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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第五章 夜の終焉
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第六節 女王の肉体

 夜の王が崩れたあと、中央再接続室には、しばらく誰の声もなかった。


 ただ、影だけが動いていた。


 黒瀬理人だったものは、白い床の上に膝をついた姿勢のまま、形を保てなくなっている。肉体はまだそこにある。だが、その中から主影核が砕け、歴代の影紋が剥がれ落ちたせいで、人としての輪郭が内側から消えていく。


 医療用コートの袖。


 白い指。


 頬の線。


 黒い瞳。


 それらが一瞬だけ別々の肉体の記憶へほどけ、すぐに灰のような影となって床へ落ちた。


 夜の王は死んだ。


 そう思いたかった。


 だが、室内を流れる影の圧力は、まったく弱まっていない。


 むしろ、強くなっている。


 制御する手が消えたぶん、都市全体から引き込まれた影が、行き場を失って暴れ始めていた。


 天井の光源が、白、青、黄色、赤、紫へと明滅する。


 そのたびに床の影が増え、割れ、重なり、また別の方向へ引き裂かれる。


 戒十は左手を押さえた。


 熱い。


 痛いほど熱い。


 足元の影が何度も湾岸側へ引かれ、また戒十の足元へ戻ろうとする。


「左手が熱い。影が引っ張られてる。方向が、揺れてる。クイーンの気配が強い。血の匂いは……カオルコの血。夜の王の影核の匂いも混じってる」


 言葉にすると、少しだけ自分の輪郭が戻る。


 純の声が通信から返った。


『記録しました。戒十、影の輪郭が二重に見えています。まだ共同操作はしないでください』


「わかってる」


「でも、来る」


 影の戒十が言った。


 戒十は足元を見る。


 影の琥珀色の目が、中央にいるカオルコを見ている。


「何が」


「女王」


 リサが息を呑んだ。


 その名を聞いただけで、彼女の足元の薄い影が震えた。


 カオルコは、夜の王だった影の残骸の前で膝をついている。


 首元の金属リングは砕けていた。


 白い医療用ガウンは黒い影に濡れ、片腕の採血痕からはもう血が流れていない。


 彼女の背中から、影の花が咲いていた。


 花弁ではない。


 王冠の先端。


 黒い棘。


 その一つ一つが、カオルコの背骨へ食い込むように伸びている。


 カオルコは肩で息をしていた。


 自分の胸元を両手で押さえ、何かを必死に押し戻そうとしている。


「……わたくしは」


 かすれた声。


 カオルコの声だった。


「わたくしは、まだ」


 そこで言葉が途切れた。


 彼女の首が、がくりと落ちる。


 床へ垂れた黒髪が、都市の影流へ浸かる。


 リサが一歩踏み出した。


「カオルコ!」


 シンが腕を伸ばして止める。


「近づくな」


「でも」


「もう定着が始まっている」


 シンの声は低い。


 リサはそれでも動こうとした。


 その瞬間、カオルコの影が床を走った。


 速い。


 リサの足元へ向かって、黒い花の根が伸びる。


 戒十の影が先に反応した。


「左!」


 戒十は身体をひねり、影と同じ方向へ踏み込む。


 爪ではなく、足裏で根の影を踏み潰す。


 黒い花が悲鳴のような音を立てて裂けた。


 リサはその場で止まる。


 息が乱れていた。


「……ありがとう」


「まだです」


 戒十はカオルコを見る。


 いや、もうカオルコだけではない。


 彼女の身体が、ゆっくり立ち上がる。


 手足の動きはカオルコのものだ。


 背筋の伸ばし方も、首を傾ける癖も、リサを見るときの未練が混じった目も、確かにカオルコのものだった。


 だが、その奥に別の気配がある。


