表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第四章 夜の叛逆
28/31

第七節 身体を渡すな

 灰色の軽バンは、旧市街の裏道を抜け、港湾倉庫街へ向かっていた。


 車体は古く、段差を越えるたびに床が鈍く鳴る。窓には内側から遮影布が貼られ、昼の光はほとんど入ってこない。前方だけ、運転席の視界を確保するために細く開けられている。


 外はまだ昼だった。


 曇っていて、太陽は見えない。


 それでも昼は昼だ。


 道路の白線、建物の壁、信号の光、車の窓の反射。


 それらが薄く遮影布を透かすたび、戒十の影は足元で縮む。


 夜ほど強くない。


 けれど、消えてはいない。


 純は後部座席に横たえられていた。


 リサが銀糸で右側の影の欠けを支え、遮影布を毛布のように掛けている。純の顔色はさっきよりも悪い。唇から血の気が引き、額には冷たい汗が浮かんでいた。


 それでも意識はあった。


 彼女は胸元に抱えたノートを離さない。


 車が大きく揺れるたび、右の脇腹から腰へ走る噛み痕が痛むのか、眉を寄せる。それでも声を上げない。上げないことがいいことではないとわかっているのに、戒十が動揺するのを避けようとしている。


 それがわかるから、余計に苦しかった。


「痛かったら言え」


 戒十は言った。


 声が荒くならないように気をつけたつもりだった。


 でも、少し鋭くなった。


 純は薄く目を開ける。


「痛いです」


「どのくらい」


「七、くらい」


「十段階で?」


「はい」


「それ、かなりだろ」


「だから、言いました」


 純は小さく息を吐いた。


「寒気も強いです。耳鳴りは少し。カオルコさんの声は……さっきより近いです。でも、はっきりした言葉じゃない」


 リサがすぐに記録する。


「影の遅延は?」


「右側、一秒くらい。たぶん」


「広がってる?」


「欠けた端が、少しざらざらします。削れてるみたいな感じ」


 リサの手が一瞬止まる。


 すぐに銀糸を調整した。


「わかった。ありがとう。今はそれ以上見ないで」


「はい」


 戒十は座席の下を握りしめた。


 何もできない。


 白昼局から逃げた。


 それだけだ。


 純はまだ治っていない。


 カオルコはまだ見つからない。


 夜の王の資料はあるが、肝心の血と影紋はない。


 このまま時間だけが減っていく。


 リサは端末を見ている。


 白昼局の追跡を避けるため、通信は最低限しか使えない。シンからの連絡はまだ来ていない。軽バンを運転するカウンターの男は、古い港湾関係の抜け道を使っているらしく、表通りを避けて車を走らせている。


