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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第五章 夜の終焉
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第四節 久世玄理の救済

 中央再接続室へ続く扉は、白くなかった。


 そこだけが、黒かった。


 常盤再生医療財団の地下研究区画は、どこまでも白い施設だった。死者の影紋を保存する筒も、人工肉体を浮かべる培養槽も、失敗した人格を隔離する部屋も、すべて汚れを見逃さないための白で覆われていた。


 だが、その最奥にある扉だけは、濡れた夜のような黒をしていた。


 金属なのか、石なのか、樹脂なのか、見ただけではわからない。表面には細い影紋が無数に走り、街路図のように枝分かれしている。


 戒十は、その扉を前にして足を止めた。


 左手が熱い。


 いや、熱いというより、そこから別の心臓が脈打っているようだった。


 扉の向こうで、宵浜市全体の影が鳴っている。


 電車の高架下。


 商店街の看板。


 病院の廊下。


 駅のホーム。


 街路樹の根元。


 マンションの階段。


 学校の屋上。


 それらの影が、一本の巨大な川になって、この地下へ流れ込んでいる。


 足元の影が、落ち着かない。


 床へ爪を立てるように震えている。


「左手が熱い」


 戒十は言った。


 声に出した瞬間、自分の息が少し整った。


「影が扉の向こうへ引かれてる。行きたい。怖い。血の匂いは薄い。影声あり。クイーンの気配がある。でも、勝手には行かない」


 通信の向こうで、純の声が返る。


『記録しました。呼吸が少し速いです』


「わかってる」


『わかっているだけではなく、少し落としてください』


「管制というより保健室だな」


『今の戒十には必要だと思います』


 返す言葉がなかった。


 足元の影が、かすかに笑った気配を見せる。


「純、厳しい」


「おまえは嬉しそうだな」


「嬉しいよ」


「何が」


「見てくれてる」


 その言葉に、戒十は一瞬だけ黙った。


 見てくれている。


 監視でも、管理でもなく。


 止めるためだけでもなく。


 戻れるように見ている。


 それは、確かに少し違う。


 リサが黒い扉を見上げた。


 彼女の足元には、ほとんど影がない。


 けれど、扉に刻まれた影紋は、彼女へもかすかに反応していた。薄い黒が、靴底の下で震えている。


「……嫌な感じ」


 リサは小さく言った。


「懐かしい?」


 戒十が聞くと、リサは顔をしかめる。


「そういう聞き方、だいぶ意地悪くなったね」


「影の影響かもしれません」


「僕のせいにするな」


 影が不満げに返す。


 リサは短く笑った。


 その笑みは、すぐに消えた。


「懐かしいよ。認めたくないけど」


 彼女は扉の影紋へ手を伸ばしかけ、触れる前に止めた。


「この匂い、昔の研究室と同じ。消毒液と、古い血と、影紋保存液。夜の王が“治療”って呼んでいた場所の匂い」


 シンが影縫刀を抜いた。


 長い刃の影が床へ伸び、扉の下部へ触れる。


 刃は震えた。


「向こうに巨大な影網がある。扉そのものが管になっている」


「開けたらどうなるの」


 リサが聞く。


「招かれる」


 シンは短く答えた。


「罠ではない。入らせるための扉だ」


「最悪のやつ」


 リサが息を吐いた。


 通信に辰巳の声が入る。


『こちらから中央室周辺の防壁へ干渉しています。ただ、権限を奪い返される可能性が高い。内部へ入ったあとは、こちらの支援は限定的になります』


 灰田の声も続いた。


『施設外では処分派と財団警備が交戦寸前だ。長くは止められない』


 シンが答える。


「了解」


 純の声が入る。


『戒十、共同操作はまだ開始しないでください。必要になるまで温存してください』


「わかってる」


「僕はもう少し開いてもいいと思う」


 影が言う。


 純はすぐに返した。


『影の戒十も、開始しないでください』


「……わかった」


 戒十は足元を見る。


「純には素直だな」


「君より説明が丁寧」


