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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第四章 夜の叛逆
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第四節 夜の王からの電話

 臨時診療所の時計は、見たくなくても目に入った。


 壁に掛けられた古い丸時計ではない。


 リサがホワイトボードの端へ太いマーカーで書いた数字だ。


 残り七十一時間二十四分。


 その下に、さらに小さく、純の症状が書き足されている。


 影遅延、右側〇・八秒。


 寒気、持続。


 耳鳴り、断続。


 カオルコの声、断片。


 戒十の血影反応、注意。


 純は診療用ベッドで横になっていた。


 眠ってはいない。


 眠らないほうがいいと言われたからではない。


 眠るのが怖かった。


 目を閉じると、右の脇腹から腰にかけて浮かんだ噛み痕が、自分の影を少しずつ食べているのを想像してしまう。


 だから、薄く目を開けている。


 弱い単一光源の下で、純の影は一本だけ床へ伸びていた。


 ただし、その右側は欠けている。


 薄く裂けたように、輪郭が不自然に揺れている。


 戒十はその影を見ないようにしていた。


 見れば、左手が熱くなる。


 カオルコを探しに行きたくなる。


 殺したくなる。


 純は、殺すことが治療ではないと言った。


 必要なのはカオルコの新鮮な血と影紋。


 殺意ではない。


 そうわかっていても、彼の影は納得していない。


 足元の黒が、怒りで重くなっている。


「申告」


 入口脇からシンの声がした。


 戒十は顔を上げる。


「今ですか」


「今だ」


「血の匂いはありません。純の影を見ると左手が熱い。影声はあります。カオルコを見つけたい。殺したい。純を連れて逃げたい。でも、動きません」


「よし」


「よくない」


「言えている」


「だから、よくないって言ってるんです」


 シンは答えなかった。


 その沈黙にも、もう少し慣れてしまった。


 嫌な慣れだった。


 リサは医療用ライトの横で、影紋測定器の画面を見ていた。


 画面には純の影の輪郭が、細い線で表示されている。


 欠けた右側から、花びらのようなノイズが広がっては、リサの銀糸で押し戻されている。


 押し戻すだけ。


 治すことはできない。


 カオルコの血と影紋がなければ。


 そのとき、リサの端末が鳴った。


 短い電子音。


 臨時診療所の空気が、音だけで変わった。


 リサは画面を見た。


 表情が固まる。


 シンがすぐに気づく。


「誰だ」


 リサは答えない。


 画面を見たまま、少しだけ唇を噛んだ。


 戒十も見た。


 表示名はない。


 ただ、非通知ではなかった。


 知らない番号。


 だが、リサはそれを知らない番号として見ていない。


 知っている顔を思い出している。


 そういう反応だった。


 端末は鳴り続ける。


 純がベッドの上で小さく身じろぎした。


「出ないんですか」


 リサは純を見る。


 それから、シンを見る。


 シンは無言で頷いた。


「スピーカーにしろ」


「うん」


 リサは端末をテーブルの上へ置き、通話をつないだ。


 すぐに男の声が流れた。


『久しぶりだね、リサ』


 柔らかい声だった。


 低すぎず、高すぎず、聞く者へ安心感を与えるように整えられた声。


 医師の声にも、経営者の声にも、父親の声にも聞こえる。


 リサの顔から、血の気が引いた。


「……黒瀬理人」


 戒十はその名に反応した。


 常盤再生医療財団理事長。


 白昼局の資料の中で何度か聞いた名前。


 表向きは再生医療と影関連疾患の研究支援を行う財団のトップ。


 カオルコが言った、父さま。


 夜の王。


 通話の向こうで、男は小さく笑った。


『その名で呼ばれるのは、少し味気ないな。君には、もっと古い名で呼んでもらいたい』


 リサの声が硬くなる。


「切る」


『切れば、水城純さんの治療情報を得る機会を失う』


 リサの指が止まった。


 戒十の左手が、床へ爪を立てる。


 シンが低く言う。


「話せ」


『さすがシン君。合理的だ。君は昔から、必要なときに感情を棚上げできる』


「俺の昔を語るな」


『では本題へ入ろう』


 男は穏やかに言った。


『私は黒瀬理人として社会に登録されている。常盤再生医療財団の理事長でもある。だが、君たちが呼んでいる名を使うなら、《夜の王》。そして、さらに古い私の名は久世玄理だ』


