第五節 獣の産声
非常口の向こうは、旧市街の細い裏通りだった。
VIOLET DRAGONの表側とは違い、そこには紫のネオンも、店の看板も、客の気配もない。
古い雑居ビルの裏壁。
錆びた室外機。
濡れた配管。
割れたコンクリートの隙間から伸びる雑草。
ゴミ集積場のネット。
小さな祠のように置かれた古い灰皿。
それらが、街灯の薄い光に沈んでいる。
ただ、夜の匂いがいつもと違った。
花の香り。
甘く、白く、腐りかけている。
空気の底に、それがべったりと溜まっていた。
リサは戒十の左手首に巻いた銀糸を握り、非常口の外へ出た。
「純ちゃん、聞こえる?」
戒十のスマートフォンから、純の息遣いが聞こえる。
『聞こえます。今、看板のある通りに出ました。明るいです。人は……少ないけど、車は通ってます』
「店の名前わかる?」
『えっと、古い喫茶店。閉まってるけど、看板が青く光ってます。あと、コインパーキング』
リサがすぐに周囲を見る。
「青い看板の喫茶店なら、一本北。近い」
シンの声が、店内から遠く響く。
「正面は封鎖中だ! 裏通りに二体、そっちへ向かう!」
リサは短く舌打ちした。
「早いなあ、もう」
「猫ですか」
「猫だけじゃない」
戒十は鼻を利かせた。
花の匂いが強すぎる。
その奥に、黒猫型落影の湿った影の匂い。
さらに、人の匂いがある。
人工離影者。
生きた肉体に近い。
だが、影のほうが先に歩いているような、ずれた匂い。
戒十の左手が熱くなる。
銀糸がぴんと張る。
リサがすぐに言った。
「申告」
「花の匂いが強い。血の匂いはない。左手が熱い。影が純のいる方角へ向いてる。黒猫型と、人型が近い」
「影声は」
「まだ、言葉にはなってません」
「よし。走るよ。影が先に行きすぎたら引くから」
「痛いって言ってましたよね」
「すっごく痛い」
「言い方を軽くしないでください」
「軽くしないと怖いでしょ」
リサはそう言って、旧市街の細い通りへ走り出した。
戒十も続く。
身体は夜を思い出している。
昼に純と話した図書館前の重さはない。
足が軽い。
路面の凹凸が見える。
遠くの車のエンジン音、換気扇の回る音、誰かが二階の窓を閉める音、そして電話越しの純の息。
全部が同時に聞こえる。
半量の影固定剤のせいで感覚は少し鈍い。
だが、完全には閉じていない。
ちょうど、熱を持った身体に薄い氷を巻きつけたような感覚だった。
左手の影が、彼の足より先に伸びる。
リサの銀糸がそれを抑える。
熱い痛みが走った。
「っ……!」
「ごめん、先行しかけた!」
「わかってます!」
「わかってても痛いよね!」
「会話してる場合ですか!」
「会話してないと君、内側へ潜るでしょ!」
そう言われ、戒十は反論できなかった。
走りながら、リサは通信端末を耳に当てる。
「シン、裏通りを北へ抜ける。純ちゃんは青看板の喫茶店前」
『こっちは正面を止める。裏側の敵は任せる』
「任されたくなーい」
『文句はあとだ』
「はいはい」
リサは通信を切らず、そのまま手首へ固定した。
電話越しの純へも声を飛ばす。
「純ちゃん、今からこっちが行く。でも、黒い猫が見えても触らない。影を踏まない。声がしても返事しない」
『声?』
「誰かの声で呼ばれるかも。戒十くんの声でも、リサの声でも。電話越し以外は信じないで」
『わかりました』
純の声は震えていた。
だが、返事ははっきりしている。
戒十はその声を聞いて、胸の奥が締めつけられた。
来るなと言った。
でも、彼女は来た。
自分の意思で。
その意思を尊重することと、危険に晒すことは同じではない。
守る。
けれど所有しない。
遠ざけるのではなく、今いる場所から生きて戻す。
それを自分へ言い聞かせる。
言い聞かせないと、影が純のほうへ走り出しそうだった。
通りの角を曲がった瞬間、黒猫が現れた。
三匹。
いや、影の奥にさらにいる。
街灯の下で、黒い身体が輪郭を持ち、次の瞬間には影だけになって路面を滑る。
その背後に、人型の人工離影者が一体。
