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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第三章 夜の産声
21/31

第七節 怪物を家へ連れて帰る

 黒い獣は、弱い街灯の下で止まっていた。


 自分の爪を、自分の影へ突き立てて。


 荒い呼吸のたび、背中を覆う黒い影が波打つ。大型の猫科獣にも、人間の変わり果てた姿にも見えるその身体は、まだ完全には戒十へ戻っていない。


 だが、動かなかった。


 純が名前を呼んだから。


 昼の戒十と、影の戒十をまとめて呼んだから。


 その声を聞いて、獣は自分を止めた。


 リサは銀糸を張ったまま、息を殺していた。


 シンは痛めた肩を押さえながら、影縫刀を構えている。


 純は路地の端で、両手を見える位置に出したまま立っている。


 誰も動けなかった。


 動けば、均衡が崩れる。


 その静けさを破ったのは、カオルコだった。


「……つまらない」


 庇の上から落ちた声は、さっきまでの甘さを失っていた。


 白いワンピースの裾から、黒い影が糸のように垂れている。


 カオルコは純を見ていた。


 リサではなく。


 獣化した戒十でもなく。


 純を。


「怖がっていたくせに」


 純は答えなかった。


 答えられる余裕もなかった。


 足はまだ震えている。


 手も冷たい。


 呼吸は浅い。


 それでも、目だけは逸らさなかった。


 カオルコは笑った。


 その笑みは、ひどく歪んでいた。


「でも、いいわ」


 彼女は庇の上でゆっくりと片足を引いた。


「今日は、これで十分。猫ちゃんは生まれた。お姉さまは刃を向けた。処刑人さんは縫えなかった。そして、純さんは怪物を見ても名前を呼んだ」


 最後の言葉だけ、棘のようだった。


 リサが低く言う。


「カオルコ。もう逃がさない」


「今のお姉さまに?」


 カオルコは首を傾げる。


「無理よ。守るものが多すぎるもの」


 その言葉と同時に、路地の奥で黒猫型落影が数匹、影から身体を起こした。


 リサが銀糸を構え直す。


 シンも刀を動かそうとする。


 だが、カオルコは戦うつもりではなかった。


 黒猫たちは攻撃ではなく、煙幕のように路地へ広がった。


 花の香りが再び濃くなる。


 甘く、白く、腐りかけた匂い。


 純は反射的に口元を押さえた。


 獣化した戒十の喉が低く鳴る。


 爪が自分の影へさらに深く食い込む。


 動くな。


 そう自分へ命じるように。


 カオルコは、その姿を見て少しだけ目を細めた。


「ねえ、猫ちゃん」


 獣の耳がわずかに動く。


「今度は、もっと自由にしてあげる」


 リサが叫ぶ。


「黙りなさい!」


「嫌」


 カオルコは笑った。


 その笑いは、子どものようで、同時にひどく古い。


「お姉さまが呼んでくれないなら、わたくしは呼ばせる。お母さまが欲しいものも、父さまが戻したいものも、全部、ちゃんと形にしてあげる」


 彼女の足元の影がほどける。


 身体の輪郭が一瞬だけ崩れ、白い服の少女ではなく、いくつもの黒い糸が束ねられたもののように見えた。


 次の瞬間、カオルコは庇の影へ沈んだ。


 黒猫型落影も、それに続いて散る。


 花の香りだけが残った。


 リサはすぐに追おうとした。


 だが、獣化した戒十が呻いた。


 低い、苦痛の声。


 リサの足が止まる。


 シンが短く言った。


「追うな」


「わかってる」


 リサは歯を食いしばる。


