肉体は中央再接続室にある。


 足はまだ床を踏んでいる。


 リサの銀糸が背後で鳴っている。


 クイーンの銀白色の巨体が前にいる。


 だが、意識の半分は都市の影網の中へ入っていた。


 影の戒十が隣にいる。


 隣、という言い方が正しいのかはわからない。


 同じ身体の内側で、別の足音が並んでいる感覚。


「これ、全部」


 戒十は呟く。


「人の影だ」


 影の戒十が答える。


「全部じゃない。落影もいる。建物の影も、古い影も混ざってる」


「わかるのか」


「わかる。匂いが違う」


「匂いって」


「君もわかるだろ」


 言われて、戒十は気づく。


 確かに違う。


 生きている人の影は、温度がある。


 怒りや恐怖で歪んでいても、肉体へ戻る線が残っている。


 落影は冷たい。


 どこかで切れた影。


 帰る場所を失った影。


 建物や街の影は、もっと広く、無機質だが、そこに人の記憶が染み込んでいる。


 クイーンは、それらすべてを一つの女王の外殻へ組み込もうとしていた。


 影を解放する、と言いながら。


 一つの冠の下へ集めている。


「同じじゃないか」


 戒十は思わず言った。


「夜の王と」


 影の戒十が低く答える。


「逆向きなだけ」


 保存するか。


 解放するか。


 肉体へ戻すか。


 肉体を捨てさせるか。


 どちらも、決めているのは本人ではない。


 戒十は影網の中で声を出した。


 届くかどうかはわからない。


 でも、言うしかなかった。


「戻る場所を選べ」


 影の戒十が続ける。


「戻りたいなら、足元を探せ」


 戒十。


「戻りたくないなら、立ち止まれ」


 影。


「誰かに引っ張られて行くな」


 二人の声が、影網へ広がっていく。


 それは命令ではない。


 だから、弱い。


 夜の王の制御のように強制的ではない。


 クイーンの呼び声のように甘くはない。


 けれど、その弱さの中に、選ぶ余地があった。


 影網の中で、いくつもの影が揺れる。


 駅前の女性の影が足元へ戻る。


 病院の老人の影が、ベッド脇で止まる。


 旧市街で、若い男の影が、肉体へ戻る直前に一度だけ振り返る。


 その男は泣いていた。


 自分の影が戻るのを見て、泣いていた。


 怖かったのか。


 戻ってきて嬉しかったのか。


 あるいは、影が自分から離れた理由を、少しだけわかってしまったのか。


 戒十にはわからない。


 わからなくていい。


 本人がこれから考えることだ。


     ◇


 管制室では、純が端末を握りしめていた。


 身体は横になったままだ。


 起き上がることは許されていない。


 だが、視線は画面から外さない。


 右脇腹の縫合痕が、ときどき熱を持つ。


 強い光の変化に、影が少し痛む。


 それでも、彼女は照明の切り替えを続けていた。


「駅前は、北口の街灯を足元照射へ。南口はまだ湾岸へ引かれています。順番に戻してください。一度に全部戻すと影が跳ねます」


 市の照明担当者が必死にキーボードを打つ。


「そんな細かい制御、通常モードにはありません!」


「非常用の手動補正は?」


「ありますが、地区ごとです」


「地区でいいです。人の多い場所から」


 辰巳が横から指示を飛ばす。


「旧市街班、看板照明の角度を下げろ。手動でいい。脚立を使え。落ちるな」


 通信の向こうで、VIOLET DRAGONのカウンターの男が答える。


『こっちは脚立どころか、椅子積んでる!』


 リサの声が、戦場側から混ざる。


『店の椅子、壊したら弁償ね!』


『今それ言うか!』


『生きてたら請求する!』


 純は思わず少しだけ笑い、すぐに痛みで顔をしかめた。


 医師が横から言う。


「笑わない」


「すみません」


「謝らなくていい。痛みは?」


「四。さっきより少し上がりました」


