第二節 夜明けまでの役割
最初の救助は、五分で終わった。
五分しか、かけられなかった。
臨時診療所の前の通りで街路樹に突っ込んだ小型車は、運転席側のドアが歪んで開かなくなっていた。運転者の男は、肉体だけなら意識もあり、脚にも大きな怪我はなかった。
だが、影が離れかけていた。
男の影はハンドルにしがみつき、肉体を車外へ出そうとしなかった。
白い街灯の異常な角度によって、男の影は助手席側へ長く伸び、窓ガラスに貼りついていた。ガラスの中の影だけが、首を横に振っている。
出たくない。
違う。
戻りたくない。
言葉にはならないが、そう叫んでいるようだった。
車の下からは、手の形をした落影が這い出している。排水溝に溜まった黒い水から生えたような、指だけが異様に長い影。生きている人間の影に絡みつき、引き剥がそうとしている。
戒十は走った。
左手が熱い。
足元の影が先に出ようとする。
壊す。
砕く。
噛み切る。
その衝動が来る前に、戒十は言った。
「落影の接続だけ。人の影は傷つけない」
影の戒十が低く答える。
「わかってる」
「本当か?」
「しつこい」
「確認だよ」
「じゃあ、確認。君は車のドアを壊しすぎない」
「努力する」
「そこは、わかってるって言うところ」
「ドアは物だろ」
「中の人間に当たる」
「……わかってる」
短いやり取りの間に、リサの銀糸が道路を走った。
車の下へ潜ろうとした手の落影の指を絡め取り、排水溝の縁へ固定する。
シンは影縫刀を車の影へ突き立てた。
運転者の影を斬るのではなく、ハンドルに絡みついた影の硬直だけを縫い止める。
「三倉、ドア」
「はい」
戒十は壊れたドアへ手をかける。
肉体の力だけでは足りない。
影が足元から伸び、ドアの影の蝶番へ爪を立てる。
影をひねる。
現実の金属が軋む。
戒十は影に引っ張られすぎないように、右手でドアの縁を押さえた。
力の向き。
開く角度。
中の男の脚。
全部を見る。
ただ力任せに壊せば、助けるはずの相手を傷つける。
「今!」
リサが叫ぶ。
戒十はドアを引いた。
金属の悲鳴とともに、ドアが外側へ開く。
同時に、影の戒十が車内へ潜り、男の影の足元を支えた。
男の肉体が外へ倒れかける。
戒十はそれを受け止めた。
血の匂い。
額の小さな切り傷。
左手が反応する。
喉が鳴りそうになる。
戒十は即座に申告した。
「血の匂いあり。額から少量。左手が熱い。影声あり。でも、噛まない。舐めない。触らない」
運転者の男が震える声で言った。
「な、なんだよ、これ……俺の影、なんで……」
「見ないほうがいい」
戒十が言うと、リサがすかさず突っ込む。
「説明雑!」
「今、丁寧にしてる余裕ないですよ」
「そこは認めるけど、もうちょい優しく!」
シンが男の影を床へ縫い止めたまま、低く言った。
「落ち着け。影は戻せる。今は呼吸しろ」
不思議なことに、シンの無愛想な声のほうが男には効いた。
男は震えながらも、浅い呼吸を繰り返す。
リサが銀糸で落影の手を丸め、遮影布の小袋へ押し込んだ。袋の中で黒い指が暴れるが、銀糸の結び目が収縮し、やがて沈黙する。
遠くから白昼局の車両音が近づいてくる。
シンが一度だけ道路の先を見た。
「管理派か」
灰田の声が通信端末から返ってきた。
『こちらで回した班だ。処分派ではない』
「信用する根拠は」
『俺が同乗している』
「余計に不安だな」
『減らず口を叩けるなら生きているな』
灰田の車が角を曲がって現れた。
白い装甲車ではない。
市の防災車両に偽装した灰色のバンだ。車体側面には、宵浜市防災協力課のロゴが貼られている。中から白昼局の実働員が二人降りたが、照射具は構えていない。
代わりに、遮光布と携帯用の単一光源を持っていた。
