第五節 影のない女
夜の王から送られてきた資料は、本物だった。
少なくとも、リサにはそう見えた。
臨時診療所の古いテーブルの上に端末を置き、彼女は受信したファイルを何度も読み返している。画面には、残香型影咬に対する初期安定化処置、影脈反応の抑制方法、単一光源下での一時固定手順、拒絶反応が出た場合の光量調整値が並んでいた。
文章は簡潔だった。
無駄がない。
患者の苦痛を説明する言葉さえ、正確で、冷たい。
だからこそ、役に立つ。
リサはその事実に、何度も傷ついているようだった。
彼女は端末の画面を見ながら、時々、唇を噛む。
必要な情報がそこにある。
だが、それは夜の王の手から来たものだ。
純の命を救うために、彼の知識を使わなければならない。
その現実が、臨時診療所の空気を重くしていた。
医療用ライトは一つだけ灯っている。
床には、それぞれの影が一本ずつ落ちている。
純の影は右側が欠け、少し遅れて揺れる。
戒十の影は濃く、時々、本人よりわずかに先に呼吸する。
シンの影は、入口近くで細く、鋭い。
そしてリサの足元には、ほとんど何もない。
最初にそれに気づいたのは、純だった。
以前から、違和感はあった。
VIOLET DRAGONの地下で初めて会ったときから、リサは光の中でも影が薄かった。強いライトの下に立っても、彼女の足元には申し訳程度の黒しか落ちなかった。
けれど、そのときは、そういう種族なのかもしれないと思っていた。
離影者という存在を知ったばかりだったし、血を飲む人も、夜目が利きすぎる人も、影に刃をつなぐシンもいた。だから、リサの影が薄いことも、そういうものなのだと飲み込んでいた。
今は違う。
医療用ライトは一つ。
弱い琥珀色の単一光源。
この光の下では、影は一本になる。リサ自身が何度も説明してくれたことだった。
純の欠けた影でさえ、痛々しい形で床へ伸びている。
戒十の影は濃く、呼吸するように揺れている。
シンの影は、入口近くで細く、鋭い。
なのに、リサの足元だけが、ほとんど空白だった。
靴底のすぐ下に貼りついた、薄い汚れのような黒。
それだけ。
純は、ベッドの上からその足元を見つめた。
見てはいけないものを見てしまった気がした。
けれど、もう見なかったことにはできない。
「リサさん」
声をかけると、リサは端末から顔を上げた。
「何? 寒気、強くなった?」
「いえ」
「耳鳴り?」
「違います」
「噛み痕が広がった?」
「違います」
リサは少しだけ息を吐いた。
「じゃあ、何?」
純は一度、迷った。
けれど、夜の王からの電話を聞いたあとで、もう曖昧なままにはできないと思った。
「リサさんの影、どうしてないんですか」
部屋の空気が止まった。
リサの表情から、いつもの軽さが消えた。
シンが入口脇でわずかに目を伏せる。
戒十も、ゆっくりリサの足元を見た。
それまで怒りや純への心配で見落としていたのだろう。
単一光源の下で、リサの足元だけが明らかに足りない。
戒十の眉が寄る。
「本当だ」
リサは笑おうとした。
失敗した。
「今さら気づくの、遅いなあ」
「茶化さないでください」
戒十の声は低かった。
リサは端末を閉じた。
画面が暗くなる。
その黒い画面にも、彼女の影は映らなかった。
「……うん。茶化せないね」
リサは壁際の椅子へ腰を下ろした。
疲れた人の座り方だった。
若く見える顔と、まったく噛み合わない重さがそこにあった。
「夜の王が言ったこと、だいたい本当」
「“だいたい”?」
戒十が聞く。
「言い方は全部気に入らない。肉体側の継続体とか、影側の継続体とか、不完全とか。あいつの言葉は、いつも人間を分類箱に入れる。でも、出来事としては本当」
リサは自分の足元を見た。
「私は、もともとサリサという女の子だった」
その名前を口にするとき、リサの声は少しだけ変わった。
自分の名前ではない。
でも、他人の名前でもない。
そんな響きだった。
「ずっと昔。もう、百年以上前。私は死にかけていた。病気だったのか、事故だったのか、影脈の異常だったのか、当時の記憶はところどころ曖昧。たぶん全部が重なってた。肉体も影も、もう持たなかった」
純は黙って聞いていた。
噛み痕が冷たい。
でも、今はその冷たさより、リサの声が気になった。
「久世玄理は、私を救おうとした」
リサは口元だけで笑った。
「救おうとした、って言うのが嫌なんだけどね。でも、たぶん本人は本気だった。死なせたくなかった。なくしたくなかった。だから、肉体と影を分けた」
