第七節 身体を渡すな
灰色の軽バンは、旧市街の裏道を抜け、港湾倉庫街へ向かっていた。
車体は古く、段差を越えるたびに床が鈍く鳴る。窓には内側から遮影布が貼られ、昼の光はほとんど入ってこない。前方だけ、運転席の視界を確保するために細く開けられている。
外はまだ昼だった。
曇っていて、太陽は見えない。
それでも昼は昼だ。
道路の白線、建物の壁、信号の光、車の窓の反射。
それらが薄く遮影布を透かすたび、戒十の影は足元で縮む。
夜ほど強くない。
けれど、消えてはいない。
純は後部座席に横たえられていた。
リサが銀糸で右側の影の欠けを支え、遮影布を毛布のように掛けている。純の顔色はさっきよりも悪い。唇から血の気が引き、額には冷たい汗が浮かんでいた。
それでも意識はあった。
彼女は胸元に抱えたノートを離さない。
車が大きく揺れるたび、右の脇腹から腰へ走る噛み痕が痛むのか、眉を寄せる。それでも声を上げない。上げないことがいいことではないとわかっているのに、戒十が動揺するのを避けようとしている。
それがわかるから、余計に苦しかった。
「痛かったら言え」
戒十は言った。
声が荒くならないように気をつけたつもりだった。
でも、少し鋭くなった。
純は薄く目を開ける。
「痛いです」
「どのくらい」
「七、くらい」
「十段階で?」
「はい」
「それ、かなりだろ」
「だから、言いました」
純は小さく息を吐いた。
「寒気も強いです。耳鳴りは少し。カオルコさんの声は……さっきより近いです。でも、はっきりした言葉じゃない」
リサがすぐに記録する。
「影の遅延は?」
「右側、一秒くらい。たぶん」
「広がってる?」
「欠けた端が、少しざらざらします。削れてるみたいな感じ」
リサの手が一瞬止まる。
すぐに銀糸を調整した。
「わかった。ありがとう。今はそれ以上見ないで」
「はい」
戒十は座席の下を握りしめた。
何もできない。
白昼局から逃げた。
それだけだ。
純はまだ治っていない。
カオルコはまだ見つからない。
夜の王の資料はあるが、肝心の血と影紋はない。
このまま時間だけが減っていく。
リサは端末を見ている。
白昼局の追跡を避けるため、通信は最低限しか使えない。シンからの連絡はまだ来ていない。軽バンを運転するカウンターの男は、古い港湾関係の抜け道を使っているらしく、表通りを避けて車を走らせている。
だが、いつまでも逃げられるわけではない。
何かをしなければならない。
誰かが、カオルコを捕まえなければならない。
戒十は足元を見た。
薄い影が、車内の暗がりで揺れている。
昼の中では弱い。
だが、純の影を支えたとき、影の戒十は確かに役に立った。
自分より速く、細かく、正確に、影を扱えた。
もし、完全に任せれば。
そう思った瞬間、左手が冷たくなった。
熱ではない。
決意に似た冷たさだった。
「リサさん」
戒十は顔を上げた。
「何」
「僕が、影に身体を渡したら」
リサの目が鋭くなる。
「却下」
「まだ最後まで言ってません」
「言わなくても却下」
「聞いてください」
「聞いたら怒るから嫌」
「怒ってください」
リサは唇を噛んだ。
純が薄く目を開ける。
「戒十」
「純は黙ってて」
言った瞬間、後悔した。
純の目が少しだけ細くなる。
「今のは、あとで怒ります」
「……ごめん」
「今も怒ってます」
「ごめん」
リサが低く言う。
「で、何を言うつもりだったの」
戒十は息を吸った。
「影なら、僕より強い。カオルコの残香も追える。白昼局の照射具も避けられる。僕が中途半端に抑えているより、影に全部渡したほうが純を助けられるかもしれない」
リサは無言だった。
