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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第四章 夜の叛逆
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第一節 三倉戒十が二人いる

 朝は、思ったより普通に来た。


 純の部屋のカーテンは閉じたままだった。


 窓には厚手のブランケットがかけられ、外の光はほとんど入ってこない。机のライトだけが、夜からずっと同じ弱い色で部屋の隅を照らしている。


 普通なら、朝になればカーテンを開ける。


 窓を開けて空気を入れ替える。


 制服へ着替えて、朝食を食べ、学校へ行く。


 けれど、その日、純の部屋は朝を拒んでいた。


 部屋の中央には、来客用の布団が敷かれている。


 その上に、戒十が横たわっていた。


 昨夜の獣の姿からは、だいぶ人間に戻っている。


 背中を覆っていた黒い影の毛皮は消え、顔の輪郭も少年のものに戻った。けれど、完全に戻ったわけではない。左腕には黒い影紋が残り、爪は人間のものより少し鋭い。頬の端にも、薄い黒い線がひびのように走っている。


 眠っているときでさえ、足元の影は濃かった。


 机のライトは一つ。


 影も一本。


 そう調整したはずなのに、その一本の影の内側で、何かが身じろぎしているように見える。


 純は扉のそばに座っていた。


 昨夜からほとんど眠っていない。


 母と弟は予定通り、祖母の家に泊まっている。父からは明け方に「夜勤、少し長引く」とメッセージが来た。純は「大丈夫」とだけ返した。


 何が大丈夫なのか、自分でもわからなかった。


 自分の部屋に、部分的に怪物のままの同級生が寝ている。


 部屋の隅では、リサが壁にもたれて目を閉じている。眠っているように見えるが、銀糸は戒十の影へつながったままだ。少しでも影が跳ねれば、すぐ反応するのだろう。


 シンは来ていない。


 白昼局を引きつけたあと、まだ連絡が途切れている。


 リサは「生きてるよ、あの人はしぶといから」と言った。


 その言葉を、純は信じるしかなかった。


 机の上には、避難用にまとめたものが並んでいる。


 影固定剤。


 リサの予備の銀糸。


 遮影布の切れ端。


 水。


 タオル。


 救急ポーチ。


 スマートフォン。


 そして、純が自分で書いたメモ。


 光源は一つ。


 近づかない。


 触らない。


 名前を呼ぶ。


 左手が動いたら下がる。


 血の匂いがある場合は扉の外。


 再獣化したら廊下側へ退避。


 書かれた文字は、少し震えている。


 純はそのメモを見て、昨夜の黒い獣を思い出した。


 怖かった。


 今も怖い。


 その感情は、眠らなかったせいで薄くなったわけではない。むしろ、朝になって輪郭がはっきりした。


 暗い路地で見たから怖かったのではない。


 巨大だったから怖かったのでもない。


 怖かったのは、あれが戒十だと思えたからだ。


 知らない怪物なら、逃げればよかった。


 でも、あの獣は左手をかばい、純と敵の間に立ち、近づこうとする爪を地面へ押しつけ、名前を呼ばれたとき一度だけ視線を逸らした。


 戒十の癖だった。


 だから怖かった。


 知っている人が、知らない姿になっていることが。


 それでも、知っている部分が残っていることが。


 布団の上で、戒十の指が動いた。


 純は反射的に姿勢を正す。


 リサも目を開けた。


 眠っていなかったのだろう。


「起きる」


 リサが小さく言った。


 戒十の瞼が震える。


 呼吸が乱れる。


 左手の爪が布団を掴んだ。


