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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第五章 夜の終焉
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第五節 カオルコの親殺し

 夜の王が処置を続けると言った瞬間、中央再接続室の床が鳴った。


 地震ではない。


 床そのものの下を、巨大な影の川が流れている音だった。


 宵浜市中から集められた影が、光によって引き延ばされ、この地下へ流し込まれている。天井の光源は三十二方向へ分割され、床には都市の地図のような影が走り、いくつもの黒い線が夜の王の背後へ集まっていく。


 戒十は一歩踏み出しかけ、止まった。


 足元の影も同時に止まる。


 行きたい。


 壊したい。


 夜の王の影核へ飛びかかりたい。


 だが、まだ早い。


 純の声が通信から飛ぶ。


『戒十、共同操作はまだ。光源が多すぎます。影が分割されます』


「わかってる」


「僕は少しなら」


「駄目」


 戒十と純がほぼ同時に言った。


 影の戒十が、不満げに揺れた。


「二人で言わなくてもいい」


 リサが銀糸を両手に広げ、天井の光源の角度を見上げる。


「三十二方向って、最悪。街中の照明をここへ集約してるだけじゃなくて、あたしたちの影も細かく割る気だね」


 シンが影縫刀を構えたまま、床の影流を見ている。


「単純に斬れば、市内の影も傷つく」


「そういう設計にしてるんだよ」


 リサの声は低い。


「自分を攻撃されたら、都市の影に反動が行く。あいつらしい」


 夜の王は、彼らの会話を遮らなかった。


 急いでいない。


 それどころか、彼は治療の準備が整うまで待っている医師のように、静かに中央の制御盤へ手を置いていた。


「戦闘は避けられる」


 彼は言った。


「まだ取引の余地はある」


 戒十は唇を噛む。


「まだ言うんですか」


「言う。私は君たちを失いたいわけではない」


 夜の王の声には、本当に惜しむ響きがあった。


 それが、余計に腹立たしかった。


 そのとき、中央再接続室の奥で、黒い花が咲いた。


 床を流れる都市の影とは違う。


 もっと濃く、もっと甘く、もっと刺すような白花の匂いを含んだ影。


 戒十の左手が熱くなる。


 リサの表情が変わる。


「カオルコ」


 黒い花は、影の川の上に浮かんだまま、人の形へほどけていく。


 白い医療用ガウン。


 乱れた黒髪。


 首元の金属リング。


 片腕には、先ほど戒十が採血した痕が残っている。


 カオルコは裸足だった。


 足元の影は、彼女自身のものなのか、クイーンのものなのか判別できないほど濃く、花弁のように広がっている。


 彼女はリサを見た。


 戒十を見た。


 シンを見た。


 そして最後に、夜の王を見た。


「父さま」


 その呼び方は、以前よりずっと静かだった。


 甘さはない。


 縋る響きもない。


 ただ、確認するための声だった。


 夜の王は彼女へ向き直る。


「カオルコ。調整室を離れたのか」


「ええ」


「影核の状態が不安定だ。今は定着槽へ戻りなさい」


 カオルコは笑った。


 小さく、上品に、いつものように。


 けれど、その笑いはガラスでできているようだった。


「戻る前に、お聞きしたいことがありますの」


 夜の王は少しだけ眉を動かした。


「今でなければならないのか」


「今でなければ、わたくしが残っているかわかりませんもの」


 中央再接続室の光が、一瞬だけ揺れた。


 リサが息を呑む。


 戒十はカオルコの横顔を見る。


 彼女はもう知っている。


 自分が妹ではなく、器だったことを。


 クイーン定着後に、固有影核が除去される予定だったことを。


 それでもここへ戻ってきた。


 父と呼んだ相手へ、最後に直接聞くために。


 カオルコは一歩進んだ。


 黒い花びらが、足元で擦れる。


「わたくしは、最後に残りますの?」


 夜の王は、答えなかった。


 ほんの短い沈黙。


 しかしカオルコにとっては、それだけで十分だったように見えた。


 彼女は少しだけ首を傾げる。


「否定してくださらないのね」


「君は消えない」


 夜の王は言った。


 その声は、以前と同じく穏やかだった。


「君は、より完全な存在の一部となる」


 カオルコの唇が、ゆっくり弧を描いた。


 笑った。


 今度ははっきりと。


「それは、あなたが何度も自分へ言い聞かせた言葉でしょう?」


 夜の王の表情が初めて止まった。


 背後の影紋柱が、微かに震える。