シンはそれを見て、ほんのわずかに警戒を緩めた。
「応急固定を頼む」
実働員の一人が頷く。
「辰巳室長から指示を受けています。影脈遮断は行いません。観察、固定、搬送のみ」
リサが横目で見る。
「言い方、すごく白昼局」
「すみません」
「謝るんだ」
「共生派なので」
「それ免罪符じゃないからね」
実働員は少し困った顔をした。
そのやり取りの間にも、街の影は湾岸へ伸び続けている。
救助した男の影も、固定を外せばまた引かれるだろう。
これは一人を助けて終わる事態ではなかった。
市全体が、同じ症状を起こしている。
灰田が車から降りてきた。
顔に疲労が浮かんでいる。
だが、声は硬い。
「時間がない。辰巳が管制室を押さえた」
リサが眉を上げる。
「処分派の管制室?」
「違う。市の防災管制センター地下、旧設備室だ。市内照明の副系統へアクセスできる。処分派の正規監視からは少し外れている」
「少し?」
「完全ではない」
「正直でよろしい」
灰田はリサを見た。
「リサ。白昼局としては、おまえを未登録長命個体として拘束する命令が残っている」
「うん。じゃあ捕まえる?」
「今は捕まえない」
「今は、ね」
「今はだ」
リサは肩をすくめた。
「そういう正直さ、嫌いじゃないよ」
「好かれたくはない」
「安心して。そこまで好きじゃない」
灰田は返事をしなかった。
視線をシンへ移す。
「来られるか」
「水城は」
「管制室へ運ぶ。医療班もいる。辰巳が直接見る」
戒十が即座に反応した。
「純を白昼局に渡すんですか」
「渡すとは言っていない」
灰田が戒十を見る。
「彼女の治療記録が必要だ。本人の証言も必要になる。ただし、本人の同意なしには使わない。辰巳がそう言っている」
「白昼局の人間がそう言ったから信用しろと?」
「信用しなくていい。監視しろ」
戒十は言葉に詰まった。
灰田は続ける。
「疑え。記録しろ。おかしな動きがあれば止めろ。そのためにおまえたちも来る」
リサが小さく息を吐く。
「ずいぶん譲歩した言い方するね」
「譲歩ではない。こちらに余裕がない」
「それも正直」
シンが言った。
「案内しろ」
灰田が頷く。
「乗れ」
◇
宵浜市防災管制センターは、市役所の別棟にあった。
表向きは、台風や地震、大規模停電の際に市内設備を監視する施設だ。だが、その地下には、白昼局と市の一部部署が共同で使用する旧設備室が残っていた。
もともとは高度成長期の地下防災拠点。
古い配電盤、通信卓、壁一面の大型地図、使われなくなった有線電話の群れ。
そこへ白昼局共生派が機材を持ち込み、仮設管制室に変えていた。
天井は低く、空気は乾いている。
壁の一部には、昔の避難標語が剥げ残っていた。
落ち着いて、係員の指示に従ってください。
今の状況には、ほとんど皮肉だった。
部屋の中央には、市内照明網の地図が広げられている。
駅前、旧市街、北部住宅地区、湾岸工業地区、中央病院、学校、地下通路、商業施設。
それぞれの光源が点で表示され、赤い線が湾岸へ向かって伸びている。
影の流れを可視化したものだと、辰巳は説明した。
辰巳は白昼局の管理派に近い人物だった。
年齢は四十代半ばほど。スーツ姿だが、上着は脱ぎ、袖をまくっている。机の上には端末が三つ、紙の地図が二枚、冷えた缶コーヒーが手つかずで置かれていた。
顔には疲れがある。
だが、目はよく動く。
人を見る目だった。
「水城純さん」
辰巳は、担架代わりの簡易ベッドへ運ばれた純に向かって、深く頭を下げた。
「治療直後に申し訳ない。あなたの再縫合記録を使わせてほしい。ただし、あなたの同意なしには公開も共有もしない」
純は横になったまま、辰巳を見上げた。
顔色はまだ悪い。