 銀糸がかすかに張る。


 リサは動かない。


 純も動かない。


 机のライトだけが、弱い光を落としている。


 戒十はゆっくり目を開けた。


 瞳は琥珀色を残していた。


 だが、完全な獣の目ではない。


 人間の目。


 疲れた少年の目。


 最初に天井を見て、次に布団を見て、左手を見て、最後に純を見た。


 その瞬間、戒十の顔が歪んだ。


「……まだ、いるんだ」


 声は掠れていた。


 純は頷いた。


「いる」


「帰らなかったんだ」


「ここ、私の部屋だから」


 少しだけ間が空いた。


 戒十は、状況を理解するまで数秒かかったようだった。


「そうだった」


「うん」


「ごめん」


「何に?」


「全部」


「広すぎる」


 純がそう言うと、戒十は少しだけ目を伏せた。


 いつもなら皮肉を返すところだ。


 でも、返さない。


 返せないほど疲れているのだとわかった。


 リサが口を挟む。


「体は?」


「痛いです」


「どこが?」


「全部」


「それは広いねえ」


「真似しないでください」


「皮肉が戻ってきた。いい兆候」


「本当にそうですか」


「半分くらい」


 リサは軽く言ったが、目は戒十の左腕と影を見ていた。


 警戒を解いていない。


 戒十もそれに気づいている。


 布団の上で、彼は左手を少しだけ動かそうとし、すぐに止めた。


「動かないほうがいい?」


「今はね。部分解除後だから、変に動くと影が追いつかない」


「僕、どこまで戻ってるんですか」


「人間寄り。完全ではない。左腕と牙と、影の尾が少し残ってる」


 戒十は目を閉じた。


「最悪」


「うん」


「否定しない」


「できない」


 リサの声は優しかった。


 しかし、優しいだけではなかった。


 昨夜、彼女は刃を構えた。


 影片除去の刃。


 戒十を止めるために。


 そのことを、戒十も覚えているのかもしれない。


 覚えていなくても、身体が覚えているのかもしれない。


 純は、しばらく黙っていた。


 言いたいことはある。


 聞きたいこともある。


 でも、どこから話せばいいのかわからない。


 ただ、一つだけ決めていた。


 昨日、自分は怪物を見た。


 そのうえで名前を呼んだ。


 だから、今度は人間の姿に戻りかけた戒十からも、影の戒十からも、ちゃんと聞かなければならない。


 自分がどう扱われるのかではなく。


 自分がどう選ぶのかを決めるために。


「戒十」


 純は名前を呼んだ。


 戒十がこちらを見る。


「聞きたいことがある」


「今?」


「今じゃないと、また逃げると思う」


 戒十は何か言い返そうとして、やめた。


「何」


 純は少し息を吸った。


 緊張で喉が乾いている。


 水を飲むべきだと思ったが、飲まなかった。


「私に、どうしてほしいの」


 戒十の表情が止まった。


 リサも、部屋の隅で視線を上げる。


 純は続けた。


「昨日、私は怖かった。今も怖い。でも、ここにいる。だから聞く。戒十は、私にどうしてほしいの」


 戒十はすぐには答えなかった。


 視線が揺れる。


 机のライト。


 扉。


 自分の左手。


 純。


 そして、足元の影。


 その順に見た。


 影が、布団の横で濃くなった。


 純は気づいた。


 一本の影の中に、二つの気配がある。


 昼の戒十。


 影の戒十。


 昨夜は完全獣化して混ざっていたものが、今はまた少し分かれかけている。


 戒十が口を開いた。


「巻き込みたくない」


 純は静かに聞いた。


「うん」


「昨日みたいになる。僕は止められないかもしれない。君が近くにいたら、また影が反応する。守りたいのか、独占したいのか、自分でも区別がつかなくなる」