 部屋の空気が、音もなく沈んだ。


 久世玄理。


 戒十には、その名の重みがまだわからない。


 だが、リサの顔を見れば、それがただの過去の名前ではないことはわかった。


 リサは端末を睨んでいる。


 その目は、怒りではなく、もっと古いものに縛られていた。


「まだ、その名前を使うの」


『私の最初の名だからね』


「最初?」


『ああ。現在の肉体では、黒瀬理人。だが、影紋と記憶の継承において、私は久世玄理を継続している。多少の劣化はあるが、同一性は十分に保たれている』


 その言い方が、戒十には気持ち悪かった。


 人間が自分の人生を語っているのではなく、実験データを説明しているようだった。


 シンが低く言う。


「何が目的だ」


『救命だよ』


 夜の王は即答した。


『水城純さんは、カオルコの残香による影咬を受けた。残り時間はおおよそ七十二時間。正確には個体差があり、彼女の場合は六十八から七十六時間の幅があるだろう。現在の症状は、寒気、耳鳴り、右側影欠損、感情混濁、声の混入。違うかな?』


 純が息を呑んだ。


 リサの表情がさらに険しくなる。


「見ているの」


『観測はしている。侵入はしていない。現時点ではね』


「ふざけないで」


『ふざけてはいない。君たちが持っている機材では、純さんの影脈再接続は成功率が低い。カオルコの血を入手できたとしても、抽出工程で失敗する可能性が高い』


「なぜ、それをあなたが」


『カオルコを作ったのは私だからだ』


 その一言で、部屋の中の音が消えたようになった。


 リサは動かない。


 シンも動かない。


 戒十だけが、左手を握りしめた。


 カオルコ。


 白いワンピース。


 お姉さま。


 母。


 父さま。


 家族になりましょう。


 その全部が、一瞬で別の色を帯びる。


 作った。


 夜の王は、その言葉をあまりにも静かに言った。


 まるで、新しい医療機器の開発を説明するように。


『カオルコは人工離影者だ。リサ、君の肉体情報と、クイーンの影紋情報、複数の被験者由来の補助影紋、そして固有影核の育成実験を組み合わせた。単なる器ではない。独自の自己を形成しつつある。そこは評価してほしい』


「評価?」


 リサの声が震えた。


「あなた、あの子を作っておいて、評価って言うの」


『作ったからこそ、評価する。彼女は失敗作ではない』


「だったら、どうしてあんなに壊れかけてるの」


 通話の向こうで、ほんの一瞬沈黙があった。


『成長過程だ』


「嘘」


 リサの声が鋭くなる。


「あなたは昔からそう。壊れているものを、途中だと言う。傷ついているものを、適応だと言う。助けてと言えない人間を、同意したことにする」


『サリサを救おうとした』


 夜の王の声が、初めて少し低くなった。


 その名が出た瞬間、リサの表情が凍った。


 戒十はその名前を知らない。


 だが、リサの顔でわかった。


 触れてはいけない名前だ。


『君は忘れたふりをしているが、あのとき君は死にかけていた。肉体は崩れ、影脈は断裂し、通常の治療では救えなかった。私は肉体側と影側を分離し、少なくとも片方を救った』


「片方?」


 リサは低く言った。


「私は、片方なの」


『君は肉体側の継続体だ』


「クイーンは?」


『影側の継続体だ』


「つまり、あなたが私たちを分けた」


『救命のために』


 夜の王は、迷いなく言った。


『当時の技術では、統合状態のサリサを保全することはできなかった。分離は合理的判断だった。肉体側はリサとして安定し、影側はクイーンとして独自化した。君たちはどちらもサリサの継続であり、同時に不完全だ』


 リサは何も言わなかった。


 言えなかった。


 部屋の隅で、純はベッドの上からその横顔を見ていた。


 リサが、いつも軽く笑っていた理由が少しだけわかった気がした。


 軽くしなければ、立っていられないものがあるのだ。


 戒十の影が、床で揺れる。


 肉体と影を分けられた人。


 片方を本物にされ、片方を別のものにされた人。


 リサとクイーン。


 その構図は、戒十自身にも近すぎた。


 昼の戒十。


 影の戒十。


 どちらが本物か。


 誰が決めるのか。


 夜の王の声が、今度は戒十へ向いた。


『三倉戒十君。君は興味深い境界例だ』


「僕の名前を呼ぶな」


『怒るのは自然だ。だが聞きなさい。君はクイーン由来の影紋を持つ。正確には、黒猫型落影を介して移植されたクイーン影紋の適応例。普通なら影核が拒絶し、成れの果てに近い崩壊を起こす。だが君は、昼の人格と影人格を対立させながらも、まだ接続を保っている』