右脇腹の縫合痕は安定しているが、強い光を見ると痛むため、ベッド周辺には単一の弱いライトが置かれていた。
「私を成功例と呼ばないでください」
純は最初にそう言った。
辰巳は一瞬だけ目を伏せた。
「承知しました」
「呼びやすいから、症例と言いたくなると思います」
「言わないよう指示します」
「言った人がいたら訂正してください」
「します」
純は少しだけ息を整えた。
「それなら、協力します」
辰巳は頷いた。
「ありがとうございます」
戒十はそのやり取りを横で聞いていた。
辰巳の態度は丁寧だ。
だが、それだけで信用はできない。
純はそれをわかっている。
わかったうえで、自分で条件を出した。
その姿を見て、戒十は黙るしかなかった。
部屋にはほかにも人がいた。
VIOLET DRAGONの住人代表として、カウンターの男、医師、スーツ姿の女性、若いギタリストが来ている。
カウンターの男は腕を組み、白昼局の職員を睨んでいた。
医師は純の容体と影脈モニターを確認している。
スーツ姿の女性は、白昼局側が持ち込んだ書類へ片っ端から付箋を貼っていた。
若いギタリストは緊張で顔色が悪いが、落影回収用の遮影袋をいくつも抱えている。
白昼局側には灰田、辰巳、共生派スタッフ、そして市内照明制御担当の職員が数名。
全員が同じ部屋にいる。
だが、味方という空気ではない。
互いに必要だから、同じ画面を見ているだけだ。
リサがその空気を眺め、わざと明るい声を出した。
「はいはい、みんな殺気をしまって。今ここで睨み合っても街灯は戻らないよ」
カウンターの男が低く言う。
「先に睨んできたのは白昼局だ」
灰田が返す。
「先に地下区画を無許可で広げたのはそちらだ」
リサが手を叩いた。
「はい、そこまで。昔の恨みはあとで年表にしよう。今は街が夜の王に乗っ取られてる」
「年表にしたら困るのはそっちだろ」
「お互い様じゃない?」
辰巳が咳払いをした。
「作戦を整理します」
大型モニターに宵浜市の地図が映る。
赤い線が、街中から湾岸へ伸びている。
それは光の向きであり、影の流れでもあった。
「夜の王、黒瀬理人は、市内の公共照明、駅構内照明、病院誘導灯、商業施設看板、湾岸施設の投光器を副系統から制御しています。正規系統を切断しても、非常用照明や民間設備が乗っ取られる。完全停止は不可能に近い」
市の照明制御担当者が、青ざめた顔で続ける。
「照明を全部落とすことも危険です。完全な暗闇になると、影の境界が消えます。白昼局の資料では、離影者や落影が拡散しやすくなると」
「合ってる」
リサが言う。
「暗くすれば安全ってわけじゃない。小さい灯りは必要。でも今は、その灯りが全部同じ方向を向かされてる」
純が地図を見つめた。
「一つの強い光で、影を集めているんですね」
辰巳が頷く。
「そう見ています」
「再縫合とは逆です」
純の声に、全員が視線を向けた。
純は少しだけ息を吸った。
まだ長く話すだけで体力を削られる。
それでも、彼女は続けた。
「私の治療では、私の近くに一つの光を置いて、私の影を私の足元へ戻しました。でも今は、街中の光を遠くの一か所へ向けて、みんなの影をそこへ引っ張っている」
リサが静かに頷く。
「その通り」
「だから、同じやり方じゃありません」
純は画面を見る。
「夜の王が言っていることは、私の治療を大きくしたものじゃないです。似た言葉を使っているだけです」
辰巳はすぐにスタッフへ言った。
「記録。水城さんの発言を作戦メモへ入れて」
純は少し眉を寄せる。
「記録してもいいです。でも、言葉を変えないでください」
「原文で残します」
「お願いします」
戒十は純を見た。
治療直後だ。
今すぐ眠ってもおかしくない。
