第三節 保存された死者
地下搬送路は、病院の裏側に似ていた。
人目につかない場所を通るための通路。
患者ではなく、機材や遺体や薬剤を運ぶための幅。
床は古いコンクリートで、ところどころ補修跡がある。天井には配管が走り、白昼局共生派が切り替えてくれた非常灯が、薄い琥珀色に点っていた。
完全な暗闇ではない。
だが、明るくもない。
リサが持つ携帯単一光源と、天井の非常灯が互いに干渉しないよう、純が管制室から細かく照度を調整している。
『三十メートル先、右側の照明が白色に切り替わりそうです』
耳元の通信から純の声が聞こえた。
少し掠れている。
けれど、言葉ははっきりしていた。
『市の系統から外れています。財団側の自動制御かもしれません』
シンが短く答える。
「切れるか」
『辰巳さんが試しています。……駄目です。外部からは切れません』
リサが鼻で息を吐く。
「じゃあ、物理でいくしかないね」
「物理担当、誰ですか」
戒十が聞くと、リサは当然のように彼を見た。
「黒猫くん」
「ですよね」
「ただし、影くんが先走らないように」
足元の影が不満げに揺れた。
「影くんじゃない」
「今は仮名」
「名前会議、いつ」
「生きて帰ったら」
「それ、先延ばし」
「はいはい、怒らない怒らない」
リサは軽く言ったが、声は硬かった。
戒十にもわかる。
この通路に入ってから、空気が変わっている。
街の影が湾岸へ引かれる感覚は、外よりも強い。常盤再生医療財団の地下へ近づくにつれ、戒十の左手の傷が熱を持ち、影の奥で別の脈拍が鳴っている。
クイーン。
名前を思うだけで、足元の影がわずかに伸びる。
呼ばれている。
その感覚は、もう疑いようがなかった。
シンが立ち止まる。
「右の照明、来る」
白い光が、通路の先で急に点いた。
鋭い。
白昼局の照射具ほどではないが、影を分断する角度の光だった。
戒十の影が二本に割れかける。
影の戒十が舌打ちするように揺れた。
「壊す」
「ライトだけ」
「わかってる」
「一緒に」
「言われなくても」
戒十は走った。
足元の影が先に滑る。
壁に取りつけられた細長いライトの影へ爪を立てる。戒十の肉体は、少し遅れて壁際へ踏み込み、非常用パイプを蹴った。
影がライトの接続部を切り、現実の衝撃が金具を歪ませる。
白い光が明滅し、消えた。
通路は再び琥珀色に戻る。
『影流、安定しました』
純の声。
『戒十、反応は?』
「左手が熱い。影声あり。白い光に苛立った。でも、対象はライトだけ。人はいません。戻ってます」
『記録しました』
「本当にずっと記録する気か」
『します』
「厳しいな」
『よく言われます』
通信の向こうで、かすかにリサが笑った。
いや、笑ったのはこの場のリサも同じだった。
「純ちゃん、管制室でも純ちゃんだね」
『褒めていますか』
「褒めてる褒めてる」
『リサさんの“褒めてる”は、時々信用できません』
「純ちゃん、治療直後なのに切れ味落ちてない」
シンが低く言う。
「話す余裕があるなら進むぞ」
「はいはい、怖い人が怒った」
「怒っていない」
「怒ってるときより怖いよ」
三人はさらに奥へ進んだ。
搬送路は、やがて金属製の扉へ突き当たった。
扉には、表向きの財団名が刻まれている。
常盤再生医療財団・湾岸地下医療搬送区。
その下に、小さく警告表示があった。
関係者以外立入禁止。
生体材料搬送路。
影紋保存物取扱区域。
「生体材料、ね」
リサの声が冷える。
シンが扉の影へ刀の先を差し込んだ。
「影錠は二重。警報もある」
『外部防壁、今だけ一部落とせます』
純ではなく、辰巳の声が通信へ入る。
『十秒です。それ以上は処分派に検知されます』
シンが言う。
「十分だ」
リサが銀糸を構える。
「黒猫くん、開いた瞬間に中の光源を見る。複数光なら割られる前に申告」
「はい」