その無言が怖い。
シンの無言とは違う。
怒っている。
悲しんでいる。
呆れている。
全部が混ざっていた。
戒十は続けた。
「僕は、身体の主導権を渡す。時間は、純が助かるまで。僕は奥に引っ込む。影なら、カオルコを捕まえられる」
「それ、死ぬって言ってるのと近いよ」
「死ぬわけじゃ」
「近いよ」
リサの声が低くなった。
「君は今、自分が消えても純ちゃんが助かるならいいって言ってる。さっき純ちゃんに怒られたばっかりなのに」
戒十は言い返せなかった。
純がベッドから小さく声を出す。
「聞こえてます」
「ごめん」
「黙っててと言われても、聞こえます」
「ごめん」
戒十はそれしか言えない。
それでも、気持ちは変わらない。
純の噛み痕は広がっている。
残り時間は減っている。
自分が迷っている間に、彼女の影は欠けていく。
だから、自分を差し出すくらい、当然だと思ってしまう。
その考えが間違っていると、頭ではわかる。
でも、止まらない。
足元の影が、ゆっくり立ち上がった。
車内の暗がりが揺れる。
リサの銀糸が反射的に動く。
しかし、影は純のほうへ向かわなかった。
戒十の前に立った。
薄い人型。
輪郭は不安定だが、琥珀色の目だけがはっきりしている。
影の戒十は、しばらく黙って戒十を見ていた。
そして言った。
「いらない」
戒十は、聞き間違えたのかと思った。
「何が」
「身体」
影の声は、戒十の声だった。
だが、いつもより冷たかった。
「いらない」
「おまえ、欲しがってただろ」
「欲しいよ」
「じゃあ」
「そういう渡され方はいらない」
影が一歩近づく。
車内の床に落ちる黒が、少し濃くなる。
「僕に全部押しつけて消えるな」
戒十は息を止めた。
影は続ける。
「君はそれを責任だと思ってる。純を助けるために、自分を渡す。きれいに聞こえる。でも、本当は逃げたいだけだ」
「違う」
「違わない」
影の声が強くなる。
「純が傷ついた。君は怒ってる。怖い。どうしたらいいかわからない。だから、僕に身体を渡して、自分は奥へ引っ込もうとしてる。僕がカオルコを捕まえたら、純を助けたのは僕。僕が誰かを傷つけたら、悪いのも僕。君は、責任から降りられる」
「違う!」
戒十は叫んだ。
軽バンの車内に声が反響する。
純が痛みに眉を寄せる。
戒十はすぐに口を押さえた。
「……違う」
今度は小さく言った。
影は退かなかった。
「君は、中学のときもそうした」
その言葉に、戒十の胸が凍る。
濡れた雑巾。
机の落書き。
廊下の笑い声。
知ってたんだろ。
その声が、また胸の奥から上がってくる。
「知っていて、何もしない理由を作った。今度は逆。何でもする理由を作って、自分を消そうとしてる。どっちも同じだよ」
「同じじゃない」
「同じ」
影は言った。
「選ばないための理由だ」
戒十は言葉を失った。
リサも、純も、何も言わない。
エンジン音だけが、車内を満たしている。
影は、少しだけ声を落とした。
「身体をくれるんじゃなくて、一緒に使え」
戒十は影を見る。
「一緒に」
「そう」
「おまえ、僕と一緒に使いたいのか」
「本当は、全部欲しい」
影は隠さなかった。
「君が邪魔だと思うこともある。君が怖がって止まると、苛々する。君が純から逃げると、僕が行きたくなる。君が怒りを飲み込むと、僕が噛みたくなる」
「……」
「でも、君がいなくなった身体はいらない」
影の声が、ほんの少しだけ揺れた。
「それは、僕の身体じゃなくて、君の抜け殻だ」
戒十の喉が詰まる。
影は続ける。