それなのに、彼女はこの部屋の誰よりも正確に、夜の王の嘘を切り分けている。
戦っていないわけではない。
ただ、前に出る場所が違うだけだ。
辰巳は地図へ指を置いた。
「役割分担です。白昼局は市民の避難、光源設備の副系統切り離し、処分派による影脈遮断の抑制を行います」
灰田が口を挟む。
「抑制では足りない。明確に禁止しろ」
辰巳は灰田を見る。
「命令権限は処分派にも残っている」
「なら、現場で止める」
「そのために君を出す」
灰田は舌打ちした。
「了解」
辰巳は続ける。
「VIOLET DRAGONの皆さんには、落影の回収と、暴走しかけている離影者および市民の保護をお願いしたい」
カウンターの男が腕を組んだまま言う。
「お願い、ね」
「命令ではありません」
「その違いがわかる白昼局員がいたとはな」
辰巳は否定しなかった。
「これまでの対応に問題があったことは認めます。ただ、今それを議論している時間はありません」
「後でやる」
「記録しておきます」
スーツ姿の女性が低く言った。
「こちらでも記録しています」
辰巳は一瞬だけ彼女を見て、頷いた。
「結構です」
緊張した空気が、少しだけ現実的な形へ整っていく。
完全な信頼ではない。
だが、役割が決まり始めると、人は動ける。
リサが地図の湾岸地区を指した。
「戒十くん、シン、あたしは常盤再生医療財団の地下研究区画へ入る。光源制御の中心と、クイーン定着装置はたぶんそこ」
辰巳が別画面を出す。
「施設構造はこちらで一部把握しています。ただし、地下三層より下は財団の独自設計で、白昼局の図面にも完全には出ていない」
シンが画面を見る。
「侵入口は」
灰田が答える。
「搬入口、排水処理棟、地下医療搬送路の三つ。正面は処分派と財団側の警備がぶつかっている。使うなら地下医療搬送路だ」
「罠は」
「ある前提で行け」
「役に立つ助言だ」
「だろう」
リサが呆れたように言う。
「男二人、仲悪いのか仲良いのかわかんないね」
「悪い」
シンと灰田が同時に答えた。
リサは肩をすくめる。
「息ぴったり」
純が小さく笑いかけ、すぐに右脇腹を押さえた。
戒十が反射的に近づく。
「大丈夫か」
「笑うと、まだ少し痛いです」
「笑うなよ」
「今のは、ちょっと無理です」
「無理して笑わなくていい」
「無理じゃなくて、少し面白かったんです」
戒十は返事に困る。
リサが横からにやっとした。
「黒猫くん、こういうときの返し下手だよね」
「うるさいです」
「うん、いつもの調子出てきた」
その一言に、戒十は少しだけ息を整えた。
いつもの調子。
こんな非常時に、そんなものが少しでも残っていることが、不思議だった。
辰巳が純へ向き直る。
「水城さん。あなたには、ここから光源情報と影流の変化を見てもらいたい」
戒十は即座に口を開いた。
「待ってください」
自分でも声が強くなったのがわかった。
全員がこちらを見る。
戒十は純のベッドの横へ立った。
「治療直後だろ。休んでろ」
言葉は、ほとんど反射で出た。
だが、言い終えた瞬間、影の戒十が足元でわずかに動いた。
まただ。
勝手に決めている。
戒十はそれに気づいたが、口を閉じる前に純が答えた。
「前線へ行かないことは選びました」
声は穏やかだった。
でも、芯があった。
「でも、何もしないことは選んでいません」
戒十は純を見る。
純は横になったまま、弱いライトの下にいる。
顔色は悪い。
数時間前まで、自分の影が欠けていた人間だ。
それでも、彼女はこの場から自分を外していない。
「私は走れません。戦えません。落影を回収することも、財団の地下に入ることもできません。たぶん、今立ち上がったらリサさんに怒られます」
「すごく怒る」
リサが即答する。