戒十は息を吸う。
足元の影も、同じように身構えた。
『三、二、一。解除』
扉の奥で、低い音がした。
シンの影縫刀が影錠を縫い止め、リサの銀糸が物理ロックの影を引き剥がす。
戒十の影が下から滑り込み、扉の隙間を押し広げる。
金属扉が開いた。
冷たい空気が流れ出した。
消毒液。
保存液。
鉄。
そして、薄い血の匂い。
戒十の喉が鳴りかける。
「血の匂いあり。保存血。生きた血じゃない。左手が熱い。影声あり。でも、まだ大丈夫」
リサが頷く。
「そのまま」
扉の向こうは、研究施設だった。
◇
白かった。
それが最初の印象だった。
壁も床も天井も、光を反射する白。
ただし病院の白とは違う。
人を安心させるための清潔さではなく、汚れを見逃さないための白だった。
廊下の左右にガラスの扉が並び、それぞれに番号と名称が貼られている。
影紋保存庫。
人格継承用記録室。
離影者影脈治療室。
培養管理区画。
失敗保存体隔離室。
久世玄理継承記録室。
文字だけなら、医療施設に見える。
だが、ガラスの向こうに並ぶものは、戒十の知っている医療とは違っていた。
最初の部屋には、透明な筒が並んでいた。
人が入れるほどの大きさではない。
腕くらいの太さの筒。
中には、黒い水のようなものが揺れている。
それぞれの筒には名前があった。
年齢。
死亡推定日。
影紋保存率。
再構成待機。
「死者の影紋」
リサが言った。
声は小さい。
「肉体が死んだあと、影身側の情報だけを抽出して保存してる」
戒十はガラス越しに筒を見る。
黒い水は、ただの液体ではない。
時々、人の横顔のようなものが浮かび上がり、すぐに崩れる。
その一つに、小さな手の形が見えた。
子どもの手。
筒のラベルには、九歳、とあった。
疾患名。
影脈先天不全。
肉体機能停止前に影紋抽出。
再構成優先度A。
戒十の胸が詰まる。
「これ、助けようとしたんですか」
リサはすぐに答えなかった。
代わりにシンが言う。
「夜の王なら、そう言う」
「嘘じゃないんですよね」
戒十は自分で言ってから、嫌な気分になった。
嘘であってほしかった。
悪意で集め、殺し、保存しただけなら、憎むのは簡単だった。
だが、この筒の中にいる誰かは、本当に死ぬはずだったのかもしれない。
親が、医師が、最後の望みとしてここへ連れてきたのかもしれない。
久世玄理は、黒瀬理人は、夜の王は、本気で救おうとしたのかもしれない。
その可能性が、かえって気持ち悪かった。
リサが静かに言う。
「たぶん、嘘じゃない」
「じゃあ」
「でも、助けようとしたことと、本人を保存物にしていいことは別」
戒十は何も言えなかった。
ガラスの奥で、黒い水の中の手がもう一度浮かんだ。
誰かが内側から筒を叩いたように見えた。
いや、実際には叩いていない。
影紋の残響が、手の形を作っただけだ。
それでも、戒十には見ていられなかった。
『三人とも、左側の通路に影流の乱れがあります』
純の声が入る。
いつもより少し硬い。
彼女も見ているのだ。
管制室の画面越しに、施設内の映像を。
『記録室のほうです。移動影反応が複数』
シンが頷く。
「進む」
通路を曲がると、そこには別の部屋があった。
人格継承用記録室。
扉は半開きになっている。
中から、声が聞こえた。
「私は佐伯美知子です」
女性の声。
静かで、少し機械的だった。
「私は佐伯美知子です」
同じ声が重なる。
もう一つ。
さらにもう一つ。
「私は佐伯美知子です」
戒十は足を止めた。
部屋の中には、三つの人工肉体が座っていた。
外見はほとんど同じ。
三十代後半の女性。
白い病衣。
閉じた目。
しかし、それぞれ微妙に表情が違う。
一人は穏やか。
一人は怯えている。
一人は笑おうとして失敗した顔。
彼女たちの前にはモニターがあり、同じ映像が再生されている。