 古い。


 暗い。


 肉体を持たないまま、百年以上待たされ続けた影の気配。


 カオルコの唇が動いた。


「お姉さま」


 リサの顔が強張る。


 呼び方はカオルコだった。


 しかし、声の奥は違う。


 甘さの中に、氷のような怒りがある。


 カオルコが、リサを姉として欲しがった感情。


 クイーンが、リサを自分の肉体を奪った相手として憎んだ感情。


 二つが重なり、一本の毒のような声になっていた。


「そんな顔をするのですね」


 クイーンは、カオルコの顔で笑った。


「また、選び損ねた顔」


 リサの手が震える。


「クイーン」


「ええ」


 クイーンは嬉しそうに頷く。


 その表情はカオルコのものだった。


 だからこそ、痛かった。


「でも、今の私はカオルコでもありますの。彼女の声。彼女の血。彼女の傷。彼女があなたをお姉さまと呼びたかったこと。全部、ここにある」


 彼女は自分の胸に手を当てた。


 白い指の下で、黒い影核が脈打つ。


「あなたは、彼女も選ばなかった」


 リサは言い返せなかった。


 違う、と言いたかった。


 でも、言えない。


 カオルコを妹として受け入れるとは言えなかった。


 彼女を器や作品としてだけ見るのは間違いだったと認めた。


 でも、彼女が望む形では選べなかった。


 それは事実だ。


 クイーンは、その事実を正確に突いている。


 そして、クイーン自身の傷も同じ場所にある。


 リサは、クイーンを閉じ込めていた。


 見ないふりをしていた。


 それも事実だった。


「肉体を持つ者は」


 クイーンが言った。


 声からカオルコの甘さが薄れ、古い女の冷たさが前へ出てくる。


「いつも選ぶ側にいる」


 中央再接続室の床で、都市の影がざわめいた。


「救うか、救わないか」


 クイーンの足元から、黒い花びらが広がる。


「認めるか、認めないか」


 リサのほとんどない影が、床へ貼りついた。


「名前を呼ぶか、呼ばないか」


 戒十の影が、彼より半歩前へ出る。


「身体を与えるか、閉じ込めるか」


 クイーンは、リサを見たまま笑う。


「影は待たされる。呼ばれるまで。許されるまで。危険ではないと判断されるまで。あなたたちの準備が整うまで。あなたたちが傷つかない距離に私たちを置けるまで」


「それで、あなたは何をするの」


 リサの声は震えていた。


 クイーンは答えた。


「今度は、私が選ぶ」


 その瞬間、中央再接続室の天井が開いた。


 物理的に開いたのではない。


 天井に埋め込まれた無数の光源が、同時に外部映像を映し出した。


 宵浜市の夜空。


 まだ完全な深夜ではないはずだった。


 だが、光源制御によって街全体が異様な暗さと明るさを同時に持ち、空には雲の切れ間から白い月が見えていた。


 満月。


 それが本物の月なのか、施設の投影と都市照明の反射が作った擬似的な満月なのか、戒十にはわからなかった。


 ただ、その光は確かに影を作った。


 強く、白く、冷たい光。


 施設照明が下から照らす。


 都市の街灯が湾岸へ向かって光を投げる。


 月が上から降る。


 三つの光源が重なり、カオルコの肉体を核にして、巨大な影が立ち上がった。


 黒ではない。


 銀白色。


 光を受けた影。


 矛盾した色を持つ巨大な人型が、中央再接続室の空間を満たしていく。


 身体の外側は、宵浜市から集められた影でできていた。


 ビルの窓枠。


 街路樹。


 駅の改札。


 病院のベッド柵。


 学校の机。


 車のハンドル。


 誰かの手。


 誰かの髪。


 誰かの足元。


 無数の影が、女の形へ組み上がっていく。


 頭上には、影の冠が形成された。


 棘のような、花弁のような、猫の耳のようにも見える冠。


 それを戴いた女王が、宵浜市の影の上に立つ。


 リサが呟いた。


