第八節 妹ではなく器
湾岸第三保管区は、昼でも夜でもない場所に見えた。
高架道路の下に広がる再開発途中の区画。
途中で工事が止まったままの商業施設。
シャッターの下りた店舗。
割れた案内板。
剥がれかけたフロアマップ。
雨風で白くなった人工観葉植物。
かつては買い物客の声や子どもの足音で満ちていたのだろう空間は、いまは警備灯と非常灯だけで薄く照らされている。
その地下へ続く搬入口に、《常盤ライフサイエンス物流センター 湾岸第三保管区》の看板があった。
新しい看板だった。
だが、その下には古い商業施設のロゴが薄く残っている。
場所そのものが、上から新しい名前を貼られたようだった。
「趣味悪いねえ」
リサが小さく言った。
軽バンは少し離れた倉庫の陰に停めてある。
純は車内に残された。
リサの銀糸による応急固定と、医師が用意した簡易安定処置で、影の欠損の広がりは一時的に抑えられている。だが、時間が止まったわけではない。
純のノートには、リサの手で新しい時刻が書かれている。
残り六十八時間四十分。
数字は容赦なく減っていた。
純は最後まで同行を主張した。
だが、影の欠損が広がり、カオルコの残香が強い場所へ近づけば、症状が悪化する可能性が高い。
だから車内に残す。
ただし、本人への説明なしに置いていくことはしない。
純は説明を受け、反論し、条件を出した。
十分ごとに通信。
症状が変わったら即時共有。
カオルコを殺さない。
血と影紋の採取ができたら、すぐ戻る。
戒十が暴走しかけたら、影の戒十も含めて止まる。
それらをノートに書いてから、ようやく頷いた。
いま、純は軽バンの後部座席で、遮影布に包まれている。
カウンターの男と医師が付き添い、簡易ライトは単一光源に調整されている。
戒十は何度も振り返りそうになった。
そのたび、足元の影が先に言う。
今は行く。
そうだった。
純を助けるには、カオルコの血と影紋が必要だ。
ここで立ち止まることは、純のためではない。
自分の不安を見ているだけだ。
戒十は息を吐いた。
「血の匂いは?」
シンが聞いた。
白昼局との戦闘を終え、彼はぎりぎりのところで軽バンへ合流した。
肩の固定はさらに乱れ、右頬には擦り傷がある。だが、歩ける。刀も抜ける。
それだけで十分だと言わんばかりに、彼は先頭に立っていた。
「保存血の匂い。古い機械油。消毒液。あと、花」
戒十は答える。
「カオルコの匂いです。でも、薄い。たぶん、奥にいます」
「影声は」
「あります。行きたい。噛みたい。捕まえたい。純を助けたい。カオルコを殺したい。でも、目的は血影紋の採取。攻撃対象は装備、黒猫型落影、人工離影者の影。カオルコ本人は拘束まで」
シンが短く頷く。
「よし」
「それ、最近聞き飽きました」
「言えたら言う」
リサが横で苦笑した。
「シンの褒め言葉、語彙少ないから」
「必要十分だ」
「ほら、こういう人」
軽い掛け合い。
だが、誰も油断していない。
リサの足元には、やはり影がほとんどない。
そのことを知ってから見ると、彼女の立ち方が以前と少し違って見えた。
影がないことを悟られないように、光の端を選んでいたのだろう。
今は隠していない。
隠せない。
リサ自身も、それをわかっている顔をしていた。
「行くよ」
彼女が言った。
三人は地下搬入口へ入った。
◇
搬入口の扉は開いていた。
誘っている。
誰が見てもそう思うほど、露骨だった。
シンは扉の影へ刀を差し込み、罠を探る。
床の影が薄く震えた。
「影錠はない。だが、奥に複数の影反応」
「黒猫型?」
リサが聞く。
