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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第四章 夜の叛逆
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第二節 七十二時間

 純の影は、本人より先に戒十の影へ向いていた。


 机のライトは一つ。


 弱い、暖色の光。


 部屋の中には、余計な反射を作らないように布をかけた鏡と、閉じられたカーテンと、半開きの扉がある。


 それだけのはずだった。


 なのに、純の足元から剥がれた影は、床の上でゆっくりと輪郭を変えていく。


 はじめは薄い布のようだった。


 次に、細い腕のように見えた。


 最後に、花びらが開くように黒が広がる。


 純は動かなかった。


 動けなかった。


 自分の影が自分より先に立ち上がるということが、どれほど異常なのか、頭では理解している。


 しかし、それ以上に、足元から知らない寒さが上がってくるのが怖かった。


 冷たい。


 床が冷たいのではない。


 身体の中が冷えていく。


 脛から膝へ、膝から腰へ、腰から背中へ。


 影の形に沿って、体温が抜けていく。


「純ちゃん、息を止めないで」


 リサの声が聞こえた。


 近い。


 でも遠い。


 耳の奥で、細い金属音のようなものが鳴っている。


 きいん、という耳鳴り。


 それに混ざって、花の香りがした。


 甘く、白く、腐りかけた匂い。


 昨夜、旧市街に満ちていたカオルコの残香。


 純の影が、床の上でふるえた。


 その影の中央に、細い糸のような黒が垂れる。


 窓の外からではない。


 もう、部屋の中から生えている。


 影の中に、白い指先が現れた。


 純は息を呑んだ。


 リサが銀糸を構え、戒十の影も布団の横で膨らむ。


「動くな!」


 リサの声が鋭く飛ぶ。


 それは純へ向けた言葉でもあり、戒十へ向けた言葉でもあった。


 戒十は布団の上で起き上がろうとしていた。


 左手の爪が畳ではなく床板を掻く。


 部分的に残った黒い影が、純の影へ向かって伸びようとする。


 だが、リサの銀糸がそれを抑えた。


「戒十くん、動かない! 君が反応すると残香が強くなる!」


「純の影が――」


「わかってる!」


 リサは叫んだ。


「だから止まって!」


 戒十の顔が苦痛に歪む。


 昼の戒十も、影の戒十も、純のほうへ行きたがっている。


 それが見て取れた。


 守りたい。


 止めたい。


 自分のせいだと思っている。


 その全部が、戒十の影を揺らしている。


 純は震える声で言った。


「戒十、止まって」


 戒十が息を詰める。


 純は続ける。


「二人とも」


 その言葉に、戒十の影が止まった。


 完全ではない。


 それでも、伸びようとしていた黒が、床へ戻る。


 リサは一瞬だけ純を見た。


 感謝ではなく、驚きに近い目だった。


 その隙に、純の影の中から、女の笑い声がした。


「あら」


 甘い声。


 空気ではなく、床から響く声。


 白い指先が、影の縁を押し広げる。


 黒い花びらの中から、カオルコの顔が浮かび上がった。


 実体ではない。


 純の影を水面のようにして、そこに映っている。