純は少し頷く。
「なので、前線には行きません。でも、光源の向きなら見られます。自分の治療で何が必要だったかも覚えています。戒十が共同操作をしている時間も、私なら数えられます」
戒十の足元の影が揺れる。
影の戒十が言う。
「数えられるって」
「黙ってろ」
「今のは僕に言うこと?」
「……違う」
純が少しだけ目を細める。
「影の戒十ですか」
「うん」
「何て?」
「数えられるって」
「数えます」
純はあっさり言った。
「三分なら三分。三十秒なら三十秒。戻る条件も確認します」
戒十は頭をかいた。
「管制室まで管理する気かよ」
「違います。戒十が自分だけで決めて、勝手に奥へ行かないように見ます」
「厳しい」
「よく言われます」
その言い方は、もう何度も聞いた。
なのに、今は少し違って響いた。
純は、自分の場所を選んでいる。
安全な場所へ置かれているのではない。
ここに残ることを、自分で決めている。
戒十は言いたかった。
危ない。
巻き込みたくない。
眠っていてほしい。
何も見なくていい。
だが、その言葉を全部飲み込んだ。
飲み込むのではなく、別の言葉に変える必要がある。
影の戒十が、足元で小さく言った。
「また勝手に守る?」
戒十は返す。
「言うな」
「言わないと、またやる」
「……わかってる」
戒十は純を見る。
言葉を選ぶ。
今までなら、たぶんこう言っていた。
危なくなったら逃げて。
それは優しさのつもりだった。
でも、その言葉の中には、逃げるか残るかを自分が決めているような響きがある。
純の意志を、最初から安全なほうへ押し込める響きがある。
だから、戒十は言い直した。
「危なくなったら……」
途中で止まり、息を吸う。
純が待っている。
リサも、シンも、何も言わない。
「逃げるか残るか、そっちで決めて」
純の目が少しだけ大きくなった。
戒十は照れをごまかすように続ける。
「ただし、決めたら通信で言って。勝手に消えるな。倒れる前に言って。大丈夫って嘘つくな。痛いなら痛い、怖いなら怖いって言って」
純は静かに聞いていた。
それから、小さく頷いた。
「はい。決めます」
戒十の影が、足元で少しだけ揺れた。
満足そうだった。
「今のはよかった」
影の声。
「上から言うな」
「横から言ってる」
「屁理屈まで似てきたな」
「君の影だから」
戒十は言い返せなかった。
リサがその様子を見て、少しだけ笑った。
「変わったね、黒猫くん」
「少しだけです」
「その少しが大事なんだよ」
辰巳は純へ端末を差し出した。
「こちらが照明網の表示。光源の角度、出力、影流推定が出ます。操作権限は市の担当者と白昼局側にありますが、切り替え判断の補助をお願いします」
純は端末を受け取る。
手が少し震えている。
戒十が気づく。
純も、自分の手の震えに気づいた。
「怖いです」
彼女は言った。
部屋の空気が静かになる。
「でも、やります」
辰巳は頷いた。
「無理はしないでください」
純は辰巳を見た。
「それも、自分で判断します」
「……承知しました」
辰巳は少しだけ背筋を正した。
純が一人の患者ではなく、作戦参加者として扱われ始めた瞬間だった。
◇
作戦は、夜明けまでの暫定計画として組まれた。
白昼局は、市民の避難と照明網の切り離しを担当する。
ただし、処分派が市民の影脈遮断へ走らないよう、管理派と共生派が各現場へ監視班を送る。
灰田はその現場指揮へ回る。
「暴走者を見つけたら、まず遮光、次に単一光源固定、最後に拘束。遮断は最終手段だ」
彼は通信で実働班へ命じていた。
『処分派から直接命令が来た場合は?』
「俺へ回せ」
『灰田班長の権限を超えます』
「責任者の名前を記録してから止めろ。あとで俺が殴られる」