戒十の影が揺れた。
リサは続ける。
「肉体側に残った人格が、私。リサ。影身として分離された人格が、クイーン」
「クイーンは、あなたの影だったんですか」
純が聞いた。
リサは少しだけ考え、首を横に振った。
「“だった”って言い切るのは、たぶん違う。あの子は、私の影身だった。でも、分けられてから百年以上、あの子はあの子として存在している。怒って、恨んで、欲しがって、生き残ろうとしている。ただの影じゃない」
「でも、閉じ込めた」
戒十の声だった。
静かだった。
静かすぎて、怒りが遅れて伝わってくる声。
リサは答えなかった。
戒十は椅子から立ち上がった。
左手の遮影布が揺れる。
リサの銀糸が反射的に動こうとして、彼女自身が止めた。
戒十はリサを睨んでいる。
「僕には影と話せと言った」
リサの顔が痛む。
「うん」
「どれか一つだけを本物にするなって言った」
「うん」
「怖いって思っていい、嬉しいって思っていい、でもどれか一つだけを本物にするなって。そう言った」
「言った」
「自分はどうなんですか」
戒十の声が荒くなる。
「自分は百年以上、閉じ込めて逃げているくせに」
リサは言い返さなかった。
シンが小さく戒十の名を呼ぶ。
「三倉」
「止めないでください」
「暴走しかけている」
「わかってます!」
戒十は叫んだ。
すぐに自分で息を吸う。
左手を押さえる。
「血の匂いはない。左手が熱い。影声はある。リサさんを責めたい。シンさんに止められたくない。カオルコを殺したい。純を助けたい。全部あります。でも、動きません」
シンはそれ以上止めなかった。
戒十はリサへ向き直る。
「リサさんは、僕に自分の影を見ろって言った。話せって言った。止めるな、切り捨てるなって。それで、自分は?」
リサは膝の上で手を握った。
その手は震えていた。
「逃げてる」
彼女は言った。
反論ではなく、告白だった。
「ずっと逃げてる。クイーンが私だったと認めたら、私が消える気がする。今のリサが、サリサへ戻すための仮の肉体みたいに扱われる気がする。夜の王が言う“再統合”に飲まれたら、私はもう私じゃなくなる気がする」
「それ、クイーンも同じなんじゃないですか」
戒十の言葉に、リサは目を閉じた。
答えられない。
答えは、きっともうわかっている。
クイーンもまた、影だったとだけ言われることを恐れている。
サリサへ戻すための素材にされることを憎んでいる。
肉体を持つリサだけが本物のように扱われることに、百年以上怒り続けている。
リサは小さく言った。
「そうだと思う」
「思う、じゃなくて」
「わかってる」
リサの声が震えた。
「わかってるよ。あの子が怒る理由も、私を憎む理由も、肉体を欲しがる理由も。私はそれを知ってる。知ってるから見られない」
戒十は唇を噛んだ。
怒りは消えない。
だが、リサの言葉がただの言い訳ではないこともわかってしまう。
わかってしまうことが、さらに腹立たしかった。
「じゃあ、僕に言う資格ないじゃないですか」
「ない」
リサは即答した。
戒十のほうが言葉に詰まる。
「資格なんて、ない。私は偉そうに言える立場じゃない。自分の影を閉じ込めて、自分の怖さを君に隠して、それでも君には向き合えって言った」
「最低ですね」
「うん」
「否定しないんですか」
「できない」
リサは顔を上げた。
その目は赤くはない。
泣いてもいない。
でも、泣くより痛そうだった。
「でも、最低でも言わなきゃいけなかった。君が私と同じ逃げ方をしたら、たぶん戻れなくなるから」
戒十の影が揺れる。
リサは続ける。
「私は自分を棚に上げて言った。そうだよ。自分はできてないくせに、君にはやれって言った。卑怯だよ。でも、それでも言った。言わないで、君が成れの果てになるのを見るほうが、もっと嫌だった」
「それで許されると思ってます?」
「思ってない」
「ずるい」
「うん」
「何を言っても、うんって言うの、ずるいです」
「それも、うん」
リサは少しだけ笑おうとした。
失敗した。
戒十はそれ以上言葉をぶつけられず、椅子へ座り込んだ。
怒りは残っている。
裏切られた気持ちもある。
でも、その怒りの奥に、別のものが混じり始めていた。
怖さ。
リサとクイーンの関係が、自分と影の未来に見える怖さ。
別々の身体。
再統合。
分離。
どの言葉も、夜の王の手にかかれば、治療という名の檻になる。