「混じっている。人工離影者もいる」
戒十の左手が熱くなる。
だが、影は先走らない。
影の戒十が足元で低く言う。
「先に行ける」
「行かない」
戒十は答えた。
「一緒に行く」
「遅い」
「一緒に行く」
「……わかった」
影が拗ねたように揺れる。
リサがちらりと見る。
「なんか、会話が兄弟喧嘩っぽくなってきたね」
「やめてください」
「どっちがお兄ちゃん?」
「本当にやめてください」
緊張を少しだけ削る軽口。
その直後、天井の非常灯が一斉に点いた。
白ではない。
薄い紫。
VIOLET DRAGONのネオンに似せたような色。
リサの顔が歪む。
「嫌な演出」
奥のスピーカーから、カオルコの声がした。
『ようこそ、お姉さま』
甘い声。
だが、その奥に怒りがある。
『処刑人さんも、猫ちゃんも。純さんは置いてきたの? 賢い判断ですこと』
戒十が息を吸う。
左手が熱い。
影がざわめく。
リサがすぐに言う。
「申告」
「血の匂いはまだ遠い。左手が熱い。影声は強い。挑発に反応してます。でも、動きません」
『えらいわ、猫ちゃん。ずいぶん飼い慣らされたのね』
「カオルコ」
リサが声を張る。
「純ちゃんを治すために来た。あなたの血と影紋が必要」
『知っていますわ』
声が笑う。
『純さんを救うためなら、白昼局まで敵にするのですね』
リサの表情が止まる。
『わたくしのためには、一度も来てくださらなかったのに』
その言葉は、刃より鋭かった。
リサはすぐに言い返せなかった。
戒十はリサを見た。
リサの足元の影のなさが、紫の非常灯の下でさらに際立つ。
彼女は言葉を探している。
「カオルコ」
『来てくださらなかった』
スピーカー越しの声が、少しずつ子どもじみていく。
『お姉さまって呼んでも、否定した。妹だと言っても、違うと言った。家族になりましょうと言っても、逃げた。なのに、純さんが噛まれたら来るのね。白昼局を敵にして、処刑人さんを連れて、猫ちゃんまで連れて』
「あなたを助けに来なかったことは」
リサは喉を詰まらせた。
それでも言った。
「言い訳できない」
スピーカーの向こうが黙る。
リサは続ける。
「あなたを妹として受け入れるって、今すぐ言うことはできない」
戒十の影が揺れた。
厳しい言葉だった。
でも、嘘ではない。
「でも、夜の王の作品とか、クイーンの器とか、そういうふうにだけ見ていたのは間違いだった」
リサの声は震えている。
「あなたは、カオルコだった。名前を欲しがって、呼ばれたがって、怒って、嫉妬して、傷ついていた。私はそれを見ないようにしてた」
『遅い』
カオルコの声が低くなった。
『遅すぎるわ、お姉さま』
廊下の奥で、黒い花びらが舞った。
それは影だった。
花びらの中から、人工離影者が三体現れる。
白い医療用ガウン。
顔はぼやけ、影だけがやけにはっきりしている。
さらに、その足元を黒猫型落影が走る。
シンが前へ出る。
「来る」
影縫刀が抜かれた。
戒十も身を低くする。
「共同操作、短時間」
リサが言う。
「目的は突破と採血。カオルコ本人への致命傷は禁止」
「わかってます」
「影くんも」
足元の影が不満げに揺れる。
「その呼び方、嫌」
「じゃあ帰ったら名前会議」
「今それ言う?」
「君が言わせてる!」
その瞬間、人工離影者が飛びかかってきた。
掛け合いは途切れた。
シンの刀が一体目の影を床へ縫い止める。
肉体を斬らない。
影の膝を縫う。
人工離影者が崩れる。
リサの銀糸が二体目の腕の影を絡め取り、壁へ引きつけた。
戒十は三体目へ向かう。
影の戒十が先に足元を走る。
