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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第四章 夜の叛逆
30/32

第九節 再縫合

 残り五十八分。


 数字は、もう時間ではなく刃だった。


 リサがホワイトボードに書いた残り時間は、臨時診療所の全員の視界に入る場所に置かれていた。


 残り五十八分。


 その下に、さらに細かく純の症状が記されている。


 右側影欠損、拡大。


 影遅延、二・六秒。


 寒気、強。


 耳鳴り、強。


 カオルコ残響、断続的会話化。


 光痛、強。


 意識混濁、軽度から中度。


 純は診療台の上に横たわっていた。


 眠ってはいない。


 眠らせることはできない。


 眠れば、カオルコの残香が影の欠けた部分から入り込み、純自身の影脈の奥へ根を張る。


 だから、純は目を開けていた。


 開けているというより、開けさせられている。


 目の焦点は時々合わなくなり、呼吸は浅い。唇は青く、指先は冷えている。右脇腹から腰へ浮かんだ黒い噛み痕は、最初よりも広く、深くなっていた。


 肉体の皮膚は裂けていない。


 血も出ていない。


 だが、その黒い痕の周囲だけ、光を吸っていた。


 影の傷。


 その言葉が、もう比喩ではないことを、そこにいる全員が理解していた。


 リサは採血容器を両手で持っていた。


 中にはカオルコから採取した黒赤い血が入っている。


 ただの血液ではない。


 彼女の現在の影紋を含む血。


 残香型影咬の噛み痕に食い込んだ異物の鍵。


 それをもとに再縫合剤を作るため、リサは帰還してから一度も座らずに作業を続けていた。


 小型遠心器。


 影紋抽出用の銀針。


 夜の王から送られてきた抽出式。


 VIOLET DRAGONに残っていた古い薬剤。


 財団の資料にあった光量曲線。


 リサ自身の経験。


 それらを全部使った。


 使わざるを得なかった。


 リサは夜の王の資料を何度も読み、そのたび顔を歪めた。


 資料は正確だった。


 腹が立つほど。


 カオルコの血に混ざる異物影紋の層を、どの順で剥がせばいいか。


 クイーン由来の王冠型影紋に触れず、カオルコ固有影核由来の残香鍵だけを抽出するには、どの温度で、どの光量で、どの銀糸反応を使えばいいか。


 全部、書かれていた。


 人間を救う情報として。


 人間を材料として扱ってきた手で。


「できた」


 リサが小さく言った。


 声は掠れていた。


 透明な小瓶の中に、薄い黒紫色の液体が揺れている。


 それは血液には見えなかった。


 墨を薄めた水のようでもあり、夜明け前の空を閉じ込めた液体のようでもあった。


「再縫合剤。量はぎりぎり」


 リサは小瓶を光にかざした。


 単一光源の琥珀色を受けて、液体の中に細い影紋が浮かぶ。


 花びらのような曲線。


 その奥に、ごく小さな人の輪郭のようなもの。


 カオルコの影紋。


 器ではなく、彼女自身の痕跡。


 リサはそれを見て、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


 しかし、すぐに医師の顔へ戻る。


「始めるよ」


 純は診療台の上で、かすかに頷いた。


「……はい」


 声は弱い。


 だが、返事はあった。


 戒十は診療台の左側に立っていた。


 リサの指示通り、純の噛み痕とは反対側。


 近づきすぎない距離。


 だが、手を伸ばせば、純の左手を支えられる位置。


 実際に触れるかどうかは、純の許可を取る必要がある。


 そう決めていた。


 シンは純の足元側に立ち、影縫刀を抜いている。


 刃を人へ向けているのではない。


 純の影へ。


 右側が欠け、遅れて揺れる影を、床へ固定するためだった。


 医療用ライトは一つだけ。


 琥珀色の光が診療台の上から斜めに落ち、純の影を床へ一本だけ伸ばしている。


 その影の右側には、噛みちぎられたような欠けがある。


 欠けた縁が、細かく震えている。


 そこから時々、白い花の匂いが漏れた。


 純が顔をしかめる。


「聞こえます」


 リサがすぐに聞く。


「カオルコ?」


「はい。笑ってる。言葉は……少し」


「内容は?」


 純は目を閉じかけ、すぐに開けた。


 眠るな。


 自分でそう言い聞かせるように、呼吸を整える。


「怖いくせに、って」


 戒十の左手が熱くなる。


 影がざわめく。