「僕だって最近は丁寧だろ」


「最近は」


 リサが軽く手を上げた。


「はいはい、夫婦漫才みたいになってるけど、入るよ」


「誰と誰が夫婦ですか」


「そこ食いつく?」


 リサは苦笑し、銀糸を指に絡めた。


 シンが扉の影を縫う。


 扉は、抵抗しなかった。


 黒い表面に無数の影紋が走り、川が流れを変えるように左右へ開いていく。


 その向こうに、光があった。


     ◇


 中央再接続室は、地下にあるはずなのに、空のように広かった。


 天井が見えない。


 いや、天井はある。


 遥か上に、ドーム状の黒い天井があり、そこへ無数の光源が埋め込まれている。


 街灯の白。


 駅の蛍光灯。


 病院の誘導灯。


 商業施設の看板照明。


 港湾施設の投光器。


 宵浜市中の光を縮小して貼りつけたような天井だった。


 光はまっすぐ下へ落ちていない。


 すべて、中央へ向けられている。


 その中心に、巨大な柱が立っていた。


 影紋柱。


 黒いガラスのような柱が何十本も並び、それぞれの中に人の影が封じられている。


 ある柱には、白髪の老人の姿。


 ある柱には、青年の姿。


 ある柱には、子どもの姿。


 だが、顔の輪郭にはどこか共通点があった。


 久世玄理。


 その時々の肉体。


 その時々の記憶。


 その時々の「私」。


 柱の奥には、巨大な光源制御装置があった。


 都市模型のような盤面に、宵浜市全域の光源が表示されている。赤い線が湾岸へ集まり、その線の下を、黒い影流が流れている。


 街そのものが、血管のように見えた。


 光が血管を作り、影が血のように流れ込んでいる。


 そして、その中心に、黒瀬理人が立っていた。


 白い医療用コート。


 整えられた髪。


 穏やかな表情。


 五十代ほどの男性の肉体。


 しかし、背後に並ぶ影紋柱が、その人間が単純な五十年だけを生きた存在ではないことを示していた。


 夜の王。


 久世玄理。


 彼は、戒十たちを見ると、軽く頭を下げた。


「ようこそ」


 声は静かだった。


「よくここまで来た」


 戒十は身構える。


 影も足元で濃くなる。


 シンは刀を下げない。


 リサは笑わなかった。


「歓迎されに来たわけじゃない」


 夜の王は頷いた。


「わかっている。君たちは私を止めに来た」


「わかってるなら、止めて」


「それはできない」


 即答だった。


 敵意はない。


 迷いもない。


「なぜなら、これは必要な処置だからだ」


 その言葉に、シンの目が細くなる。


 しかし夜の王は、シンではなく純の通信端末があるほうへ視線を向けた。


「水城純さんも聞いているね」


 管制室側に一瞬、沈黙が落ちた。


 純の声が返る。


『聞いています』


「治療後の体調は?」


『あなたに答える義務はありますか』


「義務はない。だが、医師として気になる」


『私の担当医はリサさんです』


 リサが小さく息を吐いた。


 それは笑いではなく、何かを堪えたような息だった。


 夜の王は、少しだけ目を細める。


「そうか。ならば、リサの治療は成功したと判断してよいのだね」


「あなたの資料も使った」


 リサが言った。


「でも、純ちゃんを治したのはあなたじゃない」


「資料は治療の一部だ」


「本人の同意も、痛みも、言葉も、そこには入ってない」


「記録されていれば、次へ活かせる」


「そういうところよ」


 リサの声が低くなる。


「そういうところが、あなたは何も変わってない」


 夜の王は静かにリサを見た。


「君は変わった」


「そうよ」


「だから、戻る必要がある」


 リサの表情が止まった。


 夜の王は、戦いを始める気配を見せない。


 むしろ診察室で患者へ選択肢を提示する医師のように、落ち着いた声で話し始めた。


「私は、君たち全員の問題を解決できる」


 戒十の影が揺れる。


 シンの刀の影が、床へさらに濃く落ちる。


 夜の王は続けた。


「三倉戒十君。君と影の君は、同じ身体を巡って摩耗している。今は協力できているようだが、それは危機下の一時的同調だ。長期的には必ず衝突する。影人格は肉体を欲し、肉体人格は影人格を恐れる」