人ではなく、人工離影者の背後に伸びた制御影紋を狙う。
黒い爪が、床に描かれた細い影の管を断つ。
肉体のほうは戒十が肩で押し、勢いを流して床へ転がした。
「殺してない」
「わかってる」
リサが答える。
「いいよ、その調子!」
黒猫型落影が戒十の左足へ噛みつこうとする。
影の戒十が反応し、叩き潰そうとした。
「落影だけ」
戒十が言う。
「わかってる」
影の爪が黒猫の身体ではなく、足元の接続影を裂いた。
黒猫は形を保てず、煤のように崩れる。
以前なら、勢いのまま噛み砕いていた。
今は、対象を選んでいる。
それができている。
その事実が、戦闘の最中なのに胸の奥で小さく光った。
通路の奥に、ガラス扉が見えた。
《K-ORC調整室》
白い文字。
戒十が残香追跡で見たものと同じだ。
「奥!」
戒十が叫ぶ。
シンが二体目の人工離影者を縫い止める。
「進め」
「シンさんは」
「後ろを止める」
「来るって約束」
「行く。先に行け」
リサが戒十の背を叩く。
「信じる!」
「最近、そればっかりですね」
「それしかないときもある!」
二人はガラス扉へ向かった。
扉の前で、床から黒い花が咲いた。
カオルコの影。
それが人の形へ立ち上がる。
次の瞬間、実体のカオルコが調整室の中から現れた。
白いワンピースではない。
薄い医療用ガウン。
腕には黒い点滴痕がいくつもあり、首元には影紋安定用の金属リングがついている。
髪は整えられていない。
それでも彼女は笑った。
「いらっしゃい、お姉さま」
リサは足を止めた。
カオルコの姿を見て、表情が痛みに変わる。
「そんな格好で」
「父さまが、調整中はこれがよいと」
カオルコは自分の袖を摘まむ。
「似合いません?」
「似合うとか、そういう話じゃない」
「じゃあ、どういう話?」
カオルコの目が冷たくなる。
「純さんを助けるために、わたくしの血がほしい。わたくしの影紋がほしい。お姉さまは結局、わたくしを材料として見に来たのではなくて?」
リサが言葉を詰まらせる。
戒十が前へ出ようとした。
リサが手で制した。
「違う、と言いたい」
「言えばいいのに」
「でも、実際に血が必要なのは本当。影紋が必要なのも本当。だから、綺麗なことだけは言えない」
カオルコの笑みが歪む。
「正直」
「あなたに嘘をつきすぎたから」
リサは言った。
「今さらだけど、嘘を増やしたくない」
「今さらね」
カオルコの足元の影が揺れる。
「今さら、妹とは言えない。今さら、作品や器としてだけ見たのは間違いだったと言う。今さら、嘘を増やしたくない。お姉さまの“今さら”で、わたくしは何をすればよろしいの?」
「怒っていい」
「もう怒っているわ」
「うん」
「憎んでもいい?」
「……いい」
「壊しても?」
「それは止める」
リサの答えに、カオルコは一瞬だけ目を見開いた。
それから、笑った。
泣く寸前のような笑いだった。
「そういうところ、本当に嫌い」
黒い花びらが一斉に舞った。
戦闘が始まった。
◇
カオルコは強かった。
単純な身体能力では、完全獣化した戒十には及ばない。
だが、この調整室は彼女の場所だった。
壁の中、床の下、天井の配線。
あらゆる場所に彼女の残香が染み込んでいる。
光源が細かく分かれ、影が揺れる。
戒十の影が分裂しかける。
リサが即座に叫ぶ。
「光源、三つ! 右、天井、床!」
「右を壊す!」
戒十の影が床を走り、右側のライトの影を切る。
実際のライトが火花を散らして消える。
カオルコが背後から黒い花弁を投げる。
リサの銀糸がそれを絡め取る。
花弁は影の中で笑い声に変わり、ほどけた。