「僕は、君の代わりに生きたいわけじゃない。君が使わなかったものを、僕だけが持ってる。君が言えなかったことを、僕が持ってる。君が逃げたかった怒りを、僕が持ってる。でも、それを僕に全部押しつけて、君がいなくなったら、また同じだ」
「同じ?」
「切り捨てられる」
その言葉は、リサの足元に影がないことと重なった。
クイーン。
サリサ。
リサ。
切り分けられ、片方だけを本物にされ、もう片方が閉じ込められた過去。
戒十は目を閉じた。
自分は、影へ身体を渡そうとしていた。
献身のつもりだった。
責任のつもりだった。
でも、それは結局、また影へ全部を押しつけることだった。
自分は消える。
影が戦う。
影が汚れる。
影が誰かを傷つけたら、怪物になったのは影だと言える。
そういう逃げ道が、心のどこかにあった。
戒十は吐き気を覚えた。
「……最低だ」
影が言う。
「うん」
「否定しないのかよ」
「君もさっき、リサさんに似たこと言った」
「言ったけど」
「だから、僕も言う」
影は少しだけ顔を傾けた。
「最低。でも、まだやめられる」
戒十は額を押さえた。
左手ではなく、右手で。
左手を使えば、影の熱に飲まれそうだった。
「ごめん」
影は黙る。
「おまえに、押しつけようとした」
「うん」
「身体を渡すって言って、格好つけて、逃げようとした」
「うん」
「でも、純を助けたいのは本当だ」
「知ってる」
「カオルコを見つけたい」
「僕も」
「殺したいとも思ってる」
「僕も」
純が小さく息を吸った。
戒十はすぐに言う。
「でも、殺すことを目的にしない」
純は目だけで彼を見た。
戒十は続ける。
「必要なのはカオルコの新鮮な血と影紋。捕まえる。採取する。治療する。殺すためじゃない」
影が頷いたように揺れる。
「目的は、純の治療に必要な血影紋の入手」
戒十は少し驚いた。
影が、手順の言葉を使った。
シンの訓練の言葉。
申告と確認の言葉。
影も覚えていたのだ。
リサが、静かに息を吐く。
「……共同操作、できるかもしれない」
戒十が顔を上げる。
「共同操作?」
「肉体の主導権を完全に渡すんじゃない。時間、目的、攻撃対象を限定して、一部の身体操作と影操作を影側へ開く。通常は危ないからやらない。でも、今の会話が本物なら、試す価値はある」
「危険は?」
純が聞く。
声が弱い。
それでも聞く。
リサは正直に答えた。
「主導権が戻らなくなる可能性。影の欲求が強く出る可能性。純ちゃんへの接触衝動、カオルコへの攻撃衝動、白昼局への敵対衝動。全部ある」
「条件を決めれば、少し下げられますか」
「下げられる。ゼロにはならない」
純は目を閉じて、短く頷いた。
「説明、続けてください」
リサは頷き、端末を膝の上に置いた。
「まず時間。最初は短く。三分」
「短い」
戒十が言う。
「長いくらい。三分あれば暴走には十分」
リサは真剣だった。
「目的は一つ。純ちゃんの影に残った残香を追跡して、カオルコの現在地、もしくは調整施設を特定する。戦闘は目的にしない」
影が言う。
「見つけたら?」
「位置情報を取って戻る。追跡を継続したくても戻る」
「カオルコが目の前にいたら」
「捕獲可能なら、シンかあたしの合図後。君たちだけで突っ込まない」
「遅い」
「命令じゃない。条件」
リサが言った。
「守れないなら、共同操作はしない」
影は黙った。
戒十が影を見る。
「守る」
「……守る」
影が答えた。
リサは続ける。
「攻撃対象。人間は不可。白昼局員も不可。一般人も不可。カオルコ本人への攻撃も、捕獲のための拘束まで。影紋採取に必要な状態を壊さない。装備、照射具、黒猫型落影、人工離影者の影干渉は可。ただし肉体への致命傷は禁止」
「条件、多い」
影が不満げに言う。
「多いよ。生きて戻るためだから」