「わかってるよ」


 遠くで、サイレンの音が聞こえた。


 普通の警察車両ではない。


 もっと低く、硬い音。


 シンの顔が険しくなる。


「白昼局だ」


 リサが振り返る。


「早すぎる」


「強制捜査準備に入っていた。ここで影害反応が出れば、来る」


 VIOLET DRAGONの裏口から、白髪交じりのカウンターの男が顔を出した。


 腕の傷には布が巻かれている。


「中、ひどいぞ。照明系が半分死んだ。地下への影錠も一部焼けてる」


「住人は?」


「避難はした。でも、全員を地下に戻すのは無理だ。白昼局が来るなら、ここには置けねえ」


 リサは一瞬だけ目を閉じた。


 VIOLET DRAGON。


 夜の住人たちの場所。


 古いバー。


 紫の地下。


 戒十が最初に連れてこられ、怪物と人間の間で生きる者たちを見た場所。


 そこが、いま壊れかけている。


 入口は影錠で封鎖され、店内は照明暴走で焼け、地下には花の残香が入り込んだ。


 安全な拠点ではなくなった。


 少なくとも今夜は。


 獣化した戒十が、地面へ沈むように崩れた。


 爪が影から抜ける。


 巨大な影が一度膨らみ、黒い獣の輪郭が揺らぐ。


 完全に人へ戻るのではない。


 影の毛皮が剥がれるように薄れ、肩の盛り上がりが少し下がり、前脚だった腕が人の腕に近づく。


 だが、指先の爪は残っている。


 牙も完全には消えない。


 左腕には黒い影紋が脈打ち、背中から尾のような影が短く伸びたままだ。


 制服は破れている。


 呼吸は荒い。


 目は閉じているが、瞼の下で琥珀色の光がちらついた。


「戒十!」


 純が一歩出ようとする。


 リサがすぐに手で制した。


「近づかないで。まだ反射が残ってる」


 純は止まった。


 手を胸の前で握る。


「生きてますか」


「生きてる」


 リサは膝をつき、銀糸を慎重に戒十の影へかけた。


 シンも近づき、影縫刀を地面へ軽く差す。


 戒十を縫い止めるのではなく、周囲の影を整えるように。


「完全解除ではないな」


「うん。半分戻っただけ」


 リサの声が硬い。


「地下へは?」


 カウンターの男が聞く。


 シンは首を振った。


「無理だ。白昼局が来る。ここで見つかれば、即時確保される」


「白昼局に渡せば?」


 誰かが言った。


 裏口の内側から、ギターの若い男が顔を出していた。


 腕に擦り傷がある。


 顔は青ざめている。


「今のを見たら、あいつら絶対処分する。でも、ここに置いても全員巻き込まれる」


 その言葉に、リサは反論しようとして、できなかった。


 戒十の姿は、あまりにも危険に見えた。


 完全獣化。


 クイーンの血影紋。


 シンの影縫いを引き抜いた力。


 住人の血へ反応したこと。


 白昼局処分派が求めていた根拠が、すべて揃ってしまっている。


 リサは低く言った。


「渡さない」


「じゃあどこへ置くんだよ」


 若い男の声は責めるというより、怯えていた。


「地下は壊れた。白昼局は来る。外はカオルコがいる。どこに連れてくんだ」


 誰も答えなかった。


 サイレンが近づく。


 白昼局の照射車両が、旧市街の広い通りへ入り始めているのだろう。


 光が遠くのビルの壁へ反射した。


 白い。


 強い。


 昼のような光。


 その光に、戒十の残った影がびくりと震えた。


 純は、倒れた戒十と、リサと、シンと、壊れたVIOLET DRAGONの入口を見た。


 答えがないなら、自分が言うしかない。


 そう思った。


「私の家へ」