『殴られるで済みますか』
「済まないかもな」
横で聞いていたシンが低く言う。
「それでいいのか」
灰田は端末から顔を上げずに答えた。
「おまえが言うな」
「俺はもう反逆者だ」
「俺はまだ給料が出ている」
「なら働け」
「働いている」
リサが二人を見比べる。
「ほんとに仲悪い?」
「悪い」
また同時だった。
今度は純も、少し笑った。
痛みはあるらしく、すぐに顔をしかめたが、それでも笑えた。
VIOLET DRAGONの住人たちは、落影回収と暴走者の保護へ散る。
カウンターの男は旧市街の地下通路へ。
若いギタリストは、住人たちへ連絡網を回す。
スーツ姿の女性は、白昼局とVIOLET DRAGONの混成チームの動線を整理し、誰がどの現場で誰の指揮下に入るのかを書類にしている。
「今、書類?」
戒十が思わず言うと、彼女は眼鏡を上げて答えた。
「今だからです。あとで誰かが勝手に処分命令を出したと言い逃れできないように、命令系統と同意範囲を残します」
「……強いですね」
「書類は武器です」
リサが楽しそうに言う。
「この人、怒らせるとシンより怖いよ」
「でしょうね」
戒十は素直に頷いた。
シンは地下研究区画への侵入準備を進めている。
影縫刀の影接続を確認し、予備の遮影布、携帯単一光源、血液パック、影固定剤を最小限だけ持つ。
右腕の動きが、わずかに鈍い。
戒十はそれに気づいた。
「右腕、大丈夫なんですか」
「大丈夫ではない」
シンは即答した。
戒十のほうが驚く。
「そこは大丈夫って言うところじゃ」
「嘘になる」
「じゃあ、行くべきじゃないんじゃ」
「使える範囲で使う」
シンは淡々としている。
「痺れがある。影接続の持続時間も落ちている。長時間の縫界は無理だ。だが、短時間の防御ならできる」
「無理する気じゃないですよね」
純の声が飛んだ。
シンが少しだけ振り返る。
「無理はする」
「そこはしないって言うところです」
「必要ならする」
「必要だと決めた人の名前を出してください」
シンが黙った。
部屋にいた数人が、思わず純を見る。
それは、かつてシン自身が白昼局へ突きつけた言葉だった。
純は横になったまま、しかし逃がさない目をしていた。
シンは数秒沈黙し、短く言った。
「俺が決める」
「では、シンさんが決めたと記録します」
「……厳しいな」
「よく言われます」
リサが吹き出しそうになり、手で口を押さえた。
「シン、純ちゃんに弱いね」
「正しいことを言われているだけだ」
「それを弱いって言うんだよ」
シンは反論しなかった。
代わりに、純へ言った。
「無理をする場合は申告する」
「お願いします」
「撤退判断は、俺一人ではしない」
純は頷いた。
「それでいいです」
そのやり取りを見て、灰田が少し奇妙な顔をした。
「おまえが、そんなことを言うとはな」
シンは灰田を見ずに答える。
「言われたからだ」
「誰に」
「今、聞いていただろう」
灰田は短く息を吐いた。
皮肉ではない。
少しだけ、過去の何かを見ているような息だった。
「復帰の話は、まだ有効だ」
灰田が言った。
空気が少し変わる。
シンは道具を鞄へ入れながら、表情を変えなかった。
「またそれか」
「おまえが戻れば、処分派への抑止になる。俺一人では足りない」
「戻らない」
「白昼局へ戻ることと、市民を守ることは矛盾しない」
「戻ることと、協力することは違う」
シンは灰田を見た。
「俺は戻らない。だが、今は協力する」
灰田はしばらくシンを見ていた。
「それで十分だと思うか」
「十分ではない」
「なら」
「今できることだ」
シンの言葉は短い。
しかし、以前のようにすべてを断ち切る声ではなかった。
灰田はそれ以上言わなかった。
