第5話「小さな宿屋『燈火亭』開業」
ギルバートという最強の広告塔を得た効果は、トウマとセレスティアの想像を遥かに超えていた。
「おい、聞いたか? あの『剛剣』のギルバートが、荒野の宿で古傷を完治させたってよ」
「嘘だろ? あいつの背骨と膝の激痛は、王都の大司教様でも治せなかったはずだぞ」
「本人が東街道の酒場で大声で触れ回ってるんだ。『あそこの湯に入らねぇ奴は人生の半分をドブに捨ててる』ってな! しかも飯が神がかり的に旨いらしい」
商業都市オルバールや周辺の宿場町では、瞬く間にその噂が駆け巡った。
最初は半信半疑だった冒険者や、日頃の激務で腰痛や胃痛に悩まされていた商人たちが、一人、また一人と東街道から荒野へと足を踏み入れ始めたのだ。
客の増加を受け、トウマとセレスティア、そして非番のたびに手伝いに駆けつけるギルバートの三人は、寝る間を惜しんで宿の拡張工事を進めた。
トウマの【土水調律】で頑丈な石造りの基礎を固め、ギルバートが巨木を軽々と運んで柱を立て、セレスティアが内装のデザインと調度品の配置を指揮した。
そうして迎えた新月の朝。
荒野の赤茶けた大地の上に、堂々たる木造二階建ての温泉宿が完成した。
「よし……これで準備完了だ!」
トウマが汗を拭いながら見上げると、玄関の軒下には、セレスティアが藍染めの布に筆で丹念に書き上げた暖簾が揺れていた。
白抜きの文字で記された宿の名――『燈火亭』
荒野の暗闇の中に灯る、旅人の心を温める希望の灯火であれ、という願いが込められている。
「トウマ様、打ち水も完了いたしました。本日最初のお客様をお迎えする準備は万全です」
セレスティアがトウマの隣に並び、晴れやかな笑顔を見せた。
その姿は、まさに宿を束ねる「若女将」そのものだった。
藍色の小袖に、すっきりとした桜色の帯。
白銀の長い髪は後ろで上品にまとめられ、清潔感と凛とした気品を漂わせている。
泥にまみれて絶望していたかつての公爵令嬢の面影はどこにもなく、そこには自分の足で立ち、生き生きと輝く一人の誇り高き女性がいた。
「本当によくやってくれた、セレス。君がいなかったら、今日という日は迎えられなかったよ」
「いいえ、トウマ様が私に生きる意味と温もりを教えてくださったからです。……さあ、いらっしゃいましたよ!」
セレスティアが視線を向けた街道の先から、砂埃を上げて馬車と旅人の群れがやってくるのが見えた。
商人風の男たち、鎧をまとった冒険者のパーティー、長旅で疲弊した旅の一家。
全部で十数人もの人々が、看板と湯煙を目指して足を早めていた。
「ごめんください! ここが噂の『燈火亭』かい!?」
先頭に立っていた四十がらみの商人が、息を切らしながら暖簾の前に飛び込んできた。
長旅の埃にまみれ、目の下には濃い隈が浮かんでいる。
「いらっしゃいませ。遠路遥々、よくお越しくださいました」
セレスティアが一歩前に進み出て、完璧な所作で深々と一礼した。
その優美で洗練された立ち居振る舞いに、商人たちは思わず息を呑み、気圧されたように背筋を正した。
「お客様、東街道からの長旅で、足腰と胃腸がお疲れのようでございますね。当宿の源泉は、冷えと疲労を芯から解きほぐす弱アルカリ性の硫黄塩化物泉。まずは手足を伸ばして、旅の疲れをお流しくださいませ」
セレスティアの【精霊眼】は、訪れた客一人ひとりの体調の乱れを一瞬で見抜いていた。
商人の足首の血行不良、冒険者の肩の筋肉の強張り。
それらを的確に見立てた言葉をかけられた商人たちは、「な、なぜそれを……!?」と目を丸くしながらも、その深い気配りに一瞬で心を掴まれていた。
「玄関で泥を落とし、こちらの木札付きの草履にお履き替えください。お部屋へご案内いたします」
清潔に磨き上げられた木の廊下。
杉の香りがふわりと漂う客室に荷物を置いた客たちは、浴衣代わりに用意された清潔な麻の部屋着に身を包み、トウマの案内で新設された内湯へと吸い込まれていった。
