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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第五章 夜の終焉
32/49

第二節 夜明けまでの役割

 最初の救助は、五分で終わった。


 五分しか、かけられなかった。


 臨時診療所の前の通りで街路樹に突っ込んだ小型車は、運転席側のドアが歪んで開かなくなっていた。運転者の男は、肉体だけなら意識もあり、脚にも大きな怪我はなかった。


 だが、影が離れかけていた。


 男の影はハンドルにしがみつき、肉体を車外へ出そうとしなかった。


 白い街灯の異常な角度によって、男の影は助手席側へ長く伸び、窓ガラスに貼りついていた。ガラスの中の影だけが、首を横に振っている。


 出たくない。


 違う。


 戻りたくない。


 言葉にはならないが、そう叫んでいるようだった。


 車の下からは、手の形をした落影が這い出している。排水溝に溜まった黒い水から生えたような、指だけが異様に長い影。生きている人間の影に絡みつき、引き剥がそうとしている。


 戒十は走った。


 左手が熱い。


 足元の影が先に出ようとする。


 壊す。


 砕く。


 噛み切る。


 その衝動が来る前に、戒十は言った。


「落影の接続だけ。人の影は傷つけない」


 影の戒十が低く答える。


「わかってる」


「本当か?」


「しつこい」


「確認だよ」


「じゃあ、確認。君は車のドアを壊しすぎない」


「努力する」


「そこは、わかってるって言うところ」


「ドアは物だろ」


「中の人間に当たる」


「……わかってる」


 短いやり取りの間に、リサの銀糸が道路を走った。


 車の下へ潜ろうとした手の落影の指を絡め取り、排水溝の縁へ固定する。


 シンは影縫刀を車の影へ突き立てた。


 運転者の影を斬るのではなく、ハンドルに絡みついた影の硬直だけを縫い止める。


「三倉、ドア」


「はい」


 戒十は壊れたドアへ手をかける。


 肉体の力だけでは足りない。


 影が足元から伸び、ドアの影の蝶番へ爪を立てる。


 影をひねる。


 現実の金属が軋む。


 戒十は影に引っ張られすぎないように、右手でドアの縁を押さえた。


 力の向き。


 開く角度。


 中の男の脚。


 全部を見る。


 ただ力任せに壊せば、助けるはずの相手を傷つける。


「今!」


 リサが叫ぶ。


 戒十はドアを引いた。


 金属の悲鳴とともに、ドアが外側へ開く。


 同時に、影の戒十が車内へ潜り、男の影の足元を支えた。


 男の肉体が外へ倒れかける。


 戒十はそれを受け止めた。


 血の匂い。


 額の小さな切り傷。


 左手が反応する。


 喉が鳴りそうになる。


 戒十は即座に申告した。


「血の匂いあり。額から少量。左手が熱い。影声あり。でも、噛まない。舐めない。触らない」


 運転者の男が震える声で言った。


「な、なんだよ、これ……俺の影、なんで……」


「見ないほうがいい」


 戒十が言うと、リサがすかさず突っ込む。


「説明雑!」


「今、丁寧にしてる余裕ないですよ」


「そこは認めるけど、もうちょい優しく!」


 シンが男の影を床へ縫い止めたまま、低く言った。


「落ち着け。影は戻せる。今は呼吸しろ」


 不思議なことに、シンの無愛想な声のほうが男には効いた。


 男は震えながらも、浅い呼吸を繰り返す。


 リサが銀糸で落影の手を丸め、遮影布の小袋へ押し込んだ。袋の中で黒い指が暴れるが、銀糸の結び目が収縮し、やがて沈黙する。