リサは即答した。
「停止条件。純ちゃんが“戻って”と言ったら戻る。あたしが銀糸で三回引いたら戻る。戒十くん本人が“終了”と言ったら戻る。影側がそれを拒否した場合、強制停止に移る」
「強制停止って?」
純が聞く。
「影固定剤と銀糸拘束。痛い」
「嫌」
影が言う。
「じゃあ戻る」
リサの返しは早かった。
影は少し黙り、渋々頷いたように揺れた。
戒十は息を吐いた。
「僕は、何をすればいいですか」
「主導権を手放しすぎないこと」
リサは言った。
「影に任せる部分を決める。嗅覚、影追跡、反射速度、足元の影操作。逆に、肉体の進行方向、接触判断、停止判断は戒十くんが持つ」
「できるかな」
「できるかじゃなくて、やる。できなかったら三分前に止める」
シンがいれば、同じように言っただろうと思った。
その不在が、急に重くなる。
戒十は軽バンの後方を見る。
シンはまだ来ていない。
白昼局を足止めしている。
戻ると言った。
その言葉を信じるしかない。
カウンターの男が運転席から声を飛ばした。
「おい、やるなら早くやれ。港湾の避難倉庫まであと五分だが、後ろに一台ついてる」
「白昼局?」
リサが聞く。
「たぶんな。ずっとじゃないが、曲がっても距離を詰めてくる」
リサが舌打ちした。
「追跡しながら追跡されてるとか、最悪」
「笑えませんね」
戒十が言う。
「笑ってないよ?」
「少し笑ってました」
「癖」
そんなやり取りをしている場合ではないのに、いつもの軽口が戻った。
純がほんの少しだけ目を細める。
「……記録」
「あとで!」
リサが即答する。
「今は共同操作!」
◇
準備は簡易だった。
車内でできることは限られている。
リサは戒十の左手首に銀糸を巻き、もう一端を自分の指へ絡めた。さらに、純の欠けた影から伸びる残香の端を、髪の毛ほど細い銀糸で拾い上げる。
残香は目にはほとんど見えない。
だが、戒十には匂った。
白い花。
古い病室。
甘く腐る水。
カオルコの笑い声。
その中に、かすかに機械油と消毒液の匂いが混ざっていた。
カオルコの調整施設。
身体を整える場所。
血を抜き、影紋を整え、人工離影者としての輪郭を保つ場所。
それを、残香は覚えている。
「三分」
リサが言う。
「始めたら戻れないと思わないこと。戻る前提で行く」
戒十は頷いた。
「純」
彼はベッド代わりの後部座席へ顔を向ける。
「何」
「怖かったら言って」
「怖いです」
「今も?」
「今も」
「……そうだよな」
「でも、やって」
純は目を開ける。
弱いが、はっきりした目だった。
「身体を渡すんじゃなくて、一緒に使って」
戒十は息を止めた。
影が足元で揺れる。
「聞いた?」
戒十が言う。
影が答える。
「聞いた」
「じゃあ、やるぞ」
「うん」
リサが銀糸を軽く引く。
「共同操作、開始」
最初に変わったのは、音だった。
エンジン音が遠のく。
代わりに、タイヤの下で流れる道路の影が聞こえた。
聞こえた、としか言えない。
アスファルトのひび。
電柱の影。
信号機の下で一瞬伸びる車の影。
歩道橋の影。
建物と建物の隙間に溜まる昼の薄い暗がり。
それらが、匂いと音と手触りの間の感覚として、戒十の中へ入ってくる。
影の戒十が、感覚を開いている。
強すぎる。
眩暈がする。
戒十は反射的に奥へ退こうとした。
違う。
退くな。
自分で決めた。
身体を渡すのではない。
一緒に使う。
戒十は呼吸を整えた。
肉体はここにある。
軽バンの後部座席。
右腕の感覚。
左手首の銀糸。
純の浅い呼吸。
リサの指。
運転席の男の舌打ち。
全部を繋ぎ止める。
そのうえで、影の感覚を少しだけ開く。
