第8話「商人ギルドの来訪と特産市」
荒野が「街」としての輪郭を持ち始めた頃、『燈火亭』の門前に一台の豪奢な馬車が到着した。
黒塗りの車体には、大陸全土にその名を轟かせる最大手交易組織「星巡り商業連合」の紋章――三つの星が重なる銀の刻印が刻まれていた。
護衛の屈強な傭兵たちを従えて馬車から降り立ったのは、仕立ての良い濃紺の商服に身を包んだ、上品な口髭の紳士だった。
理知的な銀縁の眼鏡を押し上げ、鋭い観察眼で宿の周りを見渡している。
星巡り商業連合の最高幹部の一人、クラウス会頭その人であった。
大陸中のあらゆる市場を動かし、王族とも対等に渡り合う伝説の大商人だ。
「いらっしゃいませ。星巡り商業連合のクラウス様ですね。遠路遥々のお越し、心より歓迎いたします」
玄関先で深々と礼をしたのは、若女将のセレスティアだった。
クラウスは眼鏡の奥の目を細め、セレスティアの洗練された所作に驚きの色を隠さなかった。
歩き方、指先の揃え方、声の抑揚に至るまで、王都の宮廷令嬢ですら及ばぬほどの優美さと、客人を包み込むような温かな気品が宿っていたからだ。
「……噂には聞いておりましたが、辺境の宿とは思えぬ見事なおもてなしですね。セレスティア様、お噂はかねがね伺っております」
「恐れ入ります。当主のトウマがお待ちしております。どうぞ奥の貴賓室へ」
案内された部屋のテーブルには、湯上がりのクラウスを驚嘆させる品々が並んでいた。
冷えた井戸水で締めた温泉メロンの切り身、湯の花石鹸のサンプル、そして朝採れの温泉地熱トマトと蒸し野菜の盛り合わせ。
さらに、源泉水で淹れた香り高い特製の野草茶が湯気を立てていた。
クラウスは無言でメロンをフォークで一口口にし、目を閉じた。
数十秒の沈黙の後、眼鏡を外して深く息を吐き出した。
「……素晴らしい。大陸中の珍味を味わってきた私ですが、これほどまでに気品に満ちた甘みと香りを湛えた果実に出会ったことはありません。果肉が舌の上で溶け、上品な余韻がいつまでも鼻腔に残る。石鹸の泡立ちと保湿力も、王都の王立薬師ギルドが誇る特級品を遥かに凌駕している。トウマ殿、単刀直入に商談に入らせていただきたい」
トウマとセレスティアが向かい合って座ると、クラウスは懐から羊皮紙の契約書を取り出し、テーブルの上に置いた。
そこには、金貨数千枚という天文学的な前払い金と引き換えに、温泉メロンと湯の花石鹸の「全量独占買取権」を要求する文面が記されていた。
「この契約を結んでいただければ、燈火亭には一生使い切れないほどの富が約束されます。商品はすべて我が商業連合が王都の貴族や大豪商へと高値で卸しましょう。他国の皇族への献上品としても最高値がつくはずです。いかがですかな?」
並の農民や商人であれば、目の眩むような巨額の提示だった。
一生涯、汗水垂らして働く必要などなくなるほどの莫大な財富である。
だが、トウマの表情には一切の動揺も欲の色も浮かばなかった。
琥珀色の瞳で契約書を真っ直ぐに見つめ、静かに首を横に振った。
「クラウスさん、破格のご提案には感謝します。ですが、その契約はお受けできません」
「……ほう? 金額にご不満がおありですか? もしそうであれば、さらに上乗せしても構いませんが」
「いいえ。金額の問題ではありません。俺たちがこの荒野で汗を流して作っているのは、一部の特権貴族だけが見栄を張るための贅沢品じゃないんです」
トウマは立ち上がり、窓の外を指差した。
そこには、大工や鍛冶屋が汗を流し、旅人たちが足湯に浸かりながら笑い合う、活気に満ちた通りの風景が広がっていた。
「ここに来る人々は、過酷な旅や日々の労働で心と身体をすり減らした人たちです。俺は、そんな人たちが誰でも気軽に入浴でき、うまい野菜や果物を食べて、『明日も頑張ろう』と笑顔になれる場所を作りたいんです。独占販売にして高額な貴族専用の品にしてしまえば、この街の温もりは死んでしまう。それでは、俺たちがこの荒野を開拓した意味がないんです」
「トウマ様のおっしゃる通りです」
セレスティアもまた、毅然とした声で言葉を重ねた。
「私たちは、富を独占したいのではありません。このヴェルデの温泉と大地の恵みを、正当な価格で、多くの人々と分かち合いたいのです。貴族の食卓を飾るためだけに、汗を流してくださる職人や領民の方々の笑顔を奪うことはできません」
