第三節 治療される者の権利
VIOLET DRAGONの臨時診療所は、もともと診療所ではなかった。
旧市街の一角にある、使われなくなった小さなダンススタジオ。
入口には古い看板の跡が残り、床には黒いリノリウムが敷かれている。壁の一面には大きな鏡があったが、そこは厚い遮影布で覆われていた。窓も同じように塞がれ、外の光は一切入らない。
照明は、天井灯ではなかった。
部屋の中央に置かれた、背の高い医療用ライトが一つ。
弱い琥珀色に調整され、床へ長い影を一本だけ作っている。
それでも純には、その光が痛かった。
目を開けていられる。
だが、まぶしい。
皮膚が痛むのではない。
影が痛む。
自分の足元に落ちているはずの黒が、光に触れるたび、欠けた部分から細かくひび割れるような感覚がある。
純は診療用ベッドの上に座っていた。
横になると、右の脇腹から腰にかけて浮かんだ黒い噛み痕が引きつる。痛みは強くない。むしろ、冷たさのほうが大きい。
噛まれた部分だけ、体温がない。
そこへ手を当てても、皮膚の温かさが返ってこない。
黒い痣は、肉体の表面に浮かんでいる。
しかし、リサは何度も言った。
肉体の傷ではない。
影の傷が、肉体に写っている。
だから消毒液も、軟膏も、ほとんど意味がない。
純の膝の上には、ノートがあった。
自分のノートだ。
学校で使うための、薄い罫線入りのもの。
そのページに、症状を記録している。
リサが「無理しなくていい」と言ったのに、純が自分で求めた。
自分のことだから。
そう言ったら、リサは一瞬だけ困った顔をして、それからペンを渡した。
純は時刻を書いた。
午前九時二十分。
右脇腹から腰、黒い噛み痕。
寒気あり。
耳鳴りあり。
影の欠損、右側。
影の遅延、約〇・七秒。
光への痛み、中程度。
戒十の血への反応、あり。
書きながら、手が震えた。
字が歪む。
戒十の血への反応。
その項目を書いたとき、ベッドから少し離れた位置に座っていた戒十が顔を上げた。
「それ、書かなくていい」
声は低かった。
まだ本調子ではない。
彼は椅子に座り、左腕を遮影布で覆っている。頬の黒い線は薄くなったが、完全には消えていない。爪はほとんど戻ったものの、左手の人差し指だけがまだ少し鋭い。
純はペンを止めなかった。
「書く」
「水城」
「反応があったから書く」
「それを見たら、リサさんたちが僕をもっと危険だって」
「危険かどうかを判断するために記録してるんでしょ」
戒十は言葉に詰まった。
純はノートへ視線を落としたまま続ける。
「さっき、戒十が包帯を替えるとき、左手の爪の根元から少し血が出てた。血っていうより、黒い影が混ざったみたいなものだったけど。それを見た瞬間、右の噛み痕が熱くなった。寒いのに、そこだけ熱いみたいな、変な感じがした」
「やめて」
「やめない」
純の声は震えていた。
でも、止めなかった。
「同時に、戒十のほうへ近づきたい感じがした。心配だから近づきたいのか、噛み痕が反応してるのか、わからなかった。だから書く」
戒十の顔が青ざめる。
「僕の血に、純の影が反応したってことだろ」
「そうかもしれない」
「だったら、僕は近くにいないほうが」
「それも、まだ決めない」
純は顔を上げた。
「近くにいないほうがいいかもしれない。いたほうが状態を観察しやすいかもしれない。どっちかを、怖いから先に決めない」
戒十は何も言えなくなった。
リサが、診療台の向こうで小さく息を吐く。
「純ちゃん、ほんとに強いね」
「強くないです」
純は即答した。
「怖いから、書いてます」
「うん」
「書かないと、何が起きてるのか全部ぼんやりして、余計に怖いから」
リサは頷いた。
その顔には、昨日から消えない疲労があった。
VIOLET DRAGONは、まだ本来の地下診療所を使えない。
