第一節 三倉戒十が二人いる
朝は、思ったより普通に来た。
純の部屋のカーテンは閉じたままだった。
窓には厚手のブランケットがかけられ、外の光はほとんど入ってこない。机のライトだけが、夜からずっと同じ弱い色で部屋の隅を照らしている。
普通なら、朝になればカーテンを開ける。
窓を開けて空気を入れ替える。
制服へ着替えて、朝食を食べ、学校へ行く。
けれど、その日、純の部屋は朝を拒んでいた。
部屋の中央には、来客用の布団が敷かれている。
その上に、戒十が横たわっていた。
昨夜の獣の姿からは、だいぶ人間に戻っている。
背中を覆っていた黒い影の毛皮は消え、顔の輪郭も少年のものに戻った。けれど、完全に戻ったわけではない。左腕には黒い影紋が残り、爪は人間のものより少し鋭い。頬の端にも、薄い黒い線がひびのように走っている。
眠っているときでさえ、足元の影は濃かった。
机のライトは一つ。
影も一本。
そう調整したはずなのに、その一本の影の内側で、何かが身じろぎしているように見える。
純は扉のそばに座っていた。
昨夜からほとんど眠っていない。
母と弟は予定通り、祖母の家に泊まっている。父からは明け方に「夜勤、少し長引く」とメッセージが来た。純は「大丈夫」とだけ返した。
何が大丈夫なのか、自分でもわからなかった。
自分の部屋に、部分的に怪物のままの同級生が寝ている。
部屋の隅では、リサが壁にもたれて目を閉じている。眠っているように見えるが、銀糸は戒十の影へつながったままだ。少しでも影が跳ねれば、すぐ反応するのだろう。
シンは来ていない。
白昼局を引きつけたあと、まだ連絡が途切れている。
リサは「生きてるよ、あの人はしぶといから」と言った。
その言葉を、純は信じるしかなかった。
机の上には、避難用にまとめたものが並んでいる。
影固定剤。
リサの予備の銀糸。
遮影布の切れ端。
水。
タオル。
救急ポーチ。
スマートフォン。
そして、純が自分で書いたメモ。
光源は一つ。
近づかない。
触らない。
名前を呼ぶ。
左手が動いたら下がる。
血の匂いがある場合は扉の外。
再獣化したら廊下側へ退避。
書かれた文字は、少し震えている。
純はそのメモを見て、昨夜の黒い獣を思い出した。
怖かった。
今も怖い。
その感情は、眠らなかったせいで薄くなったわけではない。むしろ、朝になって輪郭がはっきりした。
暗い路地で見たから怖かったのではない。
巨大だったから怖かったのでもない。
怖かったのは、あれが戒十だと思えたからだ。
知らない怪物なら、逃げればよかった。
でも、あの獣は左手をかばい、純と敵の間に立ち、近づこうとする爪を地面へ押しつけ、名前を呼ばれたとき一度だけ視線を逸らした。
戒十の癖だった。
だから怖かった。
知っている人が、知らない姿になっていることが。
それでも、知っている部分が残っていることが。
布団の上で、戒十の指が動いた。
純は反射的に姿勢を正す。
リサも目を開けた。
眠っていなかったのだろう。
「起きる」
リサが小さく言った。
戒十の瞼が震える。
呼吸が乱れる。
左手の爪が布団を掴んだ。
銀糸がかすかに張る。
リサは動かない。
純も動かない。
机のライトだけが、弱い光を落としている。
戒十はゆっくり目を開けた。
瞳は琥珀色を残していた。
だが、完全な獣の目ではない。
人間の目。
疲れた少年の目。
最初に天井を見て、次に布団を見て、左手を見て、最後に純を見た。
その瞬間、戒十の顔が歪んだ。
「……まだ、いるんだ」
声は掠れていた。
純は頷いた。
「いる」
「帰らなかったんだ」
「ここ、私の部屋だから」
少しだけ間が空いた。
戒十は、状況を理解するまで数秒かかったようだった。
「そうだった」
「うん」
「ごめん」
「何に?」
「全部」
「広すぎる」
