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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第四章 夜の叛逆
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第六節 白昼局への叛逆

 残り七十時間五十二分。


 ホワイトボードの数字は、誰も見ていない間にも減っていた。


 純は診療用ベッドの上で目を閉じている。


 眠ってはいない。


 眠るとカオルコの声が近くなるため、リサは短時間の意識確認を繰り返していた。眠気が強くなりすぎたときだけ、薄い刺激薬を使う。肉体には負担があるが、今は影の欠損が広がるほうが危険だった。


 戒十はベッドから少し離れた床に座っていた。


 左手には遮影布が巻かれている。


 足元の影は濃い。


 だが、昨夜のように勝手に伸びてはいない。


 リサが夜の王から送られた資料を解析し、医師が初期安定化処置の準備を進め、シンが入口で外の気配を見張る。


 臨時診療所は静かだった。


 静かすぎるくらいだった。


 その静けさの中で、純がかすかに眉を寄せた。


「……音」


 リサがすぐに顔を上げる。


「耳鳴り?」


「違います」


 純はゆっくり目を開けた。


「外。車の音。重い車」


 シンが入口へ近づいた。


 古いダンススタジオの扉には、内側から遮影布と簡易影錠がかけられている。窓は塞がれている。普通の車の音は、そこまで拾えないはずだった。


 しかし、純の影は欠けている。


 カオルコの残香が混ざり、普通なら拾わないものまで拾うことがある。


 シンは壁へ手を当てた。


 少し遅れて、戒十の耳にも届いた。


 低いエンジン音。


 一台ではない。


 二台、三台。


 さらに、短く鳴る無線の音。


 硬い靴音。


 装備が触れ合う金属音。


 シンの顔が険しくなった。


「白昼局だ」


 リサが端末を掴む。


「もう?」


「ここを掴まれた」


「早すぎる」


「夜の王が流したか、処分派が監視網を広げていたか。どちらでも同じだ」


 戒十は立ち上がった。


 左手が熱くなる。


 怒りより先に、体が反応する。


 純を連れて逃げる。


 ここへ来させない。


 近づくものを壊す。


 足元の影が膨らんだ。


 シンの声が飛ぶ。


「申告」


「血の匂いはない。外に白昼局。左手が熱い。影声あり。純を連れて逃げたい。白昼局を壊したい。動きたい。でも、まだ動かない」


「よし」


「よしじゃない」


「まだ、がついている」


 シンは入口脇の装備箱を開けた。


 中から、小型の遮影布、煙幕筒に似た影撹乱具、予備の銀糸固定具を取り出す。


 リサは純の影へつないでいた銀糸を調整し、噛み痕の広がりを抑えた。


「純ちゃん、起きて」


「起きてます」


「白昼局が来る。移動するかもしれない」


 純の顔色は悪い。


 唇も青い。


 それでも、彼女は目を開けた。


「目的は?」


 リサは一瞬だけ言葉を詰まらせた。


 だが、もう曖昧にはできない。


「純ちゃんの影脈遮断。戒十くんの拘束。あたしの回収」


「回収?」


 純が聞き返す。


 リサは苦笑しようとして、やめた。


「未登録長命個体。たぶんそういう扱い」


 戒十の影が床で震える。


「ふざけてる」


「ふざけてないんだよ、あの人たちは。だから厄介」


 シンは扉の前に立った。


「裏から抜ける」


「もう囲まれてると思う」


 リサが端末を見る。


 外部カメラの画面は、ノイズでほとんど見えない。


 白昼局の照射妨害。


 だが、断片的に白い車両と、照射具を持った隊員の姿が映る。


 リサが舌打ちした。


「正面に四。裏に二。屋上経路にもいる」


「多いな」


「処分派、本気」


 そのとき、診療所の外から拡声器の声が響いた。


『白昼局危険影害対策審査部です。建物内の全員へ通告します。未登録影害対象者、三倉戒十。残香型影咬感染者、水城純。未登録長命個体、リサ。以上三名の引き渡しを要求します』


 純の顔が強ばった。


 戒十は奥歯を噛む。


 リサは目を細めた。


「三名、ね」


『従わない場合、緊急影害予防措置に基づき強制突入を行います。水城純は感染拡大前に影脈遮断処置へ移行。三倉戒十は危険個体として拘束。リサは未登録長命個体として保護回収します』