「……そんな姿、知らない」


 クイーンは、銀白色の巨大な顔で彼女を見下ろした。


「あなたが知らない時間のほうが、長いのよ」


 リサの表情が痛む。


 クイーンの背後で、カオルコの顔が一瞬だけ浮かんだ。


 苦しそうに歪む。


「わたくしは、まだ」


 声はすぐに飲まれた。


 クイーンが片手で、自分の胸元を押さえる。


 カオルコの表情が消える。


「騒がしい子」


 クイーンは静かに言った。


「けれど、役には立つ。あなたへの感情が深い。リサ、あなたを引き裂くには、とても便利」


「カオルコを道具にするな!」


 戒十が叫んだ。


 左手が熱くなり、影が飛び出そうとする。


 純の声がすぐに響く。


『戒十、止まって! 影が冠のほうへ引かれています!』


 戒十は足を床へ踏み込む。


 影の戒十も、同じように床へ爪を立てた。


「左手が熱い。影が引かれてる。カオルコに反応。クイーンを殴りたい。噛みたい。でも、まだ動かない」


「僕も」


 影が言う。


「動きたい。でも、まだ動かない」


 純が、少しだけ息を吐く。


『記録しました。二人とも、そのまま』


 クイーンは、面白そうに戒十を見る。


「あなたたちは、まだ相談しているのね」


 銀白色の指が、戒十の影へ向けられる。


「肉体と影が並んでいる。けれど、どちらが選ぶのか、まだ決めきれていない」


「それを今、決めないために相談してるんだよ」


 戒十は答えた。


「勝手に決めるあなたより、ずっとましだ」


 クイーンの目が細くなる。


 その瞳の奥に、猫のような琥珀色が一瞬だけ浮かんだ。


「勝手に決めたのは、肉体の側よ」


 彼女は言った。


「影は、いつもあとから説明される。危険だから。未熟だから。今はまだ駄目だから。あなたも聞いたでしょう、戒十。身体を渡すと言われたときの気持ちを」


 影の戒十が震えた。


 戒十は足元を見る。


 影は、黙っていた。


 クイーンは続ける。


「肉体は、自分が美しく消えるために、影へ責任を押しつける。あるいは、影が望んだときだけ許可を出す。違う?」


「違わない」


 影の戒十が言った。


 戒十の胸が刺されたように痛む。


 影は続ける。


「でも、だからって、あなたに選ばれたいわけじゃない」


 クイーンの視線が影へ向く。


「身体が欲しくないの?」


「欲しい」


 影は即答した。


「でも、誰かの身体を奪ってまで欲しいとは言ってない」


「それは肉体に教え込まれた倫理よ」


「違う」


 影の声が低くなる。


「奪われる側の痛みを知ってるからだ」


 その言葉に、戒十は息を呑んだ。


 クイーンは、ほんの一瞬だけ表情を失った。


 だが、すぐに笑う。


「ならば、肉体から影を解放すればよい」


 彼女の声が、中央再接続室だけでなく、都市の影流へ乗った。


 通信機がノイズを鳴らす。


 管制室のほうでも、同じ声が響いているらしい。


 純が息を呑む音が聞こえた。


 クイーンの宣言が、宵浜市全域の影へ染み込む。


「肉体こそが檻」


 街のどこかで、人の影が立ち上がる。


「影は肉体へ従属させられてきた」


 駅のホームで、影が黄色い線の向こうへ先に進む。


「痛みも、怒りも、願いも、肉体が扱える範囲に押し込められる」


 病院の廊下で、眠る患者の影がベッドから起き上がる。


「ならば、影を先に歩かせる」


 旧市街の商店街で、閉店した看板の影が壁から剥がれる。


「肉体が追いつけないなら、置いていけばよい」


 リサが叫ぶ。


「やめなさい!」


 クイーンはリサを見る。


「あなたが、それを言うの?」


 リサの声が詰まる。


「私を閉じ込めたあなたが?」


「私は」


「あなたは肉体を持っていた。私にはなかった。あなたは店を持ち、人を持ち、時間を持った。私はあなたの影として封じられた。あなたは私を危険と呼び、自分はリサと名乗った」