 全員が純を見た。


 リサが最初に言う。


「純ちゃん、それは」


「私の家へ連れていきます」


「駄目」


「どうして」


「危ない」


「危ないのはわかってます」


「ご家族は?」


「父は夜勤です。母と弟は、母方の実家に行っています。明日の夕方まで帰りません」


 言いながら、純の頭は急速に動いていた。


 父は今夜から翌朝まで夜勤。


 母は弟を連れて祖母の家へ泊まり。


 自分は本来、一人で家にいる予定だった。


 だから旧市街へ来ることもできた。


 その偶然を、今使うしかない。


「家族には説明できません。全部は無理です。でも、今夜だけなら部屋へ入れられます」


「純ちゃん」


 リサの声は、今度は責めるものではなかった。


 怖がっている。


 純のために。


「君の部屋に、今の戒十くんを入れるって言ってるんだよ」


「はい」


「再獣化したら?」


「逃げ道を作ります。窓も、扉も、照明も調整します。私が近づきすぎないようにします」


「そういう問題じゃない」


「そういう問題でもあります」


 純ははっきり言った。


 声は震えていた。


 それでも、言葉は折れなかった。


「さっき、光を減らしたら止まりました。単一の弱い光なら影が分裂しにくい。近づくと危ない。触らない。名前で呼ぶ。逃げ道を塞がない。それなら、少なくとも何もしないよりはましです」


 シンが純を見る。


 じっと。


 怖い目だった。


 だが、純は視線を逸らさなかった。


「家の構造は」


「二階建てです。私の部屋は二階の角部屋。窓は一つ、ベランダなし。扉は廊下側。姿見はありますが、布で覆えます。照明は天井灯と机のライト。天井灯は消して、机のライトだけにできます。窓はカーテンで閉めます。廊下へ出たら階段。階段の下は玄関です」


「退路は」


「私が廊下側へ逃げます。戒十が暴れたら、部屋の中から窓側へ誘導しない。窓ガラスは危ないので、机を少しずらして距離を作ります」


「遮光は」


「厚いカーテンがあります。足りなければ布をかけます」


 リサが小さく呟く。


「準備、できてるみたいに言うね」


「今考えました」


「すごいなあ」


「すごくないです。怖いから考えてるんです」


 純の声は、そこだけ少し震えた。


「怖いから、何をすれば少しでもましなのか考えてるんです」


 リサは黙った。


 シンが短く言う。


「白昼局が近い。迷う時間はない」


「シン」


 リサが見る。


 シンは純から視線を外さずに言った。


「条件をつける。遮影布で搬送。家までリサが同行。俺は白昼局を引きつける」


「肩やられてるでしょ」


「動ける」


「そういう問題じゃ」


「時間がない」


 シンの声は硬かった。


 遠くの白い光が、さらに近づく。


 カウンターの男が言う。


「俺も残る。店の中の連中を逃がす。白昼局には、戒十は地下にいないって言う」


「嘘が下手そう」


 リサが言う。


「うるせえ。何十年ここで客商売してると思ってんだ」


 その言葉に、ほんの一瞬だけ、いつものVIOLET DRAGONの空気が戻った。


 すぐに消えた。


 リサは深く息を吸う。


「純ちゃん。本当にいいの?」


「よくはないです」


 純は答えた。


「でも、他に場所がないなら」


「君が背負う必要はない」


「背負いません」


 リサが目を見開く。


 純は続けた。


「全部は背負いません。リサさんも来てください。シンさんも、あとで来てください。私一人にしないでください。戒十にも、私だけが理解する役を押しつけないでって言われました」


