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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第五章 夜の終焉
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第一節 特級広域影害《終夜》

 最初に動いたのは、影だった。


 純が眠りに落ちてから、まだ十分も経っていなかった。


 臨時診療所に使っていた部屋では、医療用ライトが一つだけ灯っている。琥珀色の弱い光が、診療台の上の純と、床へ伸びた彼女の影を静かに照らしていた。


 純の影は、もう欠けていない。


 右側には、縫い合わせた痕のような細い黒い線が残っている。完全に元通りではない。だが、身体の動きとほとんど同じ位置へ戻っていた。


 リサは診療台の横に座り込んだまま、純の呼吸を確認している。


 シンは入口近くの壁にもたれ、片手で影縫刀の柄を押さえていた。疲労を顔に出さない男が、今だけは目を閉じるたびに少し沈む。白昼局との戦闘、カオルコ調整室への突入、純の影固定。短い時間に、あまりにも多くのものを斬り、縫い、支えすぎた。


 戒十は窓際に立っていた。


 遮影布の端を少しだけ持ち上げ、外の通りを見ている。


 純が眠っている。


 治療は成功した。


 その事実を、何度も頭の中で言い直していた。


 純は離影者にならなかった。


 カオルコの声は消えた。


 影は戻った。


 寒気も止まった。


 よかった、と思う。


 よかったと、思っている。


 なのに、胸の底が落ち着かない。


 足元の影が、じっとしていないからだった。


 戒十の影は、琥珀色の医療用ライトを受けて床へ伸びている。だが、その先端だけが、窓の外へ向かって細く引っ張られていた。


 風に揺れているのではない。


 影が、自分の意思でそちらを向いている。


 湾岸の方角。


 常盤再生医療財団がある方角。


「……おい」


 戒十は小さく言った。


 声に出したのは、部屋にいる誰かへではない。


 自分の足元へだった。


 影は答えなかった。


 ただ、さらに少し伸びた。


 床に爪を立てるように、黒い輪郭が震える。


 左手が熱くなる。


 噛まれた夜からずっと残っている、あの黒い傷。


 クイーンの影紋へつながる場所。


 そこが、内側から叩かれているように疼いた。


「……呼ばれてる」


 自分の声で、影が言った。


 戒十は息を止めた。


 リサが顔を上げる。


「戒十くん?」


「左手が熱い」


 シンが目を開ける。


 その反応だけで、部屋の空気が変わった。


 戒十はすぐに続けた。


「影が湾岸へ向かってる。行きたい。怖い。でも、勝手には行かない」


 言い終えてから、自分でも少し驚いた。


 以前なら、言えなかった。


 左手が熱いことも、影が動きたがっていることも、行きたいと思っていることも、隠したはずだった。


 それを口にした瞬間、足元の影がかすかに揺れた。


 文句を言いたそうだった。


 けれど、否定はしなかった。


 リサがゆっくり立ち上がる。


 座り込んでいたせいで足元が少しふらつく。彼女の足元には、相変わらずほとんど影がない。ないはずなのに、今だけ、その薄い黒が湾岸の方角へ引かれるように揺れていた。


 リサの表情が変わる。


「……まずい」


「何が」


 戒十が聞くと、リサは端末を拾った。


 画面には、さっきから止まらない通知が並んでいる。


 宵浜駅前地区、街灯制御異常。


 中央病院、誘導灯角度エラー。


 湾岸倉庫群、投光器同期。


 旧市街商店街、看板照明全点灯。


 北部住宅地区、防犯灯制御不能。


 リサが指で画面を弾くたび、地図上の赤い点が増えていく。


 点ではない。


 線だ。


 市内の光源が、すべて同じ方向へ向きを変えている。


 湾岸へ。


 常盤再生医療財団へ。


 シンが短く言う。


「始まったか」


「たぶん」


 リサの声が低い。


「クイーン定着計画、最終段階」


 戒十は遮影布の隙間を広げた。


 外の光が、細い刃のように部屋へ入る。


 その光を見た瞬間、戒十の喉が詰まった。


 通りの街灯が、道路を照らしていない。


 全部、同じ方角へ首を曲げている。


 蛍光色の光、白色の防犯灯、店先の古い看板照明、マンションの共用灯。


 それらが、それぞれの役割を捨てたように、湾岸へ向かって斜めに光を投げていた。