「保護回収」


 リサが低く笑った。


 笑い声に怒りが混ざっている。


「ずいぶん丁寧な言葉を選んだね」


 戒十は扉の向こうを睨んだ。


 外の声は続く。


『内部にいるシン、聞こえているな』


 シンの眉がわずかに動いた。


 声が変わった。


 拡声器越しではなく、通信回線を通じて直接入ってきた。


 シンの端末が鳴る。


 彼は少しだけ迷い、通話をつないだ。


 スピーカーにはしない。


 しかし、部屋が静かすぎて、相手の声は漏れ聞こえた。


『久しぶりだな、シン』


 灰田の声だった。


 白昼局実働三課。


 かつて、街中で戒十を拘束しようとした男。


 そして、シンの昔を知る男。


「灰田」


『俺が現場指揮をしている。処分派の鷺沼が後ろにいるが、突入班はまだ俺の指揮下だ』


「なら止めろ」


『止めようとした』


 灰田の声は低かった。


『辰巳室長も、共生調整班も反対している。水城純の強制影脈遮断は時期尚早。三倉戒十の即時拘束も暴走リスクが高い。リサの回収も法的根拠が薄い。そう意見は上がっている』


「なら、なぜ来た」


『命令系統が処分派へ移った。緊急影害予防措置が発令された。管理派は止められなかった』


 シンは黙った。


 灰田は続ける。


『おまえならわかるはずだ。都市を守るには、時に先に切る必要がある』


「その言い方をするな」


『水城純の治療は、白昼局医療施設で行う。おまえが戻るなら、俺が保証を取る』


 リサがシンを見る。


 戒十も息を止めた。


 灰田の声は続く。


『復帰しろ、シン。おまえが戻れば、三倉戒十の即時処分は止められる。水城純の治療も、処分派単独にはさせない。リサについても、長命個体研究班ではなく医療保護扱いに回せるよう交渉する』


 条件。


 また条件だった。


 誰かを助けるために、誰かが自分を差し出す。


 純はベッドの上で、わずかに手を握った。


 シンは端末を耳に当てたまま、表情を変えない。


「俺が戻れば、か」


『そうだ』


「俺が白昼局の命令下に入れば、水城の治療を“考える”と」


『考えるではない。俺が保証する』


「おまえの上に鷺沼がいる」


『だから、おまえが必要だ。現場に戻れ。こっち側で止めろ。外から刃を向けるより、中にいたほうが守れる』


 シンの目が、少しだけ遠くなった。


 かつて、その場所にいたのだろう。


 白昼局。


 昼の秩序。


 都市を守る側。


 その内側で、彼は何かを切り、何かを見捨て、何かを背負ってきた。


 灰田の声は、そこを正確に突いていた。


『おまえが戻れば、必要な犠牲を最小限にできる』


 その言葉で、シンの目が戻った。


「必要な犠牲」


『ああ』


「誰が必要だと決めた」


『シン』


「犠牲を必要と言うな」


 シンの声は低かった。


 部屋の空気が変わる。


「必要だと決めた人間の名前を出せ」


 通信の向こうで、灰田が黙った。


 シンは続ける。


「都市を守る。感染を止める。危険個体を拘束する。言葉をいくつ並べてもいい。だが、誰かを切るなら、必要などという言葉で隠すな。誰が決めた。誰が水城の影を遮断すると決めた。誰が三倉を拘束すると決めた。誰がリサを回収すると決めた。名前を出せ」