顔は布のような黒で覆われ、首元だけに白い花びらの模様が浮かんでいる。
カオルコの残香を運ぶための器。
そう直感した。
リサが銀糸を放つ。
糸は空中で細く光り、黒猫たちの影の足を絡め取った。
シンの影縫刀ほど重くはない。
だが、軽く、速い。
黒猫が床へ縫われる寸前、人工離影者が腕を振った。
花の香りが濃くなる。
糸が一瞬ゆるむ。
黒猫の一匹が戒十の足元へ飛び込んだ。
戒十の影が反応する。
左手の影が爪になり、黒猫の影を叩き潰した。
肉体より先に。
しかし、標的は落影だけだった。
戒十はすぐに叫ぶ。
「影が先行! 対象は黒猫型! 人には向いてない!」
「そのまま! 人型には触らない!」
リサが前へ出る。
人工離影者の影と、彼女の銀糸が交差する。
花の匂いが一瞬、甘く弾けた。
戒十の喉が詰まる。
その匂いの中に、カオルコの声が混ざった。
「猫ちゃん」
どこから聞こえたのか、わからない。
通りの上。
窓の影。
花の匂い。
戒十の足元。
全部から同時に聞こえた気がした。
リサが反応する。
「カオルコ!」
返事は笑い声だった。
「お姉さま、今日は忙しそう」
人工離影者の背後、閉店した雑貨店の庇の上に、カオルコが座っていた。
白いワンピース。
薄紫のリボン。
この混乱の中でも、彼女はまるで舞台を見ている観客のように足を揺らしている。
ただ、前に見たときよりも輪郭が薄い。
街灯の光を受けても、影が正しく落ちていない。
身体の周囲に、黒い糸くずのようなものが漂っていた。
「降りてきなさい」
リサが言った。
声が低い。
「嫌。降りたら、お姉さまが怒るでしょう?」
「もう怒ってる」
「嬉しい」
カオルコは笑った。
その笑顔のまま、視線を戒十へ移す。
「猫ちゃん、純さんを助けに来たの?」
戒十は答えない。
カオルコは嬉しそうに続ける。
「えらいわ。守りたいのね。傷つけたくないのね。でも、あなたの影はそれだけじゃない」
左手の痣が冷たく脈打つ。
リサが戒十の前へ少し出た。
「聞くな」
「聞いてません」
「顔が聞いてる」
「顔で判断しないでください」
「純ちゃんにも言われてそう」
こんなときにそんなことを言うリサへ、少しだけ怒りそうになった。
だが、その軽口で、カオルコの声から一瞬だけ距離ができた。
カオルコは不満そうに唇を尖らせる。
「お姉さま、邪魔」
「姉じゃない」
「じゃあ、何?」
「あなたを止める人」
リサの銀糸が再び走る。
カオルコの足元へ向かった糸は、庇の影へ触れる寸前で黒い花びらに遮られた。
花びらは影だった。
黒い花。
それが空中でほどけ、甘い匂いを散らす。
戒十の視界が揺れた。
その隙に、人工離影者が一歩進む。
腕が伸びる。
狙いはリサではない。
戒十の左手。
カオルコが微笑む。
「お母さまから、少しだけ」
人工離影者の腕が裂けた。
中から、黒赤い液体のような影が垂れる。
血。
しかし、ただの血ではない。
影紋を含んだ血。
その匂いがした瞬間、戒十の全身が硬直した。
甘い。
冷たい。
懐かしい。
知らないはずなのに、影が知っている匂い。
高架下。
黒猫。
見つけた。
あの女の声。
リサが叫ぶ。
「戒十くん、下がって!」
リサの銀糸が戒十の手首を引いた。
しかし、遅かった。
人工離影者の裂けた腕から飛んだ黒赤い滴が、戒十の左手のサポーターへ落ちた。
布に染み込む。
痣が、内側から開いた。
傷口が再び口を開けたようだった。
戒十は声を失った。
血が皮膚から入るのではない。
影が血を吸い上げる。
左手の影が黒赤い滴を飲み込み、そこから影脈へ流れ込む。
熱。
冷たさ。
痛み。
飢え。
膨大な情報が、一気に身体へ流れ込んだ。
王冠のような影紋。
長い髪。
肉体のない女。
閉じ込められた怒り。
奪われた身体。
返して。
返せ。
返せ。
返せ。
戒十は膝をついた。
リサが彼の肩を掴む。
「戒十くん!」
声が遠い。
いや、近い。
近すぎる。
リサの手の熱。
リサの影の薄さ。
リサの中にある欠落。
すべてが匂いとしてわかる。
お姉さま。
カオルコの声が笑う。
「よく響く」
