第10話「奪われた平穏と理不尽な接収令」
王都からの使者バルガス男爵を追い返した翌朝、ヴェルデ温泉街を包む空気は一変していた。
澄み切った秋晴れの空の下、いつもであれば街道を行き交う旅人の足音と馬車の車輪の音が響いているはずの通りが、不気味なほどの静寂に包まれていたのだ。
「トウマ様、東街道の入り口が……!」
物資の買い出しに出ていた若い大工が、息を切らしながら『燈火亭』の大広間へと駆け込んできた。
宿のカウンターには、トウマとセレスティア、そして街の職人たちの代表であるバックス棟梁が集まり、真剣な表情で地図を囲んでいた。
「どうした、街道に何があった?」
「王都の近衛兵どもが、東街道と街を繋ぐ唯一の分岐点に鉄条網と頑丈なバリケードを築いて道を完全に封鎖しています! 『違法占拠地への立ち入り禁止令』という高札を掲げて、街へ向かう旅人や商人たちを威嚇して追い払っているんです! このままじゃ、食糧や建築物資の搬入も完全に止められてしまいます!」
「何だと……!?」
バックス棟梁が太い拳でテーブルを叩いた。
兵糧攻め。
武力で直接街を焼き払えば、王都としても対外的な名目が立ちにくい。
ゆえに、街道を封鎖して街の息の根を止め、飢えと困窮で内側から屈服させようという卑劣極まりない策略だった。
「どこまでも浅ましい奴らだ……自分たちが見捨てた荒野に、何の権利があってこんな真似をするんだ!」
トウマは静かに立ち上がった。
その琥珀色の瞳には、焦りも狼狽も一切浮かんでいなかった。
前世で、台風や冷害、土砂崩れといった自然の猛威と何度も対峙してきた男だ。
大地と向き合ってきた者に、人間の浅はかな強欲が仕掛けてくる悪意ごときで、心が折れるはずがなかった。
「棟梁、街のみんなに動揺しないよう伝えてくれ。うちの畑の野菜と、温泉熱で蓄えてある乾物や保存食で、最低でも二ヶ月は街全員が余裕で食いつなげる。井戸水も温泉水も地下深くから無限に湧いている。兵糧攻めなど、この大地には通用しない」
「おお、そうだったな! トウマ殿の地熱農園と源泉がある限り、わしらが飢えることなどありえん!」
棟梁が力強く頷き、安堵の息を吐いた。
セレスティアもまた、トウマの隣に寄り添い、確かな信頼を込めた瞳で頷き返した。
「はい。そして、星巡り商業連合のクラウス様にも至急、秘密の抜け道を通じて連絡を入れました。クラウス様がこの理不尽な封鎖を黙って見過ごすはずがありません」
「ああ。大地を信じて、堂々と構えていよう」
トウマが言葉を結んだ、その時だった。
ズズズズ……と地響きを立てて、街の正面通りに重々しい車輪の音が響き渡った。
街道の封鎖線を突破してきたのではない。
兵士たちに道を警護させながら、堂々と街の中央広場へと乗り込んできた巨大な豪奢な馬車があった。
馬車の扉が開き、降り立ってきたのは、肥満体型の脂ぎった男だった。
紫色の豪奢な絹の外套をまとい、両手のすべての指には大粒の宝石指輪が嵌められている。
細い豚のような目を細め、ねっとりとした傲慢な笑みを浮かべる男――王都の観光利権を牛耳る商業貴族、バルトロ男爵その人であった。
周囲には、抜き身の長槍を持った私兵集団と、王都の正規騎士たちが五十人以上も整列し、冷たい殺気を放っていた。
「ホッホッホ……! ここがヴェルデ温泉街ですか。なるほど、荒野の吹き溜まりにしては、小奇麗に街並みを整えたものですな」
バルトロ男爵は、扇子でパタパタと胸元を扇ぎながら、宿から出てきたトウマとセレスティアを見下ろした。
「貴様がバルトロ男爵だな。街道を封鎖した上に、土足で街へ押し入ってくるとは何の真似だ」
トウマが愛用の鉄鍬を手に立ち塞がると、バルトロ男爵は嘲笑を浮かべ、宝石指輪をジャラジャラと鳴らした。
