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第3章-夜の産声-ケモノの血

 リサは小さく呟いた。

「カオルコ……」

 再び姿を現したカオルコ。その唇は以前に増して鮮やかに紅い。

「今晩はお姉さま」

 安らかな声音だった。

 仲間の男が二刀流のナイフを握ってカオルコに斬りかかった。

 金属の鞭が跳ねた。

 いくつもの関節がある鞭は、まるで刃を連結させたようになっている。自在に形を変える剣のようだ。

 ずり落ちた

 果敢にもカオルコに挑んだ男の胴が、腰の上を滑って地面に落ちた。それは鞭の成した業であり、その切れ味の鋭さを物語っていた。

 鞭を握るカオルコの手には、特性のグローブが嵌められている。

 以前によりもカオルコは強くなっている。

 シンは刀を抜いた。

「何人喰った?」

「いちいち数えてないわ」

 そう、またカオルコは同属を喰らったのだ。きっと数え切れぬほど……。

 キッカはリサに顔を向けた。

「知り合い?」

「アタシが血を分け与えた娘」

「親に歯向かうガキか……」

 3人はカオルコを囲んで三角形を結んだ。

 戒十は未だ車を出れないでいた。足手まといなのはわかっている。出たくても出られなかった。

 カオルコは余裕だった。

「3人まとめて掛かっていらっしゃい」

 シンとキッカが仕掛ける寸前、リサが止めた。

「アタシ一人でやらせて、子供の不始末は親のアタシが片付ける」

 カオルコは艶笑した。

「無理はしないことよ、お姉さま」

「はいはい、どんくらいアタシが生きてると思ってんの? 負けるわけないでしょー」

「それはどうかしら?」

 カオルコが消えた。

 思わずリサの口をついて言葉が漏れる。

「早いっ!?」

 リサは本能でそれ躱した。

 撓[シナ]る鞭がリサの服を掠めた。

 リサが苦笑いをする。

「油断したーっ」

「本当に油断しただけかしら?」

 カオルコは嗤った。

 またカオルコが消えた。

 再びリサは本能のまま躰を動かした。

「クッ」

 歯を食いしばる音。

 スカートから覗くリサの太ももに、盛り上がった傷跡が走っていた。斬られたのだ。

 満足そうなカオルコの表情。

「また油断してしまったのかしら?」

「……ありえない」

 リサは呟いた。

 それはリサの考えではありえないことだった。

「だって……ありえないハズ。こんな短期間で、こんなに強くなるなんて、どうやって?」

「お姉さまも知ってるでしょう。キャットピープルを喰らったのよ」

「だから、それがありえないって言ってるの!」

 声を張り上げたリサを見ながら、カオルコは艶笑していた。リサの言いたいことを理解しているのだ。

 『成れの果て』と呼ばれる怪物。それは欲望のままに血を呑んだ者に与えられる罰。

 短時間で何人ものキャットピープルを喰らうのは不可能なのだ。1人でさえ、多くの時間をかけて喰わねば、『成れの果て』に成り果てることになる。

 カオルコは答えを口にしようとしていた。

「お姉さまの言いたいことはわかるわ。ついに完成したのよ、『成れの果て』を抑制する薬が」

 衝撃が走った。

 キッカも驚きのあまり口にした。

「まさか……そんな情報どこからも入ってきてないぞ」

 それはキャットピープルの長年の夢だった。

 キャットピープルは衰弱死するよりも、耐えられず『成れの果て』となって死んでいく者が多い。もっとも切実な問題として、長い間キャットピープルを苦しめてきた問題。その問題が解決されたとカオルコは言ったのだ。