「決めつけるな」


 戒十が言う。


 夜の王は否定しない。


「恐れていないのか」


 戒十は言葉に詰まった。


 恐れている。


 今も。


 影が勝手に純へ会いに行った夜。


 怪物になった自分を純が見た夜。


 身体を渡そうとした瞬間。


 自分の影が身体を欲しいと言った瞬間。


 恐れている。


 否定できない。


 だから、戒十は違う言葉を選んだ。


「恐れてます」


 夜の王が、わずかに眉を動かした。


「でも、それはあなたに分けてもらう理由にはならない」


 足元の影が、黙って揺れた。


 夜の王は少しだけ視線を下げる。


「影の君。君には肉体を用意できる。先ほどの準備体が不適切だと感じたなら、別の方法を探そう。完全人工肉体の成熟には時間がかかるが、不可能ではない。君は、自分の口で語り、自分の足で歩くことができる」


 影の戒十が動いた。


 床から少しだけ立ち上がる。


 琥珀色の目が、夜の王を見る。


「欲しい」


 戒十は息を止める。


 夜の王は静かに頷く。


「当然だ」


「でも、あなたからはいらない」


 影の声は、思ったよりも穏やかだった。


「あなたの用意する身体には、誰かが入ってる」


「誰かであった情報だ」


「誰かだよ」


 影が言った。


「それを材料って言うなら、あなたは僕も材料にする」


 夜の王は、少しだけ沈黙した。


「君は、影でありながら肉体人格に近い倫理判断を示す」


「実験にするな」


 戒十と影の声が、同時に出た。


 夜の王は、残念そうに目を伏せる。


「惜しい」


「何が」


「君たちは、分離すれば双方を保全できる」


「保全じゃない」


 戒十は一歩前へ出た。


「僕も、楽になりたいと思った」


 その言葉に、リサが少しだけ戒十を見る。


 シンは黙っている。


 通信の向こうの純も、何も言わない。


 戒十は続けた。


「影と分かれれば、傷つけなくて済むかもしれないと思った。影が純に会いに行くこともない。僕が影を恐れることもない。影が僕を邪魔だと思うこともない。別々の身体があれば、楽になるかもしれないって」


 足元の影が静かに聞いている。


「でも、それをあなたに決められたら、僕らは僕らじゃなくなる」


 戒十は夜の王を見た。


「あなたは人を生かしたいんじゃない」


 声が、自分でも驚くほど低かった。


「変わらない形で置いておきたいだけだ」


 中央再接続室の光が、微かに揺れた。


 夜の王の表情は大きくは変わらない。


 だが、背後の影紋柱の中で、いくつもの影がざわめいた。


「変わらないことは、本人を守るために必要だ」


 夜の王は言った。


「人は変わりすぎる。肉体が変われば感覚が変わる。記憶は薄れ、感情は混ざり、約束は忘れられる。変化を許せば、最初の本人は失われる」


「それが生きるってことだろ」


 戒十は言い返した。


「あなたは、それを劣化って呼んでる」


「事実だ」


「違う」


「君は十七歳だ。まだ人が変わり、忘れ、別人になっていく恐怖を知らない」


 夜の王の声は、初めて少しだけ熱を帯びた。


「私は見てきた。患者が、家族の名を忘れる。母が子を認識できなくなる。老いた夫が妻の顔を見ても怯える。病が人格を崩す。死がすべてを奪う。君はそれを、自然だから受け入れろと言うのか」