 遠くから白昼局の車両音が近づいてくる。


 シンが一度だけ道路の先を見た。


「管理派か」


 灰田の声が通信端末から返ってきた。


『こちらで回した班だ。処分派ではない』


「信用する根拠は」


『俺が同乗している』


「余計に不安だな」


『減らず口を叩けるなら生きているな』


 灰田の車が角を曲がって現れた。


 白い装甲車ではない。


 市の防災車両に偽装した灰色のバンだ。車体側面には、宵浜市防災協力課のロゴが貼られている。中から白昼局の実働員が二人降りたが、照射具は構えていない。


 代わりに、遮光布と携帯用の単一光源を持っていた。


 シンはそれを見て、ほんのわずかに警戒を緩めた。


「応急固定を頼む」


 実働員の一人が頷く。


「辰巳室長から指示を受けています。影脈遮断は行いません。観察、固定、搬送のみ」


 リサが横目で見る。


「言い方、すごく白昼局」


「すみません」


「謝るんだ」


「共生派なので」


「それ免罪符じゃないからね」


 実働員は少し困った顔をした。


 そのやり取りの間にも、街の影は湾岸へ伸び続けている。


 救助した男の影も、固定を外せばまた引かれるだろう。


 これは一人を助けて終わる事態ではなかった。


 市全体が、同じ症状を起こしている。


 灰田が車から降りてきた。


 顔に疲労が浮かんでいる。


 だが、声は硬い。


「時間がない。辰巳が管制室を押さえた」


 リサが眉を上げる。


「処分派の管制室?」


「違う。市の防災管制センター地下、旧設備室だ。市内照明の副系統へアクセスできる。処分派の正規監視からは少し外れている」


「少し?」


「完全ではない」


「正直でよろしい」


 灰田はリサを見た。


「リサ。白昼局としては、おまえを未登録長命個体として拘束する命令が残っている」


「うん。じゃあ捕まえる?」


「今は捕まえない」


「今は、ね」


「今はだ」


 リサは肩をすくめた。


「そういう正直さ、嫌いじゃないよ」


「好かれたくはない」


「安心して。そこまで好きじゃない」


 灰田は返事をしなかった。


 視線をシンへ移す。


「来られるか」


「水城は」


「管制室へ運ぶ。医療班もいる。辰巳が直接見る」


 戒十が即座に反応した。


「純を白昼局に渡すんですか」


「渡すとは言っていない」


 灰田が戒十を見る。


「彼女の治療記録が必要だ。本人の証言も必要になる。ただし、本人の同意なしには使わない。辰巳がそう言っている」


「白昼局の人間がそう言ったから信用しろと?」


「信用しなくていい。監視しろ」


 戒十は言葉に詰まった。


 灰田は続ける。


「疑え。記録しろ。おかしな動きがあれば止めろ。そのためにおまえたちも来る」


 リサが小さく息を吐く。


「ずいぶん譲歩した言い方するね」


「譲歩ではない。こちらに余裕がない」


「それも正直」


 シンが言った。


「案内しろ」


 灰田が頷く。


「乗れ」


     ◇


 宵浜市防災管制センターは、市役所の別棟にあった。


 表向きは、台風や地震、大規模停電の際に市内設備を監視する施設だ。だが、その地下には、白昼局と市の一部部署が共同で使用する旧設備室が残っていた。


 もともとは高度成長期の地下防災拠点。


 古い配電盤、通信卓、壁一面の大型地図、使われなくなった有線電話の群れ。


 そこへ白昼局共生派が機材を持ち込み、仮設管制室に変えていた。


 天井は低く、空気は乾いている。