花の残香が入り込み、照明系が損傷し、白昼局の監視もついている。住人たちは分散して隠れ家へ移り、最低限の機材だけがこのダンススタジオへ運び込まれた。
臨時診療所。
そう呼ぶには、あまりにも頼りない。
だが、今の彼らにはここしかなかった。
部屋の奥では、VIOLET DRAGONの医師が機材を組み立てている。携帯型の影紋測定器、光量調整装置、小型冷蔵庫、密閉容器、銀糸の固定具。
シンは入口近くに立っていた。
肩には応急処置の固定帯が巻かれている。
昨夜、獣化した戒十に壁へ叩きつけられた傷だ。
本人は平然としているが、顔色は悪い。
それでも、彼は入口から離れない。
白昼局が来る可能性。
カオルコがまた残香を通して侵入する可能性。
戒十が再獣化する可能性。
その全部を考えて、もっとも動ける位置に立っている。
純はノートへ次の項目を書いた。
感情の混濁。
自分の感情か、植えつけられた感情かわからない瞬間あり。
ペン先が止まった。
そこだけは、書くのが怖かった。
リサが気づく。
「無理しなくていいよ」
「無理じゃないです」
純は小さく息を吸った。
花の匂いはもうほとんどしない。
それでも、噛み痕の奥では、薄い香りが残っている気がする。
白い花。
甘く、冷たい。
そこから、時々カオルコの声がする。
はっきりした言葉ではない。
笑い声。
囁き。
ずるい。
怖いくせに。
名前を呼ぶなんて。
その断片が、耳ではなく影の欠けた場所から響く。
純は書いた。
カオルコの声。
断片的。
内容不明瞭。
ただし、自分の不満や恐怖に似た言葉を使う。
書いたあと、純はペンを置いた。
「私は、カオルコさんが言っていることが全部嘘だとは思えません」
戒十が顔を上げる。
「水城」
「私は怖い。巻き込まれたと思う気持ちもあります。どうして私が、と思う瞬間もあります。それを言われると、カオルコさんに言わされているのか、自分が本当に思っているのかわからなくなる」
「それは、カオルコが」
「でも、もともと少しも思っていなかったら、たぶん刺さらないと思う」
純は言った。
その言葉は、自分にも痛かった。
「だから、全部カオルコさんのせいにしたら、私の影をまた見ないことになる気がします」
部屋が静かになった。
リサは、何かを言いかけて、やめた。
戒十は右手を握っている。
左手ではない。
影が反応しないほうの手で、自分を押さえているようだった。
「そんなことまで考えなくていい」
戒十が言った。
「今は治療のことだけ」
「治療されるのは私だよ」
純は返した。
その言葉に、戒十は止まる。
「私のことだから、私がわかっていたい」
リサが静かに頷いた。
「うん。じゃあ、治療の話をする」
◇
リサは、折り畳み式のホワイトボードを引き寄せた。
そこには簡単な図が描かれている。
人の身体。
その足元に落ちる影。
身体と影をつなぐ細い線。
影脈。
純の影の右側に、噛みちぎられたような欠け。
その周囲に、花びらのような黒い印。
「純ちゃんの状態は、正確には離影者化じゃない」
リサは説明を始めた。
「影が噛まれた。影脈に傷が入った。でも、戒十くんみたいに影人格が強く自立しているわけではない。今は、カオルコの残香が噛み痕に根を張って、純ちゃんの影の輪郭を食べながら、自分の影紋を薄く広げている状態」
「それって、放っておくとどうなりますか」
純が聞く。
戒十がすぐに口を開きかけた。
だが、純が先に見た。
「聞きたい」
戒十は口を閉じた。
リサは少しだけ言葉を選んだ。
「最初は寒気、耳鳴り、影の遅延、光への痛み。次に、感情と記憶の混濁が強くなる。自分の影が自分より先に反応する。カオルコの声が強くなる。最後は、欠けた影の部分から残香が育って、純ちゃんの影の一部がカオルコの影紋に置き換わる」
