第六節 白昼局への叛逆
残り七十時間五十二分。
ホワイトボードの数字は、誰も見ていない間にも減っていた。
純は診療用ベッドの上で目を閉じている。
眠ってはいない。
眠るとカオルコの声が近くなるため、リサは短時間の意識確認を繰り返していた。眠気が強くなりすぎたときだけ、薄い刺激薬を使う。肉体には負担があるが、今は影の欠損が広がるほうが危険だった。
戒十はベッドから少し離れた床に座っていた。
左手には遮影布が巻かれている。
足元の影は濃い。
だが、昨夜のように勝手に伸びてはいない。
リサが夜の王から送られた資料を解析し、医師が初期安定化処置の準備を進め、シンが入口で外の気配を見張る。
臨時診療所は静かだった。
静かすぎるくらいだった。
その静けさの中で、純がかすかに眉を寄せた。
「……音」
リサがすぐに顔を上げる。
「耳鳴り?」
「違います」
純はゆっくり目を開けた。
「外。車の音。重い車」
シンが入口へ近づいた。
古いダンススタジオの扉には、内側から遮影布と簡易影錠がかけられている。窓は塞がれている。普通の車の音は、そこまで拾えないはずだった。
しかし、純の影は欠けている。
カオルコの残香が混ざり、普通なら拾わないものまで拾うことがある。
シンは壁へ手を当てた。
少し遅れて、戒十の耳にも届いた。
低いエンジン音。
一台ではない。
二台、三台。
さらに、短く鳴る無線の音。
硬い靴音。
装備が触れ合う金属音。
シンの顔が険しくなった。
「白昼局だ」
リサが端末を掴む。
「もう?」
「ここを掴まれた」
「早すぎる」
「夜の王が流したか、処分派が監視網を広げていたか。どちらでも同じだ」
戒十は立ち上がった。
左手が熱くなる。
怒りより先に、体が反応する。
純を連れて逃げる。
ここへ来させない。
近づくものを壊す。
足元の影が膨らんだ。
シンの声が飛ぶ。
「申告」
「血の匂いはない。外に白昼局。左手が熱い。影声あり。純を連れて逃げたい。白昼局を壊したい。動きたい。でも、まだ動かない」
「よし」
「よしじゃない」
「まだ、がついている」
シンは入口脇の装備箱を開けた。
中から、小型の遮影布、煙幕筒に似た影撹乱具、予備の銀糸固定具を取り出す。
リサは純の影へつないでいた銀糸を調整し、噛み痕の広がりを抑えた。
「純ちゃん、起きて」
「起きてます」
「白昼局が来る。移動するかもしれない」
純の顔色は悪い。
唇も青い。
それでも、彼女は目を開けた。
「目的は?」
リサは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
だが、もう曖昧にはできない。
「純ちゃんの影脈遮断。戒十くんの拘束。あたしの回収」
「回収?」
純が聞き返す。
リサは苦笑しようとして、やめた。
「未登録長命個体。たぶんそういう扱い」
戒十の影が床で震える。
「ふざけてる」
「ふざけてないんだよ、あの人たちは。だから厄介」
シンは扉の前に立った。
「裏から抜ける」
「もう囲まれてると思う」
リサが端末を見る。
外部カメラの画面は、ノイズでほとんど見えない。
白昼局の照射妨害。
だが、断片的に白い車両と、照射具を持った隊員の姿が映る。
リサが舌打ちした。
「正面に四。裏に二。屋上経路にもいる」
「多いな」
「処分派、本気」
そのとき、診療所の外から拡声器の声が響いた。
『白昼局危険影害対策審査部です。建物内の全員へ通告します。未登録影害対象者、三倉戒十。残香型影咬感染者、水城純。未登録長命個体、リサ。以上三名の引き渡しを要求します』
純の顔が強ばった。
戒十は奥歯を噛む。
リサは目を細めた。
「三名、ね」
『従わない場合、緊急影害予防措置に基づき強制突入を行います。水城純は感染拡大前に影脈遮断処置へ移行。三倉戒十は危険個体として拘束。リサは未登録長命個体として保護回収します』
