第八節 身体は一つ
補助制御室の扉を閉めた瞬間、戒十はもう一度だけ振り返りそうになった。
シンは床に座り、背を壁へ預けている。
右腕は、リサの銀糸と応急固定具で吊られていた。肉体としてはまだそこにある。肩から指先まで、人間の腕の形を保っている。
けれど影には、もう右腕がなかった。
医療用ライトが作るシンの影は、左腕だけで壁に映っている。右肩から先は、まるで最初から存在しなかったかのように途切れていた。
それが、ひどく現実味を持っていた。
血が流れるよりも。
悲鳴を聞くよりも。
失われた影の形を見せられるほうが、ずっと残酷だった。
「戒十」
シンの声が背中に届いた。
弱い。
それでも、命令の芯は残っている。
「行け」
今度は、置いていけという意味ではなかった。
戻ってくることを前提にした声だった。
戒十は振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる。
「はい」
短く答えた。
その返事を聞いたリサが、先に中央再接続室へ戻る通路を走る。
彼女の背には、シンの影縫刀が銀糸で固定されていた。刀を持つ姿は似合っていない。けれど、まったく不自然でもなかった。
リサは刃を抜かない。
抜いたところで、シンのようには使えない。
それでも、あの刀を置いていかない。
シンが生きていることと同じように、刀もまだ戦場に残す。
戒十はその後を追った。
足元の影が、彼より半歩遅れてついてくる。
半歩先ではない。
半歩遅れ。
それは珍しいことだった。
「どうした」
戒十は走りながら足元へ言った。
「痛い」
影の戒十が答えた。
正直な声だった。
「シンの右腕?」
「少し残ってる。いっぱい来た」
「都市の影?」
「うん。怖い。怒ってる。帰りたい。帰りたくない。置いていかないで。触らないで。全部一緒に来た」
戒十は歯を食いしばる。
縫界を支えたあの数十秒。
シンだけでなく、自分たちもわずかに影流へ触れた。
その残響が、まだ影の戒十の中に残っている。
「ごめん」
「謝るところ?」
「わからない」
「じゃあ、謝らなくていい」
影は少しだけ黙った。
「でも、さっき助けたのは、よかった」
「シンさんを?」
「うん」
「おまえが止めたんだろ。行かないって」
「君も止まった」
「純の受け売りだったけどな」
「借りても、使えば自分の言葉になる」
戒十は思わず影を見る。
「何それ」
「純っぽいことを言ってみた」
「似てるような、似てないような」
「うるさい」
そのやり取りが終わる前に、中央再接続室から轟音が響いた。
通路の壁が震える。
天井のパネルが何枚か落ち、白い火花が散った。
リサが立ち止まらずに叫ぶ。
「来るよ!」
「何が!」
「女王様のご機嫌!」
冗談の形をしているが、声は笑っていない。
戒十は速度を上げた。
扉の向こうから、銀白色の光が漏れている。
月光。
施設照明。
市内の街灯。
それらが重なった、影を作るための光。
中央再接続室へ戻った瞬間、戒十は息を呑んだ。
◇
クイーンは、さらに大きくなっていた。
中央再接続室の天井に届くほどの銀白色の巨体。
頭上には影の冠。
足元には、宵浜市全域から流れ込む黒い影の川。
その身体の表面には、街の断片が無数に浮かび上がっている。
駅のホームの影。
病院のベッド柵の影。
旧商店街の看板の影。
雨に濡れた道路の影。
学校の机の脚。
誰かの手。
誰かの髪。
誰かの小さな靴。
街に生きる人々の足元から剥がれかけた影が、女王の外殻に組み込まれている。
リサは一歩も引かなかった。
銀糸を広げ、シンの影縫刀を背負ったまま、クイーンを見上げる。
「派手になったね」
クイーンが笑う。
「ようやく、肉体を得たのよ」
「それ、カオルコの身体でしょ」
「彼女は私を呼ぶために作られた」
クイーンは答えた。
「そして、私がここへ来るために十分なほど育った」
「本人に聞いた?」
「肉体を持つ者は、いつもそれを言う」
クイーンの声が低くなる。
「聞いたか。許されたか。選ばれたか。影は、いつもその問いで閉じ込められる」
リサが言い返そうとした瞬間、戒十の足元の影が大きく揺れた。
クイーンの視線が、戒十ではなく、その影へ向く。
「あなたは、もう知っているでしょう」
その声は、影の戒十へ向けられていた。
戒十の背筋が冷たくなる。
クイーンは優しく言った。