 実際にその言葉を言ったのはカオルコだった。


 だが、今それを説明する時間はない。


 リサは少しだけ泣きそうな顔をした。


「うん」


 彼女は頷いた。


「行こう」


     ◇


 遮影布は、思ったより重かった。


 黒に近い灰色の厚い布。


 表面はざらつき、裏側には細い銀の糸が格子状に縫い込まれている。


 光を遮るだけではない。


 影が外へ漏れるのを抑え、外からの光による影の分裂を防ぐための布だという。


 リサとカウンターの男がそれを広げ、部分的に人へ戻った戒十の身体を包んだ。


 戒十は意識がない。


 だが、完全に無抵抗でもない。


 布が左腕へ触れた瞬間、黒い爪が反射的に動いた。


 純は思わず息を呑む。


 リサがすぐに銀糸を引く。


「大丈夫。反射」


「痛そう」


「痛いと思う。でも今は、動かしたほうがもっと痛い」


 リサの声は静かだった。


 戒十の身体は、布の中で重く沈んでいる。


 人間一人分の重さではない。


 影の重さがある。


 シンが肩を押さえながら、裏通りの角を確認した。


「白昼局は正面側へ回った。裏はまだ空いている」


「何分?」


「三分」


「少な」


「走れ」


 リサは純を見る。


「純ちゃん、道案内」


「はい」


「できるだけ明るすぎない道。人の少ない道。でも完全な暗がりは避ける」


「……難しいです」


「うん。難しいやつ」


「こっちです」


 純はすぐに歩き出した。


 走りたい。


 でも、戒十を包んだ遮影布は揺らしてはいけない。


 リサとカウンターの男が両側を持ち、シンが最後尾に立つ。


 途中で、シンは角を曲がる直前に止まった。


「俺はここまでだ」


 リサが振り返る。


「シン」


「白昼局を正面へ引き戻す。俺がいないほうが、純の家の周辺へ追跡がつきにくい」


「肩」


「後で見る」


「絶対後で見せて」


「戻れたらな」


「そういう言い方やめて」


 シンは答えない。


 代わりに、純を見た。


「水城」


「はい」


「怖くなったら逃げろ。約束しろ」


 純は一瞬、言葉に詰まった。


 逃げないとは言えない。


 逃げてもいいと、自分へ許可することも必要なのだと、さっき理解したばかりだった。


「逃げる必要があると判断したら、逃げます」


 シンは短く頷いた。


「それでいい」


 リサが何か言おうとしたが、シンはもう背を向けていた。


 白い照射光が近づく方向へ、彼は歩いていく。


 刀を抜かずに。


 しかし、その足元の影は鋭く伸びていた。


     ◇


 純の家までは、遠くない。


 だが、その道のりはひどく長く感じた。


 旧市街から住宅街へ入ると、花の香りは少し薄れた。


 代わりに、夜の生活音が戻ってくる。


 どこかの家のテレビ。


 換気扇。


 犬の鳴き声。


 自転車のブレーキ音。


 純はそれらが普通に聞こえるたび、今自分が普通でないものを家へ運んでいることを意識した。


 怪物を家へ連れて帰る。


 その言葉を頭の中で言ってみると、あまりにも現実味がなかった。


