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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第三章 夜の産声
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第六節 純の判断

 純が旧市街の角を曲がったとき、最初に見えたのは黒い影だった。


 人ではない。


 猫でもない。


 獣。


 けれど、ただの獣でもない。


 紫のネオンが半分消えた裏通りの中央に、黒いものがうずくまっている。


 背中は人間よりも高く盛り上がり、肩から腕にかけては大型の猫科獣のように太い。四肢は長く、指先には街灯の光を吸い込むような爪がある。身体の表面は毛皮ではなく、影が濡れて固まったように揺れていた。


 息をするたび、黒い輪郭が膨らむ。


 喉の奥から、低い音が漏れる。


 その音を聞いた瞬間、純の足は止まった。


 身体が動かなかった。


 逃げなければ。


 そう思う。


 頭ではわかる。


 後ろに下がる。


 明るい通りへ戻る。


 人のいる場所へ走る。


 さっき電話で戒十に言われた通りに。


 それなのに、膝が震えている。


 足の裏が地面に貼りついたように動かない。


 呼吸が浅くなる。


 胸の奥が細く縮み、吸った空気が途中で止まる。


 目の前にいるものが、こちらへ向いた。


 琥珀色の目。


 複数あるように見えた。


 顔の輪郭は獣だ。


 だが、その奥に人の目が一瞬だけ浮かんだ気がした。


 純は息を呑む。


 逃げ道を探す。


 右は閉まった喫茶店。


 左はコインパーキング。


 後ろは明るい通り。


 前には黒い獣。


 その背後に、リサがいる。


 シンが壁際で刀を構えている。


 カオルコが庇の上に立ち、笑っている。


 足元には黒猫の影が散り、人工離影者の残骸のような黒いものが路面に溶けていた。


 花の香りが強い。


 甘くて、息が詰まる。


 純は片手で口元を押さえた。


 怖い。


 怖い。


 はっきり怖い。


 こんなものに近づけるわけがない。


 これは、戒十ではない。


 そう思いかけた。


 思いかけて、止まった。


 獣が動いた。


 純へ向かって一歩、前脚を出そうとする。


 その瞬間、黒い左前脚がわずかに引かれた。


 かばうように。


 傷を庇うように。


 左手。


 戒十が何度も隠していた手。


 サポーターで隠して、消毒液を借りて、純に見せまいとした手。


 獣の姿になっても、そこを庇っている。


 純は目を凝らした。


 獣は純へ飛びかかってこない。


 むしろ、背後の人工離影者の残った影が動くたび、身体の向きを変えている。


 純と、それらの間へ。


 大きな身体を入れている。


 守ろうとしている。


 そう見えた。


 でも、同時に危ない。


 獣の爪は、純へも伸びかけている。


 純の声や匂いに反応して、身体が勝手に近づこうとしている。


 そのたびに、獣は爪を地面へ押しつけた。


 アスファルトに、黒い爪痕が残る。


 動きたい身体を、自分で地面へ縫いつけるように。


 純の呼吸はまだ乱れている。


 怖さは消えない。


 消えないまま、見る。


 見るしかない。


 戒十は、いつもそうだった。


 困ったとき、左手を隠す。


 言いたいことがあると、先に皮肉を言う。


 近づきたいのに逃げる。


 見られたくないときほど、周りをよく見る。


 自分が危ないときほど、相手との間に身体を入れようとする。


 今、目の前の獣は、同じことをしている。


 歪んでいる。


 巨大で、恐ろしくて、見たことのない姿になっている。


 それでも、動きの端に戒十がいる。


 純は震える声で言った。


「戒十」


 獣の耳が動いた。


 琥珀色の目がこちらを向く。


 だが、まっすぐ見続けなかった。


 一度だけ、視線を逸らした。


 ほんの一瞬。


 叱られたときのように。


 見抜かれたくないときのように。


 純は唇を噛んだ。


 怖い。


 でも、これは戒十だ。


 昼の戒十だけではない。


 影の戒十だけでもない。


 どちらかを取り除いた後の安全な何かではない。


 怖いものも、欲しいものも、助けてと言えない弱さも、全部混ざった戒十だ。


 純は一歩も近づかなかった。


 触れようともしなかった。