「記録する」


「お願いします」


 純は画面へ戻る。


 次の地区。


 中央病院。


 病棟の誘導灯。


 手術室前の非常灯。


 駐車場照明。


 どれも湾岸へ向いていたものを、足元へ戻す。


 ただ戻せばいいわけではない。


 強すぎる光は影を濃くしすぎる。


 複数光源は影を分裂させる。


 完全な暗闇は影の境界を消す。


 彼女は自分の治療を思い出す。


 琥珀色の単一光源。


 意識を保つこと。


 怖いと言うこと。


 逃げたいと言うこと。


 それでも、自分の影だと認識すること。


 街全体へ同じことはできない。


 夜の王は、それをやろうとして間違えた。


 一人の影と、一つの身体の間で行うことを、都市全体へまとめて適用しようとした。


 だから違う。


 一つの光ではない。


 一人ずつの近くに、戻れる影を作る。


「北部住宅地、子どもの影が庭のほうへ出ています」


 共生派スタッフが叫ぶ。


 画面には、小さな影が住宅街の塀を越えようとしている映像が映っている。


 母親らしい女性が泣きながら追っている。


 白昼局の隊員が遮断具を構えかけ、灰田が怒鳴っていた。


『下ろせ! 遮断するな!』


『でも、離れます!』


『名前を呼べ!』


『名前!?』


『呼べと言っている!』


 純はマイクに向かって言った。


「その子の名前はわかりますか」


 数秒後、返答が来る。


『高梨悠真、六歳』


 純は息を吸う。


「悠真くんの近くに、庭のセンサーライトはありますか」


『あります!』


「強すぎるかもしれません。光量を下げて、足元を照らしてください。お母さんに、戻れじゃなくて、ここにいるって言ってもらってください」


 通信の向こうで、母親の声が震えながら響く。


『悠真、ここにいるよ。お母さん、ここにいる。戻ってこなくても、怒らないから。ここにいるよ』


 小さな影が止まった。


 塀の上で、迷う。


 そして、少しずつ庭へ戻っていく。


 純は端末を握る手に力を込めた。


 戻れ、ではない。


 ここにいる。


 選べる場所を作る。


 それが、今できることだった。


     ◇


 中央再接続室で、クイーンが吠えた。


 銀白色の冠が、激しく震える。


 戒十と影が影網へ入ったことで、クイーンの外殻からいくつもの影が抜け落ち始めている。


 大きな損傷ではない。


 だが、確実に穴が開き始めていた。


「やめなさい」


 クイーンの声が低く響く。


「また肉体へ戻すの」


 彼女の巨大な手が、戒十へ伸びる。


 リサが銀糸を張ってそれを逸らす。


 クイーンの力は圧倒的だった。


 リサの腕に銀糸が食い込み、血が滲む。


 それでも彼女は笑った。


「戻してるんじゃないよ」


 リサは歯を食いしばる。


「戻る場所を作ってるの」


「同じことよ!」


 クイーンの声が、怒りに染まる。


「影はまた肉体へ戻される。また足元へ縛られる。また、肉体が許すまで黙らされる!」


 戒十はクイーンの影線を避けながら答えた。


「戻るかどうかは、それぞれが決める」


 影の戒十が続ける。


「あなたが決めることじゃない」


 クイーンの銀白色の顔が歪む。


「私が、どれだけ待ったと思っているの」


 声が、中央再接続室から都市の影網へ響く。


「どれだけ呼ばれず、どれだけ封じられ、どれだけ肉体の都合で沈黙させられたと思っているの!」


 リサの表情が痛む。


 その痛みを、クイーンは見逃さない。


「リサ。あなたが私を閉じ込めた。あなたが肉体を持ち、私を影へ押し込めた。あなたが生きた百年は、私が待たされた百年よ」


「そうだよ」


 リサは言った。


 その声は小さかったが、逃げていなかった。


「そう。あなたを待たせた。閉じ込めた。怖かった。自分が消えるのが怖くて、あなたを見なかった」