「置き換わると?」
「純ちゃんの影が、純ちゃんだけのものじゃなくなる」
リサは言った。
静かに。
だが、重かった。
「身体は生きていても、影の一部が別の命令で動く。感情も、欲求も、判断も、混ざる。最悪の場合、純ちゃん自身の影人格が壊れる」
純はノートを握った。
手が冷たい。
でも、目を逸らさなかった。
「治療法は?」
リサはホワイトボードへ新しい図を書いた。
小さな瓶。
血液の印。
影紋の螺旋。
「カオルコの新鮮な血と影紋が必要。カオルコが噛んだ残香の“鍵”は、彼女自身の現在の血影紋にある。古いサンプルじゃ駄目。保存された血でも駄目。今のカオルコから取った血を使って、その中から噛み痕に食い込んでいる異物の影紋と対応する部分を抽出する」
「抽出」
純が繰り返す。
「うん。それを元に《再縫合剤》を作る」
リサは言葉を区切った。
「再縫合剤は、簡単に言うと、切れた影脈と欠けた影の輪郭を一時的に柔らかくして、純ちゃん本人の影へ戻すための媒介。カオルコの影紋をそのまま入れるんじゃない。むしろ、異物の形を逆に使って、噛まれた穴をほどき、純ちゃんの影へ縫い直す」
「縫い直す」
「そう」
リサは、銀糸を少し持ち上げた。
「ただし、物理的に縫うだけじゃない。単一光源下で光療法を行う。影が一本になる状態を作って、純ちゃん本人の意識を保ったまま、影脈を接続し直す」
純は眉を寄せた。
「本人の意識を保ったまま、ということは」
「眠らせない」
リサは言った。
「眠らせると、カオルコの残香が表に出やすい。純ちゃん自身が“これは私の影だ”って認識している状態で、縫い直さなきゃいけない。だから、痛い。怖い。声も聞こえると思う」
「どのくらい」
リサは一瞬黙った。
その沈黙で、純は答えを察した。
「かなり?」
「かなり」
リサは誤魔化さなかった。
「痛み止めは使える?」
「肉体用のものは少し。影の痛みは、消しすぎると接続位置がわからなくなる。全部鈍らせることはできない」
純はノートへ書こうとした。
手が震えて字にならない。
戒十が思わず立ち上がりかける。
リサの視線が飛ぶ。
戒十は止まった。
「大丈夫」
純は言った。
でも、声は大丈夫ではなかった。
それでも、ペンを持ち直す。
再縫合剤。
カオルコの新鮮な血と影紋。
単一光源。
意識保持。
痛みあり。
カオルコの声、増える可能性。
書いていると、怖さが文字になる。
文字になると、少しだけ外へ出せる。
純はそう思いながら書いた。
「失敗した場合は?」
純が聞く。
リサの手が止まる。
戒十が即座に言った。
「それは今聞かなくていい」
「聞く」
「水城」
「聞くって言った」
純の声は静かだった。
だが、はっきりしていた。
リサは視線を伏せた。
そのとき、入口近くに立っていたシンが口を開いた。
「俺が説明する」
リサが振り返る。
「シン」
「曖昧にするな。治療されるのは水城だ」
シンは壁から離れ、ベッドのそばへ来た。
肩の固定帯が痛々しい。
だが、その声はいつも通り平坦だった。
「失敗の可能性は大きく三つある」
純はノートを構える。
戒十は顔を険しくした。
「一つ目。再縫合剤が効かず、残香の侵食が止まらない。七十二時間を過ぎれば、影の欠損は固定化する。完全な回復は難しくなる」
「固定化すると、どうなりますか」
「右側の影の反応遅延が恒常化する。肉体症状としては、慢性的な冷え、感覚鈍麻、光過敏。精神面では、カオルコの声や感情混濁が残る可能性がある」
純は書いた。
手が震える。
リサは何も言わない。
シンは続ける。
「二つ目。縫合中に純本人の影人格が損傷する。意識の混濁、記憶の欠落、感情の断裂が起きる。最悪、自分の意思と影の反応が一致しなくなる」
「それは、離影者になるということですか」