そのとき、純が小さく息を乱した。
リサがすぐに顔を向ける。
「純ちゃん?」
「……寒いです」
「噛み痕?」
「それも。でも、違う」
純はベッドの上で体を起こそうとした。
リサが支えようとする。
純はその手を受けたが、すぐに言った。
「少しだけ、自分で座ります」
リサは手を離した。
純は枕を背中に当て、ゆっくり上体を起こす。
顔色は悪い。
唇も青い。
だが、目ははっきりしていた。
「今の話、聞いてました」
「うん」
リサが答える。
純は戒十を見た。
次にリサを見た。
最後に、入口脇のシンを見た。
シンは何も言わない。
だが、視線は逸らさなかった。
純は、膝の上でノートを握った。
「どうして、みんな、私を助けるためなら自分が消えていいと思うの」
その言葉は、静かに落ちた。
しかし、部屋の全員に刺さった。
戒十が息を止める。
リサの手が止まる。
シンの表情も、ほんのわずかに変わる。
純は続けた。
「戒十は、私を助けるためなら自分が怪物になってもいいみたいな顔をする。カオルコさんを殺してもいいみたいな顔をする。自分が白昼局に捕まっても、影と分けられても、私が助かるならいいって、どこかで思ってる」
「そんなこと」
戒十が言いかける。
純は首を横に振った。
「思ってる」
声は強くなかった。
でも、はっきりしていた。
「リサさんは、私を助けるためなら、夜の王の資料を使う。たぶん、必要なら自分がクイーンとどうなってもいいって、少し思ってる。自分が再統合計画へ戻ることも、どこかで選択肢に入れてる」
リサは否定しなかった。
否定できなかった。
純はシンを見る。
「シンさんは、最悪の場合を説明してくれました。それは必要でした。でも、シンさんも、自分が斬ればいい、自分が処分すればいい、自分が責任を持てばいいって思ってる。誰かが壊れることを、自分が背負えば済むと思ってる」
シンは黙っていた。
その沈黙が、肯定に近かった。
純の声が、そこで初めて震えた。
「私は、誰かが代わりに死んで助かりたいわけじゃない」
右の脇腹から腰へ、黒い噛み痕が痛んだ。
寒さが上がってくる。
耳鳴りがする。
カオルコの笑い声のようなものが、影の欠けた場所で薄く響いた。
それでも、純は言葉を止めなかった。
「私を助けるためって言われたら、止められない。ありがとうって言わなきゃいけない気がする。感謝しなきゃいけない気がする。でも、誰かが自分を捨てるたびに、私がそれを背負うことになる」
戒十の顔が歪む。
リサは目を伏せる。
シンは、入口の横で拳を握った。
「私は、治りたいです」
純は言った。
「助かりたい。怖いし、寒いし、カオルコさんの声が聞こえるのも嫌です。自分の影が欠けているのも嫌です。だから治りたい」
彼女はノートを握る手に力を込めた。
「でも、誰かが代わりに消えることで助かりたいわけじゃない」
部屋の中で、医療用ライトが小さく唸る。
影は一本ずつ床に落ちている。
リサの足元だけ、ほとんどない。
純はそこを見て、胸が痛くなった。
「リサさん」
「……うん」
「私は、リサさんに消えてほしくありません」
リサの顔が少しだけ崩れた。
「純ちゃん」
「クイーンのことは、私はまだわかりません。でも、リサさんが消えることで私が助かるって言われたら、私はそれを治療だと思えない」
リサは何も言えなかった。
純は戒十を見る。
「戒十」
「……何」
「戒十にも、消えてほしくない」
「僕は」
「影の戒十も」
戒十が止まる。
足元の影が、わずかに揺れた。
「どっちかが消えれば安全とか、別々にすれば解決とか、そういうのを勝手に決めないで。私は、どっちかだけを助けたいわけじゃない」
戒十は目を伏せた。
影も、彼の足元で小さく震えている。
純は最後にシンを見る。
「シンさん」
「何だ」
「全部背負わないでください」
シンは静かに純を見返した。
「俺は、それが役目だ」
「その役目、誰が決めたんですか」
シンは答えなかった。
純は小さく息を吸う。
「必要なら止める人は必要です。最悪の話も必要です。でも、全部一人で背負う人がいると、周りはその人が壊れるのを見ないふりすることになると思います」
シンの表情は変わらない。
だが、目だけが少し深くなった。
「厳しいな」
彼は短く言った。
純は少しだけ、疲れたように笑った。
「よく言われます」
その言い方に、戒十がかすかに息を漏らした。
笑いにはならない。