「お姉さま、純さんには“怖かったら言って”と言うのでしょう?」
カオルコが言う。
「わたくしが怖いと言ったら、何をしてくださるの?」
「聞く」
リサが答えた。
「止めるけど、聞く」
「遅い!」
カオルコの影が、リサの足元を狙った。
影のない足元へ、黒い花の根が伸びる。
リサには防ぐ影がない。
戒十が反射的に動こうとする。
影の戒十が先に言った。
リサの左、床。
戒十はその通りに動いた。
左足で床を蹴り、爪ではなく靴底で影の根を踏み潰す。
影が悲鳴を上げた。
カオルコが舌打ちする。
「猫ちゃん、上手になったわね」
「練習しました」
「誰のため?」
「純のため」
「それだけ?」
カオルコが笑う。
「自分のため、影のため、リサお姉さまへの怒りのため。そういうのもあるでしょう?」
「あります」
戒十は言った。
影の熱を押さえながら。
「だから、全部持ったまま止めてる」
カオルコの表情が一瞬だけ揺れる。
その隙に、リサの銀糸がカオルコの手首へ伸びる。
カオルコはかわした。
だが、完全ではない。
ガウンの袖が裂れ、黒赤い血が一滴、空中へ散った。
戒十の身体が反応する。
血。
新鮮な血。
必要なもの。
純を救うもの。
同時に、クイーンの影紋に近い匂い。
喉が鳴る。
噛みたい。
飲みたい。
奪いたい。
「申告!」
リサが叫ぶ。
「血に反応! 左手が熱い! 影声あり、飲みたい、奪いたい! でも目的は採血、飲まない!」
戒十は自分の左手を右手で押さえた。
影も、床で自分の爪を押さえている。
カオルコがその様子を見て笑う。
「我慢ばかり」
彼女は一歩後ろへ下がる。
その足元に、端末が落ちていた。
先ほどの戦闘で棚が崩れ、調整室の記録端末が床に散らばっている。
カオルコは何気なく、その一つを踏みかけた。
画面が起動した。
薄い光が、彼女の顔を照らす。
そこに、記録が表示された。
《K-ORC個体調整記録》
カオルコの目が、画面へ吸い寄せられる。
戦闘の動きが一瞬止まる。
リサも、戒十も気づいた。
シンが背後の通路から追いつき、影縫刀を構えたまま止まる。
カオルコは端末を拾った。
画面を読む。
唇がゆっくり動く。
「……クイーン定着後」
声がかすれる。
「固有影核……除去予定」
リサの顔色が変わった。
「カオルコ」
カオルコは聞いていない。
端末を持つ手が震えている。
画面には、淡々とした文字が並んでいる。
クイーン影紋定着率が一定値を超えた段階で、K-ORC個体の固有影核を段階的に除去。
残存人格反応は統合ノイズとして処理。
サリサ再構成体への影紋基盤として使用。
カオルコの唇から、笑いが消えた。
「ノイズ」
彼女は呟いた。
「わたくしの固有影核が、ノイズ」
リサが一歩踏み出す。
「それは」
「知っていたの?」
カオルコが顔を上げる。
その目は、リサではなく、世界そのものへ向いているようだった。
「お姉さま、知っていたの?」
「知らない」
リサは即答した。
「それは知らなかった」
「本当に?」
「本当」
「嘘じゃなくて?」
「嘘じゃない」
リサの声は震えていた。
カオルコは端末を握りしめる。
そして、自分の首元の金属リングに触れた。
そこに小さな通信機能があるのか、黒い影紋が光った。
「父さま」
彼女は言った。
調整室のスピーカーが短くノイズを鳴らす。
数秒後、夜の王の声が流れた。
『どうした、カオルコ』
カオルコの表情が、少女のようになる。
壊れそうに不安で、それでもまだ信じたい顔。
「今、記録を見ました」
『どの記録かな』
「K-ORC個体調整記録。クイーン定着後、固有影核を除去予定。残存人格反応は統合ノイズとして処理」