 カオルコは続ける。


「肉体が変わっても、記憶が移っても、影紋が継承されても、自分は久世玄理である。原初のあなたは消えていない。より大きな継続体として完成している」


 彼女は一歩ずつ、夜の王へ近づいた。


「そう言い聞かせなければ、怖かったのでしょう?」


「カオルコ」


 夜の王の声が、わずかに低くなる。


「君は今、情動反応が不安定になっている」


「また、それ」


 カオルコは笑った。


「情動反応。自己保存反応。統合ノイズ。父さまの言葉は、いつも綺麗ですわね」


 リサが一歩前へ出た。


「カオルコ、下がって」


 カオルコはリサを見ない。


「お姉さまは黙っていて」


「今のあなた、危ない」


「知っていますわ」


 カオルコはようやくリサへ視線を向けた。


 目の奥で、黒い花が揺れている。


「わたくしは、ずっと危なかったのでしょう? 壊れやすくて、不安定で、感情反応が強すぎる。だから調整され、縫われ、血を入れられ、役割を与えられた」


 彼女は小さく息を吸う。


「妹。娘。器。基盤。完成体の一部」


 声が震えた。


「どれも、わたくしの名前ではありませんでしたわ」


 夜の王は、ゆっくり手を上げた。


 中央制御盤の一部が開く。


 そこに、小さな黒い鍵のような影紋が浮かんでいた。


 王冠にも、針にも見える。


 リサの顔色が変わる。


「王鍵……!」


 シンが即座に動こうとした。


 だが、床の影流が壁のように盛り上がり、彼の足元を遮る。


 戒十の影が飛び出しかける。


『まだ!』


 純の声が飛ぶ。


『光源が割れています。今突っ込むと、戒十の影が三方向に裂けます!』


 戒十は歯を食いしばる。


 目の前でカオルコが止められようとしている。


 それでも、無理に動けば市内の影流まで乱れる。


 夜の王は王鍵へ手をかざした。


「カオルコ。君の反応は想定より強い」


 カオルコは動かない。


 いや、動けないのかもしれない。


 首元の金属リングが黒く光り始めている。


「だが、基盤としては十分に成熟した」


 夜の王の声は、最後まで合理的だった。


「停止は破壊ではない。君の情報は保存される。君はクイーンとサリサの再構成に必要な一部として残る」


 カオルコの口元が歪む。


「あなたの言葉は、いつも殺す前だけ優しい」


 王鍵が回った。


 音はしなかった。


 しかし、カオルコの身体が大きく痙攣した。


 黒い花びらが一斉に散る。


 首元の金属リングから影紋が走り、胸の奥へ突き刺さる。


 カオルコの固有影核を停止させるための命令。


 彼女の膝が折れた。


 リサが叫ぶ。


「カオルコ!」


 戒十の影が唸る。


 シンが刀を床へ突き立て、影流の壁を縫い止めようとする。


 だが、夜の王の制御は強い。


 都市中の影が、この部屋へ流れ込んでいる。


 彼一人の力ではない。


 街そのものを術式の一部にしている。


 カオルコは床に手をついた。


 指が震える。


 胸の奥で、黒い核が軋む音が聞こえた気がした。


 彼女自身の固有影核。


 器として作られた身体の中で、四年かけて育ってしまった小さな核。


 名前を選び、レシートを集め、怒り、嫉妬し、傷つき、呼ばれたがり、選ばれなかったことを覚えていた核。


 それが、王鍵の命令へ抵抗していた。


 カオルコは笑った。


 苦しげに。


 けれど確かに笑った。


「父さま」


 夜の王が見下ろす。


「落ち着きなさい。停止が終われば、苦痛は消える」


「消えるのでしょうね」


 カオルコは顔を上げた。


 その目は、もう娘の目ではなかった。


「わたくしが」


 次の瞬間、カオルコの影が床を噛んだ。


 いや、床ではない。


 影流の奥に伸びていた、夜の王の主影核へつながる黒い管。


 彼女は、それに食らいついた。


 《影喰い》。


 純の影を噛んだ力。


 戒十を獣化へ追い込んだ力。


 他者へ傷を残し、自分の存在を刻みつけるために使ってきた力。


 その力が、初めて自分を作った者へ向いた。


 夜の王の表情が変わった。


「カオルコ」


 声に、初めて焦りが混ざる。


 カオルコの影が、夜の王の影核へ牙を立てる。


 黒い花弁が、影紋柱の根元へ広がる。


 夜の王の背後に並んだ歴代の影紋柱が、一斉にひび割れた。


 光が溢れる。


 いや、記憶だった。


     ◇


 最初に流れ込んだのは、古い病室の匂いだった。


 薬草。


 血。


 煤。


 乾いた木の床。


 細い少女の呼吸音。


 サリサ。


 十六歳の少女が、白い寝台の上で影を遅らせている。


 若い医師が、その影を見ている。