 だが、いつまでも逃げられるわけではない。


 何かをしなければならない。


 誰かが、カオルコを捕まえなければならない。


 戒十は足元を見た。


 薄い影が、車内の暗がりで揺れている。


 昼の中では弱い。


 だが、純の影を支えたとき、影の戒十は確かに役に立った。


 自分より速く、細かく、正確に、影を扱えた。


 もし、完全に任せれば。


 そう思った瞬間、左手が冷たくなった。


 熱ではない。


 決意に似た冷たさだった。


「リサさん」


 戒十は顔を上げた。


「何」


「僕が、影に身体を渡したら」


 リサの目が鋭くなる。


「却下」


「まだ最後まで言ってません」


「言わなくても却下」


「聞いてください」


「聞いたら怒るから嫌」


「怒ってください」


 リサは唇を噛んだ。


 純が薄く目を開ける。


「戒十」


「純は黙ってて」


 言った瞬間、後悔した。


 純の目が少しだけ細くなる。


「今のは、あとで怒ります」


「……ごめん」


「今も怒ってます」


「ごめん」


 リサが低く言う。


「で、何を言うつもりだったの」


 戒十は息を吸った。


「影なら、僕より強い。カオルコの残香も追える。白昼局の照射具も避けられる。僕が中途半端に抑えているより、影に全部渡したほうが純を助けられるかもしれない」


 リサは無言だった。


 その無言が怖い。


 シンの無言とは違う。


 怒っている。


 悲しんでいる。


 呆れている。


 全部が混ざっていた。


 戒十は続けた。


「僕は、身体の主導権を渡す。時間は、純が助かるまで。僕は奥に引っ込む。影なら、カオルコを捕まえられる」


「それ、死ぬって言ってるのと近いよ」


「死ぬわけじゃ」


「近いよ」


 リサの声が低くなった。


「君は今、自分が消えても純ちゃんが助かるならいいって言ってる。さっき純ちゃんに怒られたばっかりなのに」


 戒十は言い返せなかった。


 純がベッドから小さく声を出す。


「聞こえてます」


「ごめん」


「黙っててと言われても、聞こえます」


「ごめん」


 戒十はそれしか言えない。


 それでも、気持ちは変わらない。


 純の噛み痕は広がっている。


 残り時間は減っている。


 自分が迷っている間に、彼女の影は欠けていく。


 だから、自分を差し出すくらい、当然だと思ってしまう。


 その考えが間違っていると、頭ではわかる。


 でも、止まらない。


 足元の影が、ゆっくり立ち上がった。


 車内の暗がりが揺れる。


 リサの銀糸が反射的に動く。


 しかし、影は純のほうへ向かわなかった。


 戒十の前に立った。


 薄い人型。


 輪郭は不安定だが、琥珀色の目だけがはっきりしている。


 影の戒十は、しばらく黙って戒十を見ていた。


 そして言った。


「いらない」


 戒十は、聞き間違えたのかと思った。


「何が」


「身体」


 影の声は、戒十の声だった。


 だが、いつもより冷たかった。


「いらない」


「おまえ、欲しがってただろ」


「欲しいよ」


「じゃあ」


「そういう渡され方はいらない」


 影が一歩近づく。


 車内の床に落ちる黒が、少し濃くなる。


「僕に全部押しつけて消えるな」


 戒十は息を止めた。


 影は続ける。


「君はそれを責任だと思ってる。純を助けるために、自分を渡す。きれいに聞こえる。でも、本当は逃げたいだけだ」


「違う」


「違わない」


 影の声が強くなる。


「純が傷ついた。君は怒ってる。怖い。どうしたらいいかわからない。だから、僕に身体を渡して、自分は奥へ引っ込もうとしてる。僕がカオルコを捕まえたら、純を助けたのは僕。僕が誰かを傷つけたら、悪いのも僕。君は、責任から降りられる」


「違う!」


 戒十は叫んだ。


 軽バンの車内に声が反響する。


 純が痛みに眉を寄せる。


 戒十はすぐに口を押さえた。


「……違う」


 今度は小さく言った。


 影は退かなかった。


「君は、中学のときもそうした」


 その言葉に、戒十の胸が凍る。


 濡れた雑巾。


 机の落書き。


 廊下の笑い声。


 知ってたんだろ。


 その声が、また胸の奥から上がってくる。


「知っていて、何もしない理由を作った。今度は逆。何でもする理由を作って、自分を消そうとしてる。どっちも同じだよ」


「同じじゃない」


「同じ」


 影は言った。


「選ばないための理由だ」


 戒十は言葉を失った。


 リサも、純も、何も言わない。


 エンジン音だけが、車内を満たしている。


 影は、少しだけ声を落とした。


「身体をくれるんじゃなくて、一緒に使え」


 戒十は影を見る。


「一緒に」


「そう」


「おまえ、僕と一緒に使いたいのか」


「本当は、全部欲しい」


 影は隠さなかった。


「君が邪魔だと思うこともある。君が怖がって止まると、苛々する。君が純から逃げると、僕が行きたくなる。君が怒りを飲み込むと、僕が噛みたくなる」


「……」


「でも、君がいなくなった身体はいらない」


 影の声が、ほんの少しだけ揺れた。


「それは、僕の身体じゃなくて、君の抜け殻だ」


 戒十の喉が詰まる。


 影は続ける。


「僕は、君の代わりに生きたいわけじゃない。君が使わなかったものを、僕だけが持ってる。君が言えなかったことを、僕が持ってる。君が逃げたかった怒りを、僕が持ってる。でも、それを僕に全部押しつけて、君がいなくなったら、また同じだ」