 戒十は息を止めた。


 クイーン由来。


 やはり。


 リサが隠していたもの。


 白昼局がQ系統と呼んだもの。


 カオルコが母と言ったもの。


 自分の影の奥から響いた女の声。


 全部が一つに繋がる。


『君は、リサとクイーンの再統合計画における貴重な参照個体だ。肉体と影が分離しながら、完全には切断されていない。しかも、外部の人間との関係性によって暴走を制御する傾向を示している。水城純さんの存在も含め、非常に有用だ』


「有用って言うな」


 戒十の声が低くなった。


 獣の唸りが混ざる。


 リサがすぐに戒十を見る。


 戒十は自分で言葉を続けた。


「血の匂いはありません。左手が熱い。影声があります。こいつを黙らせたい。でも動きません」


『良い訓練だ。シン君の教育だね』


「黙れ」


 シンの声が重なる。


 夜の王は笑わなかった。


 ただ、静かに続けた。


『私は取引を提案する』


「聞かない」


 リサが即座に言った。


『聞かなければ純さんの治療成功率は下がる』


「……」


『感情的拒絶は理解する。しかし、今必要なのは救命だ。私はカオルコの血影紋から再縫合剤を作るための正確な抽出式を持っている。さらに、純さんの影脈を損傷させずに光療法へ移行するための光量曲線、投与順、拒絶反応への対処も提示できる』


 リサの手が震えた。


 医師としての部分が、その情報を求めている。


 憎んでいる相手の口から出る救命情報。


 それがどれほど残酷なものか、純にもわかった。


 戒十が低く言う。


「条件は」


『三つ』


 夜の王は淡々と言った。


『第一に、リサ。君が再統合計画へ戻ること。リサとクイーンを分離したままにしておくことは、長期的には双方にとって不安定だ。君は肉体側として欠け、クイーンは影側として欠けている。君たちは、本来一つの継続体へ戻るべきだ』


「戻る?」


 リサの声は小さかった。


『そうだ。サリサの再構成、と言ってもいい。もちろん、現在のリサとクイーンの記憶差分は保持する。消去ではない。統合だ』


「それを決めるのは、あなたじゃない」


『だから条件として提示している。君が選べばいい』


「選ばせてるつもり?」


『救命のための合理的取引だ』


 夜の王の声は揺れない。


『第二に、三倉戒十君。君が研究対象として常盤再生医療財団の施設へ来ること。拘束や処分が目的ではない。君の境界例は、離影者治療の突破口になり得る。君と影人格を、別々の肉体へ安定移植できる可能性もある』


 戒十の呼吸が止まった。


 別々の肉体。


 その言葉が、部屋の中で妙に明るく響いた。


 昼の戒十。


 影の戒十。


 二人が同じ身体を奪い合わずに済む。


 影が勝手に純へ会いに行くこともない。


 昼の自分が影を恐れ、影が昼の自分を恨むこともない。


 互いに別の身体を持つ。


 別々に話す。


 別々に選ぶ。


 もしかしたら、純の前で争わなくて済む。


 その想像が、戒十の中へ一瞬だけ入り込んだ。


 魅力的だった。


 恐ろしいほど。


 影の戒十も、同じ言葉に反応した。


 足元の影が、布団の横でわずかに立ち上がる。


 欲しい。


 声にならない声がした。


 身体。


 僕の身体。


 戒十は奥歯を噛んだ。


 その誘惑は、カオルコの花の匂いとは違う。


 もっと清潔で、もっと合理的で、もっと危険だった。


『君も望んでいるはずだ』


 夜の王は静かに言った。


『自分の影に身体を奪われる恐怖から解放されたい。影人格もまた、借り物の身体ではなく、自分の肉体を得たい。これは双方に利益がある』


「……」


『君が研究に協力すれば、純さんの治療情報を渡すだけでなく、君自身の安定化も進められる。白昼局の処分対象からも外す道を作れる』


「そんな都合のいい話」


 戒十の声が掠れる。


『都合がいいのではない。合理的なのだ』


 夜の王は続けた。


『第三に、水城純さんを財団の管理下へ渡すこと。彼女の影咬はカオルコ由来であり、通常の離影者医療では扱えない。家庭や民間共同体で管理するより、私の施設へ移すほうが生存率は高い』