 彼はまだ夜の王ではない。


 久世玄理。


 彼は疲れていた。


 眠っていなかった。


 それでも、目だけは異様に強かった。


 死なせない。


 死を、敗北にしない。


 サリサの影身に保存されている情報を見つけたとき、彼は歓喜した。


 救える。


 肉体が死んでも、影が残るなら。


 影を分ければ。


 保存すれば。


 再構成すれば。


 次に流れ込んだのは、実験室の光だった。


 サリサの身体。


 引き剥がされる影。


 肉体側で目を覚ます少女。


 影側で叫ぶ黒い女。


 若い久世は、その両方を見ていた。


 彼は泣いていた。


 だが、泣きながら記録していた。


 成功。


 機能分割。


 再統合要。


 その次に、老いた久世の手が見えた。


 震える指。


 自分の脈を測る。


 死が近い。


 自分の理論を、自分へ使う。


 影紋移植。


 記憶の転写。


 新しい肉体。


 目覚め。


 知らない天井。


 知らない指。


 知らない舌の重さ。


 久世玄理の記憶はある。


 だが、手の形が違う。


 歩幅が違う。


 苦手だったはずの匂いを好ましく感じる。


 妻の顔を記憶では愛しているのに、肉体が反応しない。


 彼は日記を書いた。


 私は久世玄理である。


 筆跡が違った。


 彼は、原初の久世が残した文字を見ながら、筆跡を練習した。


 私は久世玄理である。


 私は継続している。


 感情の差異は肉体側残留情報による誤差である。


 次の記憶。


 別の肉体。


 また別の肉体。


 七回。


 あるいは、それ以上。


 記録上は七回。


 隠された記録では、もっと。


 記憶の穴があった。


 ある継承の前後だけ、数日分の記録がない。


 彼はあとから埋めた。


 自分の筆跡で。


 原初の久世なら、こう考えたはずだ。


 原初の久世なら、こう選んだはずだ。


 原初の久世なら、サリサを諦めないはずだ。


 だから私は久世玄理である。


 さらに流れ込む。


 失敗保存体の廃棄記録。


 泣く人工肉体。


 自分を別人だと訴えた継承体。


 母を思い出せない子どもの保存影。


 それでも記録には、適応不全、統合ノイズ、再処理、と書いた。


 彼は毎朝、鏡の前に立った。


 その顔が何代目の顔であっても、同じ言葉を言った。


 私は久世玄理である。


 私は継続している。


 私は死んでいない。


 けれど、ある記録の中で、彼は一度だけ「僕」と書いていた。


 僕は、本当にあの日の久世玄理なのか。


 その行は、次のページで黒く塗り潰されていた。


     ◇


 中央再接続室へ、記憶の断片が嵐のように噴き出した。


 戒十は膝をつきかけた。


 自分の記憶ではないのに、頭の中へ流れ込んでくる。


 夜の王の影核が食い破られ、その記録が部屋全体へ漏れている。


 リサは両手で口元を押さえていた。


 若い久世がサリサを見ていた記憶を、彼女も見たのだろう。


 救おうとしていた。


 それは嘘ではなかった。


 そのことが、彼女の目を痛ませていた。


 シンは刀を床に刺し、記憶の奔流へ身体を持っていかれないよう踏ん張っている。


 通信の向こうで、純が短く息を呑む音がした。


『今のは……』


「夜の王の記憶」


 戒十は言った。


「いや、記録かもしれない」


 影の戒十が低く言う。


「どっちかわからないんだ」


 その通りだった。


 夜の王自身にも、もう断定できない。


 原初の久世玄理の記憶。


 それを移された肉体。


 あとから補った日記。


 失われた感覚。


 学び直した筆跡。


 何度も言い聞かせた自己証明。


 彼は変化を恐れ、変化を劣化と呼んだ。


 だが、彼自身がとっくに変化し続けていた。


 カオルコは、夜の王の影核に噛みついたまま笑った。


 口元から黒い血のような影が流れている。


「父さま」


 彼女の声は震えていた。


 だが、もう縋っていなかった。


「あなたも、消えるのが怖かっただけですのね」


 夜の王の身体が揺れる。


 黒瀬理人の肉体が、内側からひび割れるように影を漏らしている。


 背後の影紋柱が次々に砕け、過去の久世玄理たちの影が剥がれ落ちる。


 夜の王は片手を伸ばし、王鍵を再び起動しようとした。


 だが、鍵が回らない。


 カオルコの固有影核が、停止命令を食い破っている。


 王鍵は、彼女を器として止めるためのものだった。


 しかし彼女はもう、ただの器としては動いていない。


 怒り。


 恐怖。


 嫉妬。


 復讐心。


 消えたくないという願い。