純がそう言うと、戒十は少しだけ目を伏せた。
いつもなら皮肉を返すところだ。
でも、返さない。
返せないほど疲れているのだとわかった。
リサが口を挟む。
「体は?」
「痛いです」
「どこが?」
「全部」
「それは広いねえ」
「真似しないでください」
「皮肉が戻ってきた。いい兆候」
「本当にそうですか」
「半分くらい」
リサは軽く言ったが、目は戒十の左腕と影を見ていた。
警戒を解いていない。
戒十もそれに気づいている。
布団の上で、彼は左手を少しだけ動かそうとし、すぐに止めた。
「動かないほうがいい?」
「今はね。部分解除後だから、変に動くと影が追いつかない」
「僕、どこまで戻ってるんですか」
「人間寄り。完全ではない。左腕と牙と、影の尾が少し残ってる」
戒十は目を閉じた。
「最悪」
「うん」
「否定しない」
「できない」
リサの声は優しかった。
しかし、優しいだけではなかった。
昨夜、彼女は刃を構えた。
影片除去の刃。
戒十を止めるために。
そのことを、戒十も覚えているのかもしれない。
覚えていなくても、身体が覚えているのかもしれない。
純は、しばらく黙っていた。
言いたいことはある。
聞きたいこともある。
でも、どこから話せばいいのかわからない。
ただ、一つだけ決めていた。
昨日、自分は怪物を見た。
そのうえで名前を呼んだ。
だから、今度は人間の姿に戻りかけた戒十からも、影の戒十からも、ちゃんと聞かなければならない。
自分がどう扱われるのかではなく。
自分がどう選ぶのかを決めるために。
「戒十」
純は名前を呼んだ。
戒十がこちらを見る。
「聞きたいことがある」
「今?」
「今じゃないと、また逃げると思う」
戒十は何か言い返そうとして、やめた。
「何」
純は少し息を吸った。
緊張で喉が乾いている。
水を飲むべきだと思ったが、飲まなかった。
「私に、どうしてほしいの」
戒十の表情が止まった。
リサも、部屋の隅で視線を上げる。
純は続けた。
「昨日、私は怖かった。今も怖い。でも、ここにいる。だから聞く。戒十は、私にどうしてほしいの」
戒十はすぐには答えなかった。
視線が揺れる。
机のライト。
扉。
自分の左手。
純。
そして、足元の影。
その順に見た。
影が、布団の横で濃くなった。
純は気づいた。
一本の影の中に、二つの気配がある。
昼の戒十。
影の戒十。
昨夜は完全獣化して混ざっていたものが、今はまた少し分かれかけている。
戒十が口を開いた。
「巻き込みたくない」
純は静かに聞いた。
「うん」
「昨日みたいになる。僕は止められないかもしれない。君が近くにいたら、また影が反応する。守りたいのか、独占したいのか、自分でも区別がつかなくなる」
「うん」
「だから、できれば離れてほしい」
そこまで言って、戒十は目を伏せた。
「でも、離れろって言うと怒るんだろ」
「怒る」
「だと思った」
「でも、今の答えは聞いた」
純は頷いた。
胸は痛い。
だが、怒りもある。
「それが昼の戒十の答え?」
「たぶん」
「たぶん?」
「僕がどっちで話してるのか、もう自分でも時々わからない」
戒十は苦しそうに言った。
その声に、嘘はなかった。
純は足元の影を見る。
「じゃあ、影の戒十は?」
部屋の空気が変わった。
リサの銀糸が、ほんの少しだけ緊張する。
戒十の目が見開かれる。
「水城」
「聞くって決めた」
「危ない」
「近づかない。触らない。光は一つ。リサさんもいる」
リサが小さく息を吐いた。
「純ちゃん、すごいこと普通に言うね」
「怖いです」
「うん」
「でも、聞かないまま決められるのは嫌です」
戒十の影が、布団の横でゆっくり立ち上がる。
完全な人型ではない。
輪郭は揺れている。
黒い少年の影。
戒十と同じ背丈。
しかし、顔はない。
目だけが、薄い琥珀色に光った。