リサが唇を噛む。
戒十は左手を握る。
シンの目が細くなる。
カオルコは、声を震わせながら聞いた。
「父さま。これは、違いますわよね」
沈黙。
短い。
だが、答えとしては十分な沈黙だった。
夜の王は否定しなかった。
『カオルコ。君は消えない』
カオルコの目が大きくなる。
『君はサリサの一部として完成する。クイーンを安定させ、リサとの再統合を可能にするための重要な基盤だ。現在の君の自己反応も、すべて記録される。無駄にはならない』
「無駄」
カオルコの声が小さくなる。
『君は失敗作ではない。君は完成へ至る過程だ』
「わたくしは」
カオルコは端末を胸に抱いた。
「わたくしは、カオルコです」
『その名も保持される』
「保持」
『サリサ再構成体の中で、君の反応履歴は統合される。君は大きな全体の一部になる』
カオルコの顔から、血の気が引いた。
いや、もともと人間の血色とは違う。
それでも、何かがすっと抜けたように見えた。
「妹では、なかったのですね」
夜の王は少し間を置いた。
『君は、妹という役割を通じて自己形成を安定させていた』
「器」
カオルコの声が変わった。
「わたくしは、クイーンの器。サリサの材料。お姉さまのための、調整された影核。そういうことですのね」
『言い方が感情的だ』
「感情がありますもの」
カオルコは笑った。
涙は出ていない。
でも、その笑いは泣き声に近かった。
「父さまが作ったのでしょう?」
『感情反応は想定内だ。落ち着きなさい』
「落ち着いたら、消されるのでしょう?」
『消えない。完成する』
「その言葉、もう嫌いですわ」
カオルコは通信を切った。
調整室に沈黙が落ちる。
黒い花びらが、床へぱらぱらと落ちた。
その一枚一枚が、彼女の影の欠片のように見えた。
リサが、ゆっくり口を開く。
「カオルコ」
「呼ばないで」
カオルコは言った。
さっきとは違う。
怒鳴る力もない声だった。
「呼んでほしかったのに。呼ばないでほしいなんて、変ですわね」
リサは一歩近づいた。
「あなたは、カオルコだよ」
カオルコの顔が歪む。
「今さら」
「うん。今さら」
「ずるい」
「うん」
「お姉さまは、ずるい」
「うん」
カオルコの影が、床で膨れ上がった。
哀しみが怒りに変わる。
怒りが花びらになり、黒い風となって調整室を満たす。
シンが叫ぶ。
「来る!」
カオルコが両手を広げた。
「みんな、わたくしを選ばない!」
黒い花びらが一斉に爆ぜた。
リサの銀糸が防ぐ。
シンの影縫刀が床へ刺さる。
戒十の影が、純のための採血容器を守るように身を伏せた。
カオルコの動きは乱れていた。
さっきまでの計算された残香操作ではない。
怒りと悲しみのまま、影が暴れている。
だから危険だった。
予測が難しい。
リサが叫ぶ。
「カオルコ、止まって!」
「止まったら、何になりますの!」
カオルコの影がリサへ向かう。
「妹にもなれない。娘でもない。母の器。父の材料。お姉さまの言い訳。純さんの治療薬。猫ちゃんの獲物。わたくしは何なの!」
戒十は息を呑んだ。
その問いは、叫びだった。
自分の名前を必死に握っていた人間の、叫び。
だが、今は止めなければならない。
純の影が欠けている。
残り時間は減っている。
カオルコの血と影紋が必要だ。
リサが答えようとした瞬間、カオルコの影が彼女の足元へ絡みついた。
影のない足元。
防ぐものがない。
シンが動く。
「リサ、下がれ!」
影縫刀が床を走り、カオルコの影を縫う。
一瞬だけ、カオルコの身体が止まった。