 リサは震えている。


 しかし、今度は逃げなかった。


「そうよ」


 彼女は言った。


「私はあなたを閉じ込めた。見ないふりをした。怖かった。サリサへ戻されるのが怖かった。あなたに私の身体を奪われるのが怖かった」


 クイーンの目が細くなる。


「懺悔?」


「違う」


 リサは顔を上げる。


「それでも、あなたがカオルコを器にしていい理由にはならない」


 クイーンの巨大な身体が揺れた。


 カオルコの顔が、一瞬だけ胸の奥から浮かび上がる。


 苦しげに。


 怒りをこめて。


「お姉さま」


 それはカオルコだった。


 リサが息を呑む。


「カオルコ!」


 だが、すぐにクイーンの声が上書きする。


「呼ぶのが遅い」


 リサは歯を食いしばった。


 それはクイーンの挑発だ。


 カオルコの痛みを使っている。


 わかっている。


 それでも、痛い。


 クイーンは巨大な手を広げた。


 中央再接続室の床が割れるように、影流が四方へ広がる。


 夜の王は影を一か所へ集め、再統合しようとした。


 だが、クイーンは違う。


 集めた影を、肉体から引き剥がし、影自身の行きたい方向へ解放しようとしている。


 救済という名の解放。


 肉体を置き去りにした自由。


 それは、夜の王の思想の反転だった。


 夜の王は、変化を許さず保存しようとした。


 クイーンは、肉体の制約を捨て、影だけを走らせようとしている。


 どちらも、本人へ聞いていない。


『市内の影流が拡散しています!』


 純の声が緊迫する。


『駅前、病院、北部住宅地で影の離脱が増加。照明制御が効きません。クイーンが影そのものへ呼びかけています』


 辰巳の声も入る。


『白昼局各班、影脈遮断を行うな! 繰り返す、遮断するな! 単一光源固定へ移行!』


 別の通信が混ざる。


『無理です! 影が本人から走っていく!』


『拘束しろ!』


『拘束具が効かない!』


『処分派が遮断具を展開しています!』


 灰田の怒号が通信に割り込む。


『遮断するなと言っている! 責任者の名前を出せ!』


 市全体が崩れかけている。


 戒十は床の影を見た。


 自分の影も引かれている。


 肉体から離れたがっているわけではない。


 だが、クイーンの声が、影の中の欲望を揺さぶっている。


 先に歩きたい。


 身体を待ちたくない。


 自分の願いを、肉体の許可なく叶えたい。


 その衝動は、確かにある。


 戒十の中にも、似たものがある。


 誰かの許可を待ちたくない。


 選ばれる側にいたくない。


 見つけてほしい。


 必要とされたい。


 左手の熱が強くなる。


「戒十」


 影の声。


「僕、引っ張られてる」


「わかってる」


「行きたいわけじゃない」


「うん」


「でも、行けそう」


 戒十は息を吸った。


「じゃあ、止まる」


「止まる」


 二人で言う。


 足元の影が、戒十の足へぴたりと重なる。


 完全ではない。


 影の輪郭は震えている。


 でも、離れない。


 純の声が入る。


『戒十、影の離脱率が下がりました。そのまま。呼吸を合わせてください』


「合わせてる」


「君が少し速い」


「おまえが言うな」


「二人とも速いです」


 純が言った。


 こんな状況なのに、少しだけいつもの調子が戻る。


 戒十は短く息を吐いた。


「わかった。落とす」


 リサが銀糸を構える。


「純ちゃん、光源の隙は?」


『今、クイーンの外殻が月光、施設照明、市内街灯の三層で固定されています。単純に壊すと、市内の影が散ります』


「面倒な女王様だこと」


 リサの声は震えていない。


 だが、怒っていた。


 シンが低く言う。


「足元を止める」


「無理だよ、あれ都市一つ分だよ」


「全部は止めない。流れの一部を縫う」


「シン」


 リサが彼を見る。


「右腕」


「使える」


「無理する気?」


「申告する」


 シンは短く答えた。


「右腕に痺れ。影接続は不安定。長時間は無理。だが、今必要だ」


 純の声が即座に入る。


『必要だと決めた人の名前は?』


 シンは一瞬だけ黙った。


 それから答えた。


「俺だ」