戒十の影が、肉体の下から膨れ上がった。
足元の黒が、彼の両脚を包む。
左手から肩へ、黒い影が血管のように走る。
骨が軋む音がした。
自分の中から。
関節がずれる。
指が伸びる。
爪が割れるように伸び、影の爪と肉体の爪が重なる。
背中が裂けるように熱い。
肩甲骨の位置が変わる。
肋骨が内側から押し広げられる。
歯が疼く。
犬歯ではない。
猫科の牙。
舌の感覚が変わる。
喉の奥が、言葉ではなく唸りを作ろうとする。
戒十は叫ぼうとした。
声にならなかった。
喉から出たのは、人間の叫びと獣の咆哮が混ざった音だった。
リサが銀糸を引く。
しかし、糸が焼けるように黒く変色する。
「っ、強すぎる……!」
シンが通信越しに叫ぶ。
『リサ、状況!』
「戒十くんにクイーンの血影紋が入った! 完全移行、始まってる!」
『拘束しろ!』
「やってる!」
やっている。
だが、足りない。
戒十の身体は人間の形を外れていく。
制服の袖が裂ける。
背中の布が破れる。
黒い影が皮膚の上を覆い、毛皮のように、煙のように、濡れた獣の皮膚のように形を変える。
完全な猫ではない。
人間でもない。
大型の黒い猫科獣。
しかし、肩幅と腕の長さには人の形が残っている。
四足にも、二足にもなれる異形。
琥珀色の目が、二つだけでなく、影の中にいくつも瞬く。
尾のような長い影が背後へ伸び、路面を打った。
アスファルトが割れる。
リサが後退する。
戒十だったものが、ゆっくり顔を上げた。
その口から、低い唸りが漏れる。
人の言葉ではない。
カオルコが庇の上で手を叩いた。
「生まれた」
その声には、本当の喜びがあった。
「お母さま、見て。猫ちゃん、こんなに綺麗」
黒い獣の耳が、その声へ反応する。
次の瞬間、戒十は跳んだ。
人間の跳躍ではなかった。
地面を蹴ったというより、影が路面を掴んで身体を射出した。
人工離影者の一体が反応する前に、黒い爪がその影の胴を裂いた。
肉体ではない。
影だけを裂く。
だが、影を裂かれた人工離影者は糸の切れた人形のように崩れた。
黒猫型落影が数匹、戒十へ飛びかかる。
獣化した戒十は頭を振り、牙で一匹の影を噛み砕いた。
別の二匹は爪で弾かれ、壁へ叩きつけられる前に黒い煤となって散った。
速い。
強い。
美しいと言えるほど、夜に合っていた。
しかし、戒十の内側には何も整っていない。
視界が獣のものになっている。
匂いが世界を支配している。
花。
血。
影。
リサ。
カオルコ。
純。
住人。
敵。
味方。
区別が、匂いの濃さで塗り潰される。
人工離影者を倒した直後、獣の頭が別の方向を向いた。
VIOLET DRAGONの裏口。
そこから、避難しきれなかった住人が一人、顔を出していた。
白髪交じりのカウンターの男。
腕に浅い傷がある。
血の匂い。
新しい血。
人の血。
獣の喉が鳴った。
リサが叫ぶ。
「戒十くん、違う! 味方!」
獣の耳が動く。
だが、足はすでに動きかけている。
血の匂い。
影の匂い。
守るべき相手か、食らうべき相手か、区別が曖昧になる。
獣の影が、カウンターの男へ伸びた。
リサが銀糸を投げる。
間に合わない。
次の瞬間、店内からシンが飛び出した。
影縫刀の影が、獣化した戒十の足元へ深く突き刺さる。
黒い影が路面へ縫い止められた。
獣が吠える。
低い。
旧市街の窓ガラスが震えるほどの咆哮。
シンは両手で刀を押さえ込む。
「三倉! 止まれ!」
獣はシンを見た。
琥珀色の目。
人間の知性があるようで、ない。
いや、ある。
あるからこそ、そこに恐怖と怒りが混ざっている。
斬る人。
止める人。
手帳に名前を書く人。
獣の前脚が、影縫刀の影を掴んだ。
あり得ない動きだった。
普通、影は影を掴めない。
だが、獣化した戒十の爪は、シンの刀の影へ食い込んだ。
黒い刃が軋む。
シンの表情が変わる。
「リサ、下がれ!」
獣は影の刃を引き抜いた。
路面に縫い止められていた自分の影を、力づくで剥がした。
シンの身体が一歩揺れる。
その隙に、獣は尾の影でシンを横へ払った。
