第6話「湯煙の立つ露天風呂と、深まる信頼」
『燈火亭』の開業から一月が過ぎた頃、荒野を渡る風には季節の移ろいを感じさせる微かな涼しさが混じり始めていた。
連日満室が続く宿の運営は、セレスティアの卓越した差配と、トウマの確固たる料理と湯の管理によって、寸分の滞りもなく回っていた。
訪れた商人たちは口を揃えて「王都のどの高級宿よりも安らぐ」と絶賛し、冒険者たちは「この宿の湯と飯さえあればどんな魔獣の巣窟にだって挑める」と笑い合っていた。
だが、トウマのものづくりへの探求心は留まるところを知らなかった。
「セレス、裏手の岩場の造成が終わったぞ。今夜、いよいよ火入れ……いや、湯入れをする」
トウマが誇らしげに額の汗を拭いながら告げると、番台で帳簿をつけていたセレスティアは顔を上げ、紫水晶の瞳をパッと輝かせた。
「まあ! トウマ様がここ数週間、朝早くから手掛けていらした、あの露天風呂が完成したのですね!」
二人が宿の裏手へと回ると、そこには本館の渡り廊下から続く、息を詰まらせるような大露天風呂が姿を現していた。
荒野の赤茶けた巨岩をトウマの【土水調律】で削り、肌触りが滑らかになるよう丹念に磨き上げた岩風呂だ。
十数人が一度にゆったりと足を伸ばせる広さがあり、湯船の縁は香りの良いヒノキに似た芳香木で美しく縁取られている。
そして何より素晴らしいのは、そのロケーションだった。
視界を遮る塀や壁は一切なく、湯船の先には雄大な荒野の平原と、遠く夕闇に溶けゆく山脈の稜線がどこまでも広がっていた。
トウマが木製の水門をゆっくりと引き上げると、高台の湯畑から木樋を通じて引かれた新鮮な源泉が、ドッと音を立てて岩風呂へと注ぎ込まれた。
湯気がモクモクと立ち上り、夕暮れの淡い茜色を浴びて黄金色に染まっていく。
硫黄の心地よい香りが、夕方の涼しい風に乗ってふわりと鼻腔をくすぐった。
「すごい……なんて開放感なのでしょう。まるで、荒野の大自然そのものに抱かれているようです」
セレスティアが両手を胸の前で組み、感嘆の吐息を漏らす。
トウマは満足そうに頷き、湯加減を確かめるように湯の中に手を入れた。
「よし、湯温は四十一・五度。外気が冷たい分、長湯ができる絶妙な温度だ。大地の熱と夜風の涼しさが互いを引き立て合って、いつまでも入っていられる。今夜の宿泊客の皆さんに、さっそく一番風呂を楽しんでもらおう」
◆ ◆ ◆
夜の帳が下りる頃、燈火亭の大露天風呂は、訪れた客たちにとって生涯忘れられない奇跡の舞台へと変わっていた。
「……うおおおおお……っ!」
湯船に浸かったギルバートをはじめとする屈強な冒険者たち、そして商業都市からやってきた商人たちが、一様に夜空を見上げて絶句していた。
空を見上げれば、そこには吸い込まれそうなほどの満天の星が広がっていた。
人工の明かりが一切ない荒野の夜空。
天の川が白銀の帯となって頭上を悠然と横断し、無数の星座が宝石を散りばめたように瞬いている。
立ち上る乳白色の柔らかな湯煙が、満天の星明かりを浴びて銀色に揺らめき、まるで夜空の雲海の中に浸かっているかのような錯覚を覚えた。
「なんちゅう贅沢だ……身体は極上の湯に包まれて芯から温まり、頭は澄み切った夜風で心地よく冷やされる……目の前にはこの星空だぞ」
「王都のどんな大貴族の邸宅でも、こんな贅沢は味わえん。ここに来るまでの旅路の苦労なんて、この一瞬で全部吹き飛んでしまったよ」
商人たちが湯船の縁に腕を預け、心の底からの吐息を漏らす。
日頃の商取引の重圧、過酷な旅の恐怖、人間関係の軋轢。
それら現代社会のあらゆるストレスが、広大な宇宙と温かな湯の抱擁の前で、砂粒のように小さく洗い流されていく。
湯船から上がった客たちは、誰もが穏やかで澄んだ表情を浮かべ、まるで生まれ変わったかのように語り合っていた。
大広間では、湯上がりの客たちに冷たい温泉水と、トウマ特製の冷やし温泉トマトが振る舞われた。
身体の芯まで温まった後の冷えたトマトの甘みと酸味に、客たちは再び感嘆の声を上げ、夜遅くまで旅の思い出を語り合っていた。
◆ ◆ ◆
やがて夜が更け、客たちが心地よい眠りに就いた深夜。
館内の明かりが落とされ、静まり返った『燈火亭』の片隅で、トウマは中庭に面した縁側の足湯に一人腰を下ろしていた。
手足を伸ばし、夜空を仰ぐ。
日中の激務の疲れが、足先からじわじわと抜けていくのを感じていた。
大露天風呂の成功。
喜んでくれた客たちの笑顔。
すべてが順調だったが、トウマの心には、ふと前世の孤独な日々の記憶がかすめていた。