『命令だ』


「名前を出せ」


『鷺沼審査官の決裁だ。上位承認は危険影害対策審査部長代理、真壁』


「では、鷺沼と真壁に伝えろ」


 シンは端末を握りしめた。


「俺は戻らない。水城を渡さない。三倉を渡さない。リサを渡さない」


『シン、それは白昼局への反逆だ』


「そうだ」


 リサが、少しだけ目を見開いた。


 シンは言った。


「正式に、そちらとは決裂する」


 灰田の声が低くなる。


『今ならまだ戻れる』


「戻らない」


『おまえは、また名前を書くことになるぞ』


 その言葉に、戒十の影が揺れた。


 長瀬透。


 手帳。


 処分。


 シンの名前を書く癖。


 灰田はそれを知っている。


 シンもわかっていた。


 それでも、彼は答えた。


「書くなら、必要という言葉で消さないために書く」


 通話は切れた。


 数秒後、外の拡声器が再び鳴る。


『交渉不成立。緊急影害予防措置に移行。突入班、準備』


 リサが銀糸を巻き取った。


「シン」


「時間はない」


「うん」


 リサは端末を閉じ、純のベッドへ近づいた。


「純ちゃん、移動するよ」


「はい」


「かなり揺れる。痛みも出る」


「わかりました」


「意識が飛びそうになったら言って」


「たぶん、飛ぶ前に記録できません」


「じゃあ、言葉だけでいい」


 純は頷いた。


 戒十が一歩近づく。


「僕が運ぶ」


 リサが即座に首を振る。


「危ない」


「でも、僕が一番速い」


「純ちゃんの影が君の血に反応する」


「血は出しません」


「そういう問題じゃ」


「影と相談します」


 その言葉に、リサもシンも純も、同時に戒十を見た。


 戒十自身も、少し驚いたような顔をした。


 しかし、すぐに足元の影へ視線を落とす。


 影は濃く、床に貼りついている。


 けれど、今は暴れていない。


 怒っている。


 カオルコを追いたがっている。


 白昼局を壊したがっている。


 純を抱えて逃げたいとも思っている。


 その全部がある。


 だが、初めて、それをただ押さえるのではなく、使えないかと思った。


「聞こえてるだろ」


 戒十は自分の影へ言った。


 リサが息を呑む。


 影が、ゆっくりと持ち上がった。


 人型ではない。


 薄い獣の耳と尾を持つ、黒い少年の影。


 顔はない。


 だが、琥珀色の目が二つ開く。


「純を連れて逃げる」


 戒十は言った。


「でも、触りたいとか、独占したいとか、そういうのを今出したら終わる。僕は純を抱える。おまえは左側の影を押さえろ。噛み痕へ触るな。血に反応したら、先に僕へ知らせろ。白昼局の人間は傷つけない。照射具と足元の影だけ狙う」