◆ ◆ ◆
内湯は、十人以上が一度に足を伸ばして浸かれる広々とした檜造りの大浴槽だった。
窓からは荒野の雄大な山並みが見え、底からは絶え間なく新鮮な源泉が注ぎ込まれている。
「うわぁぁぁぁ……っ、なんだこの極楽は……!」
「信じられん……! 湯に浸かった瞬間、足の浮腫みと腰の痛みがスーッと引いていくぞ!」
「おい見ろ、肌がすべすべになっていく! 荒野の砂風で荒れ放題だった皮膚が、一瞬でツヤを取り戻しやがった!」
男湯からも女湯からも、至福の歓声が止むことなく響き渡った。
トウマの徹底した温度管理と源泉調律により、湯は常に最も効果の高い四十一・五度に保たれている。
汗と共に毛穴から長旅の老廃物が抜け出し、湯上がりの客たちの顔には、憑き物が落ちたような満面の笑みが浮かんでいた。
そして、温泉で極限まで研ぎ澄まされた身体を待っていたのは、トウマが魂を込めて仕込んだ『極上温泉野菜膳』だった。
大広間の座敷に運ばれたお膳を見て、客たちから感嘆のどよめきが上がった。
「これは……なんて贅沢な料理なんだ……!」
お膳の中央に鎮座するのは、地熱蒸気釜でふっくらと炊き上げられた麦飯。
源泉水で研ぎ、蒸気で炊かれた飯は、米粒一つひとつが宝石のように輝き、噛むほどに芳醇な甘みが広がる。
汁物は、温泉水で仕込んだ自家製味噌と、地熱で育った甘熟玉ねぎと蕪の味噌汁。
湯気が立ち上る小鉢には、源泉のミネラルで固めた滑らかな「温泉豆腐」が、生姜と青葱を添えて盛られている。
そしてメインの皿には、畑で採れたばかりの温泉茄子、甘長唐辛子、南瓜を、軽やかな衣でサクッと揚げ、熱々の出汁に潜らせた「地熱野菜の揚げ浸し」
さらに、源泉で茹で上げた名物の半熟温泉卵が黄金色に輝いていた。
「召し上がれ。荒野の地熱と土が育てた、俺たちの自慢の野菜たちです」
トウマが笑顔で声をかけると、客たちは一斉に箸を伸ばした。
サクッ、ジュワッ……
揚げ浸しを口にした商人が、目を見開いて動きを止めた。
薄い衣の中から溢れ出たのは、茄子の濃密な果汁と出汁の旨味だった。
油の重さは微塵もなく、野菜本来の瑞々《みずみず》しい甘みが出汁の塩気と完璧に調和している。
「うまい……! 野菜ってのは、こんなに味が濃くて甘いものだったのか!?」
「この豆腐の滑らかさはどうだ! 舌の上でとろけて、大豆の濃厚な香りが鼻に抜けるぞ!」
「白飯が止まらん! なんだこの飯の旨さは! 何杯でも食えるぞ!」
おかわりの声が四方八方から飛び交い、大広間は熱狂的な活気に包まれた。
高級貴族の料理のように高価な肉や香辛料をこれ見よがしに使っているわけではない。
しかし、素材の生命力を極限まで引き出し、食べる者の健康と幸福を願って作られた料理は、どんな山海の贅沢料理よりも深く、客たちの心と胃袋を震わせていた。
給仕に走り回るセレスティアの額には薄っすらと汗が浮かんでいたが、その瞳は喜びに満ちていた。
客たちが「ありがとう、若女将!」「こんな素晴らしい宿、生まれて初めてだ!」と口々に感謝を述べるたび、彼女の胸の奥で、かつて王都で刻まれた傷跡が癒えていくのだった。
夜が更ける頃には、宿泊客全員が満足しきった顔で布団に潜り込み、宿の中には穏やかな寝息が満ちていた。
「大成功だな、セレス」
大広間の片付けを終えたトウマが、番台に腰掛けてお茶を差し出すと、セレスティアは柔らかく目を細めて受け取った。
「はい、トウマ様。……お客様が皆様、本当に幸せそうなお顔をしてお帰りになるのが、何よりも嬉しいです。私、この宿の若女将になれて……本当に幸せです」
湯上がりの茶をすする二人の横顔を、暖炉の温かな炎が優しく照らし出していた。
『燈火亭』の評判は、もはや荒野の一宿の枠に収まりきらない勢いで、大陸中へと広がり始めていた。