 だが、遮影布の下で戒十が小さく呻くたび、現実に戻される。


 彼は生きている。


 まだ怪物の形を残したまま。


 純の家に着いたのは、深夜に近い時間だった。


 周囲の家はほとんど明かりを落としている。


 父の車はない。


 母の自転車もない。


 予定通り、家には誰もいない。


 純は鍵を開ける前に、一度だけ手を止めた。


 ここへ入れたら、もう完全には戻れない。


 自分の部屋が、普通の女子高生の部屋ではなくなる。


 勉強机。


 本棚。


 カーテン。


 ベッド。


 ぬいぐるみではないが、小学生のころから置いている小さなガラス細工。


 そういうものの中へ、獣化した戒十を入れる。


 怖い。


 それでも、鍵を回した。


「入ります」


 誰もいない家に向かって、いつものように言った。


 その声が少し震えた。


 リサが小さく言う。


「お邪魔します」


「今、礼儀あります?」


「こういうときほど」


 少しだけ笑いそうになった。


 笑えなかった。


 二階へ上がる階段は狭い。


 遮影布に包まれた戒十を運ぶには不向きだった。


 リサが銀糸を使い、影が階段の角へ引っかからないよう慎重に支える。


 カウンターの男は玄関で待つことになった。


 部屋へ入る人数を増やしすぎないためだ。


 純の部屋に、戒十が入る。


 その瞬間、純はまた息が止まりそうになった。


 自分の部屋。


 カーテンは薄いクリーム色。


 机の上には学校の教科書と図書館で借りた本。


 ベッドの横には、布製のブックカバーがかかった文庫本。


 壁にはカレンダー。


 姿見はクローゼットの横。


 日常のものばかり。


 そこへ、黒い遮影布に包まれた戒十が横たえられる。


 日常が、静かに裂ける音がした気がした。


「まず窓」


 リサが言う。


 純はすぐに動いた。


 カーテンを閉める。


 さらに厚手の冬用ブランケットを窓へかける。


 外の街灯の光がほとんど遮られた。


「鏡」


 姿見へ布をかける。


 ガラスの反射が消える。


「照明」


 天井灯を消す。


 机のライトだけをつける。


 白い光ではなく、暖色に切り替える。


 リサが光の位置を確認し、机ごと少し動かした。


「この角度なら影は一本。強すぎない。部屋の隅へ伸びる」


「ベッドは?」


「戒十くんは床。ごめんね、女の子の部屋だけど、ベッドは危ない。落ちるし、影が下へ潜る」


「床に布団を敷きます」


 純は押し入れから来客用の布団を出した。


 手が震えてうまく広げられない。


 リサが手伝う。


 遮影布のまま戒十を布団へ移す。


 左腕だけは、少し余裕を持たせて固定する。


 完全に縛らない。


 だが、急に伸びた場合はリサの銀糸で抑えられるように。


「出入口」


 リサが言う。


 純は部屋の扉を半分開けた。


「閉めないんですか」


「閉めきると逃げ道がなくなる。君の退路も必要。戒十くんにも、出られる方向が見えたほうが落ち着く場合がある。ただし階段側へ行かせないように、廊下に椅子を置いて障害にする」