家族写真。
料理をする手元。
駅のホーム。
海辺。
子どもの笑い声。
そのたび、三つの人工肉体が同じ言葉を繰り返す。
「私は佐伯美知子です」
しかし、二番目の女性だけが、少し遅れて言った。
「……私は、本当に?」
部屋の空気が凍った。
三番目の女性が、その言葉に反応したように目を開ける。
「私は佐伯美知子です」
最初の女性も目を開ける。
「私は佐伯美知子です」
二番目は首を横に振った。
「違う。私は、映像を見て、言っているだけ」
モニターの横に警告表示が出る。
同一人格再現試験、同期不全。
自己同一性揺らぎ。
再記録処理待機。
リサが低く言う。
「上書き」
戒十は画面を見る。
再記録処理。
その言葉の意味はすぐにわかった。
不安定になった人格を、もう一度“正しい記録”で塗り直す。
自分が誰か疑った声を、不具合として扱う。
「夜の王は、これを治療だって言うんですか」
戒十の声が掠れる。
シンは部屋の中を見たまま答えた。
「あの男なら、自己同一性の回復と言う」
「回復じゃない」
影の戒十が、足元で言った。
戒十は驚いて下を見る。
影は部屋の中をじっと見ている。
「消してる」
リサが、ほんの少しだけ影を見た。
「そうだね」
その声は苦かった。
「消してる。本人を保存するために、保存した本人が変わることを消してる」
人工肉体の二番目が、こちらを見た。
本当に見たのか、たまたま顔が向いただけなのかはわからない。
彼女は呟く。
「あなたは、誰ですか」
戒十は答えられなかった。
シンが静かに前へ出た。
「通過する。危害は加えない」
その言い方が、少しだけ白昼局時代の匂いを持っていた。
リサが眉を寄せる。
だが、今は止まれない。
部屋の警告が強くなっている。
財団のシステムが、侵入者を感知し始めている。
純の声が入る。
『右奥の扉から、警備影反応が近づいています。三十秒以内』
シンが刀を抜く。
「戦闘は避ける。中央区画へ抜けるぞ」
戒十は頷いた。
部屋を出る直前、二番目の人工肉体がもう一度言った。
「私は、誰ですか」
その声は、背中に残った。
◇
地下研究区画は、進めば進むほど、生と死の境目がわからなくなった。
離影者影脈治療室には、眠ったままの患者が並んでいた。
彼らの影だけが、別のベッドに寝かされている。
肉体と影を並行治療するためだと、リサは説明した。
その中には、穏やかに眠る者もいた。
実際に助けられている者もいるのだろう。
肉体の損傷がひどく、影脈だけを一時保存されている者。
暴走しかけた影を抑えられ、再接続を待つ者。
保存血と薬剤によって、成れの果てになる前に踏みとどまっている者。
それを見れば、夜の王の技術がまったくの悪ではないことがわかる。
だからこそ、隣の隔離区画が重かった。
失敗保存体隔離室。
扉には、そう書かれていた。
中には、身体の一部だけが動いている人工肉体があった。
誰かの名前を繰り返す影。
自分の手を見て、何度も泣く保存体。
壁に貼られた日付を見て、
「今日、母が迎えに来る」
と、何十年も前の日付を信じている少女の形をした影。
そして、肉体は成人男性なのに、幼い声で歌を歌っている保存体。
戒十は吐き気を覚えた。
悪意だけなら、斬ればいい。
だが、ここには救われかけたものがある。
救われなかったものがある。
救われたのか、保存されてしまっただけなのかわからないものがある。
その全部が、白い部屋の中で管理番号をつけられていた。
リサはほとんど喋らなくなっていた。
シンも必要な指示しか出さない。
足元の影だけが、時々小さく反応する。
ここに身体がある。
その声は、最初かすかなものだった。
戒十は聞こえないふりをした。
しかし、奥へ進むほど、影の声ははっきりしていく。
ここに身体がある。
身体。
肉体。
僕のじゃない身体。