「うん」


「だから、できれば離れてほしい」


 そこまで言って、戒十は目を伏せた。


「でも、離れろって言うと怒るんだろ」


「怒る」


「だと思った」


「でも、今の答えは聞いた」


 純は頷いた。


 胸は痛い。


 だが、怒りもある。


「それが昼の戒十の答え?」


「たぶん」


「たぶん?」


「僕がどっちで話してるのか、もう自分でも時々わからない」


 戒十は苦しそうに言った。


 その声に、嘘はなかった。


 純は足元の影を見る。


「じゃあ、影の戒十は?」


 部屋の空気が変わった。


 リサの銀糸が、ほんの少しだけ緊張する。


 戒十の目が見開かれる。


「水城」


「聞くって決めた」


「危ない」


「近づかない。触らない。光は一つ。リサさんもいる」


 リサが小さく息を吐いた。


「純ちゃん、すごいこと普通に言うね」


「怖いです」


「うん」


「でも、聞かないまま決められるのは嫌です」


 戒十の影が、布団の横でゆっくり立ち上がる。


 完全な人型ではない。


 輪郭は揺れている。


 黒い少年の影。


 戒十と同じ背丈。


 しかし、顔はない。


 目だけが、薄い琥珀色に光った。


 戒十の肉体は布団の上に横たわったまま、影だけが少し上体を起こしたように見える。


 純の心臓が強く鳴った。


 怖い。


 でも、これは以前も見た。


 歩道橋で話した相手。


 純に会いたかったと言った相手。


 昼の戒十が言えなかった言葉を、先に言った相手。


 そして、昨夜の獣の中にもいた相手。


 純は逃げなかった。


「影の戒十」


 そう呼ぶと、影が少し揺れた。


 戒十の肉体が苦しそうに眉を寄せる。


 影の口元らしき場所が、かすかに動いた。


「そばにいてほしい」


 声は、戒十のものだった。


 けれど、少しだけ違う。


 昼の戒十よりも近く、熱く、隠す力が弱い。


「離れないでほしい。怖くても、見てほしい。僕が変わっても、名前を呼んでほしい。昨日みたいに」


 純は静かに聞いていた。


 影は続ける。


「君がいたら、止まれる」


 その言葉に、純の胸が痛んだ。


 嬉しさではない。


 恐怖に近い痛み。


 影は気づかずに続ける。


「君が呼んだら、戻れる。君が見てくれたら、僕は僕でいられる。だから、そばにいて」


 戒十の肉体が苦しそうに目を閉じた。


「やめろ」


 昼の戒十の声。


 影は止まらない。


「君だけが、あの姿を見ても名前を呼んだ」


「やめろって言ってるだろ」


「本当のことだ」


「それは、純に押しつけることじゃない」


 純は二人を見た。


 同じ声で、同じ身体から、違う方向の言葉が出ている。


 昼の戒十は遠ざけようとする。


 影の戒十は引き寄せようとする。


 どちらも、純のことを考えているように見える。


 どちらも、純を見ていない。


 純は静かに息を吸った。


「どっちも、不満」


 影が止まった。


 戒十も目を開ける。


「え」


「不満」


 純は繰り返した。


 声は震えていなかった。


 怖さはある。


 だが、怒りがそれを支えていた。


「昼の戒十は、私の意思を無視してる。巻き込みたくない、離れてほしい。それは戒十の怖さだし、私を心配してるのもわかる。でも、私がどうするかを決める前に、もう結論を出してる」


 戒十は何も言えなかった。


 純は影へ視線を向ける。


「影の戒十は、私の恐怖を軽く考えてる。そばにいてほしい、見てほしい、名前を呼んでほしい。そう言うのはいい。でも、私が怖いって言ったことを、ちゃんと重さとして持ってない」