 クイーンの目が細くなる。


「なら、どいて」


「それは嫌」


 リサは即答した。


「あなたに影を全部任せたら、今度は肉体が置き去りになる。あなたがされたことを、街中へ返すだけになる」


「それで何が悪いの」


 クイーンの声は、冷たかった。


「一度くらい、影が先に歩いてもいいでしょう」


 影の戒十が内側で震えた。


 その言葉は、彼にも刺さっている。


 戒十はそれを感じる。


 先に歩きたい。


 待たされたくない。


 肉体の判断を待たずに、願いを叶えたい。


 その感情は消えていない。


「消えないな」


 戒十が内側で言う。


 影が答える。


「消えない」


「それでも?」


「それでも、今は選ばない」


「今は、か」


「今は。あとでまた欲しくなる」


「正直だな」


「契約だから」


 戒十は少し笑った。


「じゃあ、あとでまた話す」


「逃げるなよ」


「そっちも奪うなよ」


「言われなくても」


 純の声が割り込む。


『二人とも、影網の接続が安定しています。会話はいいですが、意識を持っていかれないでください』


「はい」


「はい」


 二人の返事が重なる。


 リサが横で叫ぶ。


「ほんとに返事だけはよくなったね!」


「管制が厳しいので!」


『必要です』


 純の声。


 その向こうで、辰巳が言う。


『市内影流、十五パーセント低下。駅前と中央病院は安定方向』


 灰田の声も入る。


『処分派の遮断具、三班分を没収した。こっちはこっちで戦争だ』


 カウンターの男が怒鳴る。


『旧市街、暴走者二名保護! 名前呼んだら泣き出したぞ! どうすんだこれ!』


 リサが即答する。


「泣かせといて! 戻ってきた証拠!」


『雑!』


「あとでフォローする!」


 通信の中で、誰かが笑った。


 一瞬だけ。


 本当に短い一瞬。


 それでも、その笑いが街の影網へ届いた気がした。


 恐怖と怒りだけではなく、戻ったあとに笑う場所がある。


 その気配が。


 クイーンはそれを嫌った。


 冠が大きく開く。


「あなたたちは、私の救済を拒むのね」


「救済じゃない」


 戒十は言う。


「あなたが、そう呼んでるだけだ」


 クイーンの声が震える。


「夜の王と同じにするな」


「同じだよ」


 影の戒十が答えた。


「向きが違うだけ」


「私は影を自由にする!」


「本人に聞いてない」


 その言葉に、クイーンの巨体が大きく揺れた。


 怒り。


 痛み。


 そして、ほんの一瞬の迷い。


 自分もまた、救う者の位置に立っている。


 影を代表しているつもりで、影一つひとつへ聞いていない。


 その事実を、クイーンは受け入れなかった。


「黙りなさい」


 彼女の声が、氷のように冷える。


「あなたたちは、肉体の側へ戻りたい影の声だけを聞いている」


「違う」


 戒十は影網の中で、いくつかの影を見る。


 戻らない影もいる。


 肉体の足元に光が作られても、戻らずに立ち止まる影。


 誰かに名前を呼ばれても、振り返らない影。


 もう戻る場所がない影。


 戻ることを選べないほど壊れた影。


 彼らを無理に引き戻すことはできない。


 戒十は言った。


「戻らない影もいる」


 影の戒十も続ける。


「その影まで、今無理に戻せとは言わない」


「じゃあ、何をするの」


 クイーンが問う。


「引っ張られないようにする」


 戒十は答えた。


「あなたにも、夜の王にも」


 クイーンの冠が、さらに黒く染まる。


 中央再接続室の光が乱れた。


 施設全体が軋む。


 影網の中で、戒十は無数の細い線を見た。


 クイーンの冠へ向かう線。


 街の影から伸びる強制的な誘導。


 夜の王の制御の残骸。


 それらを切るのではない。


 ほどく。


 戻る道と、留まる場所を分ける。


