第9話「王都からの影」
秋晴れの爽やかな青空の下、ヴェルデ温泉街の中央通りは、この日も朝から湯煙と活気あふれる人々の笑顔に包まれていた。
通り沿いの特産市では、朝採れの温泉地熱トマトや瑞々《みずみず》しいキャベツが並び、蒸し饅頭屋からは甘く香ばしい湯気が立ち上っている。
大足湯には、旅の商人や巡回中の冒険者たちが腰を下ろし、心地よさそうに目を細めながら旅の談笑に花を咲かせていた。
「若女将! 今日も湯加減最高だよ! 腰の重みが嘘みたいに消えた!」
「ありがとうございます。朝晩は冷え込みますので、湯冷めには十分お気をつけてくださいね」
『燈火亭』の暖簾の前で、セレスティアが笑顔で宿泊客を見送っていた。
白銀の髪に桜色の帯。
その気品に満ちた柔らかな笑顔は、街を訪れるすべての旅人にとっての心の拠り所となっていた。
トウマもまた、湯畑の水門の調整を終え、前掛けの手を拭いながらセレスティアの隣へと歩み寄った。
「セレス、午前中の湯畑の清掃も終わったぞ。源泉の湧出量も泉質も、完璧な安定状態だ」
「お疲れ様でした、トウマ様。……本当に、この街は毎日が温かい笑顔で満ちていますね」
二人が微笑み合った、その時だった。
ドドドドド……ッ!
地鳴りのような激しい蹄の音が、街道の彼方から響き渡った。
砂塵を巻き上げながら通りへと乱入してきたのは、豪奢な装飾が施された軍用馬車と、重装鎧に身を包んだ二十人もの王都近衛騎士団の小隊だった。
「どけ! 王家のお通りだ! 平民ども、道をあけい!」
怒号と共に、馬車を先導する騎士が抜刀し、広場にいた露店の荷車を蹴散らした。
木箱がひっくり返り、真っ赤な温泉トマトが泥の上に転がり落ちて潰れる。
買い物客たちの悲鳴が上がり、平穏だった温泉街の空気が一瞬で凍りついた。
「な……何事だ!?」
トウマは瞬時にセレスティアを背後に庇い、鋭い視線で騎兵の群れを睨みつけた。
馬車が『燈火亭』の正面で止まり、中から降り立ってきたのは、豪奢な絹の長袍をまとった傲慢そうな顔立ちの高官だった。
胸には、第一王子レナードの直属使者であることを示す金の鷲の紋章が刻まれている。
男は鼻を覆い、温泉街の湯煙を汚らわしそうに手で払いながら、トウマとセレスティアを見下ろした。
「ふん……これが噂の温泉街か。下賤な湯煙の悪臭が鼻を突くわ。……おい、貴様がこの掘っ立て小屋の主、トウマとかいう野良農夫だな?」
「そうだ。俺が『燈火亭』の主だ。……王家の使者か知らんが、いきなり街に乱入して露店を荒らすとは、どういうつもりだ?」
トウマが低く据わった声で問いただすと、使者の男は嘲笑を浮かべて鼻を鳴らした。
「無礼者め。誰に向かって口を利いている。私はベルガルド王国第一王子、レナード殿下の直属主席補佐官、バルガス男爵である! 今日は貴様ら罪人と下民に、レナード殿下からの絶大なる慈悲と王命を伝えに来てやったのだ!」
バルガス男爵は羊皮紙の巻物を取り出し、大袈裟な動作で広げると、通り中に響き渡る高圧的な声で読み上げ始めた。
「――宣告する! このヴェルデ荒野は、古来よりベルガルド王室の直轄領地である! したがって、この地に湧き出た源泉、建築された温泉施設、宿屋、商業施設、および地熱農園の一切の所有権は、すべて王家へと無条件で接収・国有化されるものとする!」
「な……接収だと……!?」
周囲の町民や商人たちから、怒りと動揺のざわめきが広がった。
不毛の荒野だった時には誰も見向きもせず、見捨てていた土地である。
それをトウマたちが血のにじむような開墾と努力でここまで繁栄させた途端、王領地だと主張してすべてを強奪しようというのだ。
あまりの厚顔無恥と横暴さに、人々は言葉を失っていた。
だが、バルガス男爵の非道な宣告はそれだけにとどまらなかった。
男爵はねっとりとした冷酷な視線を、トウマの背後にいるセレスティアへと向けた。
「そして……そこにいる追放人、セレスティアよ!」
セレスティアの身体がピシリと硬直する。