戒十の肉体は布団の上に横たわったまま、影だけが少し上体を起こしたように見える。
純の心臓が強く鳴った。
怖い。
でも、これは以前も見た。
歩道橋で話した相手。
純に会いたかったと言った相手。
昼の戒十が言えなかった言葉を、先に言った相手。
そして、昨夜の獣の中にもいた相手。
純は逃げなかった。
「影の戒十」
そう呼ぶと、影が少し揺れた。
戒十の肉体が苦しそうに眉を寄せる。
影の口元らしき場所が、かすかに動いた。
「そばにいてほしい」
声は、戒十のものだった。
けれど、少しだけ違う。
昼の戒十よりも近く、熱く、隠す力が弱い。
「離れないでほしい。怖くても、見てほしい。僕が変わっても、名前を呼んでほしい。昨日みたいに」
純は静かに聞いていた。
影は続ける。
「君がいたら、止まれる」
その言葉に、純の胸が痛んだ。
嬉しさではない。
恐怖に近い痛み。
影は気づかずに続ける。
「君が呼んだら、戻れる。君が見てくれたら、僕は僕でいられる。だから、そばにいて」
戒十の肉体が苦しそうに目を閉じた。
「やめろ」
昼の戒十の声。
影は止まらない。
「君だけが、あの姿を見ても名前を呼んだ」
「やめろって言ってるだろ」
「本当のことだ」
「それは、純に押しつけることじゃない」
純は二人を見た。
同じ声で、同じ身体から、違う方向の言葉が出ている。
昼の戒十は遠ざけようとする。
影の戒十は引き寄せようとする。
どちらも、純のことを考えているように見える。
どちらも、純を見ていない。
純は静かに息を吸った。
「どっちも、不満」
影が止まった。
戒十も目を開ける。
「え」
「不満」
純は繰り返した。
声は震えていなかった。
怖さはある。
だが、怒りがそれを支えていた。
「昼の戒十は、私の意思を無視してる。巻き込みたくない、離れてほしい。それは戒十の怖さだし、私を心配してるのもわかる。でも、私がどうするかを決める前に、もう結論を出してる」
戒十は何も言えなかった。
純は影へ視線を向ける。
「影の戒十は、私の恐怖を軽く考えてる。そばにいてほしい、見てほしい、名前を呼んでほしい。そう言うのはいい。でも、私が怖いって言ったことを、ちゃんと重さとして持ってない」
影が小さく揺れた。
「持ってる」
「持ってない」
純はすぐに返した。
「私がいたら止まれる、って言った。私が呼んだら戻れる、って言った。それは、私にあなたを止める役を渡してる」
影は黙った。
「私は、戒十を止めるための道具じゃない。逃げない証明でもない。怖がらない人でもない。名前を呼ぶ係でもない」
純は自分の膝の上で手を握った。
「私を選ばれる側に置かないで」
部屋の空気が静まり返った。
机のライトの小さな音だけがする。
純は言葉を続けた。
「離れてほしいって言われるのも、そばにいてほしいって言われるのも、どっちも戒十が私を選んでるだけ。私がどうするかは、私が選ぶ」
戒十の唇がわずかに動く。
「水城」
「私も選ぶから」
純は言った。
「怖いから離れる日もあるかもしれない。話したいから残る日もあるかもしれない。近づけないときは近づかない。名前を呼べるときは呼ぶ。でも、それは私が決める」
影の戒十が、かすかに震えた。
昼の戒十も、同じように震えた。
その震え方が、よく似ていた。
やはり、二人は別人ではない。
でも、同じものとして雑に扱っていいわけでもない。
純は少しだけ声を和らげた。
「だから、私にどうしてほしいかは聞く。でも、それをそのまま叶えるとは限らない」
戒十は、しばらく純を見ていた。
やがて、掠れた声で言った。
「水城、本当に厳しい」
「昨日も言われた」
「何回でも言いたくなる」
「言ってもいいよ」
影のほうが、小さく笑ったように揺れた。
「怖いのに、いる」
影が言う。
純は頷く。