 壁の一部には、昔の避難標語が剥げ残っていた。


 落ち着いて、係員の指示に従ってください。


 今の状況には、ほとんど皮肉だった。


 部屋の中央には、市内照明網の地図が広げられている。


 駅前、旧市街、北部住宅地区、湾岸工業地区、中央病院、学校、地下通路、商業施設。


 それぞれの光源が点で表示され、赤い線が湾岸へ向かって伸びている。


 影の流れを可視化したものだと、辰巳は説明した。


 辰巳は白昼局の管理派に近い人物だった。


 年齢は四十代半ばほど。スーツ姿だが、上着は脱ぎ、袖をまくっている。机の上には端末が三つ、紙の地図が二枚、冷えた缶コーヒーが手つかずで置かれていた。


 顔には疲れがある。


 だが、目はよく動く。


 人を見る目だった。


「水城純さん」


 辰巳は、担架代わりの簡易ベッドへ運ばれた純に向かって、深く頭を下げた。


「治療直後に申し訳ない。あなたの再縫合記録を使わせてほしい。ただし、あなたの同意なしには公開も共有もしない」


 純は横になったまま、辰巳を見上げた。


 顔色はまだ悪い。


 右脇腹の縫合痕は安定しているが、強い光を見ると痛むため、ベッド周辺には単一の弱いライトが置かれていた。


「私を成功例と呼ばないでください」


 純は最初にそう言った。


 辰巳は一瞬だけ目を伏せた。


「承知しました」


「呼びやすいから、症例と言いたくなると思います」


「言わないよう指示します」


「言った人がいたら訂正してください」


「します」


 純は少しだけ息を整えた。


「それなら、協力します」


 辰巳は頷いた。


「ありがとうございます」


 戒十はそのやり取りを横で聞いていた。


 辰巳の態度は丁寧だ。


 だが、それだけで信用はできない。


 純はそれをわかっている。


 わかったうえで、自分で条件を出した。


 その姿を見て、戒十は黙るしかなかった。


 部屋にはほかにも人がいた。


 VIOLET DRAGONの住人代表として、カウンターの男、医師、スーツ姿の女性、若いギタリストが来ている。


 カウンターの男は腕を組み、白昼局の職員を睨んでいた。


 医師は純の容体と影脈モニターを確認している。


 スーツ姿の女性は、白昼局側が持ち込んだ書類へ片っ端から付箋を貼っていた。


 若いギタリストは緊張で顔色が悪いが、落影回収用の遮影袋をいくつも抱えている。


 白昼局側には灰田、辰巳、共生派スタッフ、そして市内照明制御担当の職員が数名。


 全員が同じ部屋にいる。


 だが、味方という空気ではない。


 互いに必要だから、同じ画面を見ているだけだ。


 リサがその空気を眺め、わざと明るい声を出した。


「はいはい、みんな殺気をしまって。今ここで睨み合っても街灯は戻らないよ」


 カウンターの男が低く言う。


「先に睨んできたのは白昼局だ」


 灰田が返す。


「先に地下区画を無許可で広げたのはそちらだ」


 リサが手を叩いた。


「はい、そこまで。昔の恨みはあとで年表にしよう。今は街が夜の王に乗っ取られてる」


「年表にしたら困るのはそっちだろ」


「お互い様じゃない?」


 辰巳が咳払いをした。


「作戦を整理します」


 大型モニターに宵浜市の地図が映る。


 赤い線が、街中から湾岸へ伸びている。


 それは光の向きであり、影の流れでもあった。


「夜の王、黒瀬理人は、市内の公共照明、駅構内照明、病院誘導灯、商業施設看板、湾岸施設の投光器を副系統から制御しています。正規系統を切断しても、非常用照明や民間設備が乗っ取られる。完全停止は不可能に近い」