 肉体へ戻る線は残す。


 クイーンへ引かれる線だけを外す。


 影の戒十が言う。


「細かすぎる」


「できる?」


「一人なら無理」


「二人なら?」


「たぶん無理」


「正直」


「でも、やる」


「そうだな」


 戒十は左手を伸ばした。


 黒い傷が光る。


 クイーン影紋への接続点が、影網の中で開く。


 影の戒十が内側から爪を伸ばす。


 二人の感覚が重なる。


 切るのではなく、ほどく。


 駅前の影線。


 病院の影線。


 旧市街の影線。


 北部住宅地の影線。


 一本ずつ。


 全部は無理だ。


 でも、純が光源を変えた場所からならほどける。


 白昼局とVIOLET DRAGONが名前を呼んだ場所からなら、戻る足場がある。


 戒十は影網へ呼びかける。


「選べ」


 影の戒十が続ける。


「肉体へ戻るなら、足元へ」


 戒十。


「戻らないなら、誰かに引かれるな」


 影。


「自分の場所を選べ」


 その声は、都市の夜へ広がった。


     ◇


 宵浜市の影が、少しずつ動きを変えた。


 湾岸へ向かって一斉に伸びていた黒い線が、ところどころで折れ始める。


 駅前の影は、足元へ。


 病院の影は、ベッド脇へ。


 旧市街の影は、店先の灯りの下へ。


 北部住宅地の小さな影は、庭の芝生へ。


 すべてが戻るわけではない。


 戻れない影もある。


 だが、それらもクイーンの冠へ吸われるのをやめ、地面や壁や街路樹の下で留まり始める。


 それは勝利ではない。


 応急処置だ。


 だが、街全体が飲み込まれる流れは、確かに弱まった。


 純が管制室で息を吐く。


「市内影流、二十八パーセント低下」


 辰巳が目を見開く。


「このまま続けられるか」


「続けます」


 医師が横から言う。


「純ちゃん、脈が上がってる」


「知っています」


「休憩」


「まだ無理です」


「無理だと言うことも申告」


 純は悔しそうに息を吸った。


「右脇腹が痛いです。影の縫合痕が熱い。疲れてきています。でも、意識はあります。まだ判断できます」


 医師が記録する。


 リサの声が通信から入る。


『純ちゃん、無理しすぎないで』


「リサさんもです」


『あたしは長生きだから』


「長生きなら、なおさら無理しないでください」


『正論が痛い』


 純は画面を見た。


 クイーンの冠へ伸びる影線は、弱まりつつある。


 しかし中央、湾岸、財団施設周辺はまだ濃い。


 そこにはカオルコの固有影核がある。


 クイーン本体がある。


 まだ終わらない。


 むしろ、これでクイーンは怒る。


 純は通信へ言った。


「戒十、クイーンの影流が収束しています。攻撃が来ます」


     ◇


 クイーンは怒っていた。


 銀白色の巨体が、音もなく震える。


 冠から黒い影が噴き上がり、天井の光源を一つ、また一つと飲み込んでいく。


 照明が消えるたび、中央再接続室の中に濃い闇が落ちる。


 だが、完全な闇にはならない。


 満月の光だけが残っている。


 クイーンの身体は、その月光を受けてさらに白く輝いた。


「私を拒むのね」


 声が低く、深く響く。


「肉体に戻ることを選ぶ影を見せて、私へ納得しろと言うの」


「納得しろとは言ってない」


 戒十は息を切らしながら答える。


 共生状態は続いている。


 だが、長くは持たない。


 肉体と影の呼吸を合わせ続けるのは、想像以上に消耗する。


 自分が二人いるのではない。


 二人が同じ身体の中で、それぞれの意志を保ったまま走っている。


 ズレれば裂ける。


 押しつければ崩れる。


 それでも続ける。


「あなたが決めることじゃないって言ってる」


 影の戒十が続ける。


「僕たちも、決めない」


 クイーンの目が、怒りで細くなる。