「同じ?」


「切り捨てられる」


 その言葉は、リサの足元に影がないことと重なった。


 クイーン。


 サリサ。


 リサ。


 切り分けられ、片方だけを本物にされ、もう片方が閉じ込められた過去。


 戒十は目を閉じた。


 自分は、影へ身体を渡そうとしていた。


 献身のつもりだった。


 責任のつもりだった。


 でも、それは結局、また影へ全部を押しつけることだった。


 自分は消える。


 影が戦う。


 影が汚れる。


 影が誰かを傷つけたら、怪物になったのは影だと言える。


 そういう逃げ道が、心のどこかにあった。


 戒十は吐き気を覚えた。


「……最低だ」


 影が言う。


「うん」


「否定しないのかよ」


「君もさっき、リサさんに似たこと言った」


「言ったけど」


「だから、僕も言う」


 影は少しだけ顔を傾けた。


「最低。でも、まだやめられる」


 戒十は額を押さえた。


 左手ではなく、右手で。


 左手を使えば、影の熱に飲まれそうだった。


「ごめん」


 影は黙る。


「おまえに、押しつけようとした」


「うん」


「身体を渡すって言って、格好つけて、逃げようとした」


「うん」


「でも、純を助けたいのは本当だ」


「知ってる」


「カオルコを見つけたい」


「僕も」


「殺したいとも思ってる」


「僕も」


 純が小さく息を吸った。


 戒十はすぐに言う。


「でも、殺すことを目的にしない」


 純は目だけで彼を見た。


 戒十は続ける。


「必要なのはカオルコの新鮮な血と影紋。捕まえる。採取する。治療する。殺すためじゃない」


 影が頷いたように揺れる。


「目的は、純の治療に必要な血影紋の入手」


 戒十は少し驚いた。


 影が、手順の言葉を使った。


 シンの訓練の言葉。


 申告と確認の言葉。


 影も覚えていたのだ。


 リサが、静かに息を吐く。


「……共同操作、できるかもしれない」


 戒十が顔を上げる。


「共同操作?」


「肉体の主導権を完全に渡すんじゃない。時間、目的、攻撃対象を限定して、一部の身体操作と影操作を影側へ開く。通常は危ないからやらない。でも、今の会話が本物なら、試す価値はある」


「危険は?」


 純が聞く。


 声が弱い。


 それでも聞く。


 リサは正直に答えた。


「主導権が戻らなくなる可能性。影の欲求が強く出る可能性。純ちゃんへの接触衝動、カオルコへの攻撃衝動、白昼局への敵対衝動。全部ある」


「条件を決めれば、少し下げられますか」


「下げられる。ゼロにはならない」


 純は目を閉じて、短く頷いた。


「説明、続けてください」


 リサは頷き、端末を膝の上に置いた。


「まず時間。最初は短く。三分」


「短い」


 戒十が言う。


「長いくらい。三分あれば暴走には十分」


 リサは真剣だった。


「目的は一つ。純ちゃんの影に残った残香を追跡して、カオルコの現在地、もしくは調整施設を特定する。戦闘は目的にしない」


 影が言う。


「見つけたら?」


「位置情報を取って戻る。追跡を継続したくても戻る」


「カオルコが目の前にいたら」


「捕獲可能なら、シンかあたしの合図後。君たちだけで突っ込まない」


「遅い」


「命令じゃない。条件」


 リサが言った。


「守れないなら、共同操作はしない」


 影は黙った。


 戒十が影を見る。


「守る」


「……守る」


 影が答えた。


 リサは続ける。


「攻撃対象。人間は不可。白昼局員も不可。一般人も不可。カオルコ本人への攻撃も、捕獲のための拘束まで。影紋採取に必要な状態を壊さない。装備、照射具、黒猫型落影、人工離影者の影干渉は可。ただし肉体への致命傷は禁止」