白い花の匂いが濃くなる。
純の影から立ち上がった残香が、細い糸になって車外へ伸びていた。
物理的な糸ではない。
影脈に残った噛み痕の記憶。
カオルコが触れた場所から、彼女が通った影へ戻ろうとする癖。
それをたどる。
戒十の影が車内の床を滑り、後部ドアの下から外へにじみ出た。
昼の光が痛い。
薄くなる。
切れそうになる。
だが、完全には切れない。
影の戒十が、道路を走る車の下の暗がりを渡る。
軽バンの影から、隣のトラックの影へ。
トラックの影から、信号柱の影へ。
そこから、高架の下へ。
白い花の匂いが、湾岸方面へ伸びている。
戒十はその流れに意識を預けそうになった。
速い。
気持ちいい。
身体の重さがない。
昼の自分では見えなかったものが見える。
影だけになれば、どこへでも行けそうだった。
その瞬間、純の声がした。
「戒十」
小さい。
でも、届いた。
戒十は肉体へ戻る。
「いる」
「呼吸、速いです」
リサがすぐに言う。
「影側へ寄りすぎ。戻して」
「戻してる」
戒十は歯を食いしばった。
影が不満げに揺れる。
「まだ追える」
「追う。でも、戻る」
「遅くなる」
「戻る」
影が黙る。
それでも従った。
感覚が少し安定する。
白い花の匂いの向こうに、映像のような断片が浮かぶ。
暗い部屋。
白い壁。
半透明のカーテン。
点滴台。
影紋測定器。
水槽のような影固定槽。
カオルコが膝を抱えている。
白い服ではない。
薄い医療用ガウン。
腕には黒い点滴跡。
誰かの声。
父さま。
調整が必要です。
お姉さまはまだ来ませんか。
猫ちゃんは?
純さんは?
映像が揺れる。
戒十の影がさらに奥へ入り込もうとした。
リサが銀糸を一回引く。
「入りすぎ」
「まだ」
「一回目」
リサの声は冷静だった。
戒十は戻る。
息が乱れる。
純が手を伸ばしかけ、途中で止めた。
触らない。
それを守っている。
戒十はその動きだけで、少し自分を取り戻した。
追跡を続ける。
残香は湾岸の大型施設群を抜け、使われていない再開発区画へ向かっていた。
表向きは医療関連倉庫。
常盤再生医療財団の関連会社の名前が、影の記憶にちらつく。
そこからさらに、地下へ。
地下駐車場。
閉鎖された搬入口。
古い研究棟。
花の香りが濃くなる。
消毒液の匂い。
鉄。
保存血。
黒い水。
そして、カオルコの声。
来てくれるの?
猫ちゃん。
それは罠だ。
戒十は思った。
影も同時に言った。
「罠」
「わかってる」
「でも、そこにいる」
「たぶん」
「行く?」
「今は位置を取るだけ」
影が不満げに揺れる。
戒十は強く言った。
「条件」
影は黙った。
それから、渋々答えた。
「位置を取るだけ」
その瞬間、映像がはっきりした。
赤錆びた搬入口の看板。
《常盤ライフサイエンス物流センター 湾岸第三保管区》
だが、影の記憶の中では、その奥に別の名前が貼りついている。
調整室。
K-ORC区画。
人工離影者維持槽。
カオルコの固有影核調整施設。
戒十はその文字を読み取ろうとした。
視界の端で、黒い王冠のような影が揺れる。
クイーンの気配。
奥へ来い。
そう言われた気がした。
左手が熱くなる。
影の戒十も反応する。
もっと深く。
もっと奥へ。
カオルコだけじゃない。
クイーンの残り香がある。
夜の王の影紋もある。
行けば、全部わかる。
身体のことも。
別々の肉体のことも。
リサとクイーンのことも。
純の治療のことも。
戒十の意識が傾く。
その瞬間、銀糸が二回、強く引かれた。
「戻って!」
リサの声。
続けて、純の声。
「戒十、戻って」
停止条件。
純が言ったら戻る。
戒十は影へ叫ぶ。