 だが、戒十はすぐに申告した。


「左手が熱い。影声あり。カオルコの声に反応。動きません」


 リサは頷く。


「そのまま。戒十くん、ライトの補助をお願い。影くんは純ちゃんの左側の影を支える。噛み痕側には触らない」


 足元の影が、少し不満げに揺れた。


「影くんではない」


 戒十の声で言う。


 リサは手を止めずに返す。


「今、名前会議してる場合じゃないって何回言わせるの」


「あとで」


「あとで」


 そのやり取りに、純がかすかに笑った。


 すぐに痛みで顔をしかめる。


「笑うと痛いです」


「ごめん」


 戒十と影が、同時に言った。


 純は目だけで戒十を見る。


「二人で謝られると、少し変です」


「今、それ言う?」


 戒十が困ったように言う。


「言えるうちに」


 純はそう答えた。


 その言葉が、場を静かにした。


 リサは再縫合剤を注射器へ移す。


 針は普通の注射針ではない。


 銀糸と影紋導管が組み合わされた細い器具。


 肉体ではなく、影と影脈へ薬剤を送るためのものだ。


「純ちゃん」


「はい」


「このあと、かなり痛い。肉体の痛みじゃなくて、影をほどく痛み。噛み痕に入り込んだカオルコの残香を、純ちゃんの影から切り離す。切り離したあと、再縫合剤で欠けた部分を柔らかくして、純ちゃん自身の影脈へ縫い直す」


「私は、何をすればいいですか」


「意識を保つ。自分の影だと認識し続ける。言葉が出るなら、出して。怖いとか、嫌だとか、逃げたいとか、全部。押し込めると、カオルコの声と混ざる」


 純は少しだけ息を吸った。


「本音も?」


「本音も」


 リサは頷く。


「綺麗じゃなくていい。むしろ、綺麗にしようとしないで」


 純は目を伏せかけ、すぐに開けた。


「わかりました」


 シンが影縫刀を床へ軽く差す。


 純の影の足元が、床へ固定された。


 影の右側が暴れる。


 噛み痕の周囲から、黒い花びらのようなものが散る。


 シンの眉がわずかに動く。


「固定開始」


 リサが頷く。


「再縫合、開始」


 針が、純の影の欠けた縁へ触れた。


 純の身体が跳ねた。


 声にならない悲鳴が喉の奥で詰まる。


 戒十が反射的に動きかける。


 足元の影も同時に伸びようとする。


 リサが叫ぶ。


「動かない!」


 戒十は自分の爪を床へ立てた。


 影も、自分の爪を自分の影へ突き立てる。


 昨夜、獣化した身体がやったのと同じように。


 止める。


 動けば純の影が裂ける。


 だから止まる。


「純!」


 それでも声は出た。


 純は荒く息をしている。


 リサが言う。


「言葉にして!」


 純の目に涙が浮かぶ。


 痛みのせいか、恐怖のせいか、自分でもわからないような涙。


「痛い……!」


「うん」


「寒い、いや、怖い、逃げたい!」


「言って!」


「逃げたい! もう嫌です! なんで、私が、こんなこと」


 言葉が途切れた。


 純は自分でその言葉に驚いたようだった。


 だが、リサは止めない。


「続けて」


「なんで私がって思ってます! 戒十のこと、助けたいって思ったのも本当です。でも、巻き込まれたって思ってるのも本当です!」


 戒十の胸が痛む。


 だが、目を逸らさない。


 これは純の言葉だ。


 カオルコに言わされているだけではない。


 噛み痕によって増幅されているとしても、そこに純の影がある。


 聞かなければならない。


 純は泣きながら続ける。


「必要とされたいです!」


 その言葉に、戒十が息を止めた。


 純は、もう止まれなかった。


「戒十に必要とされたいって、思いました! 私がいないと止まれないって言われたとき、怖かったのに、少しだけ嬉しかった! そんなの、嫌なのに!」


 影の欠けた部分から、黒い花びらが噴き上がる。


 カオルコの笑い声が混ざる。


 リサが銀糸を操り、花びらを切り離す。


「それは純ちゃんの言葉。残香に渡さない!」


 シンが床へ刀を深く差し込む。


 純の影が暴れ、右側が浮き上がろうとする。


 刀の影が、それを床へ縫い止めた。


「固定、維持」


 シンの声は低い。


 だが、額には汗が浮かんでいた。


 純は呼吸を乱しながら、さらに言った。


「影の戒十にも、惹かれました!」


 戒十の影が止まる。


 純は涙を流したまま続ける。


「歩道橋で、会いたかったって言われたとき、怒ったのに、嬉しかった! 昼の戒十が言えないことを言ってくれるから、ずるいって思った! でも、怖かった! 私を欲しいって言われたとき、怖かった!」