「肉体人格は、最後にはあなたへ責任を押しつける」
影の戒十が止まった。
「違う」と、戒十は言おうとした。
だが、言えなかった。
違うと言い切れない。
一度、自分は身体を渡そうとした。
純を救うためという理由で。
自分が消えて、影に戦わせ、影に汚れを背負わせようとした。
その事実は消えない。
クイーンは笑った。
「身体を渡すなと言ったのは、あなた自身」
影の戒十の輪郭が、床で濃くなる。
「身体をくれるんじゃなくて、一緒に使え、と」
クイーンは、まるで大事な言葉を撫でるように言った。
「ならば、奪いなさい」
中央再接続室の光が、一瞬だけ戒十を照らす。
その影が、濃く、長く、女王の足元へ伸びる。
「閉じ込められる前に」
クイーンの声が、影の中へ染み込む。
「また美しい犠牲のために差し出される前に」
影の戒十が、戒十から少しだけ離れた。
ほんの数センチ。
だが、それだけで戒十の胸に穴が開いたような感覚が走る。
「おい」
声が掠れた。
影は返事をしない。
クイーンは続ける。
「あなたは身体が欲しい」
銀白色の指が、戒十の影へ向けられる。
「自分の口で話したい。自分の手で触れたい。自分の足で純の隣に立ちたい。雨に濡れたい。写真に写りたい。あなたは、それを欲しいと言った」
「言った」
影の戒十が答えた。
声は低い。
戒十の左手が熱くなる。
影が離れそうになるたび、左手の傷が内側から裂けるように痛む。
クイーンは嬉しそうに微笑んだ。
「なら、なぜ守るの」
その問いは、刃のようだった。
「あなたを閉じ込めてきた肉体人格を」
戒十は奥歯を噛む。
反論しなければと思う。
でも、頭の中に別の考えが滑り込んでくる。
自分が消えれば。
影が完全に動けば。
今より強くなれるのではないか。
クイーンの影網へも潜れる。
都市の影をたどれる。
純の管制に頼らなくても、影は影のまま女王へ届けるかもしれない。
リサを守れる。
シンの作った時間を無駄にしなくて済む。
純を、もう二度と傷つけずに済む。
自分が迷うから遅い。
自分が怖がるから止まる。
自分が人間の倫理に縛られるから、影の速さを殺している。
なら。
自分が奥へ引っ込めば。
影が前に出れば。
身体を全部、影へ明け渡せば。
「戒十」
純の声が通信から響いた。
その声で、戒十は息を取り戻した。
『今、何を考えましたか』
「……」
『申告してください』
戒十は言いたくなかった。
言えば、また怒られる。
軽蔑されるかもしれない。
純に。
リサに。
影に。
でも、言わなければ、同じことを繰り返す。
戒十は震える息を吐いた。
「僕が消えれば」
影の戒十が揺れる。
戒十は続けた。
「影が身体を使えば、もっと強く戦えるって思った。純も、リサさんも、シンさんも、街も、助けられるかもしれないって。だから、僕が奥に引っ込めばいいって、一瞬思った」
言い終えた瞬間、影の戒十が戒十へ向き直った。
その目が、怒っていた。
怖いほど怒っていた。
「また?」
影の声。
短い。
だが、痛烈だった。
戒十は言葉を失う。
影は床から立ち上がる。
人型に近い影。
獣の輪郭を内側に持った、戒十の影。
「また、僕に全部押しつけるの?」
「違う。今のは」
「違わない」
影の戒十は叫んだ。
中央再接続室に、その声が響く。
「助けたいから。守りたいから。強いほうがいいから。綺麗な理由を並べて、また僕に身体を渡そうとした」
戒十は何も言えない。
リサも、純も、口を挟まない。
これは、二人の問題だとわかっているのだ。
クイーンだけが、楽しげに見下ろしている。
「そうよ」
彼女は囁く。
「だから奪えばいい。押しつけられる前に、あなたのものにすればいい」
影の戒十は、クイーンを見た。
「閉じ込められたからって」
声が低くなる。
「同じことをしていいわけじゃない」
クイーンの表情が、わずかに変わった。
「何ですって」
「僕は身体が欲しい」
影は言った。
「今も欲しい。純の隣に立ちたい。自分の手で触りたい。君より前に話したい。写真に写りたい。全部、本当だ」
戒十は胸を掴まれたような気分になった。
影の欲望が、言葉になっていく。
それは自分を責める言葉ではない。
でも、聞くのは苦しい。
影は続けた。
「でも、君を追い出して身体を取ったら、僕は君と同じことをする」
クイーンの冠が、黒く揺れる。
「私と?」