「近いが違う。離影者のように影が自立するのではなく、影の一部が応答しなくなる。身体の一部を失うのと似ている。ただし、失うのは肉ではなく、意思の通り道だ」
純は息を呑んだ。
意思の通り道。
その言葉が怖かった。
自分が決めても、影が応答しない。
あるいは、自分が決めていないことを、影がする。
今でさえ、足元の欠けた影は少し遅れている。
それがずっと続く。
純はノートへ書いた。
三つ目を聞く前に、戒十が言った。
「もういい」
声が低い。
怒っている。
怖がっている。
どちらもある。
「そこまで言う必要ないだろ」
シンは戒十を見る。
「ある」
「純を怖がらせてどうする」
「すでに怖い。怖い状態で知らないほうが危険だ」
「言い方があるだろ!」
「選べるようにするには情報がいる」
「最悪の話を聞かせれば選べるっていうのかよ!」
「聞かせなければ、選択ではなく誘導になる」
戒十は立ち上がった。
左手の影が揺れる。
リサが銀糸を持ち上げる。
「戒十くん」
戒十は純を見た。
「水城、聞かなくていい。僕が聞く。僕が覚えて、必要なときに」
「それは駄目」
純は言った。
戒十が止まる。
「どうして」
「私のことだから」
純はシンへ顔を向けた。
「全部話してください」
その声は震えていた。
目も少し潤んでいる。
だが、逃げていなかった。
「怖いです。今すごく怖いです。でも、私の影のことなら、私が聞きます。戒十が代わりに聞いて、必要なときだけ教えるのは違う」
「でも、」
「守ろうとしてくれてるのはわかる」
純は戒十を見た。
「でも、それは私を選ばれる側に戻してる」
戒十は言葉を失った。
昨日、純が言ったこと。
私を選ばれる側に置かないで。
その意味が、ここでまた返ってきた。
純はシンへ向き直る。
「三つ目をお願いします」
シンは頷いた。
容赦はない。
だが、純を見下ろしてはいない。
ただ、当事者として扱っている。
「三つ目。残香が暴走し、純の影を通じてカオルコ側の影害が周囲へ広がる場合。純本人の意思では止められず、他者の影へ噛みつく、または戒十の影紋と共鳴する可能性がある」
戒十の顔が青ざめる。
純はペンを止めそうになったが、書いた。
「その場合は」
「隔離する」
シンは言った。
「それでも止まらない場合、影脈の強制遮断を行う。影人格への損傷は避けられない。肉体保全を優先し、影側の反応を殺す処置になる」
リサが目を伏せた。
シンは続ける。
「さらに、周囲へ致命的な影害を拡散する状態になり、肉体保全も不可能と判断された場合」
戒十が叫ぶ。
「やめろ!」
シンは止まらなかった。
「処分が選択肢に入る」
部屋が凍った。
純のペン先が紙の上で止まる。
処分。
長瀬透。
シンの手帳。
戒十の頭にも、それが浮かんだのだろう。
彼は椅子の背を掴み、爪が木に食い込んだ。
「純は違うだろ」
声が震えている。
「純は普通の人間だ。離影者じゃない。成れの果てじゃない。そんな言い方を」
「普通の人間だから、影害化した場合は耐えられない」
シンの声は低い。
「俺はそうならないために話している」
「話し方があるって言ってる!」
「ある。だから順に話した」
「最悪だ」
「そうだ」
戒十はシンを睨んだ。
シンは目を逸らさない。
リサが静かに言った。
「戒十くん」
「何ですか」
「怒ってるなら申告」
その言葉に、戒十の表情が歪む。
だが、彼は息を吸った。
「怒ってます。血の匂いはありません。左手が熱い。影声は……ある。シンさんを黙らせたい。カオルコを殺したい。純を連れて逃げたい。でも、動きません」
リサは頷いた。
「よし」
「よしじゃない」
「うん。よくない。でも、言えた」
純は戒十を見た。
自分のことで、彼が壊れそうになっている。
それが苦しい。