 影の戒十が、床で小さく震える。


 戒十は息を飲む。


 純は言葉を止めない。


「怪物の戒十も怖かった!」


 その言葉は、以前にも聞いた。


 でも、今はもっと深い場所から出ている。


「本当に怖かった! 大きくて、黒くて、爪が伸びてきて、逃げたいって思った! 戒十だってわかっても、怖かった! 名前を呼んだのは、怖くなかったからじゃない!」


 戒十は頷いた。


「わかってる」


 声が震える。


「わかってる」


 リサが言う。


「戒十くん、ライト!」


 戒十ははっとする。


 純の影が暴れたことで、単一光源の角度がずれかけていた。


 机代わりのスタンドが揺れている。


 戒十は右手でライトを支えた。


 左手ではない。


 左手は熱い。


 血に反応している。


 影は、純の左側の影を支える。


 触りたい。


 近づきたい。


 影の戒十の欲求が伝わる。


 だが、今は支えるだけ。


 影は自分の爪を床に立て、純の影の左側を下から支える。


 右側の噛み痕には触れない。


 リサが異物の影紋を切り離す。


 細い銀針が、純の影の欠けた縁から黒い花びらを引き剥がす。


 花びらの一枚一枚に、カオルコの声が宿っている。


 ずるい。


 怖いくせに。


 選ばれたいくせに。


 逃げたいくせに。


 その声が、純の言葉と混ざろうとする。


 純は泣きながら叫んだ。


「逃げたい!」


「言って!」


 リサが叫び返す。


「逃げたい! でも、自分でここにいるって決めた!」


 その瞬間、純の影の左側が強く震えた。


 戒十の影が支える。


 右側の欠けた部分から、白い花の形をした影が一つ、浮かび上がった。


 リサが目を細める。


「核が出た」


「核?」


 戒十が聞く。


「残香の根。あれを切る」


 シンが刀の角度を変える。


 純の影を固定したまま、余計な影を逃がさない。


 リサは銀針を構えた。


 だが、白い花の影は純の声で囁いた。


 必要とされたい。


 それはカオルコの声ではない。


 純の本音だ。


 リサの手が止まりかける。


 切っていいのか。


 本音まで切ってしまわないか。


 その一瞬の迷いを、純が見た。


 涙で滲んだ目で、リサを見た。


「切ってください」


「純ちゃん」


「必要とされたい気持ちは、私のものです。でも、噛み痕に使わせたくない。切って」


 リサの顔が歪む。


 それでも、頷いた。


「切る」


 銀針が白い花の影を貫いた。


 純が悲鳴を上げる。


 戒十の身体が跳ねる。


 影も震える。


 シンの刀が床を削るほど強く固定する。


 白い花が裂け、黒い霧となって散った。


 その奥から、欠けた純の影の縁が現れる。


 ぼろぼろで、冷たく、震えている。


 だが、それは純の影だった。


 カオルコの残香ではない。


「再縫合剤、入れる!」


 リサが叫ぶ。


 小瓶の液体が影紋導管を通り、純の影の欠けた縁へ流れ込む。


 黒紫の液体は、影の中で糸のように伸びた。


 欠けた部分を埋めるのではない。


 縫う。


 噛みちぎられた縁と縁を、無理に塞ぐのではなく、純自身の影脈へ結び直す。


 純の身体が震える。


 痛みで、もう声が出ない。


 リサが顔を近づける。


「純ちゃん、意識!」


「……います」


「名前」


「水城純」


「今どこ」


「臨時診療所」


「誰がいる」


「リサさん、シンさん、戒十」


 少し遅れて、純が言った。


「影の戒十も」


 影が震える。


 リサが頷く。


「よし。影は誰のもの」


 純は息を吸う。


 痛みで声が途切れそうになる。


 それでも言った。


「私のもの」


「もう一回」


「私の影は、私のもの」


 再縫合剤が光った。


 純の影の欠けた右側が、ゆっくり床へ戻っていく。


 遅延していた輪郭が、身体の位置に近づく。


 二・六秒。


 二秒。


 一・五秒。


 一秒。


 シンが低く言う。


「遅延、縮小」


 リサが銀糸を調整する。


「光量、少し下げる。戒十くん、固定」


「はい」


 戒十はライトを支える。


 影は純の左側を支え続ける。


 支えるだけ。


 抱えない。


 引き寄せない。


 必要とされたいと言った純を、必要という形で縛らない。


 それが今、戒十と影にできることだった。


 純の呼吸が少しずつ整う。


 噛み痕の黒が薄くなっていく。


 完全には消えない。