 市の照明制御担当者が、青ざめた顔で続ける。


「照明を全部落とすことも危険です。完全な暗闇になると、影の境界が消えます。白昼局の資料では、離影者や落影が拡散しやすくなると」


「合ってる」


 リサが言う。


「暗くすれば安全ってわけじゃない。小さい灯りは必要。でも今は、その灯りが全部同じ方向を向かされてる」


 純が地図を見つめた。


「一つの強い光で、影を集めているんですね」


 辰巳が頷く。


「そう見ています」


「再縫合とは逆です」


 純の声に、全員が視線を向けた。


 純は少しだけ息を吸った。


 まだ長く話すだけで体力を削られる。


 それでも、彼女は続けた。


「私の治療では、私の近くに一つの光を置いて、私の影を私の足元へ戻しました。でも今は、街中の光を遠くの一か所へ向けて、みんなの影をそこへ引っ張っている」


 リサが静かに頷く。


「その通り」


「だから、同じやり方じゃありません」


 純は画面を見る。


「夜の王が言っていることは、私の治療を大きくしたものじゃないです。似た言葉を使っているだけです」


 辰巳はすぐにスタッフへ言った。


「記録。水城さんの発言を作戦メモへ入れて」


 純は少し眉を寄せる。


「記録してもいいです。でも、言葉を変えないでください」


「原文で残します」


「お願いします」


 戒十は純を見た。


 治療直後だ。


 今すぐ眠ってもおかしくない。


 それなのに、彼女はこの部屋の誰よりも正確に、夜の王の嘘を切り分けている。


 戦っていないわけではない。


 ただ、前に出る場所が違うだけだ。


 辰巳は地図へ指を置いた。


「役割分担です。白昼局は市民の避難、光源設備の副系統切り離し、処分派による影脈遮断の抑制を行います」


 灰田が口を挟む。


「抑制では足りない。明確に禁止しろ」


 辰巳は灰田を見る。


「命令権限は処分派にも残っている」


「なら、現場で止める」


「そのために君を出す」


 灰田は舌打ちした。


「了解」


 辰巳は続ける。


「VIOLET DRAGONの皆さんには、落影の回収と、暴走しかけている離影者および市民の保護をお願いしたい」


 カウンターの男が腕を組んだまま言う。


「お願い、ね」


「命令ではありません」


「その違いがわかる白昼局員がいたとはな」


 辰巳は否定しなかった。


「これまでの対応に問題があったことは認めます。ただ、今それを議論している時間はありません」


「後でやる」


「記録しておきます」


 スーツ姿の女性が低く言った。


「こちらでも記録しています」


 辰巳は一瞬だけ彼女を見て、頷いた。


「結構です」


 緊張した空気が、少しだけ現実的な形へ整っていく。


 完全な信頼ではない。


 だが、役割が決まり始めると、人は動ける。


 リサが地図の湾岸地区を指した。


「戒十くん、シン、あたしは常盤再生医療財団の地下研究区画へ入る。光源制御の中心と、クイーン定着装置はたぶんそこ」


 辰巳が別画面を出す。


「施設構造はこちらで一部把握しています。ただし、地下三層より下は財団の独自設計で、白昼局の図面にも完全には出ていない」


 シンが画面を見る。


「侵入口は」


 灰田が答える。


「搬入口、排水処理棟、地下医療搬送路の三つ。正面は処分派と財団側の警備がぶつかっている。使うなら地下医療搬送路だ」


「罠は」


「ある前提で行け」


「役に立つ助言だ」


「だろう」


 リサが呆れたように言う。


「男二人、仲悪いのか仲良いのかわかんないね」


「悪い」


 シンと灰田が同時に答えた。


 リサは肩をすくめる。


「息ぴったり」


 純が小さく笑いかけ、すぐに右脇腹を押さえた。


 戒十が反射的に近づく。


「大丈夫か」


「笑うと、まだ少し痛いです」


「笑うなよ」


「今のは、ちょっと無理です」


「無理して笑わなくていい」


「無理じゃなくて、少し面白かったんです」


 戒十は返事に困る。


 リサが横からにやっとした。


「黒猫くん、こういうときの返し下手だよね」


「うるさいです」


「うん、いつもの調子出てきた」


 その一言に、戒十は少しだけ息を整えた。


 いつもの調子。


 こんな非常時に、そんなものが少しでも残っていることが、不思議だった。


 辰巳が純へ向き直る。