「了解した。施設外周の白昼局班には、俺から通す。処分派が割り込んだら、逃げるか殴れ」
リサが手を上げる。
「はい質問。殴っていいの?」
「記録上は推奨しない」
「実際は?」
「邪魔なら仕方ない」
「白昼局、末期どころか崩壊寸前じゃない?」
辰巳が疲れた声で言った。
「後で立て直します。生きていれば」
「重い」
リサは肩をすくめた。
◇
出発前、純は戒十を呼んだ。
管制卓の横に設置された簡易ベッド。
そこに横になったまま、純は端末を胸の上に置いている。
画面には、市内の光源情報が流れている。
まだ操作には参加していない。
だが、彼女はもう見始めていた。
駅前の街灯が何度揺れたか。
旧市街の影流がどの交差点で乱れたか。
湾岸へ伸びる赤い線のうち、どれがクイーン由来で、どれが夜の王の照明制御によるものか。
彼女は戦場へ出ていない。
けれど、ここも十分に戦場だった。
「戒十」
「何」
戒十はベッドのそばへ行く。
近づきすぎないように、一歩手前で止まる。
純はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「そこまで離れなくても、大丈夫です」
「血に反応するかもしれない」
「今はしません」
「わかるの?」
「私の影なので」
戒十は黙った。
その言い方が、治療の最後の言葉を思い出させた。
私の影は、私のもの。
純は続ける。
「でも、心配なら聞いてください」
「触っていいか?」
「左手はまだ怖いです。右手なら」
戒十はゆっくり右手を伸ばした。
純の左手に触れる。
指先はまだ少し冷たい。
でも、あの冷たさではない。
影咬に食われていたときの、内側から冷えるような寒さではない。
ただ、疲れた人の手だった。
「……生きてる」
戒十は思わず呟いた。
純は少しだけ笑った。
「はい」
「ごめん」
「何に?」
「いろいろ」
「雑です」
「じゃあ、あとで細かく謝る」
「記録しておきます」
「やめろよ」
「必要です」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
その沈黙は、以前ほど怖くなかった。
純が先に口を開く。
「前線へ行かないの、悔しいです」
「行かせたくない」
「知ってます」
「でも、行きたいって言われたら止めると思う」
「止めるのはいいです。理由を説明して、私の答えを聞いてくれるなら」
戒十は頷いた。
「わかった」
「それと、私はここで逃げるか残るか決めます。でも、戒十も同じです」
「僕?」
「はい」
純は戒十の手を弱く握った。
「影に身体を渡さないでください」
足元の影が、少しだけ動く。
純はそちらも見た。
「影の戒十も、戒十を追い出さないでください」
影が戒十の声で答える。
「また渡すって言ったら噛む」
純は瞬きした。
「噛むのは困ります」
戒十がすぐに言う。
「噛むな。言え」
影が不満そうに揺れる。
「言っても聞かないときは?」
「二回言え」
「二回でも駄目なら?」
「純に言え」
純は少し驚いた顔をした。
それから、真面目に頷いた。
「聞きます」
影の戒十は少しだけ黙った。
その沈黙が、どこか照れているように見えて、戒十は妙な顔になった。
「おまえ、今照れた?」
「うるさい」
「照れたな」
「噛むよ」
「だから噛むなって」
純が小さく笑う。
今度は、痛そうにしなかった。
そのことに、戒十は少しだけ救われた。
リサが離れた場所から声をかける。
「黒猫くん、そろそろ出るよ」
「はい」
戒十は純の手を離そうとした。
純が一瞬だけ握り返す。
強い力ではない。
でも、止める力だった。
「戻ってきてください」
「戻る」
「二人とも」
戒十は足元を見る。