「条件、多い」


 影が不満げに言う。


「多いよ。生きて戻るためだから」


 リサは即答した。


「停止条件。純ちゃんが“戻って”と言ったら戻る。あたしが銀糸で三回引いたら戻る。戒十くん本人が“終了”と言ったら戻る。影側がそれを拒否した場合、強制停止に移る」


「強制停止って?」


 純が聞く。


「影固定剤と銀糸拘束。痛い」


「嫌」


 影が言う。


「じゃあ戻る」


 リサの返しは早かった。


 影は少し黙り、渋々頷いたように揺れた。


 戒十は息を吐いた。


「僕は、何をすればいいですか」


「主導権を手放しすぎないこと」


 リサは言った。


「影に任せる部分を決める。嗅覚、影追跡、反射速度、足元の影操作。逆に、肉体の進行方向、接触判断、停止判断は戒十くんが持つ」


「できるかな」


「できるかじゃなくて、やる。できなかったら三分前に止める」


 シンがいれば、同じように言っただろうと思った。


 その不在が、急に重くなる。


 戒十は軽バンの後方を見る。


 シンはまだ来ていない。


 白昼局を足止めしている。


 戻ると言った。


 その言葉を信じるしかない。


 カウンターの男が運転席から声を飛ばした。


「おい、やるなら早くやれ。港湾の避難倉庫まであと五分だが、後ろに一台ついてる」


「白昼局?」


 リサが聞く。


「たぶんな。ずっとじゃないが、曲がっても距離を詰めてくる」


 リサが舌打ちした。


「追跡しながら追跡されてるとか、最悪」


「笑えませんね」


 戒十が言う。


「笑ってないよ?」


「少し笑ってました」


「癖」


 そんなやり取りをしている場合ではないのに、いつもの軽口が戻った。


 純がほんの少しだけ目を細める。


「……記録」


「あとで!」


 リサが即答する。


「今は共同操作!」


     ◇


 準備は簡易だった。


 車内でできることは限られている。


 リサは戒十の左手首に銀糸を巻き、もう一端を自分の指へ絡めた。さらに、純の欠けた影から伸びる残香の端を、髪の毛ほど細い銀糸で拾い上げる。


 残香は目にはほとんど見えない。


 だが、戒十には匂った。


 白い花。


 古い病室。


 甘く腐る水。


 カオルコの笑い声。


 その中に、かすかに機械油と消毒液の匂いが混ざっていた。


 カオルコの調整施設。


 身体を整える場所。


 血を抜き、影紋を整え、人工離影者としての輪郭を保つ場所。


 それを、残香は覚えている。


「三分」


 リサが言う。


「始めたら戻れないと思わないこと。戻る前提で行く」


 戒十は頷いた。


「純」


 彼はベッド代わりの後部座席へ顔を向ける。


「何」


「怖かったら言って」


「怖いです」


「今も?」


「今も」


「……そうだよな」


「でも、やって」


 純は目を開ける。


 弱いが、はっきりした目だった。


「身体を渡すんじゃなくて、一緒に使って」


 戒十は息を止めた。


 影が足元で揺れる。


「聞いた?」


 戒十が言う。


 影が答える。


「聞いた」


「じゃあ、やるぞ」


「うん」


 リサが銀糸を軽く引く。


「共同操作、開始」


 最初に変わったのは、音だった。


 エンジン音が遠のく。


 代わりに、タイヤの下で流れる道路の影が聞こえた。


 聞こえた、としか言えない。


 アスファルトのひび。


 電柱の影。


 信号機の下で一瞬伸びる車の影。


 歩道橋の影。