「戻る!」
影が抵抗する。
あと少し。
もう少し。
そこにカオルコがいる。
純を噛んだ相手がいる。
血がある。
影紋がある。
奪える。
捕まえられる。
救える。
「戻るって言った!」
戒十は肉体側の感覚を強く掴んだ。
右手。
座席の布。
銀糸の痛み。
純の声。
リサの息。
エンジン音。
軽バンの揺れ。
影の感覚を引き戻す。
影の戒十が、最後に奥の施設を睨んだ。
「場所、覚えた」
「戻る」
「覚えた」
「戻る!」
影が車内へ戻った。
戒十の身体が大きく揺れ、背中を座席へ打ちつける。
息が詰まる。
左手の遮影布の下で爪が伸びかけ、すぐに戻った。
リサの銀糸が三回目を引く寸前で止まっている。
純はベッドの上で顔を青くしながら、戒十を見ていた。
「戻った?」
彼女が聞く。
戒十は荒い息をしながら頷いた。
「戻った」
影が足元で薄く震えている。
「僕も」
戒十は影を見る。
「戻ったな」
「戻った」
影の声は不満げだった。
でも、戻っていた。
リサが大きく息を吐いた。
「三分、ぎりぎり。最後、危なかった」
「ごめん」
「謝るのはあと。場所は?」
戒十は運転席の背もたれを掴み、体を起こした。
「湾岸第三保管区。常盤ライフサイエンス物流センター。表向きは保管施設。奥に調整室があります。K-ORC区画。人工離影者維持槽。カオルコの固有影核調整施設」
リサの表情が変わった。
「K-ORC……」
「知ってるんですか」
「夜の王が昔使ってた分類名に似てる。Kはたぶんカオルコ。ORCは……影紋再構成槽の略かもしれない」
純が弱い声で言う。
「カオルコさんは、そこに?」
「たぶん」
戒十は答えた。
「罠だと思う。でも、そこに調整施設がある。カオルコの血と影紋を取るなら、そこです」
リサは端末で地図を開く。
通信を切っているため、詳細地図は古いものしか表示されない。それでも、湾岸第三保管区の位置は出た。
運転席のカウンターの男がバックミラー越しに見る。
「そこ、今は閉鎖区域だぞ。再開発が止まって、夜は警備も薄い。昼は白昼局が張りやすい」
「だからカオルコの隠れ家に向いてる」
リサは低く言った。
「夜の王の施設でもある」
戒十は足元の影を見た。
共同操作は終わった。
だが、影はまだそこにいる。
身体を奪おうとしていない。
怒っている。
行きたがっている。
でも、戻った。
戻る条件を守った。
それが、戒十には信じられないくらい大きかった。
「ありがとう」
戒十は小さく言った。
影が揺れる。
「まだ助けてない」
「でも、戻ってきた」
「君も」
「うん」
純がそれを聞いて、かすかに微笑んだ。
「記録します」
「今は寝てろ」
「それは、命令?」
「お願い」
「なら、少しだけ」
純は目を閉じた。
リサがすぐに脈と影の遅延を確認する。
「意識は落としすぎない。短く休ませる」
戒十は頷いた。
軽バンは港湾倉庫街へ入り、薄暗い高架下へ滑り込んだ。
後方についていた車の気配は、いつの間にか消えている。
振り切ったのか。
泳がされたのか。
わからない。
ただ、次の目的地は決まった。
常盤ライフサイエンス物流センター、湾岸第三保管区。
カオルコの調整施設。
そこに、純を救うための血と影紋がある。
そこに、夜の王の研究がある。
そこに、クイーンの匂いもある。
戒十は左手を握った。
身体を渡すな。
影の言葉が、まだ胸の奥に残っている。
渡すのではない。
奪わせるのでもない。
一緒に使う。
その難しさを、これから何度も思い知るのだろう。
それでも、今だけは、二人で同じ方向を向いていた。
純の影を取り戻す。
そのために、次の夜へ向かう。