 けれど、ただの映像でもなかった。


 目が合う。


 声が届く。


 白い顔。


 長い黒髪。


 薄紫のリボン。


 そして、口元だけが楽しそうに笑っている。


「純さん、朝のお部屋にお邪魔してもよろしいかしら」


「よくない」


 リサが即座に言った。


「でしょうね」


 カオルコは嬉しそうに笑う。


「お姉さまはいつもそう。来てほしい人は呼べないのに、来てほしくないものばかり来る」


「黙りなさい」


「怖い顔」


 カオルコの視線が、布団の上の戒十へ向く。


「猫ちゃん、少し戻ったのね。残念。あの黒い姿、とても似合っていたのに」


 戒十は答えなかった。


 答えられる状態ではない。


 左手の爪が床に食い込み、影が震えている。


 リサの銀糸がなければ、今にも飛び出してしまいそうだった。


 カオルコは次に純を見た。


 いや、正確には、純の影を通して純を見上げた。


「ねえ、純さん」


 呼びかけは柔らかかった。


 だが、純の背筋に冷たいものが走る。


「怪物も本人だと言うなら、あなた自身の醜い影も愛せるの?」


 純は言葉を失った。


 カオルコは続ける。


「怖いのに逃げなかった。名前を呼んだ。二人とも止まって、なんて言った。立派ね。綺麗ね。正しい人みたい」


「私は、そんなつもりじゃ」


「じゃあ、あなたの中には何もないの?」


 カオルコの声が少しだけ低くなる。


「怖かったでしょう。逃げたかったでしょう。どうして私がこんなことを、と思ったでしょう。戒十くんが怪物になったせいで、自分の部屋も、家族に嘘をつくことも、全部めちゃくちゃになった。そう思わなかった?」


 純の呼吸が乱れた。


 思わなかった、とは言えない。


 怖かった。


 今も怖い。


 どうして、と思った。


 自分の部屋に怪物の名残を抱えた戒十が眠っていることも、父や母に何も説明できないことも、全部が怖い。


 それでも、ここにいる。


 その二つは同時にある。


 カオルコは、それを見透かすように笑った。


「あなたの影も、きっと言っているわ。巻き込まれたくない。怖い。逃げたい。どうして私だけが。どうして私が名前を呼ばなきゃいけないの。どうして私が強くなきゃいけないの」


「やめて」


 戒十が低く言った。


 声に獣の唸りが混ざる。


「純に言うな」


「優しい」


 カオルコは微笑んだ。


「でも、純さん本人へ聞いているの。あなたは黙っていて、猫ちゃん」


 純は膝の上で手を握った。


 爪が掌に食い込む。


 痛みで、少しだけ自分が戻る。


「あります」


 純は言った。


 声は震えていた。


「怖いです。逃げたいとも思いました。どうしてって、思いました。戒十のせいだって、少しも思ってないとは言えません」


 戒十の顔が歪む。


 純はそちらを見なかった。


 今は、カオルコを見る必要があった。


「でも、それを持っているから、全部投げ出すって決めたわけじゃない」


「綺麗」


「綺麗じゃないです」


 純は首を振った。


「私は、怖いものを消せません。怒りも、不満も、たぶんあります。でも、それがあるから誰かを噛んでいいとは思いません」


 カオルコの笑みが薄くなる。


 純は続けた。


「それに、愛せるかどうかなんて、今すぐ決められません。自分の嫌な影を見たら、きっと嫌です。怖いです。見たくないです。でも、見ないまま誰かに押しつけるのは違うと思います」


