第3章-夜の産声-再会
早朝から雨が降っていた。
夏の雷雨。
身体に雨粒を強く打たれ、歩いていた――戒十。
意識が朦朧としていた。
ここまでどうやって来たのか、なにも覚えていない。
どういうわけか、戒十は人型に戻っていた。
だが、服は着ておらず、代わりに全身が毛に覆われ、髪は地面に引きずるほど長い。
戒十のわき腹には膿んだ傷、そして右腕がなかった。
霞む視界。
戒十の瞳に映る景色は、三倉と掛かれたドア。
もう限界だった。
戒十はマンションの廊下で倒れてしまった。
足音が聴こえる。
ここまで、無意識のうちに身を潜め、誰にも見つからぬように来たが、立ち上がる力も残っていない。
眠るように戒十の瞳はゆっくりと閉じた。
そして、ゴミ袋を持ったまま駆け寄ってくる少女の姿。
少女はゴミ袋を落とし、驚きと動揺で戒十の横顔を見つめた。
「まさか……戒十くん!?」
全身を毛で覆われ、片腕のない異質な存在。たじろいでも可笑しくない化け物だ。
だが、純は戒十を悲しんだ。
「どうしたの、大丈夫?」
微かに言葉に滲む恐怖。
すぐに純は戒十の身体を弱く揺すった。けれど、反応はない。
次に純は三倉家のチャイムを押した。けれど、反応はない。
人を呼ぶ?
脳裏に過ぎったが、今の戒十を誰かに見せてはいけないと思った。多くの眼に変わり果てた戒十を見せてはいけない。
純は渾身の力で戒十を背負い、自分のうちまで運んだ。
弟はまだ寝ている。母は台所に立っている。細心の注意を払いながら戒十は自分の部屋のベッドに寝かせた。
顔にも出るほど純は動揺していた。
これからなにを?
戒十の様子を確かめるのが先か、置いてきてしまったゴミ袋の処理か、このことを母にだけは伝えるべきなのか、戒十になにがあったのか?
とりあえず純はゴミをゴミ置き場に捨てに行くことにした。
走ってゴミを捨てに行き、すぐに部屋に戻ってきた。部屋を空ける前と、戒十に変わった様子はない。
ベッドに横たわる戒十の姿を観察しながら、急に純は顔を赤くした。そして、急いでバスタオルを戒十の下腹部に掛けた。そのとき、戒十がわき腹に怪我をしていることに気づいた。
長い毛に覆われていて隠れているが、その一部だけがねっとりしており、毛を軽く掻き分けると膿んだ傷口が見えた。
純は部屋を飛び出し、救急箱を持って戻ってきた。
消毒液を掛けようとするが、それをやめて純はピンセットを握った。
傷口から見えている金属片。
「痛かったごめんね」
純は痛々しい顔をしながら、ピンセットで金属片を抉り出した。
潰れた金属の塊。それは銃弾の破片だった。キッカが撃った毒薬入りの炸裂弾だ。
その後、傷口を消毒して、試行錯誤しながらガーゼを当てて、テープで固定しようとしたが毛が邪魔でできず、包帯を腹に巻いて固定した。
純は疲れたように床に座り、漠然と戒十の姿を眺めた。
どうしてこんな姿に?
「銃で撃たれたのはこんな姿になったから?」
あの金属片が銃弾であることは推測できていた。その因果関係を姿と結びつけたのは妥当な考えだろう。
毛に覆われた異質な姿。
片腕もないが、傷口は手当てするまでもなく、塞がって瘤のように硬くなっていた。
「……どうして……こんな姿に?」
それが最大に疑問だろう。
梅雨の雨の日、戒十は自分の前から姿を消した。その後、学校にも来ず、自宅を訪ねるが、いつも留守だった。
長く感じた数週間だったが、それでも数週間という短い時間で、人間はこれほどまでに変貌できるのか?
純が確信を持ってわかることは、戒十が何者かに命を狙われているということ。
失われた腕、撃たれたわき腹。やはり、戒十のことを誰かに知られるわけにはいかない。
誰かに知られれば、そこから戒十に危険が及ぶかもしれない。
こんな姿の戒十を母が見たらどう思うか、それを考えると母にも秘密にするしかない。弟なんてもってのほかだ。
考えを巡らせた結果、純は独りで背負うことを決めた。それが最後に残った選択肢だった。
しかし、いつまで隠し通せるか?