 そのせいで、通りの影が異常なほど長く伸びている。


 自転車置き場の影。


 電柱の影。


 道路標識の影。


 歩道の柵の影。


 通行人の影。


 すべてが、本人の足元から剥がされるように、湾岸へ向かって伸びていた。


 人が一人、通りを走っていく。


 若い会社員らしい男だった。


 彼はスマートフォンを握りしめ、何度も後ろを振り返っている。


 後ろには誰もいない。


 だが、彼の影は彼より先を走っていた。


 影だけが、歩道の上を滑るように進み、交差点の角で振り向く。


 肉体の男はその場で足を止めた。


 影は、止まらない。


 男の腕が引っ張られるように前へ伸びる。


「なんだよ……なんだよ、これ……!」


 通りの向こうから、悲鳴が上がった。


 別の女の影が、本人の足元から立ち上がり、壁に貼りついたまま両手で自分の顔を覆っている。


 女本人は膝をついていた。


 影だけが泣いているように震えている。


 その足元を、黒い猫のようなものが横切った。


 いや、猫ではない。


 輪郭だけが猫に似た、濃すぎる影。


 落影。


 ずっと街の隙間で眠っていたものが、光の向きに引かれて目を覚ましている。


 戒十の左手がさらに熱くなった。


 影の戒十が低く言う。


「行けば、全部わかる」


 戒十は足元を見た。


 影の中に、琥珀色の目が二つ浮かぶ。


「クイーンのことも、僕らのことも」


「……その言い方、誘ってるみたいで嫌なんだけど」


「誘ってる」


「認めるなよ」


「でも、勝手には行かない」


 影は少しだけ不満そうに揺れた。


「君が言ったから」


 戒十は息を吐いた。


 今の一言で、少しだけ胸が軽くなった。


 怖い。


 行きたい。


 それは影だけの衝動ではなかった。


 戒十自身も、湾岸へ向かいたいと思っている。


 自分の身体に何が起きているのか。


 クイーンが何なのか。


 夜の王が何を始めたのか。


 カオルコがどうなったのか。


 知りたい。


 止めたい。


 そして、ほんの少しだけ、呼ばれていることに応えたいと思っている。


 それを認めるのが、怖かった。


 純が診療台の上で小さく身じろぎした。


 リサがすぐに振り返る。


「純ちゃん?」


 純は目を閉じたままだった。


 まだ眠っている。


 だが、眉が寄っている。


 右脇腹の縫合痕に、かすかな黒が滲んだ。


 リサはすぐに銀糸を伸ばし、純の影の右側を押さえた。


「影が反応してる。残香は切れたはずなのに」


 シンが言う。


「市全体の影が引かれている。治療直後なら影脈が反応してもおかしくない」


「おかしくない、で済ませたくないんだけどね」


 リサは毒づきながら、純の額へ手を当てる。


 純の呼吸は乱れていない。


 まだ眠れている。


 ただ、眠りの底で、外の異変を感じ取っているようだった。


 戒十は窓の外と純の寝顔を交互に見る。


 今すぐ行くべきだと思った。


 同時に、絶対にここを離れたくないと思った。


 その矛盾が、胃のあたりを重くする。


 影の戒十が言う。


「純は眠ってる」


「だから置いていけって?」


「違う。起こして、聞く」


 戒十は言葉に詰まった。


 それは、正しかった。


 守るために勝手に決めない。


 ついさっき、何度も思い知らされたことだ。


 リサが純の名前を呼ぼうとした、そのときだった。


 部屋の古いスピーカーが、勝手に鳴った。


 通信用に接続していた白昼局の傍受端末。


 ざらついたノイズが走り、複数の声が重なった。


『中央駅前、影害発生。一般市民三名、影の自律行動を確認』


『北部住宅地区、児童の影が本人から離脱。家族が拘束を試みるも失敗』


『湾岸道路、車両事故。運転者の影がハンドル操作へ干渉した模様』


『中央病院、入院患者の影がベッドから離脱。病棟照明が制御不能』


『旧市街、落影多数出現。樹木影、看板影、排水溝内から浮上』


 声が途切れ、別の声が割り込む。


『対影危機管理本部より全班へ通達。本件は通常影害ではない。広域都市災害として扱う』


 シンが端末を見た。


 白昼局の緊急回線だ。


 彼らはすでに、白昼局から反逆者として追われている。


 それでも、この規模になれば、隠している余裕もないらしい。


『分類更新。特級広域影害』


 短い沈黙。


 そのあと、重い言葉が落ちた。


『コードネーム、《終夜》』


 リサが小さく笑った。