 それら全部が、彼女の核を支えていた。


「カオルコ、停止しなさい」


 夜の王の声が崩れ始める。


 私、という響きが揺らぐ。


「君は、私の」


「作品?」


 カオルコが笑った。


「娘?」


 黒い花びらが舞う。


「器?」


 彼女は夜の王の影核へさらに牙を立てた。


「どれでも、もう嫌ですわ」


 夜の王の胸から、黒い亀裂が広がる。


 黒瀬理人の肉体が崩れていく。


 皮膚が壊れるのではない。


 影紋が、肉体を維持する情報を失っている。


 彼の顔が、いくつもの顔に重なる。


 若い久世。


 老いた久世。


 知らない男。


 黒瀬理人。


 また別の誰か。


 そのどれもが、自分は久世玄理だと主張していた。


 しかし、主影核が噛み砕かれた今、その主張を支える中心が崩れ始めている。


 シンが低く言う。


「下がれ。巻き込まれる」


 リサは動けない。


 戒十が彼女の腕を掴もうとした。


 リサは首を横に振った。


「待って」


「リサさん」


「まだ」


 夜の王は、リサを見た。


 その目が、初めて黒瀬理人の目ではなくなったように見えた。


 もっと若く、もっと未熟で、もっと怖がっている誰かの目。


「リサ」


 声がかすれる。


 次の瞬間、彼の一人称が変わった。


「僕は」


 リサの顔が歪む。


 夜の王ではない。


 久世玄理でもないかもしれない。


 それでも、その声は、サリサの病室にいた若い医師の記憶に近かった。


「僕は、サリサを」


 黒い亀裂が首元まで走る。


「救えたのか」


 中央再接続室の光が、一瞬だけ弱まった。


 リサは答えられなかった。


 答えたくなかった。


 救えたと言えば、クイーンの百年を否定することになる。


 救えなかったと言えば、リサ自身の百年を否定することになる。


 カオルコの存在も、ここで苦しんでいる影たちも、全部失敗の残骸になる。


 彼が救おうとしたことは、嘘ではなかった。


 だが、彼が聞かなかったことも、事実だった。


 リサは唇を噛んだ。


 それでも、目を逸らさなかった。


「救おうとしたことまで、なかったことにはしない」


 声は震えていた。


「でも、あなたは私たちに聞かなかった」


 夜の王は、リサを見ていた。


 その言葉を理解しようとしているようだった。


 だが、理解しきれないまま、黒瀬理人の肉体が崩れた。


 影紋柱が最後の光を放つ。


 夜の王の主影核が、カオルコの牙の中で砕けた。


 黒い影が、花びらのように散る。


 その中に、若い医師の手が一瞬だけ見えた。


 サリサへ伸ばそうとして、届かなかった手。


 それもすぐに消えた。


 中央再接続室の光が大きく揺れる。


 夜の王の現在人格は、そこで途切れた。


     ◇


 静寂は、一秒も続かなかった。


 主影核が砕けた直後、中央制御盤が暴走した。


 夜の王の制御が消えたことで、市内照明の同期が乱れる。


 天井の光源が一斉に明滅し、宵浜市から流れ込んでいた影流が行き場を失う。


 シンが叫ぶ。


「影流が逆流する!」


 純の声も通信から飛ぶ。


『市内各地で影流が乱れています! 駅前、病院、旧市街、全部跳ね返っています!』


 戒十は床を見た。


 黒い影の川が、中央から逆方向へ広がろうとしている。


 このままでは、集められた影が持ち主へ戻るのではなく、街中へばら撒かれる。


 落影化するかもしれない。


 人の影が、別の人間へ混ざるかもしれない。


 夜の王を倒せば終わるわけではなかった。


 むしろ、制御が消えた今、事態はさらに危険になっていた。


 カオルコは、床に膝をついていた。


 夜の王の影核を喰った彼女の身体から、黒い影が漏れている。


 その背後に、巨大な王冠の影が立ち上がっていた。


 クイーン。


 夜の王が制御していた定着経路。


 その鍵が壊れた。


 同時に、抑えていたものも解放された。


 カオルコは自分の胸を押さえる。


 笑っている。


 いや、笑おうとしている。


 だが、その目の奥から、別の視線がこちらを見た。


 冷たく、古く、肉体を欲し続けた女の視線。


 リサが息を呑む。


「クイーン……」


 カオルコの唇が動いた。


 最初に出た声は、カオルコのものだった。


「お姉さま」


 次に重なった声は、違った。


「ようやく」


 中央再接続室の床を、黒い花と王冠の影が覆っていく。


 夜の王は死んだ。


 だが、夜は終わらなかった。


 むしろ、王のいなくなった夜に、女王が肉体を得ようとしていた。

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