「肉体を奪われたから、今度は奪う。閉じ込められたから、今度は閉じ込める。選ばれなかったから、今度は自分が選ぶ。それじゃ、同じだ」
クイーンの銀白色の顔に、怒りが浮かんだ。
「あなたに何がわかる」
「少しはわかる」
影は答えた。
「足元に押し込められること。勝手に危険だと決められること。名前がないこと。自分の言葉を、肉体の反応だとか病気だとか言われること」
そこで影は、戒十を見た。
「でも、だからって、戒十を消していい理由にはならない」
戒十の喉が詰まった。
呼吸がうまくできない。
純の声が、静かに入る。
『二人とも、呼吸を合わせてください』
その言葉で、戒十はようやく息を吸った。
影も、同じタイミングで揺れる。
クイーンの声が冷たくなる。
「甘いわ」
「甘くていい」
影の戒十が言う。
「僕は、君みたいになりたくない」
クイーンの影が、床を走った。
怒り。
銀白色の女王の手が、戒十と影を同時に押し潰そうとする。
リサが銀糸を飛ばし、シンの影縫刀を抜く。
しかし、刃はまだうまく扱えない。
銀糸がクイーンの手を少しだけ逸らす。
戒十は影と同時に後ろへ飛んだ。
だが、距離が足りない。
影のほうが先に反応する。
肉体の戒十が一瞬遅れる。
そのズレが、クイーンの狙いだった。
分断する。
肉体と影の呼吸をずらす。
影だけを引き抜く。
『戒十、影が離れます!』
純の声。
戒十は叫ぶ。
「止まれ!」
「命令するな!」
影が叫び返す。
「じゃあ、どう言えばいい!」
「頼め!」
「止まってくれ!」
「遅い!」
「でも言った!」
影が一瞬だけ止まる。
その一瞬で、クイーンの影の手が二人の間へ入り込んだ。
影の戒十を引き離そうとする。
戒十は手を伸ばす。
掴めない。
影は肉体ではない。
それでも、左手の傷から黒い光が噴き出した。
クイーン影紋への接続点。
そこから、戒十と影の間に細い影脈が見えた。
切れかけている。
細い。
けれど、まだある。
戒十はその影脈を掴むように、左手を握った。
痛みが走る。
爪が伸びかける。
瞳が熱くなる。
でも、完全な獣化ではない。
自分を失う感覚ではない。
影の戒十が内側から叫ぶ。
「渡すな!」
「奪うな!」
「閉じ込めるな!」
「消えるな!」
言葉が重なる。
リサが叫ぶ。
「言葉、整理して!」
「今やってます!」
戒十は苦しげに笑った。
こんな状況で、言葉の整理。
でも、それが必要だった。
力ではなく、条件。
激情ではなく、契約。
戒十は影を見る。
影も、戒十を見る。
「勝手に僕の身体を使うな」
戒十が言った。
影がすぐに返す。
「僕を勝手に閉じ込めるな」
「純を守るためでも、僕が消えるって言い出したら止めろ」
「僕が奪うって言い出したら止めろ」
「僕が怖がっても、勝手に前へ出るな」
「君が怖がっても、勝手に奥へ引っ込むな」
「血に呑まれたら止めろ」
「綺麗な犠牲に逃げたら噛む」
「噛むな」
「じゃあ殴る」
「影で殴るな。言え」
「二回言っても聞かなかったら?」
「純に言え」
通信の向こうで、純が息を呑んだ。
それから、はっきり答えた。
『聞きます』
リサが泣きそうな顔で笑った。
「名前会議の次は契約会議かあ」
「茶化さないでください!」
「茶化してない。ちょっとだけ感動してる」
クイーンの影の手が、さらに力を増す。
「そのような約束で、何が変わる」
女王の声が響く。
「肉体は裏切る。影は飢える。怖くなれば、またどちらかが相手を閉じ込める」
戒十は頷いた。
「そうかもしれない」
影も言う。
「僕も、また欲しくなる」
「僕も、また逃げたくなる」
「じゃあ」
クイーンが笑う。
「無意味だわ」
「無意味じゃない」
戒十は言った。
「だから条件を作るんだ」
影が続ける。
「完全に信じてないから」
戒十は影を見る。
「消えるな」
影が戒十を見る。
「消すな」
「僕を置いて、勝手に綺麗に終わるな」
「僕を置いて、勝手に身体を取るな」
「同じ人生を使うなら」
「一緒に責任を持て」
二人の声が重なった。
その瞬間、左手の傷が黒く光った。
焼けるような熱ではない。
冷たい痛みでもない。
内側から扉が開くような感覚。
戒十の影が、足元へ戻る。
ただ戻ったのではない。
肉体の足元に一つの影として落ち、その内側に獣の輪郭が重なった。
人の影。
猫のような獣の影。
二つは完全に溶け合わない。
互いの線を残したまま、同じ輪郭の中に収まっている。