 影が小さく揺れた。


「持ってる」


「持ってない」


 純はすぐに返した。


「私がいたら止まれる、って言った。私が呼んだら戻れる、って言った。それは、私にあなたを止める役を渡してる」


 影は黙った。


「私は、戒十を止めるための道具じゃない。逃げない証明でもない。怖がらない人でもない。名前を呼ぶ係でもない」


 純は自分の膝の上で手を握った。


「私を選ばれる側に置かないで」


 部屋の空気が静まり返った。


 机のライトの小さな音だけがする。


 純は言葉を続けた。


「離れてほしいって言われるのも、そばにいてほしいって言われるのも、どっちも戒十が私を選んでるだけ。私がどうするかは、私が選ぶ」


 戒十の唇がわずかに動く。


「水城」


「私も選ぶから」


 純は言った。


「怖いから離れる日もあるかもしれない。話したいから残る日もあるかもしれない。近づけないときは近づかない。名前を呼べるときは呼ぶ。でも、それは私が決める」


 影の戒十が、かすかに震えた。


 昼の戒十も、同じように震えた。


 その震え方が、よく似ていた。


 やはり、二人は別人ではない。


 でも、同じものとして雑に扱っていいわけでもない。


 純は少しだけ声を和らげた。


「だから、私にどうしてほしいかは聞く。でも、それをそのまま叶えるとは限らない」


 戒十は、しばらく純を見ていた。


 やがて、掠れた声で言った。


「水城、本当に厳しい」


「昨日も言われた」


「何回でも言いたくなる」


「言ってもいいよ」


 影のほうが、小さく笑ったように揺れた。


「怖いのに、いる」


 影が言う。


 純は頷く。


「怖いから、決めてる」


「離れないでほしい」


「今は離れない」


 影が少しだけ安堵したように見えた。


 純はすぐに続ける。


「でも、今は、だからね」


 影が止まる。


 昼の戒十が、微かに息を漏らした。


「ほんと、容赦ない」


「戒十が逃げるから」


「逃げたいんだよ」


「それも聞く」


 純が言うと、戒十は目を伏せた。


「逃げたい」


「うん」


「でも、助けてとも言った」


「聞いた」


「言いたくなかった」


「言ってもいいよ」


「……今は無理」


「じゃあ、また今度」


 リサが部屋の隅で、静かに二人を見ていた。


 彼女は口を挟まなかった。


 銀糸を握ったまま、ただ、戒十の影と純の影を見ている。


 その表情には、どこか遠い痛みがあった。


 肉体と影。


 昼と夜。


 どちらを本物にするのか。


 かつて誰かに決められた問いが、この小さな部屋で、違う形になっている。


 純は二人へ聞いた。


 片方を選ばなかった。


 自分も選ぶと言った。


 リサはそれを、眩しいものを見るような顔で見ていた。


 そのとき、純の影が動いた。


 最初は、誰も気づかなかった。


 机のライトは一つ。


 影は一本。


 純の影は扉のほうへ細く伸びていた。


 その影の先端が、ほんの少しだけ持ち上がった。


 床から離れる。


 人の影は、光がなければ形を変えない。


 本人が動かなければ、先に立ち上がらない。


 だが、純は座ったままだった。


 手も動かしていない。


 呼吸も大きく変わっていない。


 それなのに、影だけが、床からゆっくり剥がれる。


 リサが最初に気づいた。


「純ちゃん、動かないで」


 声が低かった。


 純の背筋が冷たくなる。


「え?」


「自分の足元を見ないで。まず、動かない」


 戒十の肉体が反応する。


 影の戒十も、純の影のほうへ顔を向けた。


「リサさん」


 戒十の声が掠れる。


「何ですか」


 リサは銀糸を握り直す。


 顔色が変わっていた。


 純は言われた通り、動かなかった。


 見たい。


 足元を見たい。


 でも、リサの声が真剣すぎた。


 心臓が速くなる。


 机のライトの弱い光の中で、純の影が本人より先に立ち上がっていく。


 細く、薄く。


 まだ人型ではない。


 ただ、床から剥がれた黒い布のようなもの。


 その端に、白い花の匂いがかすかに滲んだ。


 純にもわかった。


 花の香り。


 昨夜、旧市街を満たしていた匂い。


 カオルコの残香。


 窓の外で、黒い影糸が触れていたことを、誰もまだ知らない。


 だが、その痕跡が、今、純の影から立ち上がっている。


 戒十が起き上がろうとした。


「純!」


 左手の爪が布団を裂く。


 リサの銀糸が即座に張る。


「動かないで!」


「でも、純の影が」


「だから動かないで! 君が反応したら、残香が影脈を伝って広がる!」


 戒十は止まった。


 だが、呼吸が乱れる。


 影の戒十が、純へ伸びようとする。


 純は震えながら言った。


「戒十」


 昼の戒十も、影の戒十も、同時に止まる。


「二人とも、止まって」


 昨夜と同じ言葉。


 けれど、今度は純自身の影が立ち上がっている。


 自分の足元で、何かが生まれようとしている。


 純は怖かった。


 怖くて、息が浅くなる。


 でも、言葉を続けた。


「私も、止まるから」


 リサが純の影へ銀糸を伸ばす。


 しかし、触れる寸前で止めた。


「駄目だ……乱暴に縛ると噛む」


「噛む?」


 純の声が震える。


 リサは答えない。


 戒十の目が大きくなる。


 カオルコの残香。


 影が本人より先に立ち上がる。


 それが何を意味するのか、全員が理解し始めていた。


 純の影の端が、花びらのようにひらいた。


 白い花の香りが、部屋の中へ薄く広がる。


 窓は閉じている。


 カーテンも、ブランケットもかかっている。


 それなのに、匂いは純の影から生まれている。


 リサが低く呟いた。


「カオルコ……」


 机のライトが、かすかに揺れた。


 純の影は、本人より先に立ち上がったまま、ゆっくりと戒十の影へ向きを変えた。

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