でも、身体。
戒十は足を止めそうになる。
そのたび、純の声が通信から入る。
『戒十、呼吸が速くなっています』
「見えてるの?」
『音声と影流だけです。でも、影の反応が強くなっています』
「……左手が熱い。影声あり。身体、って言ってる」
言った瞬間、影が揺れた。
隠すな、と言いたそうだった。
戒十は足元を見る。
「隠してないだろ」
「言い方が嫌」
「どう言えばいい」
「僕が言う」
影の戒十の声が、通信にも乗った。
「ここに身体がある」
管制室側が静かになる。
純は少し間を置いてから言った。
『欲しいですか』
影はすぐには答えなかった。
戒十の胸も、同時に苦しくなる。
答えを知っている。
影は身体が欲しい。
ずっと欲しかった。
借り物ではない、自分の肉体。
足元からではなく、目を持ち、手を持ち、口を持ち、自分の名前で誰かに会える身体。
欲しいに決まっている。
影は言った。
「欲しい」
その声は、思ったよりも小さかった。
戒十は何も言えなかった。
純も、すぐには否定しなかった。
『そうですか』
「でも、今は行かない」
影が続ける。
「まだ見てない」
リサが振り返る。
「何を?」
「僕の身体かどうか」
その言葉に、戒十は胸の奥を掴まれたようになった。
僕の身体。
他人の身体ではなく。
夜の王に与えられる器ではなく。
自分の身体かどうか。
リサは少しだけ目を伏せた。
「……そうだね。見ないとね」
やがて、三人はその部屋に辿り着いた。
培養管理区画の奥。
通常の研究室よりも厳重な扉。
扉の上部には、ラベルが貼られている。
境界例分離移植準備室。
その下に、英数字の識別名。
M-KT / S-KT。
戒十は、その文字を見た瞬間、寒気を覚えた。
自分の名前だ。
三倉戒十。
そしておそらく、Shadow Kaito。
「準備されてる」
リサの声が沈む。
「夜の王、電話で言ってた。君たちを別々の肉体へ安全に分けられるって」
戒十は扉へ近づく。
シンが止めようとした。
だが、純の声が先に入った。
『見るなら、申告してから』
戒十は息を吐いた。
「左手が熱い。影声あり。怖い。見たい。見たくない。でも、勝手には触らない」
影が続けた。
「欲しい。でも、まだ触らない」
『記録しました』
シンが扉の影を確認する。
「罠はない。むしろ、開けさせるための部屋だ」
「最悪」
リサが呟く。
戒十は扉を押した。
中は、淡い青白い光で満たされていた。
中央に、二つの培養槽がある。
一つは空。
もう一つには、少年の身体が浮かんでいた。
年齢は十七歳ほど。
黒髪。
細い体格。
顔立ちは戒十に似ている。
だが、完全には同じではない。
戒十よりも少し目元が鋭く、左手の甲には黒い影紋のような傷がある。
眠っている。
呼吸はしていない。
でも、死体ではない。
未使用の身体。
影を待っている器。
戒十の足元の影が、ゆっくり立ち上がった。
琥珀色の目が、培養槽へ釘づけになる。
「これ」
影の声が震えた。
「僕の?」
誰も答えられなかった。
壁の端末が勝手に起動した。
夜の王の声は出ない。
代わりに、設計資料が表示される。
境界例S側肉体準備体。
基礎肉体情報:三倉戒十。
補助神経情報:保存影紋群B-17、B-19、C-03。
運動系調整:死亡後提供体由来情報を参照。
情動安定補助:事故死者保存影より抽出。
拒絶反応抑制:未帰還保存体の影核片を使用。
戒十は、最後の行を読んだ瞬間、胃の中が冷えた。
「未帰還保存体」
リサの声が低くなる。
「肉体再構成待ちの死者、ってこと」
「この身体、誰かの」
戒十は言いかけて、言葉を失う。
影の戒十が、培養槽の前で動かなくなった。
欲しい。
その感情が、戒十にも伝わる。
目が痛くなるほど強い欲求。
身体が欲しい。
自分の足で立ちたい。
純に、自分の声で話したい。