「殿下は実に寛大なお方だ。魔力ゼロの無能として王都を追放された貴様の重罪を、特別に見逃してくださるという。その代わり、貴様はこの『王立ヴェルデ温泉特区』の専属管理人として、死ぬまで無給で王家のために湯守と宿の経営に従事せよ! 殿下に忠誠を誓い、一生涯タダ働きをすることで、かつての罪を贖うのだ!」
「……っ!」
セレスティアのアメジストの瞳が、侮辱と怒りに見開かれた。
無能と罵って荒野に放り出し、死にかけたところを助けてもらった恩を仇で返し、繁栄した宿の利権を奪った上で、自分を奴隷のように無償で酷使しようというのだ。
レナード王太子の歪んだ支配欲と浅ましい強欲さが、その命令の端々から滲み出ていた。
「そして、トウマといったな」
バルガス男爵は懐から、汚れた革袋を放り投げた。
チャリン、と鈍い音を立てて泥の上に転がった革袋からは、わずか数枚の金貨が覗いていた。
「貴様のような卑しい野良農夫には、金貨十枚の手切れ金を与えてやる。今日中にこの街のすべての権利書と源泉の制御法を我が軍に引き渡し、着の身着のままで荒野の彼方へと立ち去れ。もし拒むならば、王命に背く大逆罪として、貴様もろともこの街を焼き払い、全員を反逆者として処刑する!」
騎士たちが一斉に剣の鞘を鳴らし、殺気を放った。
恐怖に悲鳴を上げ、後ずさる町民たち。
バルガス男爵は満足そうに口もとを歪め、セレスティアに向かって手を差し出した。
「さあセレスティア、理解できたなら早く平伏し、レナード殿下の慈悲深き寛大さに涙を流して感謝の祈りを捧げるがよい!」
沈黙が支配した通り。
誰もが恐怖と絶望に息を詰まらせる中、一歩前へと進み出た者がいた。
セレスティアだった。
彼女はトウマの背後から静かに歩み出ると、泥の上に落ちた金貨の袋に目もくれず、バルガス男爵を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、一握りの恐れも怯えもなかった。
そこにあったのは、王族の理不尽な横暴を断固として拒絶する、高貴で揺るぎない誇りだった。
「……お断りいたします」
凛とした鈴のような声が、通りに響き渡った。
「な……何だと……!?」
「私はレナード殿下の奴隷でも、王家の所有物でもありません。この街は、トウマ様がその清らかな手で大地の声を聞き、ここに集まった心優しき職人や領民の皆様と共に、汗と涙で築き上げた奇跡の場所です。理不尽な暴力で奪おうとする者たちに、渡すものなど一つもありません!」
「き、貴様……無能の追放人の分際で、殿下の慈悲を拒むというのか!?」
激昂したバルガス男爵が右手を振り上げ、セレスティアの頬を打とうとした、その瞬間――
バシッ……!
空気を切り裂くような乾いた音が響いた。
バルガス男爵の腕が、空中でピタリと止まっていた。
その太い手首を掴んでいたのは、トウマの鉄のように硬い右腕だった。
「ぐ、ぐわっ!? な、何だ貴様は……離せ、無礼者め!」
トウマの琥珀色の瞳は、深海の氷のように冷たく研ぎ澄まされていた。
握られた男爵の手首から、ギリギリと骨の軋む音が響く。
「俺の仲間と、俺の大切な人に……気安く触るな」
地を這うような静かな怒り。
その迫力と覇気に圧され、バルガス男爵の脂ぎった顔から急速に血の気が引いていった。
「ここは俺たちが創った街だ。人を癒やし、笑顔にするための場所だ。お前らのような強盗の理屈が通る場所じゃない。その無様な紙切れを持って、今すぐ王都へ消え失せろ」
トウマが手を振り払うと、バルガス男爵は無様に尻餅をつき、泥水の上に転がった。
「ひ、ひぃぃっ!? き、貴様ら……後悔するぞ! 王命を拒絶したのだ、ただで済むと思うな! 全軍を動員して、この街を跡形もなく踏み潰してやる!」
男爵は這いつくばるようにして馬車へと逃げ込み、騎士たちを引き連れて砂塵を巻き上げながら王都の方向へと逃げ去っていった。
嵐のような使者の襲撃が去った後、通りには再び静けさが戻っていた。
だが、その空気は絶望に沈んではいなかった。
セレスティアの気品ある拒絶と、トウマの毅然とした怒りに触れ、町民たちの瞳には、自分たちの居場所を自分たちの手で守り抜くという、熱い決意の炎が灯っていた。
王都の傲慢な権力との全面対決の幕が、静かに、そして確実に切って落とされたのだった。