 笑いというより、息が漏れただけだった。


「終わらない夜、ね。趣味悪い」


 シンは無言で端末を睨んでいる。


 通信の向こうでは、白昼局内部の怒号が飛び交っていた。


『暴走市民は即時影脈遮断へ移行すべきです! 迷っている間に感染が広がる!』


『感染という言葉を使うな! 通常の影咬連鎖ではない。遮断を乱用すれば肉体側に後遺症が残る!』


『後遺症で済めばいいほうだ! 影が離れれば死者が出る!』


『一斉遮断はもっと死者を出す!』


『VIOLET DRAGONとの連絡は?』


『処分派が許可しません!』


『許可を待っている場合か! あちらには再縫合成功例がある!』


『水城純か? 彼女は一般人だぞ』


『だから重要なんだ。離影化せず戻った記録がある』


 純の名前が出た瞬間、戒十の背中が冷えた。


 リサの表情も変わる。


 シンが端末の音量を少し下げた。


 だが、もう遅い。


 純が目を開けていた。


「……私の名前」


 かすれた声だった。


 戒十が駆け寄る。


「起きたのか」


「起きました。起きたというか、起こされました」


 純はゆっくり瞬きをする。


 まだ顔色は悪い。


 しかし、目はぼんやりしていない。


「外、何が起きてるんですか」


 誰もすぐには答えなかった。


 純はその沈黙だけで、よくないことだと理解した。


 身体を起こそうとする。


 リサが慌てて止めた。


「純ちゃん、まだ起き上がっちゃ駄目」


「説明してください」


「今は寝て」


「説明してください」


 同じ言葉。


 だが、二度目のほうが強かった。


 リサは小さく息を吐いた。


「市内の光源が、全部湾岸へ向いてる。影が引っ張られてる。白昼局は特級広域影害《終夜》って呼んだ」


 純は天井を見た。


 数秒、黙る。


 それから、右脇腹に手を当てた。


「私の影も、少し引っ張られました」


「うん。だから安静に」


「私の治療は、成功したんですよね」


 リサは頷く。


「成功した」


「離影者には、ならなかったんですよね」


「うん」


「じゃあ、どうして夜の王は、私の名前を使っているんですか」


 声は静かだった。


 怒鳴っていない。


 けれど、戒十はその声を聞いた瞬間、純が怒っていることを理解した。


 端末が再びノイズを鳴らす。


 今度は白昼局の通信ではなかった。


 市内の公共放送。


 病院の案内モニター。


 駅の電光掲示板。


 商業施設の館内放送。


 防災無線。


 それらが同時に、一つの声へ接続されていく。


 穏やかな男の声。


 黒瀬理人。


 久世玄理。


 夜の王。


『宵浜市の皆様へ』


 その声は、驚くほど落ち着いていた。


 街で悲鳴が上がっている。


 車が止まり、影が走り、落影が目を覚ましている。


 それなのに、声だけは病院の診察室で説明を始める医師のようだった。


『現在、市内全域で影の同期異常が発生しています。不安を覚える方も多いでしょう。しかし、これは影害ではありません』


 リサが端末を握りしめる。


「始めた本人が言うな」


『これは、長く分断されてきた肉体と影を再接続するための処置です』


 戒十の足元の影が揺れる。


 外の影たちも、同じ言葉に反応したように、湾岸へさらに伸びた。


『人は、自分の影を恐れすぎました。隠した感情、抑え込んだ恐怖、切り捨てた願い。それらは消えたのではなく、影身へ蓄積され続けています』


 夜の王の声は、優しい。


 理解している、と言っているような声。


『その分断こそが、離影化、落影化、影害の原因です。影を敵とみなし、遮断し、処分しても、根本的な解決には至りません』


 白昼局への皮肉でもあった。


 同時に、VIOLET DRAGONの痛みにも触れている。


 だから腹立たしかった。


 嘘ではない部分がある。


 そのことが、いちばん気持ち悪い。


『先ほど、一つの小規模再縫合処置が成功しました』


 純の手が、シーツを握った。


『水城純さんの症例です』


 戒十の中で、何かが跳ねた。


 左手だけではない。


 胸の奥。


 影の戒十も同時に唸った。


「名前を出すな」


 戒十の口から出た声が、自分だけのものか影のものか、一瞬わからなかった。


 夜の王の声は続く。


『彼女は影咬による影脈損傷を受けながら、本人の意識を保ったまま、影身との接続を回復しました。これは、適切な光源制御、影紋抽出、本人意識の保持によって、影脈再接続が可能であることを示す貴重な成功例です』