「保護回収」
リサが低く笑った。
笑い声に怒りが混ざっている。
「ずいぶん丁寧な言葉を選んだね」
戒十は扉の向こうを睨んだ。
外の声は続く。
『内部にいるシン、聞こえているな』
シンの眉がわずかに動いた。
声が変わった。
拡声器越しではなく、通信回線を通じて直接入ってきた。
シンの端末が鳴る。
彼は少しだけ迷い、通話をつないだ。
スピーカーにはしない。
しかし、部屋が静かすぎて、相手の声は漏れ聞こえた。
『久しぶりだな、シン』
灰田の声だった。
白昼局実働三課。
かつて、街中で戒十を拘束しようとした男。
そして、シンの昔を知る男。
「灰田」
『俺が現場指揮をしている。処分派の鷺沼が後ろにいるが、突入班はまだ俺の指揮下だ』
「なら止めろ」
『止めようとした』
灰田の声は低かった。
『辰巳室長も、共生調整班も反対している。水城純の強制影脈遮断は時期尚早。三倉戒十の即時拘束も暴走リスクが高い。リサの回収も法的根拠が薄い。そう意見は上がっている』
「なら、なぜ来た」
『命令系統が処分派へ移った。緊急影害予防措置が発令された。管理派は止められなかった』
シンは黙った。
灰田は続ける。
『おまえならわかるはずだ。都市を守るには、時に先に切る必要がある』
「その言い方をするな」
『水城純の治療は、白昼局医療施設で行う。おまえが戻るなら、俺が保証を取る』
リサがシンを見る。
戒十も息を止めた。
灰田の声は続く。
『復帰しろ、シン。おまえが戻れば、三倉戒十の即時処分は止められる。水城純の治療も、処分派単独にはさせない。リサについても、長命個体研究班ではなく医療保護扱いに回せるよう交渉する』
条件。
また条件だった。
誰かを助けるために、誰かが自分を差し出す。
純はベッドの上で、わずかに手を握った。
シンは端末を耳に当てたまま、表情を変えない。
「俺が戻れば、か」
『そうだ』
「俺が白昼局の命令下に入れば、水城の治療を“考える”と」
『考えるではない。俺が保証する』
「おまえの上に鷺沼がいる」
『だから、おまえが必要だ。現場に戻れ。こっち側で止めろ。外から刃を向けるより、中にいたほうが守れる』
シンの目が、少しだけ遠くなった。
かつて、その場所にいたのだろう。
白昼局。
昼の秩序。
都市を守る側。
その内側で、彼は何かを切り、何かを見捨て、何かを背負ってきた。
灰田の声は、そこを正確に突いていた。
『おまえが戻れば、必要な犠牲を最小限にできる』
その言葉で、シンの目が戻った。
「必要な犠牲」
『ああ』
「誰が必要だと決めた」
『シン』
「犠牲を必要と言うな」
シンの声は低かった。
部屋の空気が変わる。
「必要だと決めた人間の名前を出せ」
通信の向こうで、灰田が黙った。
シンは続ける。
「都市を守る。感染を止める。危険個体を拘束する。言葉をいくつ並べてもいい。だが、誰かを切るなら、必要などという言葉で隠すな。誰が決めた。誰が水城の影を遮断すると決めた。誰が三倉を拘束すると決めた。誰がリサを回収すると決めた。名前を出せ」
『命令だ』
「名前を出せ」
『鷺沼審査官の決裁だ。上位承認は危険影害対策審査部長代理、真壁』
「では、鷺沼と真壁に伝えろ」
シンは端末を握りしめた。
「俺は戻らない。水城を渡さない。三倉を渡さない。リサを渡さない」
『シン、それは白昼局への反逆だ』
「そうだ」
リサが、少しだけ目を見開いた。
シンは言った。
「正式に、そちらとは決裂する」
灰田の声が低くなる。
『今ならまだ戻れる』
「戻らない」
『おまえは、また名前を書くことになるぞ』
その言葉に、戒十の影が揺れた。
長瀬透。
手帳。
処分。
シンの名前を書く癖。
灰田はそれを知っている。
シンもわかっていた。
それでも、彼は答えた。
「書くなら、必要という言葉で消さないために書く」