 戒十は答えられなかった。


 夜の王の言葉には、嘘がない。


 この男は本当に見てきた。


 本当に救おうとした。


 だから、言葉が重い。


 その重さに押されかけたとき、純の声が通信から入った。


『それでも、聞くべきです』


 夜の王は端末へ視線を向けた。


「何を?」


『治療される人間に、です』


 純の声は疲れている。


 それでも、はっきりしている。


『治療される人間には、説明を聞く権利があります。同意しない権利もあります。痛いと言う権利も、怖いと言う権利もあります』


 夜の王は静かに聞いている。


『あなたは救うと言いながら、誰にも聞いていません』


「都市災害では、個別同意より救命が優先される」


 夜の王は即答した。


「水城純さん。君も知っているはずだ。治療には時間制限がある。判断を迷えば、救えた命が失われる。すべての市民へ説明し、全員の同意を待っていては、影は戻れなくなる」


『それを必要だと決めた人の名前を出してください』


 純の声は静かだった。


 シンの指が、刀の柄の上で止まった。


 その言葉は、彼が白昼局へ突きつけたものだった。


 今、純が夜の王へ向けている。


『都市災害だから。救命だから。必要だから。そう言えば、誰が決めたか隠せます』


 純は続けた。


『あなたが決めたんですか』


 夜の王は少し間を置いた。


「そうだ」


『では、あなたが私たち全員の影をどうするか決めたんですね』


「私は、最も救命可能性の高い方法を選んだ」


『その方法に同意しない人がいる可能性を、救命可能性の計算に入れましたか』


 夜の王は答えない。


 純は続ける。


『私は治療を受けました。痛かったです。怖かったです。逃げたかったです。でも、説明を聞いて、ここにいると決めました』


 わずかに息を整える音が入る。


『その部分を抜いたら、私の再縫合を使わないでください』


 中央再接続室に、沈黙が落ちた。


 夜の王は目を閉じた。


「君は、強い患者だ」


『褒めないでください』


「事実だ」


『患者ではなく、本人として聞いてください』


 夜の王は、答えなかった。


 その代わり、今度はシンを見た。


「シン君」


「何だ」


「君の右腕の影接続障害は、ここで治療できる」


 シンの表情は変わらない。


 だが、戒十は彼の右手の指がわずかに動いたのを見た。


 夜の王は続ける。


「白昼局が君に施した影接続処置は粗い。武器の影を腕の影へ縫い合わせるだけの、戦闘用の処置だ。君はその副作用を二十年近く抱えている。最近は痺れも進んでいるはずだ」


 シンは黙っている。


「再構成できる。右腕の影脈を洗浄し、刀影との接続を切り離し、必要なら人工影紋で補強する。君はもう、誰かを斬るための腕として自分を使わなくてよくなる」


 シンの目が、ほんのわずかに揺れた。


 それは誘惑だった。


 誰かに差し出された甘い言葉ではない。


 実際に可能かもしれない治療。


 右腕の痛み。


 痺れ。


 これから失われるかもしれない機能。


 その全部を、夜の王は見抜いている。


「君は、もう十分に背負った」


 夜の王は言った。


「ここで治療を受けなさい」


 シンは数秒、黙っていた。


 そして言った。


「治せるのか」


 戒十が思わずシンを見る。


 リサも、少し目を見開く。


 夜の王は頷いた。


「高い確率で」


「代わりに何を求める」


「協力だ。都市再接続が終わるまで、君には現場の暴走者を殺さず固定してもらう。君の技術は有用だ」


「殺さず?」


「私は処分派ではない」


 夜の王は穏やかに言った。


「私は救う」


 シンは一度だけ目を伏せた。


 それから、短く言った。


「断る」


「なぜ」


「治療は受けたい」


 その正直さに、戒十は息を呑んだ。


 シンは続ける。


「右腕の痛みも、痺れも、消えるなら消したい。俺は、痛みに価値があるとは思っていない」


 夜の王は静かに聞いている。


「だが、おまえの管理下には入らない。治療を餌に、誰かの選択権を奪う側にも立たない」


「餌ではない」


「条件つきの救命は、餌になる」


 シンの声は低かった。


「俺はそれを、白昼局で何度も見た」


 夜の王はわずかに眉を寄せる。


 シンはそれ以上言わなかった。


 ただ、刀を構える。