「水城さん。あなたには、ここから光源情報と影流の変化を見てもらいたい」


 戒十は即座に口を開いた。


「待ってください」


 自分でも声が強くなったのがわかった。


 全員がこちらを見る。


 戒十は純のベッドの横へ立った。


「治療直後だろ。休んでろ」


 言葉は、ほとんど反射で出た。


 だが、言い終えた瞬間、影の戒十が足元でわずかに動いた。


 まただ。


 勝手に決めている。


 戒十はそれに気づいたが、口を閉じる前に純が答えた。


「前線へ行かないことは選びました」


 声は穏やかだった。


 でも、芯があった。


「でも、何もしないことは選んでいません」


 戒十は純を見る。


 純は横になったまま、弱いライトの下にいる。


 顔色は悪い。


 数時間前まで、自分の影が欠けていた人間だ。


 それでも、彼女はこの場から自分を外していない。


「私は走れません。戦えません。落影を回収することも、財団の地下に入ることもできません。たぶん、今立ち上がったらリサさんに怒られます」


「すごく怒る」


 リサが即答する。


 純は少し頷く。


「なので、前線には行きません。でも、光源の向きなら見られます。自分の治療で何が必要だったかも覚えています。戒十が共同操作をしている時間も、私なら数えられます」


 戒十の足元の影が揺れる。


 影の戒十が言う。


「数えられるって」


「黙ってろ」


「今のは僕に言うこと?」


「……違う」


 純が少しだけ目を細める。


「影の戒十ですか」


「うん」


「何て?」


「数えられるって」


「数えます」


 純はあっさり言った。


「三分なら三分。三十秒なら三十秒。戻る条件も確認します」


 戒十は頭をかいた。


「管制室まで管理する気かよ」


「違います。戒十が自分だけで決めて、勝手に奥へ行かないように見ます」


「厳しい」


「よく言われます」


 その言い方は、もう何度も聞いた。


 なのに、今は少し違って響いた。


 純は、自分の場所を選んでいる。


 安全な場所へ置かれているのではない。


 ここに残ることを、自分で決めている。


 戒十は言いたかった。


 危ない。


 巻き込みたくない。


 眠っていてほしい。


 何も見なくていい。


 だが、その言葉を全部飲み込んだ。


 飲み込むのではなく、別の言葉に変える必要がある。


 影の戒十が、足元で小さく言った。


「また勝手に守る?」


 戒十は返す。


「言うな」


「言わないと、またやる」


「……わかってる」


 戒十は純を見る。


 言葉を選ぶ。


 今までなら、たぶんこう言っていた。


 危なくなったら逃げて。


 それは優しさのつもりだった。


 でも、その言葉の中には、逃げるか残るかを自分が決めているような響きがある。


 純の意志を、最初から安全なほうへ押し込める響きがある。


 だから、戒十は言い直した。


「危なくなったら……」


 途中で止まり、息を吸う。


 純が待っている。


 リサも、シンも、何も言わない。


「逃げるか残るか、そっちで決めて」


 純の目が少しだけ大きくなった。


 戒十は照れをごまかすように続ける。


「ただし、決めたら通信で言って。勝手に消えるな。倒れる前に言って。大丈夫って嘘つくな。痛いなら痛い、怖いなら怖いって言って」


 純は静かに聞いていた。


 それから、小さく頷いた。


「はい。決めます」


 戒十の影が、足元で少しだけ揺れた。


 満足そうだった。


「今のはよかった」


 影の声。


「上から言うな」


「横から言ってる」


「屁理屈まで似てきたな」


「君の影だから」


 戒十は言い返せなかった。


 リサがその様子を見て、少しだけ笑った。


「変わったね、黒猫くん」


「少しだけです」


「その少しが大事なんだよ」


 辰巳は純へ端末を差し出した。


「こちらが照明網の表示。光源の角度、出力、影流推定が出ます。操作権限は市の担当者と白昼局側にありますが、切り替え判断の補助をお願いします」


 純は端末を受け取る。


 手が少し震えている。


 戒十が気づく。


 純も、自分の手の震えに気づいた。


「怖いです」


 彼女は言った。


 部屋の空気が静かになる。


「でも、やります」


 辰巳は頷いた。