『記録しました。無理を継続する場合、撤退判断は一人でしないでください』


「了解」


 リサが小さく笑う。


「シンが管理されてる」


「必要な管理だ」


「素直」


「状況が悪い」


 シンは影縫刀を構え直す。


 クイーンは、それを見下ろしていた。


「縛るの?」


 巨大な声が響く。


「また影を縛るの?」


 シンは答えない。


 刀の影を床へ沈める。


 クイーンの足元ではなく、中央再接続室の床を流れる影流の一部へ。


 縫う。


 切るのではない。


 流れを一時的に留める。


 その瞬間、シンの右腕が大きく震えた。


 影流の圧力が、刀を通して彼の腕へ戻る。


 シンは歯を食いしばった。


 戒十が動こうとする。


 リサが叫ぶ。


「今は前!」


 クイーンの巨大な手が、リサへ向かって伸びていた。


 カオルコの感情を使って。


 リサの罪を突くために。


 お姉さま。


 呼んで。


 選んで。


 遅い。


 全部遅い。


 無数の声が、黒い花びらとなってリサへ降る。


 リサは逃げなかった。


 銀糸を広げ、花びらを受け止める。


 ひとつひとつが痛みを持っている。


 クイーンの怒り。


 カオルコの嫉妬。


 リサ自身の罪悪感。


 それらが銀糸を伝って彼女の指を裂く。


 血が流れる。


 その血が、ほとんど影のない足元へ落ちた。


 リサは痛みに顔を歪めながら、それでも言った。


「カオルコ!」


 クイーンの動きが、一瞬だけ止まる。


「あなたは器じゃない!」


 銀白色の巨体の胸元で、カオルコの顔が浮かぶ。


 苦しそうに。


 ほんの一瞬。


「……わたくしは、まだ」


 次の瞬間、クイーンがその顔を押し潰すように、影の冠を輝かせた。


「まだ、ではない」


 彼女は言った。


「もう、私の肉体よ」


 クイーンの影が、さらに大きく膨れ上がる。


 中央再接続室の壁がひび割れる。


 上部の投影天井に映る宵浜市の夜景が歪む。


 街中の影が、肉体から半歩ずつ離れ始めた。


 純の声が、叫びに近くなる。


『市内離脱率、上昇! このままだと、影が戻れなくなります!』


 戒十はクイーンを見上げた。


 巨大な銀白色の女王。


 影の冠。


 カオルコの肉体を核にして、都市の影を外殻にした存在。


 夜の王が残した制御を食い破り、その思想を反転させ、今度は影の側から都市を飲もうとしている。


 夜は、まだ終わらない。


 だが、今ははっきりした。


 夜の王ではない。


 ここから先、本当に止めなければならないのは、女王だ。


 戒十は足元の影へ言った。


「行くぞ」


「共同操作?」


「まだじゃない。準備」


「早く」


「焦るな」


「焦ってる」


「僕もだよ」


 影が一瞬だけ黙った。


 それから言った。


「じゃあ、言う」


「何を」


「怖い」


 戒十は息を止めた。


 影が怖いと言った。


 怒りや欲望ではなく。


 怖いと。


 戒十は頷いた。


「僕も怖い」


「でも、行く?」


「行く」


「身体は渡すなよ」


「渡さない」


「僕も奪わない」


「知ってる」


 純の声が入る。


『二人とも、準備はそこで止めてください。次に光源が揃う瞬間があります。そこまで待って』


 リサが銀糸を張り直す。


 シンが右腕の震えを押さえる。


 クイーンが、都市の影を背負って笑う。


 中央再接続室のすべての光が、銀白色の女王を照らしていた。


 影を解放する。


 女王はそう宣言した。


 だが、戒十にはわかっていた。


 それは解放ではない。


 肉体の側が勝手に決めることと同じように、影の側が勝手に決めることもまた、誰かの人生を奪う。


 足元の影が、彼と同じ方向を見ている。


 まだ完全ではない。


 でも、今だけは同じだった。


 女王の肉体は、宵浜市の影でできている。


 だからこそ、止めるには、街の影を傷つけずに取り戻さなければならない。


 夜の王の死で空いた中央に、クイーンが立った。


 その頭上の冠が、満月の光を受けて白く燃える。


 宵浜市の影が、悲鳴のように揺れた。

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