「治療を受けるかどうかは、俺が決める。今ではない」


 夜の王の視線がリサへ移る。


 その瞬間、リサの肩がほんの少し強ばった。


「リサ」


「その名前で呼ぶのね」


「君が望むなら」


「望むから呼んでるんじゃないでしょう」


「君はリサとして長く生きた。それは認める」


「“それは”ね」


 リサの声に棘が混じる。


 夜の王は、背後の影紋柱の一つへ手を伸ばした。


 柱の中に、十六歳ほどの少女の影が浮かぶ。


 長い髪。


 細い肩。


 病室の寝台に横たわる面影。


 サリサ。


 リサの顔から血の気が引いた。


 戒十は思わず足を踏み出しそうになる。


 だが、リサが手で制した。


「大丈夫」


 声は、大丈夫ではなかった。


 それでも、自分で立っている。


 夜の王は言う。


「サリサはまだ救える」


 リサは唇を噛む。


「その言葉、百年以上聞いてきた」


「百年以上かかった。だが、今なら可能だ。君とクイーンの影紋差分、記憶差分、肉体側と影側の機能差分を統合し、サリサとして再構成できる」


「クイーンを閉じ込めたまま?」


「安定化したうえで統合する」


「カオルコは?」


 リサの声が低くなる。


「彼女はクイーン定着のための基盤だ。だが、消えない。彼女の反応履歴、記憶、固有影核の情報も、サリサ再構成体の一部として保存される」


「それを消えるって言うのよ」


「違う」


 夜の王は初めて、少し強く言った。


「個として不安定に苦しむより、大きな全体の中で機能するほうが安定する。カオルコは完成する。リサ、君もだ。クイーンもだ。サリサは、ようやく戻る」


 リサは黙っていた。


 その横顔を、戒十は見た。


 彼女は怒っている。


 怖がっている。


 そして、ほんの少しだけ、揺れている。


 サリサ。


 自分が元だったかもしれない名前。


 もし戻れば、もう逃げなくて済むのかもしれない。


 クイーンを閉じ込めた罪も、カオルコを選べなかった痛みも、全部「統合」されて消えるのかもしれない。


 そんな誘惑がないはずはない。


 リサは小さく息を吸った。


「私はサリサじゃない」


 夜の王は静かに答える。


「君は、サリサではない状態へ適応しているだけだ」


 リサの手が震えた。


 それでも、彼女は笑った。


 泣きそうな笑いではない。


 怒りを越えて、ようやく言葉を見つけた笑いだった。


「そう」


 リサは一歩前へ出る。


「私は、サリサから逃げてできた欠片かもしれない」


 夜の王は黙っている。


「クイーンを閉じ込めた。自分の影を見ないふりした。サリサって名前を聞くたびに、今の私が間違いみたいに思えて、逃げた」


 リサの足元には、ほとんど影がない。


 それでも、彼女はそこに立っている。


「でも、欠けたまま百年以上生きた」


 声が、中央再接続室に響いた。


「笑った。嘘もついた。誰かを助けた。逃げた。間違えた。純ちゃんに怒られた。戒十くんに最低って言われた。シンと店を作った。夜の子たちを迎えた」


 シンが、ほんの少しだけ目を伏せる。


 リサは夜の王を見た。


「その時間まで、あなたの失敗として片づけないで」


 夜の王は言った。


「それは不完全な状態への適応だ」


 リサは、すぐに答えた。


「それを生きたって言うのよ」


 その言葉が落ちた瞬間、背後の影紋柱の中で、いくつもの影が揺れた。


 サリサの影も、ほんの一瞬だけ目を開けたように見えた。


 夜の王の表情が、わずかに変わる。


 それは怒りではなかった。


 理解できないものを見た顔だった。


「生きる、か」


 彼は呟いた。


「変化し、劣化し、欠け、混ざり、忘れることを、君たちは生きると呼ぶ」


「あなたは保存って呼ぶんでしょう」


 戒十が言った。


「でも、保存されたものは、こっちに答えてくれない」


 彼は背後の影紋柱を見る。


「あなたは忘れなかったのかもしれない。死なせたくなかったのかもしれない。でも、保存したあとに変わろうとした人まで、失敗扱いした」


 夜の王の視線が戒十へ戻る。


「私は救命者だ」


「そう思ってるだけだ」


「では、君たちは何をする。街中で影が剥がれかけている。白昼局の処分派は遮断を始める。VIOLET DRAGONだけでは拾いきれない。光源制御を一つ誤れば、何百人もの影が戻れなくなる。君たちは、全員へ同意を取るまで待つのか」