 だが、広がりは止まった。


 右側の影の欠けが、ゆっくりと縫い合わされていく。


 リサは最後の銀糸を結び、再縫合剤の残量を確認した。


 ほとんど残っていない。


「シン、固定解除、半分」


「了解」


 シンが影縫刀を少し引く。


 純の影が一度大きく震えた。


 だが、床から剥がれない。


 本人より先に立ち上がらない。


 純は苦しげに息をしながら、目を開けた。


「……寒くない」


 最初に言ったのは、それだった。


 リサの手が止まる。


 純は右脇腹に手を当てる。


「まだ痛いけど、寒くないです」


 リサは一瞬、何も言えなかった。


 それから、震える手で影紋測定器を見た。


 純の影の輪郭が、ほぼ身体と同期している。


 右側の遅延、〇・二秒。


 許容範囲。


 残香反応、微弱。


 カオルコ声反応、消失。


 影人格自立反応、なし。


 離影化兆候、なし。


 リサは息を吐いた。


 吐いたというより、崩れるような息だった。


「成功」


 誰もすぐには反応できなかった。


 リサがもう一度言う。


「成功した。純ちゃんは、離影者になってない。影脈、つながった。残香も切れた」


 戒十はライトを持ったまま、膝から崩れそうになった。


 影が先に床へ座り込むように広がる。


「純」


 声が震えた。


 純は疲れ切った目で戒十を見る。


「はい」


「よかった」


「はい」


「本当に」


「はい」


 純は少しだけ笑おうとした。


 うまくいかなかった。


 涙だけが目尻から流れた。


「怖かったです」


「うん」


「痛かったです」


「うん」


「逃げたかったです」


「うん」


「でも、ここにいました」


 戒十は頷いた。


 影も、足元で同じように揺れた。


「うん」


 リサは純の額に手を当てた。


「よく頑張った」


「すごくないです」


「今回は言わせて」


 リサの声が震えていた。


「すごかったよ」


 純は目を閉じた。


 眠気が来ている。


 今度は、眠ってもいい眠気だった。


 リサが確認し、短く頷く。


「少し眠らせる。影脈は安定してる。カオルコの声は?」


 純は目を閉じたまま答えた。


「聞こえません」


「うん」


「静かです」


「うん」


「……記録」


「あとで」


 戒十とリサが同時に言った。


 純はほんの少しだけ笑って、そのまま眠りに落ちた。


     ◇


 治療が終わってから、十五分ほど、誰も大きな声を出さなかった。


 純の呼吸が落ち着いている。


 影も身体とほぼ同じ位置にある。


 まだ薄い縫合痕のような黒い線が右側に残っているが、欠けてはいない。


 リサは診療台の横に座り込んだ。


 シンは入口近くの壁にもたれ、影縫刀を鞘へ戻した。


 戒十はライトを置き、純から少し離れた椅子へ座った。


 足元の影も、力尽きたように薄く広がっている。


「終わったんですね」


 戒十が小さく言う。


 リサは目を閉じたまま答えた。


「純ちゃんの治療はね」


 その言い方に、戒十は顔を上げた。


 シンも、入口の外へ視線を向ける。


 遠くで、何かが鳴っていた。


 最初は、車の音かと思った。


 違う。


 街灯の制御盤。


 電気設備が一斉に切り替わるような、低い連続音。


 臨時診療所の窓は遮影布で塞がれている。


 外の様子は見えない。


 だが、部屋の中の影が動いた。


 純の影ではない。


 戒十の影。


 シンの影。


 医療機材の影。


 リサのほとんどない影でさえ、わずかに引っ張られるように揺れた。


 同じ方向へ。


 湾岸のほうへ。


 戒十は立ち上がった。


「何だ」


 リサもすぐに端末を取る。


 外部カメラは復旧していない。


 だが、街の電力系統の異常通知が次々に表示される。


 宵浜駅前、街灯制御異常。


 旧市街、街灯角度補正エラー。


 湾岸地区、照明同期。


 商業通り、街灯全灯。


 住宅街、照明方向異常。


 画面の中で、通知が止まらない。


 シンが遮影布の隙間をほんの少し開けた。


 外の光が細く差し込む。


 その光を見た瞬間、戒十は息を呑んだ。


 通りの街灯が、すべて同じ方向を向いていた。


 本来なら道路を照らすはずの灯り。


 歩道を照らすはずの灯り。


 交差点を照らすはずの灯り。


 それらが、機械的に角度を変え、湾岸の常盤再生医療財団の方向へ向いている。


 光が一斉に同じ角度で落ちる。