 純はベッドの上で、ゆっくり顔を上げた。


 冷たい噛み痕が疼く。


 カオルコの声が、影の奥で小さく笑った気がした。


 管理下へ渡す。


 その言葉に、彼女は手元のノートを握った。


「私は、物じゃありません」


 純の声は小さかった。


 だが、通話先にも届いた。


 夜の王は、少しも動揺しなかった。


『もちろんだ。患者として扱う。治療される権利を持つ個人として』


「だったら、私に直接聞いてください」


『では、水城純さん。財団管理下での治療を受ける意思は?』


 純はすぐには答えなかった。


 怖い。


 財団へ行けば治療成功率は上がるのかもしれない。


 今いる臨時診療所は不完全だ。


 カオルコの血もまだない。


 残り時間は減っている。


 だが、夜の王の言葉には、人を救う形をした管理の匂いがある。


 患者として扱う。


 研究対象として扱う。


 継続体として扱う。


 どれも、きれいな言葉で、相手の意思を数字の中へしまい込む。


 純は言った。


「今は、同意しません」


『理由は?』


「あなたが、私を治療する患者としてだけでなく、戒十やリサさんを動かす条件として扱っているからです」


『それは交渉だ』


「私の命を使った交渉です」


 純の声は震えていた。


 でも、言葉は止まらなかった。


「私は治りたいです。情報も欲しいです。でも、そのためにリサさんが何かに戻ることや、戒十が研究対象になることを、私が選ぶことはできません」


 夜の王は数秒黙った。


 その沈黙に、初めて温度が生まれた気がした。


『君は賢いね』


「褒めないでください」


『では、言い方を変えよう。君は、時間を失っている』


 ホワイトボードの数字へ、全員の視線が向く。


 残り七十一時間十八分。


『私の条件を拒むことは自由だ。しかし、時間は拒否しても進む。純さんの影欠損は広がる。カオルコは逃げる。白昼局も動く。合理的な選択肢を感情で退けることには、代償がある』


「感情を抜いた合理性で、何人壊したんですか」


 リサが低く言った。


 夜の王は静かに答えた。


『感情だけで、何人救える?』


 リサは言葉を失った。


 その問いは卑怯だった。


 だが、まったくの空虚でもなかった。


 救命。


 治療。


 再統合。


 安定化。


 夜の王は、それらを本気で信じている。


 だからこそ厄介だった。


 カオルコのように笑いながら噛むのではない。


 白昼局の処分派のように危険だから排除すると言うのでもない。


 彼は救うと言う。


 合理的に。


 相手の形を変えてでも。


 シンが口を開いた。


「条件は拒否する」


『君が決めることではない』


「少なくとも、ここで引き渡しはしない」


『では、純さんの治療成功率を下げると?』


「カオルコを捕まえる。血と影紋を取る。必要な情報は奪う」


『君らしい』


 夜の王は、少しだけ笑ったようだった。


『だが、君たちはまだ知らない。カオルコの影核構造も、残香の根の外し方も、クイーン影紋の反応も。闇雲に動けば、純さんを損なう』


「それでも、あなたの条件は飲まない」


 リサが言った。


 声は震えていなかった。


「私は、あなたの再統合計画には戻らない。戒十くんを研究対象として渡さない。純ちゃんを財団の管理下にも渡さない」


『リサ』


「私は、私として答えてる」


 その言葉に、戒十はリサを見た。


 リサは、足元にほとんど影を持たないまま立っている。


 欠けた人。


 そう呼ばれた人。


 肉体側の継続体と言われた人。


 それでも、彼女は言った。


 私は、私として。


 夜の王は、静かに言う。


『君は恐れている。クイーンと統合すれば、現在のリサが消えると』


「消えない保証を、あなたが言っても意味がない」


『技術的には保証可能だ』


「人の存在を、技術的に保証しないで」


 リサの声は低い。


「私は、あなたに分けられた。あなたに名前を整理された。あなたに不完全だと言われた。でも、今ここで純ちゃんを抱えているのは私。戒十くんを止めてきたのも私。シンと一緒に、夜の住人たちを逃がしたのも私。欠けていても、これが私」