「貴重な成功例」


 純が小さく繰り返した。


 その声に、誰も返せなかった。


『私は、この成功を都市全域へ拡張します』


 外の街灯が、さらに明るくなった。


 窓の隙間から入る光が白くなる。


 影が濃くなる。


 強い単一光源が、影を濃くし、力を集中させる。


 ただし今は、市内全域の光が湾岸へ向けられている。


 一人ひとりの影を、その人の足元へ戻すための光ではない。


 すべての影を、一つの場所へ集めるための光。


『今度は都市全体を救済する』


 夜の王の声が、街全体に響いた。


『恐れないでください。これは終わりではありません。長い夜の果てに、肉体と影は再び一つになります』


 通信が切れた。


 部屋の中に、外から聞こえる遠い悲鳴と、電気設備の低い唸りだけが残った。


 純は診療台の上で、しばらく何も言わなかった。


 リサが心配そうに顔を覗き込む。


「純ちゃん」


 純は目を閉じた。


 疲れているのかと思った。


 だが、違った。


 次に目を開けたとき、そこにははっきりとした怒りがあった。


「私の治療を、勝手に使わないでほしいです」


 静かな声だった。


 けれど、リサも、シンも、戒十も、その場で動けなくなった。


 純は続ける。


「私は治してもらいました。助けてもらいました。怖くて、痛くて、逃げたくて、それでも自分でここにいるって決めました」


 彼女は右脇腹の縫合痕を押さえる。


「それを、都市全体を救う実験の成功例みたいに言わないでほしい」


「純」


 戒十が呼ぶと、純は彼を見た。


「怒ってます」


「わかる」


「たぶん、今までで一番怒っています」


「うん」


「でも、起き上がったらリサさんに怒られます」


「怒るよ」


 リサが即答した。


「影脈つながったばっかりの人が、急に立ち上がったら怒る。すごく怒る」


「じゃあ、寝たまま怒ります」


「それなら許可」


「許可されました」


 こんな状況なのに、純が少しだけ真面目に返す。


 戒十は一瞬だけ笑いそうになり、すぐに喉が詰まった。


 笑えるほど、まだ終わっていない。


 でも、純が怒っている。


 自分の治療を、自分の経験を、勝手に都市規模の実験へ使われたことに怒っている。


 その怒りが、戒十には頼もしかった。


 守られるだけの人ではない。


 恐怖を言葉にし、痛みを記録し、怒るべきところで怒れる人。


 だから、彼女を置き去りにしてはいけない。


 部屋の端末が再び鳴った。


 今度は、白昼局の暗号回線だった。


 シンが眉を寄せる。


「灰田だ」


 リサが視線を向ける。


「出るの?」


「出る」


 シンは短く答え、通信をつないだ。


 灰田の声は、以前よりも荒れていた。


『シン、そこにいるな』


「いる」


『水城純は無事か』


 戒十が反射的に険しい顔をする。


 シンは一瞬だけ純を見る。


 純は頷いた。


 シンが答える。


「治療は成功した。現在は安静中だ」


『そうか』


 灰田の声に、わずかな安堵が混ざった。


 すぐに、別の硬さが戻る。


『白昼局は特級広域影害《終夜》を認定した。処分派は市内の暴走市民への影脈遮断を主張している』


「やめさせろ」