通話は切れた。
数秒後、外の拡声器が再び鳴る。
『交渉不成立。緊急影害予防措置に移行。突入班、準備』
リサが銀糸を巻き取った。
「シン」
「時間はない」
「うん」
リサは端末を閉じ、純のベッドへ近づいた。
「純ちゃん、移動するよ」
「はい」
「かなり揺れる。痛みも出る」
「わかりました」
「意識が飛びそうになったら言って」
「たぶん、飛ぶ前に記録できません」
「じゃあ、言葉だけでいい」
純は頷いた。
戒十が一歩近づく。
「僕が運ぶ」
リサが即座に首を振る。
「危ない」
「でも、僕が一番速い」
「純ちゃんの影が君の血に反応する」
「血は出しません」
「そういう問題じゃ」
「影と相談します」
その言葉に、リサもシンも純も、同時に戒十を見た。
戒十自身も、少し驚いたような顔をした。
しかし、すぐに足元の影へ視線を落とす。
影は濃く、床に貼りついている。
けれど、今は暴れていない。
怒っている。
カオルコを追いたがっている。
白昼局を壊したがっている。
純を抱えて逃げたいとも思っている。
その全部がある。
だが、初めて、それをただ押さえるのではなく、使えないかと思った。
「聞こえてるだろ」
戒十は自分の影へ言った。
リサが息を呑む。
影が、ゆっくりと持ち上がった。
人型ではない。
薄い獣の耳と尾を持つ、黒い少年の影。
顔はない。
だが、琥珀色の目が二つ開く。
「純を連れて逃げる」
戒十は言った。
「でも、触りたいとか、独占したいとか、そういうのを今出したら終わる。僕は純を抱える。おまえは左側の影を押さえろ。噛み痕へ触るな。血に反応したら、先に僕へ知らせろ。白昼局の人間は傷つけない。照射具と足元の影だけ狙う」
影は黙っていた。
それから、戒十の声で言った。
「命令するな」
「じゃあ、頼む」
戒十は即座に言い直した。
「純を助けたい。僕一人じゃ無理だ。手を貸してくれ」
影が揺れた。
数秒の沈黙。
外では突入準備の音が近づいている。
シンは入口へ向かい、リサは純の影を固定している。
その中で、戒十と影だけが向き合っていた。
やがて、影が言った。
「僕も、純を助けたい」
「知ってる」
「僕は、近づきたい」
「知ってる」
「抱きしめたい」
「今は駄目だ」
「知ってる」
その返事は、少しだけ拗ねているようにも聞こえた。
けれど、暴走ではなかった。
戒十は息を吸う。
「じゃあ、やるぞ」
「うん」
初めて、二つの声が同じ方向を向いた。
シンが背中越しに言った。
「三倉」
「はい」
「それを忘れるな。協力は、支配ではない」
「わかってます」
「水城」
シンは続ける。
「怖ければ言え」
純はベッドの上で頷いた。
「怖いです」
「よし」
「よしなんですか」
「言えた」
純が少しだけ笑った。
痛みで顔を歪めながら、それでも笑った。
「みんな、そればっかり」
リサが遮影布を広げる。
純の身体を包むのではなく、右側の影の欠けを覆うように斜めにかける。
「戒十くん、純ちゃんの左側から支えて。噛み痕の右側には近づかない。影くんは床側。純ちゃんの影が遅れたら、支える。でも引っ張らない」
影がリサを見る。
「影くんって何」
「名前ないでしょ」
「ない」
「じゃあ仮」
「嫌」
「今は我慢」
こんな状況で、そのやり取りが挟まったことに、戒十は少しだけ救われた。
外で、白昼局の声が響く。
『突入開始』
扉へ白い光が走った。
遮影布で塞いでいた隙間が、昼のように明るくなる。
簡易影錠が軋む。
シンが影縫刀を抜いた。
扉の影へ刃を差し込み、白い照射を床で受け止める。
リサが叫ぶ。
「医療機材は捨てる! 再縫合用の最低限だけ!」
医師が小型冷蔵容器と測定器をバッグへ詰める。
リサは夜の王の資料を保存した端末を胸元へ入れた。
純のノートも忘れず、ベッド脇から取り上げる。
「これは持つ」
純が小さく言った。