その瞬間を、戒十は逃さなかった。
「共同操作、三十秒!」
リサが即座に叫ぶ。
「許可! 対象、採血のみ!」
「わかってる!」
戒十の影が床を走る。
肉体の戒十は前へ出る。
影がカオルコの足元の花びらを払い、肉体が距離を詰める。
カオルコの腕が動こうとする。
シンの刀が影を縫い止める。
リサの銀糸が手首を絡める。
カオルコが目を見開く。
「猫ちゃん」
「ごめん」
戒十は言った。
「でも、純を助ける」
左手ではない。
右手で採血用の小型針を打ち込む。
リサが用意した影紋採血器。
普通の血液だけでなく、影紋情報を含む血を採るための器具。
針がカオルコの腕へ入る。
黒赤い血が、細い管を通って密閉容器へ流れ込んだ。
甘い匂い。
強烈な影紋。
戒十の喉が鳴る。
飲みたい。
奪いたい。
影も揺れる。
だが、二人で止めた。
目的は採血。
飲まない。
奪わない。
治療に使う。
容器が必要量へ達する。
リサが叫ぶ。
「取れた!」
シンが影縫刀を抜く。
同時にカオルコの影が爆ぜた。
黒い花が調整室いっぱいに広がる。
視界が閉ざされる。
リサが採血容器を胸へ抱え込む。
戒十が彼女の前へ出る。
シンが刀を構える。
だが、攻撃は来なかった。
花びらの幕が晴れたとき、カオルコは調整槽の上に立っていた。
腕から血が滴っている。
顔は青白い。
それでも、背筋は伸びている。
「今夜」
カオルコが言った。
声は静かだった。
怒鳴るよりも、ずっと怖い声だった。
「誰が誰を選ばなかったのか、忘れませんわ」
リサが一歩踏み出す。
「カオルコ」
「呼ばないで」
カオルコは首を横に振った。
その目には、涙ではなく、黒い影が滲んでいた。
「今呼ぶなら、最初から呼んでほしかった」
調整槽の影が開く。
その奥は、施設のさらに深い場所へ続いている。
カオルコはそこへ沈むように消えていった。
追うべきか。
戒十の身体が動きかける。
影も動きたがる。
リサが採血容器を握りしめたまま、低く言った。
「追わない」
「でも」
「純ちゃんが先」
その言葉で、戒十は止まった。
そうだ。
目的は採血。
成功した。
ここでカオルコを追えば、また目的が変わる。
怒りに引っ張られる。
戒十は息を吐いた。
「終了」
自分に向けて言う。
影に向けて言う。
影が不満げに揺れた。
だが、戻った。
「終了」
影も言った。
リサは採血容器を見た。
中で、黒赤い血が微かに光っている。
カオルコの新鮮な血。
カオルコの影紋。
純を救うために必要なもの。
同時に、カオルコが道具として扱われてきた証拠のようにも見えた。
リサはそれを胸に抱き、目を閉じた。
「ごめん」
誰へ向けた言葉なのか、戒十にはわからなかった。
純へか。
カオルコへか。
クイーンへか。
サリサへか。
あるいは、リサ自身へか。
シンが通路を確認する。
「長居はできない。白昼局か財団側の回収が来る」
「戻ろう」
リサは目を開けた。
「純ちゃんを治す」
戒十は頷いた。
調整室を出る直前、彼は一度だけ振り返った。
壊れた端末が床に落ちている。
画面にはまだ、研究記録の文字が残っていた。
残存人格反応は統合ノイズとして処理。
戒十はその文字を見て、足元の影を強く意識した。
「ノイズじゃない」
小さく言った。
影が足元で揺れる。
「僕も?」
「おまえも」
「カオルコも?」
戒十は一瞬だけ黙った。
そして頷いた。
「カオルコも」
リサがそれを聞いていた。
何も言わなかった。
ただ、採血容器を抱える手に、少しだけ力を込めた。
三人は調整室を離れた。
背後で、紫の非常灯が一つ、音もなく消えた。