「無理はしないでください」


 純は辰巳を見た。


「それも、自分で判断します」


「……承知しました」


 辰巳は少しだけ背筋を正した。


 純が一人の患者ではなく、作戦参加者として扱われ始めた瞬間だった。


     ◇


 作戦は、夜明けまでの暫定計画として組まれた。


 白昼局は、市民の避難と照明網の切り離しを担当する。


 ただし、処分派が市民の影脈遮断へ走らないよう、管理派と共生派が各現場へ監視班を送る。


 灰田はその現場指揮へ回る。


「暴走者を見つけたら、まず遮光、次に単一光源固定、最後に拘束。遮断は最終手段だ」


 彼は通信で実働班へ命じていた。


『処分派から直接命令が来た場合は?』


「俺へ回せ」


『灰田班長の権限を超えます』


「責任者の名前を記録してから止めろ。あとで俺が殴られる」


『殴られるで済みますか』


「済まないかもな」


 横で聞いていたシンが低く言う。


「それでいいのか」


 灰田は端末から顔を上げずに答えた。


「おまえが言うな」


「俺はもう反逆者だ」


「俺はまだ給料が出ている」


「なら働け」


「働いている」


 リサが二人を見比べる。


「ほんとに仲悪い?」


「悪い」


 また同時だった。


 今度は純も、少し笑った。


 痛みはあるらしく、すぐに顔をしかめたが、それでも笑えた。


 VIOLET DRAGONの住人たちは、落影回収と暴走者の保護へ散る。


 カウンターの男は旧市街の地下通路へ。


 若いギタリストは、住人たちへ連絡網を回す。


 スーツ姿の女性は、白昼局とVIOLET DRAGONの混成チームの動線を整理し、誰がどの現場で誰の指揮下に入るのかを書類にしている。


「今、書類?」


 戒十が思わず言うと、彼女は眼鏡を上げて答えた。


「今だからです。あとで誰かが勝手に処分命令を出したと言い逃れできないように、命令系統と同意範囲を残します」


「……強いですね」


「書類は武器です」


 リサが楽しそうに言う。


「この人、怒らせるとシンより怖いよ」


「でしょうね」


 戒十は素直に頷いた。


 シンは地下研究区画への侵入準備を進めている。


 影縫刀の影接続を確認し、予備の遮影布、携帯単一光源、血液パック、影固定剤を最小限だけ持つ。


 右腕の動きが、わずかに鈍い。


 戒十はそれに気づいた。


「右腕、大丈夫なんですか」


「大丈夫ではない」


 シンは即答した。


 戒十のほうが驚く。


「そこは大丈夫って言うところじゃ」


「嘘になる」


「じゃあ、行くべきじゃないんじゃ」


「使える範囲で使う」


 シンは淡々としている。


「痺れがある。影接続の持続時間も落ちている。長時間の縫界は無理だ。だが、短時間の防御ならできる」


「無理する気じゃないですよね」


 純の声が飛んだ。


 シンが少しだけ振り返る。


「無理はする」


「そこはしないって言うところです」


「必要ならする」


「必要だと決めた人の名前を出してください」


 シンが黙った。


 部屋にいた数人が、思わず純を見る。


 それは、かつてシン自身が白昼局へ突きつけた言葉だった。


 純は横になったまま、しかし逃がさない目をしていた。


 シンは数秒沈黙し、短く言った。


「俺が決める」


「では、シンさんが決めたと記録します」


「……厳しいな」


「よく言われます」


 リサが吹き出しそうになり、手で口を押さえた。


「シン、純ちゃんに弱いね」


「正しいことを言われているだけだ」


「それを弱いって言うんだよ」


 シンは反論しなかった。


 代わりに、純へ言った。


「無理をする場合は申告する」


「お願いします」


「撤退判断は、俺一人ではしない」


 純は頷いた。


「それでいいです」


 そのやり取りを見て、灰田が少し奇妙な顔をした。


「おまえが、そんなことを言うとはな」


 シンは灰田を見ずに答える。


「言われたからだ」


「誰に」


「今、聞いていただろう」


 灰田は短く息を吐いた。


 皮肉ではない。


 少しだけ、過去の何かを見ているような息だった。


「復帰の話は、まだ有効だ」


 灰田が言った。


 空気が少し変わる。


 シンは道具を鞄へ入れながら、表情を変えなかった。


「またそれか」


「おまえが戻れば、処分派への抑止になる。俺一人では足りない」