「私の記録」
「持つよ」
リサはノートを純の胸元へ差し込んだ。
戒十は純の左側へ膝をつく。
「触る」
純が頷く。
「はい」
「怖かったら」
「怖いです」
「……」
「でも、運んで」
戒十は奥歯を噛み、純を抱え上げた。
体が軽かった。
軽すぎた。
その軽さに、怒りが湧きそうになる。
カオルコ。
白昼局。
夜の王。
全部へ向かう怒り。
だが、足元の影が先に動いた。
怒りは後。
影が言った。
今は運ぶ。
戒十は息を吐く。
「わかってる」
純の右側の影が遅れる。
欠けた影が床に引っかかるように伸び、身体より半拍遅れてついてくる。
戒十の影が、そっとその下へ潜った。
支える。
触りすぎない。
引っ張らない。
まるで壊れかけた薄い布を下から受けるように。
純が小さく息を呑む。
「影が」
「痛い?」
「少し。でも、引っ張られてない。支えられてる感じ」
リサが頷く。
「そのまま!」
扉が破られた。
白い照射光が臨時診療所へ流れ込む。
突入班の隊員が三人、盾と照射具を構えて入ってきた。
「対象確認! 三倉戒十、水城純、リサ!」
シンが前へ出る。
影縫刀の刃は、隊員の肉体ではなく、照射具の影を縫った。
白い光が乱れる。
リサの銀糸が走り、盾の持ち手の影を絡め取る。
隊員の一人が体勢を崩した。
誰も切っていない。
誰も殺していない。
しかし、通さない。
「シン、右!」
リサが叫ぶ。
横の窓を破って、別の隊員が照射具を差し込んだ。
戒十の影が反応する。
壊す。
いや、照射具だけ。
戒十は影へ言う。
「人じゃない」
「わかってる」
影が床を走る。
猫のように低く、速く。
白昼局員の足元をかすめ、照射具の影へ爪を立てた。
現実の照射具が火花を散らす。
隊員が驚いて手を離す。
影はそのまま戻り、純の影の右側を支え直した。
戒十は純を抱えたまま、部屋の奥へ向かう。
そこには非常用の小さな裏扉がある。
ダンススタジオ時代のスタッフ用通路。
シンが事前に確認していた。
ただし、そこにも白昼局がいる可能性が高い。
リサが走りながら言う。
「裏口、影錠は?」
「古い。二秒で開ける」
戒十が言う。
「僕が?」
「君じゃなくて影くん!」
影が床から伸び、裏扉の下へ潜る。
「影くんじゃない」
「今それ言ってる場合!?」
「嫌なものは嫌」
「じゃあ、あとで名前会議!」
影が、ほんの少し揺れた。
拗ねているのか、笑ったのか、戒十にはわからない。
しかし、扉の影錠が外れた。
金属音。
裏扉が開く。
狭い通路の向こうに、非常階段へ続く暗がりが見えた。
純が小さく言う。
「暗い」
「完全な暗闇は駄目」
リサがすぐに携帯ライトを出す。
ただし強くは照らさない。
弱い琥珀色。
単一の光。
「これを持って先に行く。戒十くん、光から外れないで。影が増えないように」
「はい」
シンが入口側で隊員を押さえながら叫ぶ。
「先へ行け!」
「シンさんは?」
「後から行く」
「それ、だいたい来ないやつです」
「来る」
シンは短く言った。
「今回は来る。全部背負うなと言われた」
純が、戒十の腕の中で目を開けた。
シンを見る。
「来てください」
「行く」
その返事は、短く、確かだった。
リサが少しだけ笑う。
「言質取ったからね」
「早く行け」
戒十は純を抱え、裏通路へ踏み出した。
影が純の欠けた影を支えたままついてくる。
昼の戒十が肉体を運ぶ。
影の戒十が影を支える。
奪い合いではない。
支配でもない。
初めて、同じ目的のために分担している。
後ろで、白昼局の声が飛ぶ。
「逃走! 対象が裏口へ!」
「照射具を回せ!」
「水城純の影欠損拡大前に確保しろ!」
その言葉に、戒十の怒りが再び跳ねる。
純を物のように。
感染源のように。
遮断対象のように。
しかし、影が先に言った。
今は逃げる。
「わかってる」
戒十は呟いた。