戒十の内側ではなく、隣に並びたい。
写真に写りたい。
血の匂いを、自分の鼻で嗅ぎたい。
雨を、自分の皮膚で受けたい。
欲しい。
けれど。
影の戒十は言った。
「欲しい」
誰も遮らない。
「でも、これは僕のじゃない」
声が、震えていた。
怒っているようにも、泣いているようにも聞こえた。
培養槽の中の身体が、青白い液体の中で静かに揺れる。
影は続ける。
「誰かの帰る場所を使うなら、いらない」
戒十は息を呑んだ。
影がそう言うとは思わなかった。
いや、そう言ってほしいと、どこかで期待していたのかもしれない。
だが、それは影を勝手に善良なものとして扱うことになる。
影の戒十は、善人になったわけではない。
今も身体が欲しい。
今も欲しくてたまらない。
それでも、拒んだ。
奪われた側の痛みを知っているから。
足元へ押し込められ、自分のものを他人の都合で使われる痛みを知っているから。
誰か別の人間の帰る場所を、自分の身体だと言えなかった。
リサが、声を詰まらせる。
「影くん」
「その呼び方、嫌」
影は培養槽から目を離さずに言った。
「でも、今は怒る元気ない」
「うん」
リサは小さく頷いた。
「ごめん」
シンが端末の資料を確認する。
表情は変わらない。
だが、目だけが低く沈んでいる。
「夜の王は、これを合理的な再利用と呼ぶだろうな」
戒十は壁の端末を見た。
補助神経情報。
情動安定補助。
影核片。
言葉は冷たい。
けれど、その一つ一つの後ろに、誰かがいた。
死ぬはずだった子ども。
事故で戻れなかった人。
自分が本物かどうかわからなくなった保存体。
帰るはずの身体を待っている影。
その情報を使って、影の戒十のための肉体が作られていた。
救いの提案に見えたものの内側に、別の誰かの喪失が詰め込まれていた。
「ふざけるな」
戒十の口から、低い声が漏れた。
自分の声だった。
影の声でもあった。
足元の影が、同じ怒りで揺れている。
「別々の身体にできるって、そういうことかよ」
リサが言う。
「夜の王にとっては、肉体は器なんだよ。空いているもの、使えるもの、保存できるもの、組み合わせられるもの」
「人の帰る場所なのに」
戒十は言った。
「そう」
リサの声は苦かった。
「それを、あいつはずっと間違えてる」
通信の向こうで、純が静かに言った。
『影の戒十』
影が反応する。
「何」
『欲しいと言ったことは、記録しておきます』
「嫌」
『でも、拒んだことも記録します』
影は黙った。
純は続ける。
『欲しかったことを、なかったことにしなくていいと思います』
影が揺れる。
戒十はその揺れを見ていた。
胸の奥に、奇妙な痛みがある。
影が欲しいと言ったことに、嫉妬している自分もいる。
影が拒んだことに、驚いている自分もいる。
そして、少しだけ誇らしく思っている自分もいた。
それを認めるのが、また嫌だった。
「……僕も」
戒十は小さく言った。
通信の向こうで、純が待っている。
「僕も、記録しておいて」
『何をですか』
「別々の身体って言葉に、まだ惹かれてること。でも、これは違うって思ったこと」
純の返事は、すぐには来なかった。
それから、静かに聞こえた。
『記録しました』
リサが培養槽へ近づく。
中の少年の身体を見つめる。
「この子も、壊せないね」
「はい」
戒十は答えた。
「でも、置いていくのも」
「あとで戻る」
シンが言った。
「今は中央へ向かう。夜の王を止めなければ、ここにいる全員が材料になる」
その言葉は冷たかったが、正しかった。
培養槽の少年を救うにも、保存庫の死者をどうするか考えるにも、まず夜の王を止める必要がある。
戒十は培養槽へ向かって、何を言うべきか迷った。
相手は眠っている肉体だ。
誰なのかもわからない。
それでも、何も言わずに出ることができなかった。