でも、今、彼が代わりに怒ってしまえば、自分はまた聞く機会を奪われる。
だから、純は小さく言った。
「戒十」
戒十がこちらを見る。
「怒ってくれてありがとう。でも、聞かせて」
戒十は、今にも泣きそうな顔をした。
それが、純には一番つらかった。
それでも、言葉を変えなかった。
「私が聞くから」
戒十は椅子へ崩れるように座った。
左手を押さえる。
影も、彼の足元で震えていた。
シンは少しだけ間を置いてから言った。
「処分は、あくまで最悪の最後だ。俺はそれを避けるためにここにいる」
「信じていいんですか」
純が聞く。
「信じなくていい」
シンは答えた。
「だが、俺は嘘をつかない。必要なら止める。必要がないように、できる限り先に手を打つ」
純は頷いた。
「わかりました」
ノートへ書いた。
最悪時、隔離。
影脈強制遮断。
処分の可能性。
避けるために情報共有。
文字が震えている。
でも、書けた。
リサが静かに言った。
「治療には、純ちゃんの同意がいる」
「同意しなかったら?」
「その場合は、緩和処置と侵食抑制だけする。根本治療はできない。七十二時間後のリスクは高い」
「同意します」
純は即答した。
リサが驚く。
「今すぐ決めなくても」
「カオルコさんを見つけないと治療できないんですよね」
「うん」
「だったら、見つけるまでの時間が必要です。説明は聞きました。怖いです。でも、治したい」
純は噛み痕のある右脇腹を押さえた。
そこはまだ冷たい。
「自分の影を、自分のものに戻したいです」
リサの目が揺れた。
その言葉が、彼女のどこかにも刺さったのだと、純にはわかった。
戒十は低く言った。
「絶対に見つける」
純は彼を見る。
「一人で行かないで」
「わかってる」
「勝手に決めないで」
「わかってる」
「カオルコさんを殺せばいい、って決めないで」
戒十の口が止まった。
影が揺れる。
純は続ける。
「私を治すために必要なのは、カオルコさんの新鮮な血と影紋。殺すことじゃない。そうですよね」
リサが頷く。
「そう。殺したら血影紋が崩れる可能性がある。少なくとも、新鮮な状態で採取する必要がある」
「ほら」
純は戒十を見る。
「私のためって言って、勝手に終わらせないで」
戒十は唇を噛んだ。
「……わかった」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんは記録しておく」
「水城」
純は少しだけ笑った。
笑える状況ではない。
でも、そう言わないと、息が詰まりそうだった。
リサがホワイトボードへ大きく時間を書いた。
発症推定時刻。
残り七十一時間三十二分。
数字が、部屋の空気を変えた。
七十二時間は、もう減り始めている。
純はその数字を見た。
怖い。
でも、見た。
自分のことだから。
治療される者にも、知る権利がある。
怖がる権利もある。
拒む権利も、選ぶ権利も。
純はノートを閉じなかった。
次のページを開く。
そして、震える字で書いた。
私は治療に同意する。
ただし、説明を受け続ける。
私の影のことは、私にも話す。
書き終えると、噛み痕が少し痛んだ。
影の欠けた場所から、カオルコの笑い声がかすかに聞こえた気がした。
純は顔を上げる。
「聞こえました」
リサがすぐに反応する。
「何が?」
「カオルコさんの笑い声。短く。言葉はなし」
「時刻を書いて」
「はい」
純はノートへ記録した。
その横で、戒十は左手を握りしめている。
怒りを、恐怖を、殺意を、全部床へ落とさないように。
シンは入口に戻り、外の気配を確認している。
リサはホワイトボードの数字を見ていた。
七十一時間三十二分。
それは、純の影が完全に奪われるまでの時間ではない。
まだ、自分のものへ戻すために残された時間だった。