でも、少しだけ空気が緩んだ。
すぐに、純は顔をしかめた。
噛み痕が痛む。
寒気が強くなる。
リサが慌てて近づく。
「純ちゃん、横になって。今の、かなり体力使ってる」
「はい」
純は素直に横になった。
さっきまでの言葉の勢いが嘘のように、身体から力が抜ける。
リサが毛布をかけ、影の欠けた右側に銀糸の補助固定を施す。
「耳鳴りは?」
「強いです」
「声は?」
「笑い声だけ。言葉はないです」
「影の遅延」
「右側、たぶん一秒くらい」
「わかった」
リサはすぐに記録する。
その手はまだ少し震えていた。
戒十は純のベッドへ近づきかけ、途中で止まった。
近づきすぎない。
自分の血に純の影が反応するかもしれない。
それを思い出したのだ。
彼は部屋の中央で立ち止まり、低く言った。
「ごめん」
純は目だけを向ける。
「何に?」
「また、勝手に消える方向で考えてた」
「うん」
「ごめん」
「怒ってる」
「うん」
「でも、謝ったことは記録しておく」
「それ、必要?」
「必要」
純はかすかに笑った。
本当にかすかな笑みだった。
リサがそれを見て、少しだけ泣きそうな顔をした。
「純ちゃん、君、ほんとに」
「すごくないです」
「まだ言ってない」
「言いそうだったので」
「先読みされた」
リサは苦笑し、それから自分の足元を見た。
影のない足元。
そこに長い時間、目を落とした。
「私も、記録しないとね」
リサは呟く。
戒十が顔を上げる。
「何をですか」
「逃げてること」
リサは言った。
「クイーンを閉じ込めて、見ないふりしてること。サリサに戻るのが怖いこと。今の私が消えるのが怖いこと。それでも、純ちゃんを助けるために自分を差し出せば格好がつくって、どこかで考えたこと」
純が目を閉じたまま言う。
「格好つかないです」
「うん。つかないね」
リサは静かに頷いた。
「ちゃんと怒られた」
「まだ怒ります」
「うん。お願い」
シンが入口脇で低く言った。
「俺も、記録しておく」
リサが少し驚いたように見る。
「シンが?」
「全部背負わない」
「……できるの?」
「すぐには無理だ」
「正直」
「だが、言われたことは覚える」
純は目を閉じたまま、小さく頷いた。
「それでいいです」
戒十は、そんな三人を見ていた。
自分も何か言わなければいけない気がした。
だが、言葉がうまく出てこない。
足元の影が、少しだけ先に動いた。
言うなら今。
影の声。
戒十は少しだけ眉を寄せる。
今度は、その声を押し潰さなかった。
「僕も」
戒十は言った。
「影を、別の肉体にできるって言われて、今も少し考えてます」
純の目が開く。
リサとシンも見る。
戒十は続けた。
「そうすれば楽かもしれないって。純を傷つけにくくなるかもって。僕も、影も、自分の身体があったらって。まだ考えてる」
影が足元で揺れる。
戒十はそれを見下ろす。
「でも、それを夜の王に決めさせたくない。僕が嫌だからじゃなくて、影のことも、僕のことも、純のことも、研究計画の都合で決められたくない」
純は静かに言った。
「うん」
「だから、今は行かない」
「今は?」
「今は」
戒十は正直に答えた。
「ずっと迷わないとは言えない」
純は少しだけ息を吐いた。
「じゃあ、それも記録して」
「僕が?」
「うん。自分で」
純のノートがベッド脇に置かれている。
戒十は少し迷ったあと、それを手に取った。
左手ではなく、右手で。
ページの端に、震える字で書いた。
別々の身体という提案に惹かれている。
ただし、夜の王には決めさせない。
書き終えたあと、戒十はノートを見つめた。
自分の中の嫌なものを文字にする。
純がずっとやっていたこと。
それが、こんなに痛いものだとは思わなかった。
純はそれを見て、小さく言った。
「ありがとう」
「礼を言うことじゃない」
「でも、言う」
戒十は返事に困り、ノートを閉じた。
医療用ライトの下で、それぞれの影が静かに揺れている。
純の影は欠けている。
戒十の影は濃い。
シンの影は鋭い。
リサの影は、ほとんどない。
だが、その影のなさを、もう誰も見ないふりはできなかった。
残り時間は減っている。
カオルコは逃げている。
夜の王は待っている。
白昼局も動いている。
何も解決していない。
それでも、臨時診療所の中で、一つだけ変わったことがあった。
誰かが誰かの代わりに消えることを、美談にしない。
その約束だけが、弱い光の下で、まだ形を保っていた。