シンは刀で受けたが、衝撃を殺しきれず、壁へ叩きつけられる。
「シン!」
リサが叫ぶ。
シンはすぐに立ち上がろうとした。
だが、肩を押さえて膝をつく。
獣は再び血の匂いへ向いた。
カウンターの男が後退する。
リサが彼の前へ立った。
影のない身体で。
銀糸を片手に。
もう片方の手には、短い刃が握られていた。
戒十はその刃を知っていた。
いや、見たことはない。
だが、匂いでわかる。
影を切るための刃。
影核ではなく、膨れ上がった影片を削ぎ落とすための刃。
影片除去の刃。
リサの手が震えている。
それでも、彼女は構えた。
「戒十くん」
声は優しい。
だが、刃は本物だった。
「聞こえる?」
獣は唸る。
答えない。
「聞こえるなら、申告して。血の匂い。影声。左手の熱。何でもいい。何か言って」
獣は一歩近づく。
リサは下がらない。
刃を構えたまま、口元だけで笑おうとする。
「ごめん。あたし、また勝手に決めようとしてる。君を止めるか、削るか、斬るか。最悪だよね」
獣の影が、路面で膨らむ。
カオルコは庇の上で、うっとりと見ていた。
「お姉さま、斬るの? また選ぶの? どちらを本物にするの?」
リサの顔が歪む。
その言葉は、過去の傷を正確に抉った。
シンが壁際から低く言う。
「リサ、迷うな」
「わかってる」
「成れの果て予備だ。影核が膨張している」
「わかってる!」
リサの声が震えた。
彼女は獣化した戒十を見る。
黒い影に覆われた異形。
大型の猫科獣と人間が混ざった身体。
琥珀色の目。
人を襲う寸前の姿。
長瀬透の最後が、きっと彼女の脳裏にもある。
戻れなくなる前に削る。
取り返しがつかなくなる前に止める。
それが、何度も生き残るための選択だったのだろう。
リサは刃を握り直した。
「戒十くん。ごめん」
獣が、低く唸った。
その唸りの中で、何かが割れた。
肉体の奥。
影の奥。
昼の戒十。
影の戒十。
クイーンの血影紋。
花の香り。
純の声。
リサの刃。
シンの刀。
それらが全部、黒い獣の喉へ集まった。
獣は口を開いた。
牙が並ぶ。
人間の口ではない。
言葉を作るには向かない形。
それでも、そこから声が出た。
「た……」
リサの刃が止まる。
シンが顔を上げる。
カオルコの笑みが消える。
獣は苦しむように喉を震わせた。
黒い毛皮のような影が、呼吸に合わせて波打つ。
牙の奥から、血の匂いと影の匂いが混ざった息が漏れる。
もう一度。
今度は、はっきりと。
「助けて」
その言葉は、夜の空気を裂かなかった。
静かだった。
小さかった。
しかし、そこにいた全員に届いた。
昼の戒十が言えなかった言葉。
影の戒十が、欲しさや怒りに混ぜてしか言えなかった言葉。
純へ会いたいと言えても、リサへ怒りをぶつけられても、シンへ皮肉を返せても、最後までまっすぐ出せなかった言葉。
助けて。
それが、人間の形を失った獣の口から出た。
リサの顔が崩れた。
刃を握る手が下がる。
「……聞こえた」
彼女は呟いた。
「聞こえたよ、戒十くん」
獣の目が揺れる。
琥珀色の奥に、ほんの一瞬、人間の少年の恐怖が戻った。
カオルコが庇の上で、低く言う。
「違う」
それは初めて聞く、苛立った声だった。
「そういう産声じゃない」
リサはカオルコを見ずに言った。
「黙って」
そして、獣化した戒十へ向き直る。
刃を捨てはしない。
だが、構えを変える。
斬るためではなく、守るために。
「助ける。だから、もう一回だけ、こっちを見て」
獣は震えていた。
完全な怪物ではない。
人間にも戻っていない。
その間で、黒い身体が割れそうになっている。
遠くで、純の声が電話越しに叫んでいた。
『戒十! 戒十、聞こえる!?』
その声に、獣の耳が動いた。
リサの銀糸が静かに張られる。
シンが痛む肩を押さえながら、再び影縫刀を構える。
カオルコが庇の上で、笑みを失ったまま立ち上がる。
夜の旧市街に、黒い獣の荒い呼吸が響いていた。
それは咆哮ではなかった。
泣き声にも似ていた。
そして確かに、産声だった。