「戻らない」


「白昼局へ戻ることと、市民を守ることは矛盾しない」


「戻ることと、協力することは違う」


 シンは灰田を見た。


「俺は戻らない。だが、今は協力する」


 灰田はしばらくシンを見ていた。


「それで十分だと思うか」


「十分ではない」


「なら」


「今できることだ」


 シンの言葉は短い。


 しかし、以前のようにすべてを断ち切る声ではなかった。


 灰田はそれ以上言わなかった。


「了解した。施設外周の白昼局班には、俺から通す。処分派が割り込んだら、逃げるか殴れ」


 リサが手を上げる。


「はい質問。殴っていいの?」


「記録上は推奨しない」


「実際は?」


「邪魔なら仕方ない」


「白昼局、末期どころか崩壊寸前じゃない?」


 辰巳が疲れた声で言った。


「後で立て直します。生きていれば」


「重い」


 リサは肩をすくめた。


     ◇


 出発前、純は戒十を呼んだ。


 管制卓の横に設置された簡易ベッド。


 そこに横になったまま、純は端末を胸の上に置いている。


 画面には、市内の光源情報が流れている。


 まだ操作には参加していない。


 だが、彼女はもう見始めていた。


 駅前の街灯が何度揺れたか。


 旧市街の影流がどの交差点で乱れたか。


 湾岸へ伸びる赤い線のうち、どれがクイーン由来で、どれが夜の王の照明制御によるものか。


 彼女は戦場へ出ていない。


 けれど、ここも十分に戦場だった。


「戒十」


「何」


 戒十はベッドのそばへ行く。


 近づきすぎないように、一歩手前で止まる。


 純はそれを見て、少しだけ目を細めた。


「そこまで離れなくても、大丈夫です」


「血に反応するかもしれない」


「今はしません」


「わかるの?」


「私の影なので」


 戒十は黙った。


 その言い方が、治療の最後の言葉を思い出させた。


 私の影は、私のもの。


 純は続ける。


「でも、心配なら聞いてください」


「触っていいか?」


「左手はまだ怖いです。右手なら」


 戒十はゆっくり右手を伸ばした。


 純の左手に触れる。


 指先はまだ少し冷たい。


 でも、あの冷たさではない。


 影咬に食われていたときの、内側から冷えるような寒さではない。


 ただ、疲れた人の手だった。


「……生きてる」


 戒十は思わず呟いた。


 純は少しだけ笑った。


「はい」


「ごめん」


「何に?」


「いろいろ」


「雑です」


「じゃあ、あとで細かく謝る」


「記録しておきます」


「やめろよ」


「必要です」


 二人の間に、短い沈黙が落ちた。


 その沈黙は、以前ほど怖くなかった。


 純が先に口を開く。


「前線へ行かないの、悔しいです」


「行かせたくない」


「知ってます」


「でも、行きたいって言われたら止めると思う」


「止めるのはいいです。理由を説明して、私の答えを聞いてくれるなら」


 戒十は頷いた。


「わかった」


「それと、私はここで逃げるか残るか決めます。でも、戒十も同じです」


「僕?」


「はい」


 純は戒十の手を弱く握った。


「影に身体を渡さないでください」


 足元の影が、少しだけ動く。


 純はそちらも見た。


「影の戒十も、戒十を追い出さないでください」


 影が戒十の声で答える。


「また渡すって言ったら噛む」


 純は瞬きした。


「噛むのは困ります」


 戒十がすぐに言う。


「噛むな。言え」


 影が不満そうに揺れる。


「言っても聞かないときは?」


「二回言え」


「二回でも駄目なら?」


「純に言え」


 純は少し驚いた顔をした。


 それから、真面目に頷いた。


「聞きます」


 影の戒十は少しだけ黙った。


 その沈黙が、どこか照れているように見えて、戒十は妙な顔になった。


「おまえ、今照れた?」


「うるさい」


「照れたな」


「噛むよ」


「だから噛むなって」


 純が小さく笑う。


 今度は、痛そうにしなかった。


 そのことに、戒十は少しだけ救われた。


 リサが離れた場所から声をかける。


「黒猫くん、そろそろ出るよ」


「はい」


 戒十は純の手を離そうとした。


 純が一瞬だけ握り返す。


 強い力ではない。