「使わない」
戒十は言った。
「僕らは、使わない」
影も、静かに続けた。
「帰る場所を奪わない」
培養槽の中の少年は、もちろん答えなかった。
青白い液体の中で、ただ静かに揺れているだけだった。
だが、戒十は少しだけ呼吸がしやすくなった。
部屋を出ようとしたとき、端末の画面が一瞬だけ切り替わった。
黒瀬理人の顔が映る。
夜の王。
いつから見ていたのか。
あるいは、最初から見せるためにこの部屋へ誘導したのか。
画面の中の彼は、穏やかに言った。
『拒否したか』
リサが身構える。
シンが刀を抜く。
戒十は画面を睨んだ。
「見てたんですか」
『見ていた。君たちが、その準備体をどう判断するか知りたかった』
「悪趣味ですね」
『重要な確認だ。肉体を欲する影人格が、倫理的拒絶を示すかどうか。興味深い結果だ』
影の戒十が唸る。
「実験にするな」
『すべての観察は、次の救命へつながる』
「その言い方やめろ」
戒十の声が低くなる。
夜の王は少しも乱れない。
『君たちは誤解している。あの準備体に使われた情報は、いずれも未帰還保存体のものだ。本人としての再構成可能性は低い。眠らせておくより、新しい人格の生に用いたほうが合理的だ』
リサが端末へ向かって言った。
「本人に聞いたの?」
『聞ける状態ではない』
「だから勝手に決めたんだ」
『決めなければ、彼らは保存されたまま劣化する』
「それを決める権利を、どうしてあなたが持ってるの」
『私は医師だ』
夜の王は、迷いなく答えた。
『死の前で迷っている時間はない』
戒十は、その言葉に悪意がないことを感じてしまった。
それが、腹立たしかった。
夜の王は続ける。
『三倉戒十君。影の君。君たちが拒否したことは尊重する。ただし、覚えておきなさい。救命には、常に誰かの決断が必要だ』
「本人抜きの決断を、救命って呼ぶな」
戒十が言った。
その言葉は、自分が何度もやりかけたことへの怒りでもあった。
純を守るためと言って勝手に決めようとしたこと。
影へ身体を渡して消えようとしたこと。
その全部が、夜の王の論理と遠くない場所にあった。
だからこそ、否定しなければならない。
夜の王は、画面の向こうで目を細めた。
『君は変わりつつある』
「保存する気ですか」
『必要なら』
「お断りします」
影が続ける。
「僕も」
夜の王は小さく笑った。
『では、中央再接続室で会おう』
画面が消えた。
部屋の青白い光だけが残る。
シンがすぐに言った。
「位置が割れた。急ぐぞ」
リサが頷く。
「中央再接続室。あいつ、待ってる」
戒十は培養槽をもう一度だけ見た。
そして足元の影を見る。
「行くぞ」
「うん」
「勝手に身体へ行くなよ」
「行かない」
「本当に?」
「しつこい」
「確認」
「じゃあ確認。君も、勝手に僕を消すなよ」
戒十は一瞬だけ黙った。
それから頷いた。
「消さない」
影は、その返事を聞いて少しだけ静かになった。
純の声が通信から届く。
『三人とも、中央区画へ向かう通路が開きました。ただし、警備影反応が増えています』
シンが答える。
「了解」
『戒十』
「何」
『今の記録、残しました』
「全部?」
『全部です』
「……あとで読みたくないな」
『必要なら読み返してください』
「厳しい」
『よく言われます』
リサが小さく笑う。
シンが扉へ向かう。
戒十は最後に、保存された死者たちのいる白い施設を振り返った。
助けようとした痕跡がある。
救えなかった結果がある。
そして、救うためと称して消された選択がある。
夜の王は、死者を忘れなかった。
だが、変わっていく死者の声を聞かなかった。
戒十は左手を握った。
足元の影も、同じように黒い指を握る。
中央再接続室へ向かう扉が開く。
その向こうから、湾岸へ集められた街の影が、低い波音のように響いていた。