戒十の瞳が琥珀色へ変わった。
だが、獣化ではない。
爪は伸びない。
牙も剥き出しにならない。
肉体は人の形を保ったまま、影の感覚だけが深く開く。
都市の影の流れが見えた。
クイーンの冠へ向かう線。
病院へ戻ろうとする影。
駅前で迷っている影。
旧市街の落影に絡まれた影。
リサの足元にほとんど影がないこと。
補助制御室で、シンの影が左腕だけで壁に映っていること。
管制室で、純の影が右側に細い縫合痕を残しながらも、彼女の身体と一緒にあること。
全部が見える。
全部を奪えそうだった。
全部に触れそうだった。
でも、触れない。
選ぶ。
戒十は息を吸う。
影の戒十も、内側で同じ呼吸を選ぶ。
純の声が震えた。
『戒十、影反応が変わりました』
リサが目を見開く。
「共生……」
彼女の声が掠れた。
「完全統合じゃない。分離でもない。二つのまま、同じ影に入ってる」
クイーンの巨大な目が、戒十を見る。
初めて、明確な苛立ちが浮かんだ。
「歪な形」
「そうかも」
戒十は答えた。
声は落ち着いていた。
自分の声だ。
でも、内側に影の声もある。
「でも、あなたの救済よりはましだ」
影の戒十が内側から言う。
「僕もそう思う」
戒十は少しだけ口元を歪めた。
「意見が合ったな」
「珍しい」
「失礼だな」
「事実」
リサが息を吐く。
「こういうときまで言い合うんだ」
「落ち着くので」
「それはよかった」
クイーンが手を振る。
銀白色の影が、再び戒十へ襲いかかる。
今度は見えた。
手ではない。
街の影を束ねた拘束。
肉体と影の間へ差し込み、共生を引き裂くための線。
戒十は動く。
影が先に動くのではない。
肉体が先でもない。
二つの判断が、同じ瞬間に重なる。
右へ。
低く。
足元の影で床を噛み、肉体の脚で踏み込む。
クイーンの影線を避け、一本だけ爪で弾く。
弾いた瞬間、その影線がどこのものか見えた。
駅前の防犯灯に引かれている影。
切ってはいけない。
戒十は引き裂かず、流れを逸らした。
純が通信で叫ぶ。
『今の流れ、駅前へ戻りました!』
「やっぱり」
戒十は言う。
「クイーンの身体、街の影でできてる。傷つけたら市内に返る」
「じゃあ、どうするの!」
リサが叫ぶ。
「取り戻す道を作る」
戒十の口から、その言葉が出た。
影の戒十も同時に言った。
「戻るかどうかは、それぞれが決める」
リサは一瞬だけ二人を見る。
それから、強く頷いた。
「純ちゃん!」
『聞こえています。市内光源、区画ごとに切り替えます。戒十、影流の戻る先を見てください』
「見る」
「僕が探す」
戒十と影の声が重なる。
完全に一つではない。
でも、同じ目的を選んでいる。
クイーンが冠を大きく広げた。
「影を肉体へ戻すの?」
「戻れって命令するんじゃない」
戒十は言った。
「戻る場所を作る」
「また肉体の足元へ?」
クイーンの声に怒りが混じる。
「そこが檻だと言ったでしょう!」
影の戒十が、内側から答える。
「檻かどうかは、本人が決める」
戒十が続ける。
「あなたじゃない」
クイーンの銀白色の巨体が震えた。
中央再接続室の光が、再び三十二方向に割れようとする。
だが、その前に純の声が飛んだ。
『次の同期、来ます。戒十、共生状態の安定時間は未知数です。無理に延ばさないでください』
「わかった」
「たぶん無理する」
影が言う。
「言うなよ」
「申告」
「じゃあ記録」
『記録しました。無理をしそうなら、私が止めます』
戒十は笑った。
「お願いします」
クイーンが吠えた。
銀白色の冠が膨れ上がり、都市の影をさらに引き寄せる。
今度は、戒十には見えた。
その冠の中心に、カオルコの固有影核が押し込められている。
小さく、黒く、まだ消えていない。
その奥に、クイーンの影核。
そして、さらに外側へ広がる都市の影。
この巨体をただ壊せば、街の影も、カオルコも、クイーンも一緒に散る。
だから、壊すだけでは駄目だ。
戒十は左手を握る。
黒い傷が光る。
影が足元で獣の輪郭を重ねる。
身体は一つ。
意志は二つ。
完全な信頼はない。
だが、条件はある。
戻るための声もある。
純が見ている。
リサが隣にいる。
シンが生きている。
だから、消えない。
だから、奪わない。
戒十はクイーンへ向かって走り出した。
影も、同じ身体の中で走った。
その一歩目は、今までで初めて、完全に同じ歩幅だった。