「怖いから、決めてる」
「離れないでほしい」
「今は離れない」
影が少しだけ安堵したように見えた。
純はすぐに続ける。
「でも、今は、だからね」
影が止まる。
昼の戒十が、微かに息を漏らした。
「ほんと、容赦ない」
「戒十が逃げるから」
「逃げたいんだよ」
「それも聞く」
純が言うと、戒十は目を伏せた。
「逃げたい」
「うん」
「でも、助けてとも言った」
「聞いた」
「言いたくなかった」
「言ってもいいよ」
「……今は無理」
「じゃあ、また今度」
リサが部屋の隅で、静かに二人を見ていた。
彼女は口を挟まなかった。
銀糸を握ったまま、ただ、戒十の影と純の影を見ている。
その表情には、どこか遠い痛みがあった。
肉体と影。
昼と夜。
どちらを本物にするのか。
かつて誰かに決められた問いが、この小さな部屋で、違う形になっている。
純は二人へ聞いた。
片方を選ばなかった。
自分も選ぶと言った。
リサはそれを、眩しいものを見るような顔で見ていた。
そのとき、純の影が動いた。
最初は、誰も気づかなかった。
机のライトは一つ。
影は一本。
純の影は扉のほうへ細く伸びていた。
その影の先端が、ほんの少しだけ持ち上がった。
床から離れる。
人の影は、光がなければ形を変えない。
本人が動かなければ、先に立ち上がらない。
だが、純は座ったままだった。
手も動かしていない。
呼吸も大きく変わっていない。
それなのに、影だけが、床からゆっくり剥がれる。
リサが最初に気づいた。
「純ちゃん、動かないで」
声が低かった。
純の背筋が冷たくなる。
「え?」
「自分の足元を見ないで。まず、動かない」
戒十の肉体が反応する。
影の戒十も、純の影のほうへ顔を向けた。
「リサさん」
戒十の声が掠れる。
「何ですか」
リサは銀糸を握り直す。
顔色が変わっていた。
純は言われた通り、動かなかった。
見たい。
足元を見たい。
でも、リサの声が真剣すぎた。
心臓が速くなる。
机のライトの弱い光の中で、純の影が本人より先に立ち上がっていく。
細く、薄く。
まだ人型ではない。
ただ、床から剥がれた黒い布のようなもの。
その端に、白い花の匂いがかすかに滲んだ。
純にもわかった。
花の香り。
昨夜、旧市街を満たしていた匂い。
カオルコの残香。
窓の外で、黒い影糸が触れていたことを、誰もまだ知らない。
だが、その痕跡が、今、純の影から立ち上がっている。
戒十が起き上がろうとした。
「純!」
左手の爪が布団を裂く。
リサの銀糸が即座に張る。
「動かないで!」
「でも、純の影が」
「だから動かないで! 君が反応したら、残香が影脈を伝って広がる!」
戒十は止まった。
だが、呼吸が乱れる。
影の戒十が、純へ伸びようとする。
純は震えながら言った。
「戒十」
昼の戒十も、影の戒十も、同時に止まる。
「二人とも、止まって」
昨夜と同じ言葉。
けれど、今度は純自身の影が立ち上がっている。
自分の足元で、何かが生まれようとしている。
純は怖かった。
怖くて、息が浅くなる。
でも、言葉を続けた。
「私も、止まるから」
リサが純の影へ銀糸を伸ばす。
しかし、触れる寸前で止めた。
「駄目だ……乱暴に縛ると噛む」
「噛む?」
純の声が震える。
リサは答えない。
戒十の目が大きくなる。
カオルコの残香。
影が本人より先に立ち上がる。
それが何を意味するのか、全員が理解し始めていた。
純の影の端が、花びらのようにひらいた。
白い花の香りが、部屋の中へ薄く広がる。
窓は閉じている。
カーテンも、ブランケットもかかっている。
それなのに、匂いは純の影から生まれている。
リサが低く呟いた。
「カオルコ……」
机のライトが、かすかに揺れた。
純の影は、本人より先に立ち上がったまま、ゆっくりと戒十の影へ向きを変えた。