 近づけば、獣は自分を止めるためにさらに傷つく。


 触れれば、爪か影が反射するかもしれない。


 自分は物語の中の誰かのように、抱きしめれば怪物を人間に戻せる存在ではない。


 そんな都合のいい役を、自分に押しつけてはいけない。


 純は震える手で、鞄の持ち手を握り直した。


「リサさん!」


 声が震えた。


 それでも出た。


 リサが振り返る。


「純ちゃん、下がって!」


「照明です!」


「え?」


「影が、分かれてます! 光が多いから!」


 言いながら、純は周囲を見た。


 青い喫茶店の看板。


 VIOLET DRAGONの裏口から漏れる紫の光。


 コインパーキングの精算機の白い光。


 路地奥の自動販売機。


 回転灯のように点滅している工事用ライト。


 閉店した店のシャッター上の看板灯。


 カオルコが仕込んだのか、普段なら消えていそうな照明までついている。


 光が多すぎる。


 獣の影は、路面でいくつにも割れていた。


 純へ伸びる影。


 リサへ反応する影。


 シンを警戒する影。


 カオルコへ飛びかかろうとする影。


 血の匂いへ向く影。


 それらが別々に引っ張っている。


 純は戒十から聞いた条件を思い出した。


 光源。


 影。


 退路。


 血の匂い。


 左手。


 影声。


 彼は何度も申告していた。


 なら、自分も見る。


 できることをする。


 純は後ろへ一歩下がった。


 逃げるためではない。


 喫茶店の看板の横に、古い屋外スイッチがあるのが見えた。


 カバーは割れている。


 手を伸ばせば届く。


 純は走らなかった。


 急な動きは獣を刺激する。


 ゆっくり。


 息を抑えて。


 足元の影を踏まないように。


 喫茶店の壁際へ移動する。


 黒い獣の目が追ってくる。


 爪が少し浮く。


 純はすぐに止まった。


「大丈夫。近づかない。光を消すだけ」


 自分の声が震えている。


 それでも、言葉にした。


 獣は唸った。


 だが、飛びかからない。


 爪を地面へ押しつける。


 純は壁のスイッチを押した。


 青い看板が消える。


 獣の影が一本、薄くなった。


 リサが息を呑む。


「純ちゃん、右! 精算機の光!」


 純は頷いた。


 コインパーキングの精算機へは少し距離がある。


 その間に、黒猫型落影の残りが路地の陰から這い出そうとしていた。


 シンが痛む肩を押さえながら影縫刀を振る。


 黒猫の影が路面へ縫われる。


 だが、シンの動きは先ほどより鈍い。


 肩をやられている。


 純は一瞬、彼のほうを見た。


 シンは短く言った。


「見るな。光を落とせ」


「はい」


 怖い大人だと思った。


 でも、今はその怖さが頼りになった。


 純は精算機へ向かう。


 その途中で、獣の身体が大きく揺れた。


 カオルコが庇の上で指を鳴らしたのだ。


 自動販売機の光が強くなる。


 獣の影がまた増える。


 純へ伸びる影が濃くなった。


 獣の前脚が動く。


 爪が純のほうへ伸びる。


 純は固まった。


 近い。


 逃げるべきだ。


 足が震える。


 息が詰まる。


 黒い爪が、彼女の影へ届きそうになる。


 だが、その爪は途中で止まった。


 獣が自分の爪を地面へ押しつけている。


 純へ伸びるのを、必死に止めている。


 爪の先がアスファルトを削り、黒い火花のような影が散った。


 純は震えながら言った。


「見えてる。止めようとしてるの、見えてる」


 獣の喉が鳴る。


 言葉ではない。


 でも、届いたように見えた。


 純は精算機へたどり着き、電源スイッチを探す。


 見つからない。


 焦る。


 手が震える。


 背後でカオルコが笑う。


「普通の人って大変ね。スイッチ一つ見つけるのにも時間がかかる」


 純は答えない。


 精算機の横に、清掃用の金属カバーがある。


 そこに小さなブレーカーがあった。


 カバーを開ける。


 指先が震えてうまく引っかからない。


 爪が痛い。


 ようやく開く。


 スイッチを落とす。


 精算機の白い光が消えた。


 獣の影がまた一本、薄くなる。


 リサが銀糸で人工離影者の残りを抑えながら叫ぶ。


「すごい! そのまま!」


「すごくないです!」


 純は思わず返した。


「すごく怖いです!」


「それでもやってるからすごいの!」