 カオルコの目が暗くなった。


「優等生」


「違います」


「違わない。あなたは、そうやって言葉で立っていられる。怖いくせに。醜いものを持っているくせに。それでも、名前を呼べる。選べる。自分で立てる」


 カオルコの声に、嫉妬が混ざった。


 甘さの下から、むき出しの棘が出る。


「ずるいわ」


 リサが銀糸を少し動かした。


「純ちゃん、後ろへ下がって。影から距離を」


 純は頷こうとした。


 そのとき、戒十の影が痛みに震えた。


 カオルコの影から伸びた黒い糸が、戒十の影へ近づいていたのだ。


 細く、ゆっくりと。


 純の影を通路にして、カオルコの影が戒十へ触れようとしている。


 戒十は動けない。


 リサの銀糸で止められている。


 動けば残香が強まる。


 でも、動かなければカオルコの糸が届く。


 純は考えるより先に、身体が動いていた。


 前へ出る。


 ほんの半歩。


 戒十の影と、自分の影の間へ。


「純!」


 戒十が叫ぶ。


 リサも同時に叫んだ。


「下がって!」


 遅かった。


 カオルコの顔が、影の中で笑った。


「そういうところ」


 黒い糸が、花びらのように開く。


 その奥に、影でできた口があった。


 猫とも、人とも、花ともつかない黒い口。


 それが、純の影へ噛みついた。


 音はなかった。


 だが、純の身体が跳ねた。


 脇腹から腰へかけて、焼けるような痛みが走る。


 純は息を吸おうとして、声が出なかった。


 制服の下。


 右の脇腹から腰へ。


 皮膚の下に、黒い噛み痕が浮かび上がる。


 肉を裂かれたわけではない。


 血も出ていない。


 けれど、痛みは肉体にある。


 影を噛まれたのに、身体が噛まれている。


「純!」


 戒十が布団から起き上がろうとした。


 今度はリサの銀糸が引きちぎれそうになる。


 部分的に戻っていた左腕が、再び黒く膨らむ。


 リサが必死に押さえた。


「戒十くん、動くな! 今暴れたら純ちゃんの影が引き裂かれる!」


「でも!」


「動くなって言ってる!」


 リサの声は泣きそうだった。


 純は膝から崩れた。


 床に手をつく。


 足元の影が、欠けている。


 噛まれた場所だけ、影の輪郭に穴が空いたようになっている。


 自分の影が欠けている。


 それを見た瞬間、純は吐き気を覚えた。


 寒い。


 痛い。


 耳鳴りが強くなる。


 部屋の音が遠ざかる。


 代わりに、カオルコの声だけが近い。


「おめでとう、純さん」


 カオルコは影の中で微笑んでいた。


「あなたも、こちら側の入口に立ったわ」


 リサの顔から血の気が引く。


「カオルコ、何をした」


「影咬よ。お姉さまならわかるでしょう?」


「純ちゃんは離影者じゃない!」


「だから楽しいの。普通の人が、どこまで耐えられるか」


 戒十の喉から低い唸りが漏れる。


 獣の声。


 だが、純が小さく言った。


「戒十、止まって」


 その声は弱い。


 でも、届いた。


 戒十は歯を食いしばり、左手を床へ押しつけた。


 爪が床板を抉る。


 自分を止めるために。


 純は息を震わせながら、リサを見た。


「リサさん」


「しゃべらないで。今すぐ処置を」


「聞いて」


 純の声はか細かった。


 だが、必死だった。


「寒いです。右側、腰のあたり。冷たい。痛いというより、抜けていく感じ」


 リサの表情が変わる。


 医師の顔になった。


 恐怖を押し込め、情報を拾う顔。


「続けて」


「耳鳴り。高い音。ずっと鳴ってます。あと、影が……欠けてる。右側の影が、変です」


「見ないで。見すぎると引っ張られる」


「カオルコさんの声が、近いです」


 純は震える手で、自分の胸元を掴んだ。


「耳じゃなくて、影の中から聞こえる感じ。さっきより近い」


 カオルコが楽しげに言う。


「偉いわ、純さん。ちゃんと報告できるのね」


「黙りなさい!」


 リサが初めて怒鳴った。


 銀糸が純の影へ伸びる。


 今度は噛み痕の周囲を囲むように、慎重に。


 縛るのではなく、広がりを止める。


 純は痛みに顔を歪めた。


 それでも、叫ばなかった。


 叫んだら戒十が動く。


 そう思ったからだ。


 カオルコはそれを見て、また笑みを薄くした。


「我慢も上手。ますます、ずるい」


「治療法を言いなさい」


 リサの声は低い。


 カオルコは首を傾げる。


「教えてほしい?」


「早く」


「七十二時間」


 部屋の空気が止まった。


 カオルコは影の中から、細い指を三本立てる。


「正確には、個人差があるわ。純さんは普通の人だから、三日もたないかもしれない。でも目安は約七十二時間。それまでに噛み痕を中和しないと、欠けた影から残香が根を張る」


「必要なものは」


 リサは即座に聞く。


「わたくしの新鮮な血と影紋」


 カオルコは嬉しそうに言った。


「古い残り香じゃ駄目。保存血でも駄目。わたくしが今持っている血と、わたくしの影紋。その二つで噛み痕を上書きしなければ、純さんの影は少しずつわたくしの残香に食べられていく」