クラウスは二人の顔を交互に見つめ、やがて呆れたように、しかし口もとに深い笑みを浮かべて肩をすくめた。
「……参りましたな。荒野の宿屋の主人が、これほどまでに高い志と理念を持っていらっしゃるとは。目先の金貨の山に目が眩まない本物の商人と農民に、久しぶりに出会いました。では、トウマ殿。あなたなら、我が商業連合とどのような形で手を組みたいとお考えですかな?」
トウマは待っていましたとばかりに、セレスティアが丹念に作成した一枚の見取り図を広げた。
「俺からの逆提案です。街の目抜き通りの中央に、誰もが無料で入れる『大足湯広場』と、定期的に開かれる『特産市』を常設したいんです」
「特産市……?」
「はい。星巡り商業連合の流通網を使って、大陸中から良質な物資や腕利きの職人をこの街に運んでいただきたい。そして、この街で採れる温泉メロンや石鹸、野菜の一部を連合を通じて公正な価格で各地へ卸していただく。ただし、街の特産市では誰もが適正価格で直接買えるようにするんです。商人を締め出すのではなく、自由で開かれた交易の拠点として、我が街の市場を商業連合の公認拠点にしていただきたいのです」
クラウスは目を見張り、見取り図に吸い寄せられた。
独占による一時的な暴利ではなく、街そのものを一大観光地・交易拠点へと成長させ、継続的かつ強固な経済圏を築くという構想。
一介の農民が描いたとは思えない、スケールの大きな商業戦略だった。
「素晴らしい……! 目先の金貨に飛びつかず、十年、百年の繁栄を見据えた大事業だ。トウマ殿、セレスティア様、我が商業連合は、喜んでその構想に全力を投資いたしましょう! このヴェルデを、大陸で最も輝く自由交易の温泉都市に育て上げましょう!」
クラウスは立ち上がり、トウマの手を両手で力強く握りしめた。
こうして、星巡り商業連合という大陸最強の後援者を得たことで、ヴェルデの発展は爆発的な加速を見せることとなった。
◆ ◆ ◆
それから数週間のうちに、街の中央通りには白煙を上げる巨大な屋根付きの「大足湯」が完成した。
買い物を楽しむ旅人や商人が、気軽に靴を脱いで足湯に浸かり、歓談の声を響かせる。
通り沿いには、温泉蒸気を利用してふっくら蒸し上げた名物の「温泉蒸し饅頭屋」、湯の花を使った化粧品店、地元野菜の串焼き屋、温泉熱を利用した染色工房など、魅力的な店がズラリと立ち並んだ。
通りには朝から晩まで心地よい湯煙と芳しい香りが漂い、訪れる人々は「ここは地上の楽園だ」と歓喜した。
東街道を行き交う旅人の誰もが、かつての死の荒野を「ヴェルデ温泉街」と呼び、憧れの桃源郷として訪れるようになっていた。
宿の予約は数ヶ月先まで埋まり、街の人口は五百人を超え、荒野は奇跡の楽園へと成り上がったのだ。
だが――
その眩いばかりの光と巨万の富の噂は、やがて貪欲な害虫たちを引き寄せることとなる。
王都ベルガルドの豪奢な宮殿の一室で、贅沢な絹の絨毯の上に、ヴェルデ温泉街の調査報告書が叩きつけられていた。
「……何だと? あの不毛の荒野が、一大温泉街として莫大な富を生み出しているだと……?」
不快そうに目を細めたのは、ベルガルド王国の第一王子、レナードだった。
金髪に華美な宮廷服を着崩し、傲慢で冷淡な釣り目を爛々と光らせている。
その隣で、脂ぎった顔に邪悪な笑みを浮かべる男――王都の観光・興行利権を牛耳る商業貴族、バルトロ男爵が、宝石を散りばめた太い指を弄びながら囁いた。
「ええ、殿下。しかも驚くべきことに、その温泉宿を取り仕切っている若女将というのは……かつて殿下が無能として追放された、あのセレスティアだというのです」
「……セレスティアだと!? あの魔力ゼロの役立たずの穀潰しが……!」
レナードの眉がつり上がり、激しい嫉妬と傲慢な怒りがその表情を醜く歪めた。
自分が捨てた無能が、誰も開拓できなかった荒野で巨万の富と名声を得ているなど、プライドが許さなかったのだ。
「殿下、これは好機でございますぞ。ヴェルデ荒野は王国の名目上の王領地。あそこの土地と源泉を王家が接収し、セレスティアを無償で働かせれば、あの莫大な富はすべて殿下の懐へと入るのですからな……」
バルトロ男爵のねっとりとした甘言に、レナードの口もとが醜く吊り上がった。
王都の暗雲が、平和な温泉街へと音を立てて忍び寄ろうとしていた。