 リサの声が、変に明るい。


 それが少しだけ助けになった。


 純は次の光を探す。


 自動販売機。


 これは消せない。


 電源は裏側だ。


 近づくには獣の前を横切らなければならない。


 無理。


 別の方法。


 純は鞄を下ろし、中から折り畳み傘を取り出した。


 いつも持っている小さな傘。


 校則では邪魔だと言われることもあるが、雨の日に戒十へ傘を押しつけられたあと、さらに意識して持つようになったもの。


 純は傘を開き、自動販売機の光へ向けて立てかけた。


 完全には消えない。


 だが、直接路面へ落ちていた光が遮られる。


 獣の影が少し落ち着く。


 次は工事用ライト。


 点滅している。


 あれが一番まずい。


 動く光が、影を揺さぶっている。


 純はそちらへ向かおうとして、獣が大きく唸った。


 工事用ライトの近くに、黒猫型落影がいる。


 彼女が近づけば襲われる。


 シンが動こうとしたが、肩の痛みで一瞬遅れる。


 リサも人工離影者を抑えていて離れられない。


 獣が、突然動いた。


 純は息を止めた。


 黒い身体が低く沈み、次の瞬間、工事用ライトへ向かって跳んだ。


 純へ向かったのではない。


 黒猫へ向かったのでもない。


 獣は爪でライトの脚を叩き折った。


 回転灯が地面へ落ち、火花を散らして消える。


 同時に、黒猫型落影が獣の肩へ飛びかかる。


 獣はそれを振り払い、路面へ叩きつけた。


 黒い煤が散る。


 しかし、獣自身も肩から黒い影を流していた。


 痛みを感じている。


 純は叫びそうになり、すぐに口を押さえた。


 名前を呼ぶ。


 叫ぶ。


 そのどれが刺激になるかわからない。


 でも、完全に黙るのも違う。


「ありがとう」


 純は言った。


 声は小さかった。


 獣の耳が動いた。


 カオルコの表情が、庇の上で変わった。


 笑っていない。


 純は最後の光を見た。


 VIOLET DRAGONの裏口から漏れる紫の光。


 それは中へ続く道でもある。


 完全に消していいのかわからない。


 しかし、今は多すぎる光が戒十を裂いている。


 リサが純の視線に気づく。


「そこは、あたしが落とす!」


 リサは銀糸を片手で操りながら、通信端末へ声を飛ばした。


「店内、裏口照明を最小に! 非常灯だけ残して!」


『中はまだ混乱してる!』


 カウンターの男の声。


「最小! 今すぐ!」


 数秒後、裏口の紫の光が弱まった。


 完全な暗闇ではない。


 小さな非常灯だけが残る。


 弱い、琥珀色の光。


 単一に近い。


 路地全体から、強い光が消えていく。


 青い看板は消えた。


 精算機は消えた。


 工事用ライトは壊れた。


 自動販売機の光は傘で遮られている。


 裏口の光は最小になった。


 残ったのは、路地の奥にある古い街灯ひとつ。


 弱い。


 少し黄色い。


 その光だけが、獣の影を一本にまとめていく。


 黒い影が、路面で一本へ戻る。


 まだ巨大だ。


 まだ危険だ。


 だが、さっきのようにいくつもの欲や恐怖へ裂けてはいない。


 純は息を吸った。


 足は震えている。


 逃げ道は、まだ後ろにある。


 呼吸は乱れている。


 それでも、彼女は獣を見た。


 触れない。


 近づきすぎない。


 言葉を選ぶ。


 戒十が教えた条件。


 リサが言った危険。


 シンが作った手順。


 その全部を、自分なりに繋げる。


「戒十」


 声は震えていた。


 でも、名前ははっきり言えた。


 獣がこちらを見る。


 琥珀色の目。


 黒い牙。


 影に覆われた身体。


 怖い。


 それでも、純は視線を逸らさなかった。


「二人とも、止まって」


 リサが息を止めた。


 シンも動きを止める。


 カオルコの目が細くなる。


 純は続ける。


「昼の戒十も、影の戒十も。どっちかだけじゃなくて、二人とも」


 獣が低く唸る。


 その唸りは、威嚇というより、苦しみに近かった。


 純は一歩も近づかない。


 両手を見える位置に出す。


 触らない、と示すように。


「私のほうへ来ないで。今は近づいたら危ない。そう言ったの、戒十だよ」


 獣の爪が路面を掻く。


 純へ伸びたい。


 守りたい。


 触れたい。


 引き寄せたい。


 全部が同時にある。


 その爪が、ゆっくりと持ち上がった。