 しかし、1つの問題が解決され、新たな問題が浮上した。

 今、目の前にいるカオルコの存在。

 力を欲し、欲望のままに喰らう。『成れの果て』になるという限界がなくなった今、無尽蔵に同属を喰らうことができる。力を求める者の枷が消えた。

 カオルコの眼が水平に移動した。見つめるは戒十。

「もう誰かここに寄越したのでしょう? お姉さまたちと遊んでいる暇はなさそうね」

 カオルコが消えると同時にリサが叫んだ。

「逃げて戒十!」

 反射的に動けなかった戒十は逃げられなかった。

 車の出口に立ちふさがるカオルコの姿。

「貴方が必要なの、クイーンをおびき寄せるため、そして、クイーンの代用品として」

 カオルコは戒十の腕を掴み、車から無理やり引きずり出した。

「離せ!」

 戒十は抵抗するが、腕に激痛が走り、地面に自由な手を付いて倒れてしまった。

 カオルコに握られている腕は潰された。骨と肉を砕かれたのだ。

「ぎゃああっ!」

 戒十は絶叫を上げた。

 こうなってしまっては1対1なんて言っていられない。

 リサ、シン、キッカがカオルコの行く手を塞ぐ。

 カオルコは戒十を羽交い絞めにして、長い爪の先端を戒十の首筋に当てた。

「邪魔をすると、この子の命がないわよ」

 キッカが鼻で笑う。

「そんなハッタリに引っかかるかよ。そのガキが必要なんだろ、殺すハズがねえ」

 その通りだった。嘘を見破られたカオルコは嗤っていた。

「ならこうしましょう」

 硬い枝を折るような音が響いた。

「あがっ!」

 声にならない悲鳴が戒十の口から毀れた。

 地面に腹ばいになった戒十の背中を踏みつけるカオルコ。戒十の肩はあり得ない方向に曲がり、カオルコがしっかりと握っていた。

 肩の関節を外され、あらぬ方向に曲げられたのだ。

「邪魔をすれば、死なない程度にこの子を甚振るわよ」

 なんとおぞましい笑みか、カオルコは満足そうに艶笑していた。

 人質と心中するつもりのない犯人は、人質を殺せない。

 逃げようとしているのに、人質を殺すことは、敵に自分を捕らえるチャンスを与えるもの同じ。人質がいるからこそ、敵は仕掛けてこないのだ。人質を殺すことは、自らの首を絞めることになる。

 シンは鋼の精神でこの場を冷静に見極めた。

「ここで痛められぬとて、連れ去られたのちに、苦痛を強いられることになるかもしれんぞ」

 それにキッカも同意する。

「ったくだぜ、連れてかれる前からこの有様だぜ。それがVIP待遇になるとは思えねぇーな」

 しかし、リサは行動に移せなかった。

 『成れの果て』にならば非情になれても、心のある仲間を苦しませることはできなかった。

 苦痛で顔を歪める戒十。その苦しみを少しでも取り払いたい。心に情があれば、そう思ってしまうのも仕方なかった。

 不安がリサの顔で見え隠れしていた。それをカオルコが見逃すはずがない。

「お姉さま、表情が少し硬いわよ……らしくない」

 リサは笑って見せた。

「にゃはは、この顔のどこが硬いっていう……のっ!」

 ついにリサが仕掛けた。

 そのまま行けばリサがカオルコを仕留めていた。

 が、背筋に奔る戦慄。

 言葉では言い表せない地獄の絶叫。

 鮮血がリサの顔を彩り、眼を見開いたままリサは腕に殴られた。

 リサを殴り飛ばした腕は、もぎ取られた戒十のものだった。

 そこまで卑劣な所業をするとは、シンとキッカも足を止めてしまった。残虐な光景など、いくらでも見てきたが、それは『怪物』のすることだった。まさか、人の形をしたオンナが、そこまで非情な手段を取るとは予想してなかった。

 しゅぅしゅぅと肩の付け根から噴出す血。悶絶を繰り返す戒十の姿は、誰が見てても痛ましい地獄だった。

 血の絨毯に黒いブーツを浸しながら、オンナの皮を被った怪物は嗤っていた。

「死にはしないわよ、だってクイーンの血を受け継ぐ者だもの」

 静かな嗤いが響いた。

 異変に気づいたのは誰が最初か?