『やめさせようとしている。だが、現場が持たない。管理派も共生派も割れている。辰巳がVIOLET DRAGONとの一時協力を要求しているが、鷺沼が止めている』


「そちらの事情だ」


『そう言われる立場なのはわかっている』


 灰田は短く息を吐いた。


『だが、現場を処分派だけに任せれば、市民の影が戻る前に切られる』


 シンの表情が変わらない。


 だが、指が刀の柄に触れた。


『おまえを反逆者として扱う命令は、まだ撤回されていない』


「だろうな」


『それでも協力しろ』


 リサが眉を上げた。


「すごい言い方」


 シンは淡々と言う。


「頼み方を知らない男だ」


『聞こえているぞ』


「聞こえるように言った」


 通信の向こうで、灰田が一瞬黙った。


 その沈黙に、わずかな苦笑の気配が混ざった気がした。


『辰巳が、水城純の再縫合記録を求めている。彼女自身への接触も希望している』


 戒十の声が低くなる。


「また純を使う気ですか」


『三倉戒十か』


「そうです」


『使う気なら、処分派へ渡している』


 灰田の声も硬くなる。


『辰巳は、水城純の記録が、市民の影を切らずに戻す手がかりになると判断している。本人の同意なしに使用するなと言っているのも辰巳だ』


 純がゆっくり息を吸った。


「私が話します」


「純」


 戒十がすぐに言う。


 純は首を横に振った。


「前線へ行くとは言ってません」


「でも」


「でも、何もしないとは言ってません」


 その言葉は、まだ先の話を先取りしているようだった。


 戒十は何も返せなかった。


 純は診療台の上で、眠っていたせいで少し乱れた髪を直しもせず、通信端末のほうを見た。


「水城純です」


 灰田の声が少し変わる。


『灰田だ。白昼局実働三課』


「私の再縫合記録を使うなら、条件があります」


『聞く』


「私は実験例ではありません」


『ああ』


「成功例という言葉も、嫌です。私が治ったのは、リサさんとシンさんと戒十と、影の戒十がいて、私が意識を保って、何度も怖いと言って、それでも自分で決めたからです」


 通信の向こうで、灰田は遮らなかった。


「それを、同じやり方で都市全体へ広げれば救える、みたいに使わないでください」


『わかった』


「本当にわかっていますか」


『完全にはわからない。だが、記録する』


 純は少しだけ黙った。


 それから言った。


「なら、話します」


 リサが小さく笑う。


「純ちゃん、白昼局相手でも全然変わらないね」


「怖いです」


「うん」


「でも、怒っているので」


「それは強い」


 純は疲れた顔のまま、少しだけ目を細めた。


 そのとき、外で大きな音がした。


 車の衝突音。


 続いて、複数の悲鳴。


 戒十は窓へ走る。


 通りの向こうで、小型車が街路樹へ突っ込んでいた。


 運転席の男は無事らしく、ドアを開けようとしている。


 だが、男の影がハンドルにしがみついていた。


 肉体は車から出ようとしている。


 影は、出るなとでも言うように車内へ残ろうとしている。


 その足元へ、黒い落影が近づいていた。


 猫の形ではない。


 人の手のような影が、排水溝から這い出している。


 戒十の影が、床で一歩前へ出る。


 行きたい。


 助けたい。


 止めたい。


 壊したい。


 全部が一緒に来る。