 その結果、街の影が伸びていた。


 看板の影。


 電柱の影。


 車止めの影。


 路上の自転車の影。


 ビルの窓枠の影。


 人の影。


 すべてが、湾岸へ向かって長く伸びている。


 昼でも夜でもない。


 夕方でもない。


 人工的な光によって、宵浜市全体の影が、一つの方向へ引き延ばされている。


 戒十の左手が熱くなる。


 足元の影が、勝手に湾岸へ向かおうとする。


 影の戒十が低く言った。


「呼ばれてる」


 リサの顔色が変わった。


「クイーン定着計画」


 シンが言う。


「最終段階か」


 リサは端末を握りしめた。


 そこへ、短い通信が入る。


 発信者不明。


 だが、誰のものかはわかった。


 夜の王の声が、端末から流れる。


『治療は成功したようだね』


 リサは端末を睨む。


「あなた」


『おめでとう。水城純さんは、離影者化を免れた。君たちは一人を救った』


 その声は、本当に祝福しているように聞こえた。


 だからこそ、寒気がした。


『では、次は都市全体だ』


「何をした」


『カオルコが戻った。予定より感情反応は大きく乱れているが、クイーン影紋の定着率は最終閾値を超えた。これより、宵浜市全域の照明制御を用いて、影脈誘導を開始する』


 戒十は外を見る。


 街灯。


 影。


 すべてが湾岸へ伸びている。


『都市には、あまりにも多くの未処理の影がある。抑えられた感情。切り捨てられた自己。見なかったことにされた痛み。私はそれらを、救済する』


「救済じゃない」


 リサが言った。


『再統合だよ』


 夜の王の声は穏やかだった。


『肉体と影の分断を終わらせる。人間は、自分の影から逃げすぎた。君たちが純さんを救うために行った再縫合は、小さな成功例だ。私は、それを都市規模で行う』


「同意もなしに?」


『危機における救命措置には、事後同意という考え方もある』


「ふざけるな」


 シンの声が低く響いた。


 夜の王は少しだけ沈黙した。


『シン君。君もまだそこにいるのか』


「いる」


『白昼局は君を反逆者として扱うだろう』


「もう聞いた」


『残念だ』


「必要な犠牲と言うな」


『犠牲ではない。移行だ』


 戒十は端末へ向かって言った。


「カオルコは?」


 夜の王の声が、わずかに柔らかくなる。


『彼女は戻った。自分の役割へ』


「役割じゃない」


『彼女はクイーン定着の鍵だ』


「カオルコは、カオルコだ」


 戒十の声に、足元の影も同じ怒りを乗せた。


 夜の王は答える。


『その名も、残る』


「そういう意味じゃない」


 通信の向こうで、夜の王は静かに言った。


『君たちは一人を救った。それは尊い。しかし、私は都市を救う』


 通話が切れた。


 臨時診療所の中に、外の低い電気音だけが残る。


 純は眠っている。


 治療は成功した。


 彼女は離影者にならずに済んだ。


 影も戻った。


 寒さも消えた。


 その救いが、確かにここにある。


 だが、外では宵浜市全体の影が湾岸へ伸び始めていた。


 リサは立ち上がった。


 ふらついたが、倒れなかった。


 シンが入口の遮影布を閉じる。


 戒十は左手を押さえた。


 足元の影が、湾岸へ向かおうとしている。


 影の戒十が言う。


「行くんだろ」


 戒十は純を見た。


 眠っている。


 やっと眠れている。


 この場所に置いていきたくない。


 だが、街全体が動いている。


 クイーン。


 カオルコ。


 夜の王。


 リサ。


 そして、自分の影。


 逃げられないところまで来たのだと、戒十は理解した。


「行く」


 彼は言った。


「でも、勝手に消えない。身体を渡さない。誰かを必要な犠牲にしない」


 影が揺れる。


「一緒に使う」


「そう」


 リサが小さく頷いた。


「今度は、あたしも逃げない」


 シンが影縫刀を腰へ戻す。


「白昼局も財団も敵に回る」


「今さらですね」


 戒十が言うと、リサが少しだけ笑った。


「黒猫くん、言うようになったねえ」


「褒めてます?」


「半分くらい」


「また半分」


 そのやり取りの向こうで、街の影はさらに伸びる。


 窓の外、宵浜市の光が不自然に揃い、すべての影を湾岸へ導いていた。


 夜はまだ来ていない。


 それなのに、街はもう、巨大な夜の身体になり始めていた。

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