 はじめはカオルコの嗤い声だった。

 しかし、その闇に潜んでもうひとつの声がいていた。

 リサが叫ぶ。

「カイトが暴走する!」

 カオルコが眼を剥いた。

 巨大なケモノがカオルコに襲い掛かった。

「キャァァァッ!!」

 甲高い悲鳴。

 カオルコを地面に倒し、その上に戒十がケモノのように乗っていた。

 咄嗟にカオルコは戒十の腹を蹴り飛ばし、顔面を押さえながら立ち上がった。

 長く美しい繊手の間から噴出す血。カオルコは顔半分を手で隠し、残り半分の顔を狂気で歪ませていた。

「よくも、よくも……アタシの顔を喰ってくれたわね!」

 勢いよく外された手の下から、見るも無残な血みどろの顔が姿を現した。

 顔の筋肉が露になり、顎や頬の骨が見えていた。カオルコは美醜を左右の顔で体現していた。

 戒十の筋肉が脈打って、服が破れるほど膨れ上がった。

 キッカが声を張り上げる。

「ただの『成れの果て』じゃないぞ!」

 戒十の髪の毛が地面に付くほど伸び、黒い毛並みが全身を覆った。黒い毛に覆われた顔の奥で光る眼。

 もはやそれは戒十と呼べない存在――巨大な『ケモノ』と呼ぶに相応しい。

 自分たちキャットピープルの存在は肯定できる。けれど、物語と現実を混同することはない。

 キッカは苦笑いをした。

「俺たちは現実を生きてる。今、俺らの目の前にいるのはファンタジーだぜ」

 『ケモノ』は三つ足で跳躍した。獲物は血の香りを振り撒くカオルコ。

 猛獣使いのように鞭を使い、血みどろのカオルコは『ケモノ』に挑んだ。

 鋭い刃を持つ鞭が踊る。

 鞭は『ケモノ』の肉を抉り斬った。それも数え切れないほどに。

 しかし、『ケモノ』は物ともせずにカオルコに牙を剥く。

 開けられた巨大な口。鋭い牙。紅い舌までも、カオルコは間近で見た。

 その口は頭を丸ごと呑み込むのではないかと思われた。

 喰われる寸前、カオルコの身体が、小柄な影に押し飛ばされた。

 『ケモノ』の歯が激しく音を立て噛み合わされたが、口にはなにも入っていない。

 黄金の瞳が映し出す少女の姿。カオルコを押し飛ばし、『ケモノ』の前に立ったのはリサだった。

 リサの瞳は冷たい。『ケモノ』の奥に戒十の姿を映していない。

「凶悪な『ケモノ』を世に放つわけにはいかないの」

 口調はさらに冷たさを帯びていた。

 三つ足の『ケモノ』は、その牙でリサに襲い掛かる。

 リサは素早く『ケモノ』の懐に潜り込んだ。

 そして、隠し持っていたナイフを抜く。そのナイフはシンが戒十に渡した物だった。『ケモノ』になった弾みで地面に落ち、それをリサが拾ったのだ。

 鋭いナイフは、鋭い牙よりも早く、相手の肉に喰い込んでいた。

 ナイフの刃を流れる血の筋。

 さらにリサはナイフを奥へと押し込んだ。

 魔獣の彷徨が夜に響き渡った。

 リサの刺したナイフは心臓の位置を捉えていた。

 『ケモノ』は二本足で立ち、リサの身体を掴んで投げ飛ばした。

 地面に着地したリサ。その手にナイフはない。ナイフは『ケモノ』の胸に突き刺さったままだ。

 リサは歯を食いしばりながら表情を曇らせた。

「可笑しい……心臓まで届いてないの?」

 ナイフは心臓の位置を捉えていた。それは鼓動を感じるリサの耳が証明している。

 しかし、戒十から何倍も膨れ上がり、厚い筋肉を持つ『ケモノ』の胸板を、ナイフは貫くことができなかったのだ。

 それほどまでに『ケモノ』は巨大化していた。

 かつてその『ケモノ』が戒十だったと、誰が信じようか?

 キッカの銃が火を噴いた。

 銃弾はすべて『ケモノ』に命中したが、致命傷どころか攻撃になっているかもわからない。

 キッカは弾倉を抜き、赤いテープの貼った弾倉と入れ替えようとした。毒薬入りの炸裂弾だ。

 弾倉を入れ替えるキッカの傍らでシンが地面を蹴った。

 刀が風を斬る。

 しかし、その刀が『ケモノ』を斬ることは叶わなかった。

 巨大な躰を持ちながら俊敏な動きを見せる『ケモノ』。

 胸にナイフを刺されてから、途切れることなく咆哮をあげている。

 暴れながら『ケモノ』はシンの胸に拳を喰らわせた。

 人形のようにシンは飛ばされ、衝撃で躰が言うことを利かず、うつ伏せのまま地面に落ちた。口から大量の血が毀れる。外からの衝撃で内臓までやられたようだ。

 リサは再び『ケモノ』に挑もうとしていた。

 その時、銃声は鳴り響いた。

 キッカの撃った銃弾が『ケモノ』の腹で炸裂した。

 豪雷にも似た咆哮をあげる『ケモノ』は、キッカに飛び掛ってきた。

 再びキッカは銃を撃った。

 1発に止まらず、できる限りの銃弾を『ケモノ』に喰らわせた。

 『ケモノ』はキッカの胸を押し飛ばし、そのまま踏み台にして逃げようとした。

 地面に激しく背中を打ちつけたキッカは動けない。

 よろめくシンでは『ケモノ』を追えない。

 残されたリサは足が地面に張り付いたように、ただただ、黒い影が闇に消えるのを見つめていた。

 そして、カオルコの姿もまた、いつの間にか闇の奥に消えていたのだった。

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