 純は頷き、廊下に椅子を置いた。


 リサはさらに、部屋の中の危ないものを確認する。


 ハサミ。


 ペン立て。


 鏡面のある小物入れ。


 金属製のブックエンド。


 それらを机の引き出しへしまう。


「純ちゃんの避難位置は?」


「扉の外。廊下側」


「戒十くんが動いたら?」


「近づかない。名前を呼ぶ。左手が動いたら距離を取る。影が分裂したら照明を確認する。血の匂いがしたら、私は下がる」


「連絡先」


「リサさんに直接。シンさんにも」


「シンはしばらく動けないかも。でも番号は入れておいて」


 純は頷く。


 スマートフォンへ連絡先を登録する手が、やはり震えていた。


 リサはそれを見て、静かに言う。


「怖い?」


「怖いです」


「うん」


「でも、準備している間は少しましです」


「それはいいこと」


「そうなんですか」


「怖いまま手順を作れるのは、強いことだよ」


 純は答えられなかった。


 強いとは思えない。


 ただ、怖いから動いているだけだ。


 しかし、今はそれでいいのかもしれない。


 リサは戒十の状態を確認した。


 黒い影の毛皮は、かなり薄れている。


 顔も人の形へ戻りつつある。


 だが、頬には黒い影紋が残り、犬歯は鋭い。


 左手の爪はまだ人間のものではない。


 呼吸は荒いが、先ほどのような獣の唸りではなくなっている。


「もう少しで目を覚ますかも」


 リサが言った。


「私、ここにいます」


「近すぎない位置で」


「はい」


 リサは少し迷った。


「純ちゃん。本当に無理だと思ったら、すぐ呼んで。戒十くんが傷つくとか、気にしなくていい」


「気にします」


「気にしてもいい。でも、君が死んだら意味がない」


 その言葉は重かった。


 純は頷いた。


 リサは部屋の隅へ移動し、壁にもたれるように座った。


 銀糸は戒十の影へ軽く繋がっている。


 完全に任せるわけではない。


 純一人にするわけでもない。


 その距離が、少しありがたかった。


     ◇


 戒十が目を覚ましたのは、机のライトの小さな光が部屋の隅へ長い影を作り始めたころだった。


 最初に動いたのは、左手だった。


 爪が布団を掴む。


 リサの銀糸がわずかに張る。


 純はすぐに姿勢を正した。


 扉の近く。


 近づかない距離。


 両手は見える場所。


 声は低く、急がない。


「戒十」


 黒い瞼が震えた。


 琥珀色の光が、薄く開く。


 しばらく焦点が合っていなかった。


 獣の目。


 それが少しずつ人の目へ戻っていく。


 戒十は天井を見た。


 見慣れない天井。


 それから机のライト。


 布をかけられた姿見。


 閉じられたカーテン。


 扉のそばに立つ純。


 部屋の隅にいるリサ。


 自分の身体を包む遮影布。


 左手の爪。


 そのすべてを認識するまで、数秒かかった。


「……ここ」


 声は掠れていた。


 まだ少し獣の唸りが混ざっている。


「私の部屋」


 純は答えた。


 戒十の目が大きくなる。


 起き上がろうとして、左手の痛みに呻く。


 リサがすぐに言う。


「動かないで。部分解除の途中。急に動くとまた影が裂ける」


「何で……」


 戒十は純を見る。


 その顔に、恐怖が浮かぶ。


 自分がどこにいるのかではない。


 純の部屋に、自分がいることへの恐怖。


「僕、」


 声が震える。


「見たなら、もう僕に近づかないほうがいい」


 純は、すぐには答えなかった。


 その言葉が来ることは、どこかで予想していた。


 それでも、胸が痛んだ。


 さっき見た姿が、頭から消えたわけではない。


 黒い獣。


 牙。


 爪。


 自分へ伸びかけた手。


 自分の影へ爪を突き立てて止まった姿。


 助けて、という声。


 全部が残っている。


 怖かった。


 今も怖い。


 だから、純はそのまま言った。


「怖かったよ」


 戒十の顔が固まる。


 純は続ける。


「今も怖い」


 リサは黙っている。


 戒十は目を逸らそうとした。


 純はそれを止めなかった。


 ただ、言葉を続けた。


「でも、だから何も聞かずに離れろって決めないで」


 戒十の喉が動く。


「僕は、君を襲いかけた」


「うん」


「爪を伸ばした」


「うん」


「血の匂いに反応した」


「うん」


「怪物だった」


「うん」


 純は否定しなかった。


 否定しないことが、戒十には一番痛そうだった。


 それでも純は言う。


「でも、止まろうとしてた」


「……」


「左手をかばってた。私と敵の間に入ってた。近づくと爪を地面に押しつけてた。名前を呼んだら、視線を逸らした」


「そんなの」


「戒十の癖だと思った」


 戒十は言葉を失った。


 純は少しだけ息を吸う。


「怖いものを見て、怖くないって言うつもりはない。怖かった。今も怖い。でも、怖かったから全部別物だって決めるのも違うと思った」


「水城」