「つまり」


 戒十の声が低くなる。


 人間の声と獣の声が混ざっていた。


「純を助けるには、おまえを見つければいいんだな」


 カオルコは、初めて戒十のその声を正面から受けた。


 少しだけ嬉しそうに、少しだけ怖がるように笑う。


「そうよ、弟くん」


「弟じゃない」


「じゃあ、純さんのためにわたくしを探しに来る猫ちゃん」


 カオルコの視線が、純へ戻る。


「でも急いでね。欠けた影は寒いでしょう? 寂しいでしょう? そのうち、わたくしの声がもっとよく聞こえるようになるわ」


 純は床に片手をついたまま、呼吸を整えようとしていた。


 寒い。


 リサの部屋ではない。


 自分の部屋なのに、床の下に冷たい水が流れているみたいだった。


 噛まれた場所から、何かが抜けていく。


 体温ではない。


 影。


 自分を自分の形にしている、見えない輪郭。


 それが少しずつ削れていく。


 純は必死に顔を上げた。


「戒十」


 戒十がこちらを見る。


 今にも飛び出しそうな目。


 怖い。


 でも、今はそれ以上に、彼が自分のせいだと思う顔をするのが苦しかった。


「動かないで」


「でも、」


「今、動いたら、私、たぶん怖い」


 戒十の顔が歪む。


 その言葉は効いた。


 彼は爪を床へ押しつけたまま、止まる。


 純はリサへ視線を移す。


「リサさん」


「うん、聞いてる」


「寒気、強くなってます。耳鳴りも。影の欠けたところが、広がってる気がします。カオルコさんの声は、まだ聞こえます。でも、言葉は……少し遠いです」


「よし。よく言えた。もう喋らないで」


「あと」


 純は息を吸った。


 吸った空気が冷たい。


「右の腰、噛まれたところ。肉体は、血は出てません。でも、熱がありません」


 リサはすぐに布団の端を引き寄せ、純へかけた。


「戒十くん、動かないまま聞いて。純ちゃんは影咬。通常の黒猫型より複雑。カオルコの残香を介している。今すぐ命が止まるわけじゃない。でも、七十二時間以内にカオルコの血と影紋がいる」


「見つける」


 戒十は言った。


「絶対に」


 その声を聞いて、カオルコが楽しそうに笑った。


「いい顔」


 リサの銀糸が、カオルコの映る影へ走る。


 しかし、純の影を傷つけないように加減しなければならない。


 カオルコはそれを知っている。


 影の水面の中で、彼女はゆっくり後ろへ下がった。


「それじゃあ、探しに来てね。お姉さまも、処刑人さんも、猫ちゃんも」


 最後に、彼女は純を見た。


「純さん。あなたの醜い影が、どんな声で鳴くのか、楽しみにしているわ」


 純は答えなかった。


 答える力がなかった。


 カオルコの姿が、影の中へ沈んでいく。


 花の香りだけが、薄く部屋へ残る。


 純の影は床へ戻った。


 だが、右側が欠けている。


 本人の身体も、それに合わせるように力を失った。


 純は床へ倒れかけた。


 リサが受け止める。


 戒十が動こうとする。


「動かない!」


 リサが叫ぶ。


 戒十は止まった。


 止まったまま、顔だけで純を追う。


 純はリサの腕の中で、薄く目を開けた。


「戒十」


「いる」


 戒十の声は震えていた。


「ここにいる」


「勝手に……終わらせないで」


 純はそれだけ言った。


 それから、意識が落ちた。


 部屋に、机のライトの弱い光だけが残った。


 純の影は一本に戻っている。


 けれど、その右側には、噛みちぎられたような欠けがあった。


 戒十は床に爪を立てたまま、その影を見ていた。


 自分の影ではない。


 純の影。


 純が自分の意思でここに立ち、自分の意思で前へ出た、その影。


 それを、カオルコに噛まれた。


 リサは純を抱えたまま、低く言った。


「七十二時間」


 戒十は顔を上げる。


 琥珀色の目が、弱い光の中で燃えていた。


「カオルコを見つける」


 その声は、昼の戒十のものでも、影の戒十のものでもあった。


 今は、どちらでもよかった。


 純を救うために必要なものは、決まった。


 カオルコの新鮮な血。


 カオルコの影紋。


 そして、残された時間は約七十二時間。


 朝はまだ来たばかりだった。


 だが、部屋の中にはもう、夜より冷たい期限が落ちていた。

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