 夜の王の声が、静かに強くなる。


「私は解決を持っている」


 中央の光源制御盤が輝いた。


 市内地図の上で、赤い線がさらに濃くなる。


「影を集め、異常を調整し、肉体へ再接続する。必要なら人格差分を保存し、影側の反発を抑える。死者は保存し、生者は安定化する。白昼局の処分派も介入できない。離影者も落影も、財団の医療管理下で守れる」


 彼は本気で言っていた。


 本気で、全員を救えると信じていた。


 それが、いちばん恐ろしい。


 戒十は足元の影を見る。


 影もこちらを見ている。


 行けば、全部わかる。


 そう言った影。


 身体が欲しいと言った影。


 でも、誰かの帰る場所を使うならいらないと言った影。


 戒十は小さく頷いた。


 影も、同じように揺れた。


 戒十は夜の王へ向き直る。


「あなたの解決は、本人がいなくても成立するんですね」


「本人は保存される」


「違う」


「記憶、影紋、人格反応が保存されれば」


「違う」


 戒十は遮る。


「そこに、今どうしたいかがない」


 夜の王は黙った。


「純は怖いって言った。逃げたいって言った。でも、ここにいるって決めた。リサさんはサリサじゃなくて、リサとして生きたって言った。シンさんは治療を受けたいけど、今は受けないって決めた。影は身体が欲しいけど、あれはいらないって言った」


 戒十は自分の左手を握る。


「僕も決める」


 足元の影が、戒十の影の中で濃くなる。


「あなたに、僕らの形は決めさせない」


 夜の王はしばらく沈黙していた。


 それから、小さく息を吐いた。


「残念だ」


 その言葉と同時に、中央再接続室の光が変わった。


 天井の光源が、さらに強く湾岸方向へ同期する。


 部屋の床に、宵浜市全域の影が流れ込む。


 黒い川のように。


 無数の人の影。


 街灯の影。


 建物の影。


 落影の影。


 それらが夜の王の背後で渦を巻き、巨大な冠の形を作り始める。


 リサが低く言う。


「説得失敗、って顔じゃないね」


 夜の王は穏やかに答えた。


「説得は続ける」


「この状態で?」


「治療もまた、抵抗の中で行われることがある」


 シンが刀を構えた。


「それを強制と言う」


 夜の王の背後で、影紋柱が一斉に光る。


 歴代の久世玄理の影が、それぞれ目を開けた。


 過去の肉体。


 過去の記憶。


 過去の「私」。


 それらが中央の黒瀬理人へ重なっていく。


 夜の王は、最後まで穏やかだった。


「では、処置を続ける」


 戒十の左手が焼けるように熱くなる。


 影の戒十が叫ぶ。


「来る」


 純の声が通信から飛ぶ。


『戒十、共同操作準備。まだ開始しないで。光源が三十二方向に分割されています。単一化できません』


 リサが銀糸を広げる。


「シン、左の柱!」


「了解」


 シンの影縫刀が床へ走る。


 戒十は一歩踏み出した。


 背後に退くことはできない。


 だが、飛び込むだけでも駄目だ。


 ここから先は、夜の王の治療という名の支配を、力だけではなく選択で止めなければならない。


 足元の影が並ぶ。


 戒十より先へ行きたがる。


 戒十は言った。


「まだだ」


「わかってる」


「一緒に」


「うん」


 中央再接続室の光が、街一つ分の夜を抱えて膨れ上がる。


 戦いは、まだ始まっていない。


 けれど、もう治療室の扉は閉じられていた。


 夜の王は救うと言った。


 戒十たちは、それを拒むために立っていた。

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