純がその声を聞いた。
「影と話してる?」
「うん」
「協力できてる?」
「たぶん」
「たぶん?」
「今は、できてる」
純は小さく頷いた。
「記録したい」
「今?」
「あとで」
「絶対あとで」
その会話の間にも、通路の後方でリサの銀糸が光り、シンの影縫刀が白い照射を押し返している。
彼らは、もう白昼局の協力者ではなかった。
管理下に戻る者でも、回収される者でも、必要な犠牲を受け入れる者でもない。
正式に、昼の秩序へ背を向けた。
非常階段の扉を抜けると、外の空気が流れ込んだ。
曇った午後。
太陽は見えない。
それでも昼の明るさはある。
戒十の影が薄くなり、純の欠けた影が痛むように震えた。
リサが遮影布を広げ、三人の上へかける。
「ここからは走るよ。車まで二十メートル。白昼局の包囲が閉じる前に出る」
「車?」
「灰色の軽バン。カウンターのおじさんが回してくれてる」
「名前、まだ聞いてないです」
「それもあとで!」
リサが先に走る。
戒十は純を抱え直した。
左手ではなく、右腕で支える。
影は床ではなく、昼の薄い影の中で必死に純の欠けた右側を支えている。
痛い。
影の声がした。
戒十は返す。
「僕も」
「でも、落とさない」
「落とさない」
二人の声が重なる。
その瞬間、白昼局の隊員が階段下へ回り込んだ。
照射具が向けられる。
リサが銀糸を放つより早く、戒十の影が動いた。
照射具の影へ、爪を立てる。
機材が火花を散らす。
隊員は倒れない。
ただ、光だけが消える。
戒十はその横を駆け抜けた。
純の影が遅れる。
影の戒十が支える。
リサが遮影布を押さえる。
遠くでシンの声が響く。
「行け!」
白昼局の怒号。
照射具の破裂音。
銀糸の鳴る音。
非常階段の金属音。
全部を背にして、戒十は走った。
純を抱えて。
影とともに。
白昼局が守ると言った昼から、逃げるために。
純を遮断させないために。
誰かを必要な犠牲にしないために。
灰色の軽バンのドアが開く。
カウンターの男が運転席から怒鳴った。
「早く乗れ!」
リサが後部座席へ飛び込む。
戒十が純を抱えたまま乗り込む。
影が最後に滑り込む。
遮影布が閉じる。
外から白い光が車体を叩いた。
カウンターの男がアクセルを踏む。
軽バンは細い路地を、悲鳴のようなタイヤ音を立てて走り出した。
後方で、シンの姿が一瞬見えた。
白昼局の隊員たちの前に立ち、影縫刀を構えている。
一人で止めるためではない。
逃げる時間を作るために。
リサが窓の隙間から叫んだ。
「シン、来るって言ったからね!」
遠ざかる白い光の中で、シンが一度だけこちらを見た。
そして、わずかに頷いた。
車が角を曲がる。
臨時診療所は見えなくなった。
純は戒十の腕の中で浅く息をしている。
意識はある。
だが、噛み痕の冷たさは強くなっている。
戒十は彼女を抱える腕に力を込めすぎないようにした。
「水城」
「……はい」
「逃げた」
「うん」
「白昼局から」
「うん」
「影と、協力した」
純は薄く目を開けた。
苦しそうなのに、少しだけ笑った。
「記録、しておいて」
「今?」
「あとで」
「わかった」
戒十は足元を見た。
影は薄い。
昼の中では、夜ほどはっきりしない。
それでも、そこにいる。
純の欠けた影を支えたまま、息を切らしているように揺れている。
「助かった」
戒十は小さく言った。
影が返す。
「まだ」
「わかってる」
まだ助かっていない。
純の影は欠けている。
カオルコは見つかっていない。
夜の王は待っている。
白昼局とは決裂した。
残り時間は減り続けている。
それでも、今この瞬間だけは、純は影脈を遮断されていない。
戒十は危険個体として拘束されていない。
リサは回収されていない。
そして、シンは戻らないと決めた。
それは逃走だった。
同時に、初めての叛逆だった。