一人でがむしゃらに働き、誰とも喜びを分かち合えずに倒れた前世。
だが今は違う。
「トウマ様、まだ起きていらしたのですか?」
静かな足音と共に、鈴を転がすような柔らかな声が降ってきた。
振り返ると、仕事を終えたセレスティアが、小さな湯桶を手に立っていた。
髪を解き、薄桜色の浴衣をまとった彼女は、月明かりを浴びて息を詰まらせるほど美しかった。
日中の凛々しい若女将の顔から一転して、そこには年相応の可憐な少女の柔らかさが宿っていた。
「セレスか。ああ、露天風呂の湯加減の様子を見ていたんだ。……君も今日はずっと動きっぱなしだったろ? こっちに来て、足を温めなよ」
「はい、お言葉に甘えさせていただきます」
セレスティアは裾を少し持ち上げ、トウマの隣に腰を下ろした。
白く細い両足が、ちゃぷんと足湯の湯に沈む。
「……ふふ、温かいです」
セレスティアの唇から、小さな吐息がこぼれた。
二人の肩が触れ合いそうなほど近い距離。
夜風がセレスティアの白銀の髪をふわりと揺らし、湯煙に乗って彼女のまとう手作り石鹸の甘い香りが、トウマの鼻腔をくすぐった。
トウマの心臓が、トクンと不意に跳ねる。
「今夜の露天風呂、大好評だったな。みんな、星空を見て言葉を失っていたよ」
「ええ。お客様が皆様、涙を浮かべて喜んでいらっしゃいました。……トウマ様は、本当にすごい方です。大地の力を借りて、こんなにも人を幸せにする場所を作ってしまうのですから」
セレスティアは膝の上に手を重ね、横に座るトウマを真っ直ぐに見つめた。
その紫水晶の瞳には、尊敬と、それ以上の深い感情が揺らめいていた。
「私、時々夢ではないかと思うのです。ほんの少し前まで、私は王都の薄暗い地下牢で、明日の命さえ諦めて凍えていました。誰からも必要とされず、無能と罵られ、世界中から拒絶されたと思い込んでいました」
セレスティアの声が、微かに震える。
「でも、トウマ様が私の冷え切った手を引いてくださった。温かいスープを飲ませてくださり、この温かな湯を教えてくださった。……トウマ様が作られたこの場所は、傷ついた人々がもう一度生きる力を取り戻すための、世界で一番温かい奇跡の場所です。私にとっても、命を救われ、新しく生まれ変わることができた、かけがえのない大切な居場所です」
「セレス……」
トウマは彼女の真摯な瞳を見つめ返した。
彼女の小さな手は、足湯の湯気に包まれて微かに揺れている。
トウマはそっと手を伸ばし、その白く冷たい指先を、自分の温かい手のひらで包み込んだ。
セレスティアの肩がビクッと跳ね、紫の瞳が大きく見開かれる。
だが、手を引っ込めようとはしなかった。
むしろ、トウマの温もりを求めるように、小さな指先がきゅっと握り返してきた。
「俺の方こそ、君に感謝しているんだよ」
トウマは穏やかに、しかし心の芯からの想いを込めて言葉を紡いだ。
「俺はただの農民で、湯守だ。土をいじって、湯を沸かすことしかできない不器用な男だ。でも、君が笑顔でお客様を迎え、細やかに気配りをしてくれるからこそ、『燈火亭』はただの宿屋ではなく、誰もが帰りたくなる『家』になれたんだ。君が隣にいてくれるから、俺は迷わずに前を向いて走れる。君の存在が、俺の支えなんだ」
「トウマ様……っ」
セレスティアの瞳に、ジワリと涙がにじんだ。
それは悲しみの涙ではない。
存在のすべてを認められ、かけがえのないパートナーとして必要とされているという確信から溢れ出た、至福の涙だった。
「俺は、君を追放した王都の連中を絶対に許さない。あんな理不尽に君を傷つけた奴らの浅ましさには腹が立つ。でも、君がこの荒野に来てくれたこと、俺と出会ってくれた運命には、心から感謝している。……セレス、これからもずっと、俺の隣にいてくれないか」
夜風が止み、満天の星が二人を静かに見守っていた。
セレスティアの白い頬は、足湯の熱のせいばかりではなく、耳まで真っ赤に染め上げられていた。
彼女は溢れそうになる涙を堪えながら、トウマの手を両手でしっかりと抱きしめた。
「はい……! 私、どこへも行きません。トウマ様の隣が、私の生きる場所です。トウマ様がお創りになるこの素晴らしい世界を、一番近くで見守り、お支えしたいのです。ずっと、ずっと、お傍にいさせてください……!」
二人の温かな手が重なり合い、その温もりが心臓の奥深くまで溶け込んでいく。
荒野の静かな夜、湯煙と星明かりの下で結ばれた二人の絆は、揺るぎない確信となって固く結ばれたのだった。