限界など眼に見えている。
「大丈夫……」
まずは戒十が意識を取り戻すまででいい。そうすれば事態はだいぶ改善される。
さすがに一生眠り続ける戒十を、この部屋に匿うのは不可能だが、眼を覚ますまでならどうにかなる。
この部屋には滅多なことがない限り、誰も入ってこないはずだ。けれど、弟が知らないうちに勝手に入る可能性がある。
周りが見えないほど、純が考え事をしているとき、突然に部屋のドアがノックされた。
心臓が止まるかと思った。
「純、どうしたの、朝食の準備できてるわよ?」
なかなか姿を見せない純を心配して、母親が呼びに来たのだ。いつもは呼ばれる前に、朝食の準備も手伝っているのに――。
純はドアの前に立ったが、ドアを開けることはなかった。
「なんだか調子が悪いから学校休むね。朝食は冷蔵庫に閉まっておいて、あとで食べるから」
「そう、わかったわ。ゆっくり休んでね」
足音が遠ざかっていく。
ほっと胸を撫で下ろす純。
咄嗟の嘘だったか、これで今日1日は戒十の傍にいられる。
明日までに戒十が目を覚まさなかったら?
これからのことも考えなくてはいない。
ドアを背もたれにして、膝を抱えて純は座った。
ひと段落つき、疲れが急に襲ってきた。
純は膝に顔を埋め、眼を瞑って深呼吸をした。
時間だけが過ぎていく。
家族は出かけてしまった。残っているのは純と戒十だけ。
いつの間にか、純は眠りに落ちてしまっていた。
物音が聞こえ、ハッとした顔をして純は目を覚ます。
物音は違う部屋から聞こえた。戒十が目を覚ましたのかと思ったが、その戒十は目の前のベッドで横になったままだ?
母か弟がなにかあって帰ってきたのだろうか?
純は部屋のドアを静かに開け、首だけを廊下に出して、辺りの様子を伺った。
物音は聞こえなかった。
「気のせい?」
かと思ったが、気になって不安になってしまい、他の部屋も調べることにした。
大きなカーテンが揺れている。ベランダに出る窓が開いているらしい。
窓が開いていること事態は、特段に気にすることではない。階層が高いので、無用心ということにもならず、純が家に残っていることもある。だが、網戸が閉まっていないのは不自然だ。
しかし、不自然だと思いつつも、誰かが閉め忘れたのだろうという、もっともありそうな可能性で考えを終わらせた。
純は窓を閉め、カーテンを直し部屋を後にした。
また物音がした。
今度は確実に聞き取れた。それが自分の部屋からだと知り、駆け足で純は戒十の元へ戻った。
部屋に戻ると、戒十の姿がない!?
そう純が思った瞬間、後ろから口を塞がれてしまった。
毛むくじゃらの手が自分の口を塞いでいる。純はその手を振り払おうとした。
長い毛が床に落ちる。抜いたのではない。簡単に抜けてしまったのだ。
突然のことに純はパニックに陥ったが、それが戒十だということを思い出した。
純は無理に抵抗することをやめ、全身の力を抜いて戒十に身を任せた。
すると、戒十も純を解放した。けれど、決して後ろを振り向くことを許さない。
「こっちを向かないで欲しい」
哀しみが言葉には含まれていた。
純は言葉を返す。
「わたしは今の三倉くんでも大丈夫だよ?」
残念なことに、戒十はその言葉を信じることができなかった。
自分の姿がどうなっているか、鏡はまだ見ていないが、想像くらいはつく。
このような怪物を誰が普通に接することができようか?
純の言葉。その言葉に戒十は小さな希望を見出し、この一言を残すことにした。
「ありがとう」
そして、戒十は純が振り向く前に去ろうとした。
だが、それは阻まれることになった。
謎の男が立っている。この雰囲気はすぐにわかる。
「僕を探しに来たのか?」
こんな場所にまで追ってくるなんて、純まで巻き込む結果になってしまった。
男は飛び掛ってくる。
純が小さく叫ぶ。
戒十は動かなかった。相手に怯えて動かないのか、咄嗟のことに動けないのか、それとも怪我のせいかなのか?