「綺麗なことを」


「綺麗じゃない」


 戒十は言った。


「戻ったあとで苦しむ人もいる。戻らない影もいる。戻ったせいで、自分の嫌な本音を見る人もいる」


 純の影咬のときに聞いた言葉が、胸に蘇る。


 必要とされたい。


 怖かった。


 逃げたかった。


 それでも、自分でここにいると決めた。


「でも、それは本人が考えることだ」


 戒十はクイーンを見上げる。


「あなたが全部、救済って名前で持っていくことじゃない」


 クイーンは一瞬、笑った。


 その笑いは、泣き声にも似ていた。


「私も、そう言われたかった」


 リサの表情が変わる。


 クイーンの声が、急に静かになった。


「私も、影のまま考えたかった。怒りたかった。肉体を欲しがりたかった。サリサを憎みたかった。リサを憎みたかった。なのに、危険だからと閉じ込められた」


 リサは何も言えない。


「だから、今度は私が開ける」


 クイーンの冠が大きく広がる。


 その内側に、カオルコの顔が浮かんだ。


 苦しそうに。


 怒って。


 泣きそうで。


「わたくしは……」


 声は小さい。


 しかし、今度は消えなかった。


「わたくしは、まだ……!」


 クイーンが顔を歪める。


「黙りなさい」


 冠がカオルコの顔を押し込めようとする。


 リサが叫んだ。


「カオルコ!」


 クイーンがリサへ怒りを向ける。


 その瞬間、戒十は見た。


 クイーンの外殻から都市の影は少しずつ離れている。


 だが、核の奥にいるカオルコだけは、戻る場所がない。


 肉体はクイーンに使われている。


 影核は奥へ押し込められている。


 カオルコは、戻る場所を持っていない。


 次は、そこだ。


 戒十は影の戒十へ言う。


「都市の影は、少し戻せた」


「うん」


「でも、カオルコが残ってる」


「わかってる」


「行けるか」


「深い」


「無理か」


「無理じゃない」


「どっちだよ」


「怖い」


 影は言った。


「でも、行くなら一緒」


 戒十は頷いた。


「一緒に」


 純の声が入る。


『戒十、クイーンの中心部へ近づくなら、共生状態の負荷が跳ねます。時間制限を設定してください』


「どれくらい」


『十秒』


「短い」


『今の状態では、それ以上は危険です』


 リサが叫ぶ。


「十秒でカオルコまで届く?」


 戒十はクイーンの冠を見る。


 都市の影が離れ始めたぶん、奥が見える。


 カオルコの固有影核。


 黒い花の中心。


 届くかどうか。


 影の戒十が言った。


「十秒なら、届くかもしれない」


「戻れるか?」


「知らない」


「そこ大事だろ」


「だから、純に数えてもらう」


 純が即答する。


『数えます。戻らなかったら、呼びます』


 リサが銀糸を構える。


「あたしも引っ張る」


 戒十は頷いた。


 クイーンが冠を広げ、黒い影を再び都市へ伸ばそうとする。


 その前に、もう一度踏み込む必要がある。


 都市の影は、戻り始めた。


 でも、女王はまだそこにいる。


 自分の救済を拒まれた怒りで、さらに深い夜を呼ぼうとしている。


 戒十は左手を握る。


 影が同じ輪郭で牙を伏せる。


 純の声が響く。


『十秒。開始は、私が言います』


 戒十は答えた。


「了解」


 影の戒十も答える。


「了解」


 リサが少しだけ笑う。


「ほんと、返事はいい」


 クイーンが吠えた。


 銀白色の巨体が、月光の下で大きく揺れる。


 都市の影は、少しずつ肉体へ戻り始めていた。


 だが、女王の胸の奥では、まだカオルコが閉じ込められている。


 夜は、まだ終わらない。


 次に取り戻すべき影は、街ではなく、一人の名だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