「私は、戒十を全部わかるわけじゃない。影のことも、クイーンのことも、カオルコさんのことも、まだ全然わからない。たぶん、これからも全部はわからない」


 純は、扉のそばから動かない。


 近づかない。


 でも、離れもしない。


「だから、聞く。見る。怖かったら怖いって言う。近づけないときは近づかない。逃げる必要があるなら逃げる。でも、戒十が一人で“離れたほうがいい”って決めるのは違う」


 戒十の目が揺れる。


 左手の爪が布団を掴む。


 リサの銀糸が少しだけ張る。


 戒十はそれに気づき、自分で左手を止めた。


 まだ爪は影のままだ。


 でも、止めた。


「怖いって言われるの、きつい」


 戒十は小さく言った。


「うん」


「怖くないって言われるより、きつい」


「嘘のほうがよかった?」


「たぶん、すぐ嘘だってわかる」


「じゃあ、言う」


 純はまっすぐ見た。


「怖い。でも、ここにいる」


 戒十は目を閉じた。


 息が震える。


「僕、助けてって言った?」


「言った」


 リサが静かに答えた。


 戒十は顔を歪める。


「覚えてない」


「でも、言った」


 純が言う。


「聞こえたよ」


「……最悪だ」


「どうして」


「そんなこと、怪物になってから言うなよ」


 その言葉に、純は胸が詰まった。


 昼の戒十も、影の戒十も、ずっと助けてと言えなかった。


 その言葉が、獣の口から出た。


 それがどれほど苦しいことなのか、純には全部はわからない。


 でも、少しだけわかった。


「今からでも、言っていいよ」


 純は言った。


 戒十は目を閉じたまま、何も言わなかった。


 しばらく沈黙が続く。


 机のライトの音。


 遠くの車。


 家の木材が夜気で小さく鳴る音。


 それらの中で、戒十は低く息を吐いた。


「……助けて」


 今度は、人間の声だった。


 掠れていて、弱くて、ほとんど聞き逃しそうな声。


 リサが顔を伏せた。


 純はすぐに返事をした。


「うん」


 近づかない。


 触れない。


 抱きしめない。


 ただ、返事をする。


「一人では無理だから、リサさんにも、シンさんにも頼む。私だけで助けるとは言わない。でも、聞いた」


 戒十は目を開けた。


 琥珀色の光が少し弱まっている。


「水城は、本当に厳しい」


「怖いからね」


「関係ある?」


「あるよ。怖いと、ちゃんと決めないと危ないから」


 戒十は少しだけ笑いそうになった。


 笑えなかった。


 でも、口元がわずかに動いた。


 リサが小さく言う。


「純ちゃん、すごいなあ」


「すごくないです」


「うん。そう言うと思った」


「リサさんは、さっきから見守ってるだけみたいな顔してますけど、ちゃんと説明してくださいね」


「え、今?」


「今じゃなくていいです。でも、逃げないでください」


 リサは苦笑した。


「本当に厳しい」


「戒十の周り、逃げる人が多すぎます」


「それ、耳が痛いなあ」


「痛がってください」


 戒十がかすかに息を漏らした。


 笑いに近い音だった。


 その瞬間、部屋の空気がほんの少しだけ緩んだ。


 しかし、それは長く続かなかった。


 窓の外。


 厚いカーテンとブランケットの向こうで、何かが動いた。


 純は気づかなかった。


 リサも、戒十の影へ注意を向けていた。


 窓の外壁を、細い黒い糸が這っていた。


 花の香りは、もうほとんどしない。


 それでも、糸は確かにそこにある。


 カオルコの影糸。


 白い指先から伸びたような、細く、柔らかく、粘る影。


 それが窓の隙間を探し、壁の小さなひびから、部屋の中へほんの少しだけ入り込んだ。


 机のライトが作る弱い影。


 純の足元に落ちる影。


 その端へ、黒い糸が触れた。


 一瞬だけ。


 ほんの一瞬だけ。


 純は肩を震わせた。


「……?」


 自分でも理由がわからず、足元を見る。


 影はいつも通りに見えた。


 机のライトに照らされ、扉のほうへ細く伸びているだけ。


 何もない。


 そう見えた。


 窓の外では、黒い糸が静かに引いていく。


 遠くの屋根の上で、カオルコが膝を抱えて座っていた。


 白いワンピースは、夜風に揺れている。


 彼女は、純の部屋の灯りを見つめていた。


 笑っていなかった。


「怖いのに、いるんだ」


 小さく呟く。


 声は誰にも届かない。


「ずるい」


 カオルコの指先に、純の影から取ったごく小さな黒い糸が絡んでいる。


 それは傷と呼ぶには浅すぎる。


 呪いと呼ぶにはまだ弱すぎる。


 だが、触れた。


 カオルコはその糸を見つめ、ゆっくりと握り込んだ。


「じゃあ、次はあなたにも役をあげる」


 その頃、純の部屋では、戒十が再び眠りへ落ちようとしていた。


 人間の形に戻りきらないまま。


 怪物の名残を残したまま。


 純は扉のそばに座り、リサは部屋の隅で銀糸を握っている。


 机のライトだけが、弱い光を保っていた。


 影は一本。


 まだ、一本に見えていた。

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