「無知蒙昧な野良農夫よ、口の利き方に気をつけなさい。私はベルガルド王国観光興行最高顧問の地位にある男ですよ。……昨日、レナード殿下の使者を無礼にも追い返したそうですが、少し思い上がりが過ぎるのではないですか?」
男爵は懐から、真っ赤な蝋で封印された正式な王国接収令状を取り出し、トウマの足元へと放り投げた。
「最後通牒です。今日の正午までに、この街の全源泉の管理権、ならびに地熱温室の栽培技術をすべて我がギルドへ引き渡し、セレスティアを引き渡しなさい。そうすれば、貴様ら平民の命だけは助けてあげましょう」
「断ると言ったら?」
「ホッホッホ! 断るだと? 貴様、状況が分かっていないのですかな?」
バルトロ男爵は醜い顔を歪め、勝ち誇ったように喉を鳴らした。
「街道は完全に封鎖された。客は一人も来ず、物資の流通も止まった。貴様らは干からびた荒野の檻の中に閉じ込められたネズミなのだよ! 正午を過ぎれば、我が騎士団が一斉に突入し、抵抗する者はその場で反逆者として斬首! 残った者たちも全員、奴隷として王都の鉱山送りにしてやる!」
背後の騎士たちが一斉に槍の石突きを地面に打ち鳴らし、ドン、ドンと威嚇の音を響かせた。
広場の建物の物陰から様子を窺っていた街の子供たちが、恐怖に声を上げて母親の胸に縋り付く。
その光景を目にした瞬間、トウマの胸の奥で、静かに、しかし絶対零度の炎が燃え上がった。
トウマは一歩前へ踏み出し、足元の接収令状を踏み躙った。
「大地の恵みも、人の温もりも知らぬ豚野郎が……ふざけた真似をするな」
「な……豚野郎だと!?」
バルトロ男爵の顔が怒りで赤黒く染まる。
「源泉の管理権だと? 地熱の農業技術だと? 笑わせるな。自然の息吹も、地下の湯脈の繊細さも理解できない貴様らのような強欲の塊に、この湯が扱えるはずがない。少しでもバランスを崩せば、温泉は牙を剥くんだぞ」
「ふん! 知った風な口を利くな、卑しい百姓が!」
バルトロ男爵は唾を飛ばして喚き散らした。
「大地の息吹だと? 笑止千万! 温泉など、魔導士に命じて地下の岩盤を魔力で爆破し、熱を無理やり引き上げればいくらでも湧くのだ! 現に我がギルドは、王都近郊の山中に、この街の十倍もの規模を誇る巨大な『王立魔導温泉スパ』をすでに極秘で開発中なのだよ!」
バルトロ男爵の口から飛び出した言葉に、セレスティアの【精霊眼】がピクリと反応した。
セレスティアの視界の先、遠く西の王都の方向の大地脈から、激しく乱れた赤黒い毒煙の不穏な波動が立ち上っているのが視えたのだ。
「王都近郊で魔導爆破……? ばかな、そんな乱暴な掘削をすれば、地下の地熱ガスと断層の歪みが暴走して、大爆発が起きてしまいます……!」
「黙れ、追放された無能の小娘が!」
バルトロ男爵は懐中時計を取り出し、冷酷な笑みを浮かべた。
「正午まであと半刻だ。貴様らが泣き叫んで命乞いをし、足元に跪くのを楽しみに待っているぞ。……おい、広場を包囲しろ! 一匹たりとも逃がすな!」
騎士たちが展開し、温泉街を鉄の包囲網が締め上げていく。
絶体絶命の危機。
だが、トウマもセレスティアも、その瞳から光を失ってはいなかった。
理不尽な権力に屈する気など、最初から微塵もなかった。
その時だった。
「――おいおい、豚の脂の匂いがプンプン鼻について、せっかくの朝の湯上がりが台無しじゃねぇか」
広場の静寂を切り裂いて、地鳴りのような太く低い男の声が響き渡った。
騎士たちの背後から、ズシン、ズシンと大地を揺るがす足音が近づいてくる。
振り返ったバルトロ男爵と騎士たちの顔が、驚愕と恐怖に凍りついた。
そこに現れたのは、巨大な黒鋼の大剣を肩に担ぎ、凶暴な笑みを浮かべた歴戦の巨漢――『剛剣』のギルバートだった。
彼一人ではない。
ギルバートの背後には、彼が率いる数十人もの手練れの冒険者たちが、武器を手にして整然と立ち並んでいた。
反撃の狼煙が、今まさに上がろうとしていた。