 影は黙っていた。


 それから、戒十の声で言った。


「命令するな」


「じゃあ、頼む」


 戒十は即座に言い直した。


「純を助けたい。僕一人じゃ無理だ。手を貸してくれ」


 影が揺れた。


 数秒の沈黙。


 外では突入準備の音が近づいている。


 シンは入口へ向かい、リサは純の影を固定している。


 その中で、戒十と影だけが向き合っていた。


 やがて、影が言った。


「僕も、純を助けたい」


「知ってる」


「僕は、近づきたい」


「知ってる」


「抱きしめたい」


「今は駄目だ」


「知ってる」


 その返事は、少しだけ拗ねているようにも聞こえた。


 けれど、暴走ではなかった。


 戒十は息を吸う。


「じゃあ、やるぞ」


「うん」


 初めて、二つの声が同じ方向を向いた。


 シンが背中越しに言った。


「三倉」


「はい」


「それを忘れるな。協力は、支配ではない」


「わかってます」


「水城」


 シンは続ける。


「怖ければ言え」


 純はベッドの上で頷いた。


「怖いです」


「よし」


「よしなんですか」


「言えた」


 純が少しだけ笑った。


 痛みで顔を歪めながら、それでも笑った。


「みんな、そればっかり」


 リサが遮影布を広げる。


 純の身体を包むのではなく、右側の影の欠けを覆うように斜めにかける。


「戒十くん、純ちゃんの左側から支えて。噛み痕の右側には近づかない。影くんは床側。純ちゃんの影が遅れたら、支える。でも引っ張らない」


 影がリサを見る。


「影くんって何」


「名前ないでしょ」


「ない」


「じゃあ仮」


「嫌」


「今は我慢」


 こんな状況で、そのやり取りが挟まったことに、戒十は少しだけ救われた。


 外で、白昼局の声が響く。


『突入開始』


 扉へ白い光が走った。


 遮影布で塞いでいた隙間が、昼のように明るくなる。


 簡易影錠が軋む。


 シンが影縫刀を抜いた。


 扉の影へ刃を差し込み、白い照射を床で受け止める。


 リサが叫ぶ。


「医療機材は捨てる! 再縫合用の最低限だけ!」


 医師が小型冷蔵容器と測定器をバッグへ詰める。


 リサは夜の王の資料を保存した端末を胸元へ入れた。


 純のノートも忘れず、ベッド脇から取り上げる。


「これは持つ」


 純が小さく言った。


「私の記録」


「持つよ」


 リサはノートを純の胸元へ差し込んだ。


 戒十は純の左側へ膝をつく。


「触る」


 純が頷く。


「はい」


「怖かったら」


「怖いです」


「……」


「でも、運んで」


 戒十は奥歯を噛み、純を抱え上げた。


 体が軽かった。


 軽すぎた。


 その軽さに、怒りが湧きそうになる。


 カオルコ。


 白昼局。


 夜の王。


 全部へ向かう怒り。


 だが、足元の影が先に動いた。


 怒りは後。


 影が言った。


 今は運ぶ。


 戒十は息を吐く。


「わかってる」


 純の右側の影が遅れる。


 欠けた影が床に引っかかるように伸び、身体より半拍遅れてついてくる。


 戒十の影が、そっとその下へ潜った。


 支える。


 触りすぎない。


 引っ張らない。


 まるで壊れかけた薄い布を下から受けるように。


 純が小さく息を呑む。


「影が」


「痛い?」


「少し。でも、引っ張られてない。支えられてる感じ」


 リサが頷く。


「そのまま!」


 扉が破られた。


 白い照射光が臨時診療所へ流れ込む。


 突入班の隊員が三人、盾と照射具を構えて入ってきた。


「対象確認! 三倉戒十、水城純、リサ!」


 シンが前へ出る。


 影縫刀の刃は、隊員の肉体ではなく、照射具の影を縫った。


 白い光が乱れる。


 リサの銀糸が走り、盾の持ち手の影を絡め取る。


 隊員の一人が体勢を崩した。


 誰も切っていない。


 誰も殺していない。


 しかし、通さない。


「シン、右!」


 リサが叫ぶ。


 横の窓を破って、別の隊員が照射具を差し込んだ。


 戒十の影が反応する。


 壊す。


 いや、照射具だけ。


 戒十は影へ言う。


「人じゃない」


「わかってる」


 影が床を走る。


 猫のように低く、速く。


 白昼局員の足元をかすめ、照射具の影へ爪を立てた。


 現実の照射具が火花を散らす。


 隊員が驚いて手を離す。


 影はそのまま戻り、純の影の右側を支え直した。


 戒十は純を抱えたまま、部屋の奥へ向かう。


 そこには非常用の小さな裏扉がある。


 ダンススタジオ時代のスタッフ用通路。


 シンが事前に確認していた。


 ただし、そこにも白昼局がいる可能性が高い。


 リサが走りながら言う。


「裏口、影錠は?」


「古い。二秒で開ける」


 戒十が言う。


「僕が?」


「君じゃなくて影くん!」


 影が床から伸び、裏扉の下へ潜る。


「影くんじゃない」


「今それ言ってる場合!?」


「嫌なものは嫌」


「じゃあ、あとで名前会議!」


 影が、ほんの少し揺れた。


 拗ねているのか、笑ったのか、戒十にはわからない。


 しかし、扉の影錠が外れた。


 金属音。


 裏扉が開く。


 狭い通路の向こうに、非常階段へ続く暗がりが見えた。


 純が小さく言う。


「暗い」


「完全な暗闇は駄目」


 リサがすぐに携帯ライトを出す。


 ただし強くは照らさない。


 弱い琥珀色。


 単一の光。


「これを持って先に行く。戒十くん、光から外れないで。影が増えないように」


「はい」