 建物と建物の隙間に溜まる昼の薄い暗がり。


 それらが、匂いと音と手触りの間の感覚として、戒十の中へ入ってくる。


 影の戒十が、感覚を開いている。


 強すぎる。


 眩暈がする。


 戒十は反射的に奥へ退こうとした。


 違う。


 退くな。


 自分で決めた。


 身体を渡すのではない。


 一緒に使う。


 戒十は呼吸を整えた。


 肉体はここにある。


 軽バンの後部座席。


 右腕の感覚。


 左手首の銀糸。


 純の浅い呼吸。


 リサの指。


 運転席の男の舌打ち。


 全部を繋ぎ止める。


 そのうえで、影の感覚を少しだけ開く。


 白い花の匂いが濃くなる。


 純の影から立ち上がった残香が、細い糸になって車外へ伸びていた。


 物理的な糸ではない。


 影脈に残った噛み痕の記憶。


 カオルコが触れた場所から、彼女が通った影へ戻ろうとする癖。


 それをたどる。


 戒十の影が車内の床を滑り、後部ドアの下から外へにじみ出た。


 昼の光が痛い。


 薄くなる。


 切れそうになる。


 だが、完全には切れない。


 影の戒十が、道路を走る車の下の暗がりを渡る。


 軽バンの影から、隣のトラックの影へ。


 トラックの影から、信号柱の影へ。


 そこから、高架の下へ。


 白い花の匂いが、湾岸方面へ伸びている。


 戒十はその流れに意識を預けそうになった。


 速い。


 気持ちいい。


 身体の重さがない。


 昼の自分では見えなかったものが見える。


 影だけになれば、どこへでも行けそうだった。


 その瞬間、純の声がした。


「戒十」


 小さい。


 でも、届いた。


 戒十は肉体へ戻る。


「いる」


「呼吸、速いです」


 リサがすぐに言う。


「影側へ寄りすぎ。戻して」


「戻してる」


 戒十は歯を食いしばった。


 影が不満げに揺れる。


「まだ追える」


「追う。でも、戻る」


「遅くなる」


「戻る」


 影が黙る。


 それでも従った。


 感覚が少し安定する。


 白い花の匂いの向こうに、映像のような断片が浮かぶ。


 暗い部屋。


 白い壁。


 半透明のカーテン。


 点滴台。


 影紋測定器。


 水槽のような影固定槽。


 カオルコが膝を抱えている。


 白い服ではない。


 薄い医療用ガウン。


 腕には黒い点滴跡。


 誰かの声。


 父さま。


 調整が必要です。


 お姉さまはまだ来ませんか。


 猫ちゃんは?


 純さんは?


 映像が揺れる。


 戒十の影がさらに奥へ入り込もうとした。


 リサが銀糸を一回引く。


「入りすぎ」


「まだ」


「一回目」


 リサの声は冷静だった。


 戒十は戻る。


 息が乱れる。


 純が手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 触らない。


 それを守っている。


 戒十はその動きだけで、少し自分を取り戻した。


 追跡を続ける。


 残香は湾岸の大型施設群を抜け、使われていない再開発区画へ向かっていた。


 表向きは医療関連倉庫。


 常盤再生医療財団の関連会社の名前が、影の記憶にちらつく。


 そこからさらに、地下へ。


 地下駐車場。


 閉鎖された搬入口。


 古い研究棟。


 花の香りが濃くなる。


 消毒液の匂い。


 鉄。


 保存血。


 黒い水。


 そして、カオルコの声。


 来てくれるの?