 リサが銀糸を構え直す。


 シンが刀を構える。


 純は逃げなかった。


 ただ、低く言った。


「止まって」


 獣の爪が、純へ伸びる。


 あと少しで届く。


 その瞬間、獣は自分の前脚をひねった。


 爪の向きが変わる。


 純へではなく、足元の自分の影へ。


 黒い爪が、路面に落ちる巨大な影へ突き立てられた。


 獣が吠える。


 痛みの咆哮。


 自分の影を、自分で縫い止める。


 シンの影縫刀ではない。


 リサの銀糸でもない。


 戒十自身の爪で。


 影が暴れようとするたび、爪がそれを押さえる。


 黒い影が路面で震え、獣の身体も震えた。


 純は、ようやく息を吐いた。


 膝が崩れそうになる。


 でも、座り込まなかった。


 まだ終わっていない。


 獣は止まった。


 だが、戻ったわけではない。


 リサが小さく言った。


「すごい……」


 シンは低く続けた。


「あれは、影縫いではない」


「自分で、自分の影を止めてる」


 リサの声が震えていた。


 純は獣を見たまま言う。


「戒十、聞こえる?」


 獣は言葉を返さない。


 だが、目がわずかに揺れた。


 純はそれで十分だと思った。


 今は。


 カオルコが庇の上で、ゆっくり立ち上がった。


 彼女の顔から、笑みが消えている。


 白いワンピースの裾から、黒い影がぽたりと垂れた。


 怒り。


 いや、嫉妬。


 その匂いが、花の残香よりも濃くなった気がした。


「どうして」


 カオルコが呟いた。


 誰に向けた言葉なのか、わからない。


 純へか。


 リサへか。


 戒十へか。


 それとも、自分自身へか。


「どうして、そんな姿を見ても名前を呼ぶの」


 声が震えていた。


 初めて、彼女の声から作ったような甘さが消えていた。


「どうして、怖がってるのに逃げないの。どうして、役割を与えられてないのにそこに立てるの。どうして、怪物になっても、名前で呼べるの」


 純はカオルコを見る。


 怖さはまだ残っている。


 カオルコも怖い。


 何をするかわからない。


 でも、彼女の声の奥に、ひどく寂しいものがあるのがわかった。


「名前を呼ぶのに、役割はいらないと思います」


 純は言った。


 カオルコの目が見開かれる。


「戒十は戒十だから、呼びました」


「綺麗ごと」


「そうかもしれません」


 純は否定しなかった。


「でも、私は今、怖いです。逃げたいです。足も震えています。それでも、見たものを見なかったことにはしたくない」


 カオルコの影が揺れる。


「見たもの」


「戒十が止まろうとしているところです」


 その言葉に、獣の耳がわずかに動いた。


 カオルコは唇を噛む。


 血は出ない。


 だが、影が滲んだ。


「ずるい」


 彼女は低く言った。


「怖がってるくせに。逃げたいくせに。名前を呼ぶなんて、ずるい」


 リサが前へ出ようとする。


 カオルコは彼女を見た。


 その目には、先ほどまでの遊びがなかった。


「お姉さまも、そうしてくれたらよかったのに」


 リサの顔が凍る。


「カオルコ……」


「呼ばないで!」


 カオルコが叫んだ。


 自分が欲しがっていたはずの名前を、拒絶するような叫びだった。


 同時に、彼女の足元から黒い花びらが吹き上がる。


 残香が再び濃くなる。


 しかし、路地の光はもう少ない。


 影は分裂しない。


 獣化した戒十は、自分の影へ爪を突き立てたまま、苦しそうに息をしている。


 純はその姿を見つめた。


 怖い。


 まだ怖い。


 でも、さっきよりも少しだけ呼吸ができる。


 逃げ道は後ろにある。


 それでも、今は逃げない。


 少なくとも、戒十が自分を止めようとしている間は。


 リサが静かに言った。


「純ちゃん、そのまま。近づかないで。声だけ」


「はい」


 シンも低く続ける。


「光は維持。単一に近い状態を崩すな」


「はい」


 純は獣へ向き直った。


「戒十。二人とも、そのまま。止まって」


 獣は低く唸った。


 だが、動かなかった。


 自分の爪で自分の影を押さえつけたまま、ただ、純の声を聞いていた。


 夜の旧市街に、弱い街灯の光だけが残っていた。


 その下で、怪物の形をした戒十は、初めて誰かの手ではなく、自分自身の意志で止まっていた。

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