 シンが入口側で隊員を押さえながら叫ぶ。


「先へ行け!」


「シンさんは?」


「後から行く」


「それ、だいたい来ないやつです」


「来る」


 シンは短く言った。


「今回は来る。全部背負うなと言われた」


 純が、戒十の腕の中で目を開けた。


 シンを見る。


「来てください」


「行く」


 その返事は、短く、確かだった。


 リサが少しだけ笑う。


「言質取ったからね」


「早く行け」


 戒十は純を抱え、裏通路へ踏み出した。


 影が純の欠けた影を支えたままついてくる。


 昼の戒十が肉体を運ぶ。


 影の戒十が影を支える。


 奪い合いではない。


 支配でもない。


 初めて、同じ目的のために分担している。


 後ろで、白昼局の声が飛ぶ。


「逃走! 対象が裏口へ!」


「照射具を回せ!」


「水城純の影欠損拡大前に確保しろ!」


 その言葉に、戒十の怒りが再び跳ねる。


 純を物のように。


 感染源のように。


 遮断対象のように。


 しかし、影が先に言った。


 今は逃げる。


「わかってる」


 戒十は呟いた。


 純がその声を聞いた。


「影と話してる?」


「うん」


「協力できてる?」


「たぶん」


「たぶん?」


「今は、できてる」


 純は小さく頷いた。


「記録したい」


「今?」


「あとで」


「絶対あとで」


 その会話の間にも、通路の後方でリサの銀糸が光り、シンの影縫刀が白い照射を押し返している。


 彼らは、もう白昼局の協力者ではなかった。


 管理下に戻る者でも、回収される者でも、必要な犠牲を受け入れる者でもない。


 正式に、昼の秩序へ背を向けた。


 非常階段の扉を抜けると、外の空気が流れ込んだ。


 曇った午後。


 太陽は見えない。


 それでも昼の明るさはある。


 戒十の影が薄くなり、純の欠けた影が痛むように震えた。


 リサが遮影布を広げ、三人の上へかける。


「ここからは走るよ。車まで二十メートル。白昼局の包囲が閉じる前に出る」


「車?」


「灰色の軽バン。カウンターのおじさんが回してくれてる」


「名前、まだ聞いてないです」


「それもあとで!」


 リサが先に走る。


 戒十は純を抱え直した。


 左手ではなく、右腕で支える。


 影は床ではなく、昼の薄い影の中で必死に純の欠けた右側を支えている。


 痛い。


 影の声がした。


 戒十は返す。


「僕も」


「でも、落とさない」


「落とさない」


 二人の声が重なる。


 その瞬間、白昼局の隊員が階段下へ回り込んだ。


 照射具が向けられる。


 リサが銀糸を放つより早く、戒十の影が動いた。


 照射具の影へ、爪を立てる。


 機材が火花を散らす。


 隊員は倒れない。


 ただ、光だけが消える。


 戒十はその横を駆け抜けた。


 純の影が遅れる。


 影の戒十が支える。


 リサが遮影布を押さえる。


 遠くでシンの声が響く。


「行け!」


 白昼局の怒号。


 照射具の破裂音。


 銀糸の鳴る音。


 非常階段の金属音。


 全部を背にして、戒十は走った。


 純を抱えて。


 影とともに。


 白昼局が守ると言った昼から、逃げるために。


 純を遮断させないために。


 誰かを必要な犠牲にしないために。


 灰色の軽バンのドアが開く。


 カウンターの男が運転席から怒鳴った。


「早く乗れ!」


 リサが後部座席へ飛び込む。


 戒十が純を抱えたまま乗り込む。


 影が最後に滑り込む。


 遮影布が閉じる。


 外から白い光が車体を叩いた。


 カウンターの男がアクセルを踏む。


 軽バンは細い路地を、悲鳴のようなタイヤ音を立てて走り出した。


 後方で、シンの姿が一瞬見えた。


 白昼局の隊員たちの前に立ち、影縫刀を構えている。


 一人で止めるためではない。


 逃げる時間を作るために。


 リサが窓の隙間から叫んだ。


「シン、来るって言ったからね!」


 遠ざかる白い光の中で、シンが一度だけこちらを見た。


 そして、わずかに頷いた。


 車が角を曲がる。


 臨時診療所は見えなくなった。


 純は戒十の腕の中で浅く息をしている。


 意識はある。


 だが、噛み痕の冷たさは強くなっている。


 戒十は彼女を抱える腕に力を込めすぎないようにした。


「水城」


「……はい」


「逃げた」


「うん」


「白昼局から」


「うん」


「影と、協力した」


 純は薄く目を開けた。


 苦しそうなのに、少しだけ笑った。


「記録、しておいて」


「今?」


「あとで」


「わかった」


 戒十は足元を見た。


 影は薄い。


 昼の中では、夜ほどはっきりしない。


 それでも、そこにいる。


 純の欠けた影を支えたまま、息を切らしているように揺れている。


「助かった」


 戒十は小さく言った。


 影が返す。


「まだ」


「わかってる」


 まだ助かっていない。


 純の影は欠けている。


 カオルコは見つかっていない。


 夜の王は待っている。


 白昼局とは決裂した。


 残り時間は減り続けている。


 それでも、今この瞬間だけは、純は影脈を遮断されていない。


 戒十は危険個体として拘束されていない。


 リサは回収されていない。


 そして、シンは戻らないと決めた。


 それは逃走だった。


 同時に、初めての叛逆だった。

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