 猫ちゃん。


 それは罠だ。


 戒十は思った。


 影も同時に言った。


「罠」


「わかってる」


「でも、そこにいる」


「たぶん」


「行く?」


「今は位置を取るだけ」


 影が不満げに揺れる。


 戒十は強く言った。


「条件」


 影は黙った。


 それから、渋々答えた。


「位置を取るだけ」


 その瞬間、映像がはっきりした。


 赤錆びた搬入口の看板。


 《常盤ライフサイエンス物流センター 湾岸第三保管区》


 だが、影の記憶の中では、その奥に別の名前が貼りついている。


 調整室。


 K-ORC区画。


 人工離影者維持槽。


 カオルコの固有影核調整施設。


 戒十はその文字を読み取ろうとした。


 視界の端で、黒い王冠のような影が揺れる。


 クイーンの気配。


 奥へ来い。


 そう言われた気がした。


 左手が熱くなる。


 影の戒十も反応する。


 もっと深く。


 もっと奥へ。


 カオルコだけじゃない。


 クイーンの残り香がある。


 夜の王の影紋もある。


 行けば、全部わかる。


 身体のことも。


 別々の肉体のことも。


 リサとクイーンのことも。


 純の治療のことも。


 戒十の意識が傾く。


 その瞬間、銀糸が二回、強く引かれた。


「戻って!」


 リサの声。


 続けて、純の声。


「戒十、戻って」


 停止条件。


 純が言ったら戻る。


 戒十は影へ叫ぶ。


「戻る!」


 影が抵抗する。


 あと少し。


 もう少し。


 そこにカオルコがいる。


 純を噛んだ相手がいる。


 血がある。


 影紋がある。


 奪える。


 捕まえられる。


 救える。


「戻るって言った!」


 戒十は肉体側の感覚を強く掴んだ。


 右手。


 座席の布。


 銀糸の痛み。


 純の声。


 リサの息。


 エンジン音。


 軽バンの揺れ。


 影の感覚を引き戻す。


 影の戒十が、最後に奥の施設を睨んだ。


「場所、覚えた」


「戻る」


「覚えた」


「戻る!」


 影が車内へ戻った。


 戒十の身体が大きく揺れ、背中を座席へ打ちつける。


 息が詰まる。


 左手の遮影布の下で爪が伸びかけ、すぐに戻った。


 リサの銀糸が三回目を引く寸前で止まっている。


 純はベッドの上で顔を青くしながら、戒十を見ていた。


「戻った?」


 彼女が聞く。


 戒十は荒い息をしながら頷いた。


「戻った」


 影が足元で薄く震えている。


「僕も」


 戒十は影を見る。


「戻ったな」


「戻った」


 影の声は不満げだった。


 でも、戻っていた。


 リサが大きく息を吐いた。


「三分、ぎりぎり。最後、危なかった」


「ごめん」


「謝るのはあと。場所は?」


 戒十は運転席の背もたれを掴み、体を起こした。


「湾岸第三保管区。常盤ライフサイエンス物流センター。表向きは保管施設。奥に調整室があります。K-ORC区画。人工離影者維持槽。カオルコの固有影核調整施設」


 リサの表情が変わった。


「K-ORC……」


「知ってるんですか」


「夜の王が昔使ってた分類名に似てる。Kはたぶんカオルコ。ORCは……影紋再構成槽の略かもしれない」


 純が弱い声で言う。


「カオルコさんは、そこに?」


「たぶん」


 戒十は答えた。


「罠だと思う。でも、そこに調整施設がある。カオルコの血と影紋を取るなら、そこです」


 リサは端末で地図を開く。


 通信を切っているため、詳細地図は古いものしか表示されない。それでも、湾岸第三保管区の位置は出た。


 運転席のカウンターの男がバックミラー越しに見る。


「そこ、今は閉鎖区域だぞ。再開発が止まって、夜は警備も薄い。昼は白昼局が張りやすい」


「だからカオルコの隠れ家に向いてる」


 リサは低く言った。


「夜の王の施設でもある」


 戒十は足元の影を見た。


 共同操作は終わった。


 だが、影はまだそこにいる。


 身体を奪おうとしていない。


 怒っている。


 行きたがっている。


 でも、戻った。


 戻る条件を守った。


 それが、戒十には信じられないくらい大きかった。


「ありがとう」


 戒十は小さく言った。


 影が揺れる。


「まだ助けてない」


「でも、戻ってきた」


「君も」


「うん」


 純がそれを聞いて、かすかに微笑んだ。


「記録します」


「今は寝てろ」


「それは、命令?」


「お願い」


「なら、少しだけ」


 純は目を閉じた。


 リサがすぐに脈と影の遅延を確認する。


「意識は落としすぎない。短く休ませる」


 戒十は頷いた。


 軽バンは港湾倉庫街へ入り、薄暗い高架下へ滑り込んだ。


 後方についていた車の気配は、いつの間にか消えている。


 振り切ったのか。


 泳がされたのか。


 わからない。


 ただ、次の目的地は決まった。


 常盤ライフサイエンス物流センター、湾岸第三保管区。


 カオルコの調整施設。


 そこに、純を救うための血と影紋がある。


 そこに、夜の王の研究がある。


 そこに、クイーンの匂いもある。


 戒十は左手を握った。


 身体を渡すな。


 影の言葉が、まだ胸の奥に残っている。


 渡すのではない。


 奪わせるのでもない。


 一緒に使う。


 その難しさを、これから何度も思い知るのだろう。


 それでも、今だけは、二人で同じ方向を向いていた。


 純の影を取り戻す。


 そのために、次の夜へ向かう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