影も、純を見ている。
「戻る」
今度は、戒十と影の声が重なった。
純は頷いた。
「行ってらっしゃい」
戒十はその言葉を受け取って、立ち上がる。
照れ隠しに何か言おうとして、結局何も言えなかった。
ただ、頷いた。
◇
出発口は、旧設備室の奥にある保守用地下通路だった。
市役所別棟から、地下鉄の旧連絡路、防災備蓄倉庫、雨水排水路を経由し、湾岸の常盤再生医療財団近くへ抜ける。
地上へ出れば、光源異常と落影の群れ、さらに白昼局処分派と財団警備の監視がある。
地下は暗い。
だが、完全な暗闇ではない。
リサが小型の単一光源を持つ。
シンが先頭。
戒十が中央。
リサが後方。
通常なら、最も影を見られる戒十を先頭にする選択もあった。
だが、湾岸へ影が引かれている今、戒十を一番前へ出すのは危険だった。
彼が影網へ呼ばれた瞬間、誰かが止めなければならない。
その役を、シンとリサが挟み込む形で担う。
扉の前で、灰田が立っていた。
「地下搬送路の途中までは、こちらの班が照明を切り替える。完全な保証はできない」
シンが言う。
「十分だ」
「十分ではない」
「今できることだ」
灰田は少しだけ目を細めた。
「言い返されたな」
「さっきのお返しだ」
リサが二人の間を通り抜ける。
「はいはい、青春のやり直しはあとで。おじさん二人、邪魔」
「おじさんと言うな」
灰田が言う。
シンは何も言わなかった。
リサが振り返る。
「シン、否定しないんだ」
「事実だ」
「そういうところ、ずるい」
戒十は思わず息を漏らした。
この人たちは、こんな状況でも少しだけ日常を残す。
それが強さなのか、ただの癖なのかはわからない。
でも、その空気のおかげで、足元の影のざわめきが少しだけ収まった。
通信端末から純の声が入る。
『聞こえますか』
戒十は耳につけた小型端末へ触れた。
「聞こえる」
『音量、大きすぎませんか』
「大丈夫」
『本当に?』
「本当」
『影の戒十は?』
足元の影が揺れる。
「聞こえる」
『では、共同操作の時間管理は私がします。勝手に延長しないでください』
「はい」
戒十が返事をすると、影が遅れて言った。
「はい」
リサがにやける。
「素直」
「今のは純だから」
影が答えた。
戒十が顔をしかめる。
「僕には?」
「内容による」
「おまえな」
『仲良く喧嘩するのはあとにしてください』
純の声が割り込む。
リサが笑った。
「管制官、もう板についてるね」
『今のは管制ではなく注意です』
「もっと強い」
辰巳の声も通信に入る。
『市内照明網、第一切り離しを開始します。駅前と旧市街の一部で、影流が弱まる見込み。財団側に気づかれるまで五分程度』
灰田が言う。
『突入班、五分で地下搬送路へ入れ』
シンが扉を開けた。
湿った地下の空気が流れ込む。
遠くで、水の音がする。
暗い通路の奥から、湾岸へ向かうように細い影の流れが伸びている。
戒十の左手が熱くなる。
足元の影が、一歩だけ先へ行きたがる。
戒十は言う。
「左手が熱い。影が先へ行きたがってる。行きたい。怖い。でも、勝手には行かない」
純の声がすぐに返る。
『記録しました』
リサが頷く。
「よし」
シンが先頭で刀を抜く。
「行く」
戒十は一度だけ振り返った。
扉の向こうに、管制室の光が見える。
純は見えない。
だが、声は届いている。
逃げるか残るかは、彼女が決める。
進むか止まるかは、自分たちが申告して決める。
誰かが誰かの代わりに消えるのではなく、それぞれがそれぞれの場所で選ぶ。
それが、夜明けまでの役割だった。
戒十は足を踏み出した。
影も、同じ歩幅で続いた。
地下研究区画へ向かう通路の奥で、常盤再生医療財団の白い光が、まだ見えない場所から彼らを待っていた。