 通話の向こうは沈黙した。


 戒十はその言葉を聞いて、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 欠けていても。


 これが私。


 それは、戒十にも向けられているようだった。


 足元の影が揺れる。


 影の戒十が、別の肉体という提案からまだ目を離せずにいる。


 昼の戒十も、そこに惹かれている。


 奪い合わなくて済む。


 傷つけなくて済む。


 でも、その提案をしたのは夜の王だ。


 人を分け、不完全だと言い、救命の名で形を決める男だ。


 夜の王は最後に言った。


『猶予を与えよう』


「何を勝手に」


『残り時間が四十八時間を切れば、純さんの成功率は大きく下がる。それまでに考え直しなさい。私はいつでも受け入れる』


「必要ない」


『君たちは必ず必要とする』


 夜の王の声は、穏やかだった。


 それが余計に恐ろしかった。


『リサ。君はクイーンから逃げ続けられない。三倉戒十君。君も、自分の影に身体を与えたいという願望から逃げられない。水城純さん。君も、治療される者として最も生存率の高い選択を考えるべきだ』


 純はノートを握りしめた。


 戒十は左手を押さえた。


 リサは端末を見下ろした。


 シンが一歩前へ出る。


「通話を切る」


『切っても構わない。こちらから必要な資料の一部を送る。無償提供だ』


「罠か」


『信頼形成だよ』


 端末が短く鳴った。


 データ受信。


 リサの画面に、ファイル名が表示される。


 《残香型影咬における初期安定化処置》


 リサの表情が歪む。


 欲しい。


 だが、受け取れば繋がる。


 夜の王はそれを知っている。


『使いなさい。純さんを今すぐ安定させるには必要だ』


「……」


『そのうえで、次の取引を考えよう』


 通話は、夜の王の側から切れた。


 部屋に、機械音の余韻だけが残った。


 誰もすぐには動かなかった。


 リサは端末を見つめている。


 シンは入口で外の気配を探っている。


 純はベッドの上で、自分の影の欠けた部分を見ないようにしている。


 戒十は、足元の影を見た。


 影が、ほんの少し立ち上がっていた。


 別の肉体。


 その言葉の残響が、まだ二人の間に落ちている。


「……惹かれた」


 戒十は小さく言った。


 リサが顔を上げる。


 純も戒十を見る。


 戒十は唇を噛んだ。


「別々の身体って言われて、一瞬、いいと思った。僕も、影も。たぶん、どっちも」


 影が否定しなかった。


 むしろ、その黒は静かに揺れている。


 欲しい、とまだ言っている。


 純は責めなかった。


 ただ、聞いていた。


 戒十は続ける。


「それが、すごく嫌だ」


 リサは端末を握りしめたまま、静かに言った。


「嫌だって言えたなら、まだ持っていかれてない」


「そういう問題ですか」


「そういう問題から始めるしかない」


 リサはデータ受信画面を見る。


 指が震えている。


「こっちも、必要な情報を受け取る。罠かもしれない。取引の糸かもしれない。でも、純ちゃんを安定させるために使えるなら、使う」


「それで夜の王に」


「借りは作らない」


 リサは顔を上げた。


「これは奪う。向こうが勝手に送った情報を、こっちの意思で使う。従うためじゃなくて、純ちゃんを救うために」


 シンが短く頷いた。


「解析は俺も見る」


「医療資料読めるの?」


「必要なら読む」


「便利だねえ」


「茶化すな」


「ごめん」


 少しだけ、いつもの掛け合いが戻った。


 しかし、誰も笑わなかった。


 ホワイトボードの数字は、また一分減っていた。


 残り七十一時間十七分。


 夜の王は電話を切った。


 だが、その声は部屋に残っている。


 救命。


 合理性。


 再統合。


 研究対象。


 管理下。


 別々の肉体。


 それらの言葉が、弱い単一光源の下で、それぞれの影へ触れていた。


 純はノートを開き、震える手で新しい項目を書いた。


 黒瀬理人。


 久世玄理。


 夜の王。


 条件つき治療情報。


 取引は拒否。


 資料は解析。


 そして最後に、少し迷ってから書いた。


 戒十は、別々の身体という言葉に反応した。


 書くべきか迷った。


 でも、書いた。


 それもまた、治療の場で起きたことだった。


 戒十はそれを見て、苦しそうに目を伏せた。


 純はペンを置き、静かに言った。


「書いたからって、責めてるわけじゃない」


「わかってる」


「でも、なかったことにはしない」


「うん」


 戒十の影が、足元で小さく揺れた。


 それは、頷きのようにも見えた。

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