すべて違った。
弱すぎる。
戒十の長い爪が男の胸を抉った。
男は胸を押さえながら後退りをした。
決して弱い敵ではない。
戒十は変わったのだ。
『ケモノ』になった戒十は人型に戻っても、以前の戒十とは別のモノに変わっていたのだ。
開花した戦闘能力。
しかし、まだ調子が悪い。
音が雪崩のように押し寄せてくる。
酷い頭痛と眩暈。
戒十は男に止めを刺す。
男の腹を貫いた戒十の腕。抜かれた腕は腸を引きずり出していた。いくらキャットピープルといえど、死を免れない致命傷だ。
残虐な光景を目の前にして純は絶叫して気を失った。
純に見せてはいけない光景だが、これでいい。気を失ってくれたほうがやりやすい。敵を倒せば、もうここをすぐに去る。今度こそ、もう2度と純と会うことはないのだから。
驚いた顔で戒十は振り返った。
「クソッ」
その短く吐き捨てた言葉にすべての感情が含まれていた。
他の雑音に惑わされ、もう1人の敵に気づかなかったのだ。
敵は気を失っている純を人質に取った。
「大人しくしろ!」
男が叫んだ。
戒十は立ち尽くしながらチャンスを伺った。
自分が敵を仕留めるのが早いか、敵が純を殺すのが早いか。
「僕を狙ってきたんだろ?」
「そうだ、生け捕りにしろとの命令だ」
「僕が抵抗せずに君に捕まれば、その人を解放するか?」
「してやろう。だが、まず外で待機している仲間を呼んでからだ」
男がケータイを出そうとした瞬間、戒十は動いた。
長い爪が男の頬を抉った。
さらに攻撃の手を休めずに――と思ったのだが、戒十の視界が霞んだ。
男は戒十との実力の差を実感し、純を連れて逃げようとしている。この状況で人質を取っても、戒十を生け捕りにするのは難しいと判断したのだ。
純を抱えて逃げる男。
男はベランダに向かって走りだしている。
すぐに戒十も後を追おうとした。
しかし、開けられたカーテンから光が部屋に差し込んだ瞬間、戒十の視界がさらに霞み、意識が遠のく感覚に襲われた。
陽を浴びた黒い影がベランダを飛び越えていく。
「こんなときに……」
自分の不甲斐なさを呪った。
戒十は床にうつ伏せになって、そのまま動くことができなかった。
ここで意識を失うわけにはいかない。
必死に立ち上がろうとした。
腕が痺れて動かない。
誰かが近づいてくる音が聴こえた。あいつが仲間を引き連れて、体制を整えなおしたのかもしれない。
もう抵抗もできない。
それでも戒十は戦おうとした。諦める気などない。
最後の力を振り絞って戒十はうつ伏せから仰向けになった。
そして、自分を見下げる顔を見た。
「大丈夫ぅ、戒十?」
その顔を見て、戒十の顔は思わず綻んだ。
リサがいた。
「見ればわかるだろ。知り合いが浚われた、早く追ってくれ」
「シンが追ってるけど……。それよか、戒十がまさか元に戻れるなんて、思ってもみなかった」
満面の笑みを浮かべるリサ。本当に嬉しそうだった。
しかし、戒十は純が気がかりだった。
「僕のことはいいから、早く敵を追えよ!」
「怒鳴んないでよ、シンが追ってるって言ってるじゃん。奴らはシンに任せたから、アタシは戒十のこと任されたの!」
「僕は独りでも平気だよ」
「ぜんぜんへーきじゃないじゃん。ここの傷、やっぱり治ってないんだ」
キッカに撃たれた傷のことだ。
「でも、あの銃弾を撃たれて死なないなんて……」
傷は残っているが、治る方向に進んでいる。通常のキャットピープルであれば、死んでいたはずの毒薬だった。
リサは戒十の身体を担ぎ上げた。
「行くよ」
行こうした瞬間、リサのケータイが鳴った。
「はい、もしもーし」
テンション高く電話に出たが、急激に顔色が曇った。
ケータイを切ったリサは、申し訳なさそうに戒十を見つめた。
「逃げられたって」
戒十はなにも言わなかったがリサは感じた。戒十の鼓動が乱れている。これは怒りだ。
「必ず助けるから」
そう言ってリサはこの場から戒十を連れ出した。