 戒十は左手を押さえた。


「血の匂いは少し。外で事故。左手が熱い。影声あり。助けに行きたい。落影を壊したい。でも、勝手には行かない」


 シンが窓の外を確認する。


「近い。放置すれば人が死ぬ」


 リサが純を見る。


 純は小さく頷いた。


「行ってください」


 戒十は一瞬だけ迷った。


 純を置いていくことへの迷い。


 それを純は見逃さなかった。


「私はここにいます」


「危なくなったら」


 そこまで言って、戒十は止まった。


 危なくなったら逃げて。


 いつもの言葉が出かけた。


 違う。


 そうではない。


 戒十は言い直した。


「危なくなったら、どうするか決めて」


 純は少しだけ驚いたように目を開いた。


 それから、弱く笑った。


「はい。決めます」


 影の戒十が足元で小さく笑った気がした。


「行く?」


 戒十は頷く。


「行く」


 リサが銀糸を取り、シンが刀を抜く。


 灰田の通信がまだつながっている。


『シン、状況は』


「近くで事故。落影接近。こちらで対処する」


『場所を送れ。管理派の班を回す』


「処分派は近づけるな」


『努力する』


「努力では足りない」


『なら、命令系統を殴ってくる』


 リサが目を丸くする。


「白昼局って、そんな組織だった?」


 シンが短く答える。


「末期だ」


 戒十は遮影布を肩にかけ、外へ出る準備をする。


 その前に、もう一度だけ純を見た。


 純は診療台の上で、眠る前よりずっと弱っている。


 それでも、彼を見返す目はしっかりしていた。


「戒十」


「何」


「勝手に消えないでください」


「消えない」


「影の戒十も」


 足元の影が揺れる。


「消えない」


 純は頷いた。


「行ってらっしゃい」


 その言葉に、戒十の胸が妙に痛くなった。


 帰る場所があるみたいだった。


 いや、あるのだ。


 戻ってこいと言われた。


 消えるなと言われた。


 だから行ける。


 戒十は扉へ向かった。


 外では、宵浜市の光が同じ方向を向き、街の影を湾岸へ引きずっている。


 夜はまだ完全には来ていない。


 それなのに、街はもう長い夜の中に沈み始めていた。


 特級広域影害《終夜》。


 終わらない夜。


 けれど、戒十は思った。


 終わらせるために行くのではない。


 消すために行くのでもない。


 誰かの影を、勝手に切らせないために行く。


 そして、自分の影と一緒に戻ってくるために。


 扉が開く。


 街の異常な光が、戒十の顔を白く照らした。


 足元の影は、その光の中で濃く伸びる。


 湾岸へ向かおうとする力を、戒十は足の裏で受け止めた。


「行くぞ」


 彼が言う。


 影が答える。


「勝手には行かない」


「わかってる」


「でも、急ぐ」


「それは同意」


 戒十は走り出した。


 背後で、リサの銀糸が鳴る。


 シンの影縫刀が鞘から抜ける。


 診療所の奥では、純が通信端末へ手を伸ばしている。


 宵浜市全域の影が、湾岸へ伸びていた。


 その長い夜の中で、彼らは初めて、街そのものを相手にすることになる。

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