 でも、止める力だった。


「戻ってきてください」


「戻る」


「二人とも」


 戒十は足元を見る。


 影も、純を見ている。


「戻る」


 今度は、戒十と影の声が重なった。


 純は頷いた。


「行ってらっしゃい」


 戒十はその言葉を受け取って、立ち上がる。


 照れ隠しに何か言おうとして、結局何も言えなかった。


 ただ、頷いた。


     ◇


 出発口は、旧設備室の奥にある保守用地下通路だった。


 市役所別棟から、地下鉄の旧連絡路、防災備蓄倉庫、雨水排水路を経由し、湾岸の常盤再生医療財団近くへ抜ける。


 地上へ出れば、光源異常と落影の群れ、さらに白昼局処分派と財団警備の監視がある。


 地下は暗い。


 だが、完全な暗闇ではない。


 リサが小型の単一光源を持つ。


 シンが先頭。


 戒十が中央。


 リサが後方。


 通常なら、最も影を見られる戒十を先頭にする選択もあった。


 だが、湾岸へ影が引かれている今、戒十を一番前へ出すのは危険だった。


 彼が影網へ呼ばれた瞬間、誰かが止めなければならない。


 その役を、シンとリサが挟み込む形で担う。


 扉の前で、灰田が立っていた。


「地下搬送路の途中までは、こちらの班が照明を切り替える。完全な保証はできない」


 シンが言う。


「十分だ」


「十分ではない」


「今できることだ」


 灰田は少しだけ目を細めた。


「言い返されたな」


「さっきのお返しだ」


 リサが二人の間を通り抜ける。


「はいはい、青春のやり直しはあとで。おじさん二人、邪魔」


「おじさんと言うな」


 灰田が言う。


 シンは何も言わなかった。


 リサが振り返る。


「シン、否定しないんだ」


「事実だ」


「そういうところ、ずるい」


 戒十は思わず息を漏らした。


 この人たちは、こんな状況でも少しだけ日常を残す。


 それが強さなのか、ただの癖なのかはわからない。


 でも、その空気のおかげで、足元の影のざわめきが少しだけ収まった。


 通信端末から純の声が入る。


『聞こえますか』


 戒十は耳につけた小型端末へ触れた。


「聞こえる」


『音量、大きすぎませんか』


「大丈夫」


『本当に?』


「本当」


『影の戒十は?』


 足元の影が揺れる。


「聞こえる」


『では、共同操作の時間管理は私がします。勝手に延長しないでください』


「はい」


 戒十が返事をすると、影が遅れて言った。


「はい」


 リサがにやける。


「素直」


「今のは純だから」


 影が答えた。


 戒十が顔をしかめる。


「僕には?」


「内容による」


「おまえな」


『仲良く喧嘩するのはあとにしてください』


 純の声が割り込む。


 リサが笑った。


「管制官、もう板についてるね」


『今のは管制ではなく注意です』


「もっと強い」


 辰巳の声も通信に入る。


『市内照明網、第一切り離しを開始します。駅前と旧市街の一部で、影流が弱まる見込み。財団側に気づかれるまで五分程度』


 灰田が言う。


『突入班、五分で地下搬送路へ入れ』


 シンが扉を開けた。


 湿った地下の空気が流れ込む。


 遠くで、水の音がする。


 暗い通路の奥から、湾岸へ向かうように細い影の流れが伸びている。


 戒十の左手が熱くなる。


 足元の影が、一歩だけ先へ行きたがる。


 戒十は言う。


「左手が熱い。影が先へ行きたがってる。行きたい。怖い。でも、勝手には行かない」


 純の声がすぐに返る。


『記録しました』


 リサが頷く。


「よし」


 シンが先頭で刀を抜く。


「行く」


 戒十は一度だけ振り返った。


 扉の向こうに、管制室の光が見える。


 純は見えない。


 だが、声は届いている。


 逃げるか残るかは、彼女が決める。


 進むか止まるかは、自分たちが申告して決める。


 誰かが誰かの代わりに消えるのではなく、それぞれがそれぞれの場所で選ぶ。


 それが、夜明けまでの役割だった。


 戒十は足を踏み出した。


 影も、同じ歩幅で続いた。


 地下研究区画へ向かう通路の奥で、常盤再生医療財団の白い光が、まだ見えない場所から彼らを待っていた。

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