第4話「街道の噂と傷だらけの冒険者」
ヴェルデ荒野の北縁を東西に走る「星巡り東街道」は、商業都市オルバールと王都を結ぶ主要な通商路である。
普段であれば、旅商人や武装した冒険者たちが、不吉な荒野に目を向けることなく、足早に馬車を走らせて通り過ぎるだけの道だった。
しかし、ここ数日の間に、街道を行き交う人々の間で奇妙な噂が囁かれ始めていた。
「おい、見ろよ。あの呪われた荒野の奥から、白い煙が真っ直ぐ昇っているぞ」
「悪魔の毒煙じゃないのか? いや、待て……風に乗って漂ってくる匂いが、いつもの刺激臭と違うぞ。どこか懐かしいような、清らかな硫黄の香りと……なんだか腹の減るような旨そうな匂いがする」
旅人たちが足を止め、遠く立ち上る湯煙を指差す。
だが、長年「死の荒野」と忌避されてきた場所に自ら足を踏み入れようとする者は、まだ現れていなかった。
命知らずの男が、その白煙を目指して荒野へと踏み込んでくるまでは。
◆ ◆ ◆
ジャリッ、ジャリッ、と重い足音が荒野の砂礫を踏みしめていた。
男の背丈は二メートル近くあり、鍛え上げられた分厚い筋肉の鎧をまとっていた。
背中には、並の人間では持ち上げることすら叶わない巨大な黒鋼の大剣を背負っている。
歴戦の風格を漂わせる大男――王国屈指のSランク冒険者、『剛剣』のギルバートだった。
だが今のギルバートの足取りは、いつ倒れてもおかしくないほどに覚束なかった。
短く刈り込んだ茶髪は脂汗で濡れ、顔の古傷が苦痛に歪んでいる。
使い込まれた重革鎧の下では、全身の関節と筋肉が悲鳴を上げていた。
(くそっ……限界か……東の山脈で仕留めた古龍の毒牙の傷が、まだ骨の芯で疼きやがる……)
ギルバートは歯を食いしばり、腰の痛みに顔をしかめた。
十五歳で剣を握り、二十年もの間、修羅場を潜り抜けてきた。
代償として彼の身体は、古傷の神経痛、関節の変形、そして魔獣の毒による慢性的な魔力脈の目詰まりに蝕まれていた。
最近では剣を振るうたびに激痛が走り、王都の名医や神官の治癒魔法を頼っても、「酷使しすぎた身体の老朽化は奇跡でも治せない」と匙を投げられていたのだ。
引退。
その二文字が、ギルバートの脳裏に重くのしかかっていた。
街道を歩いていた時、ふと見えた荒野の白煙。
毒煙で死ぬならそれも戦士の最期かと、半ば自暴自棄になって歩みを進めていたのだが――
「……ん? 小屋があるぞ……? それに、なんだこの匂いは……」
視界の先に現れたのは、美しく整えられた木組みの小屋と、緑が青々と茂る畑だった。
そしてその奥から、滾々《こんこん》と立ち上る純白の湯煙。
さらに風に乗って運ばれてきたのは、食欲を激しく刺激する、香ばしい肉と野菜の蒸し上がる甘い香りだった。
「ようこそ、旅のお方。……大変なお怪我とお疲れのご様子ですね」
ふいに、鈴を転がすような澄んだ美しい声が響いた。
ギルバートが顔を上げると、そこには息を詰まらせるほど可憐な白銀の髪の少女が立っていた。
動きやすい藍染めの着物に桜色の帯をきりりと締めた、端正な佇まい。
紫水晶の瞳には、見知らぬ大男に対する恐れなど微塵もなく、ただ深い慈しみと気遣いの色が湛えられていた。
「あ、あんたは……? こんな荒野のど真ん中に、なんでこんな別嬪が……」
「ここは、旅の皆様の心と身体を癒やす温泉宿『燈火亭』の準備処でございます。私は若女将を務めております、セレスティアと申します」
セレスティアは深々と礼をすると、ギルバートの巨躯をじっと見つめた。
彼女の【精霊眼】には、ギルバートの背骨と両膝の魔力脈が黒く濁り、激しい熱と痛みの精霊が暴れ回っているのがありありと視えていた。
「お客様、お背中と膝の痛みがひどく限界を超えていらっしゃいますね。……トウマ様! お客様がお見えになりました!」
「おう、今行く!」
小屋の奥から、前掛けを締めた黒髪の青年――トウマが小走りで現れた。
トウマはギルバートの血色の悪い顔色と、引きずっている右足を見るなり、すぐに事情を察した。
「重症だな。よくここまで歩いてこられた。……旦那、俺の作った温泉に入ってみないかい? 筋骨の疲労と古傷、神経痛には抜群に効く弱アルカリ性の硫黄泉だ」
「お、温泉……? この煙は、沸かした湯なのか……? いや、だが俺は今、金なんて……」
「代金は後でいいさ。まずはその身体の悲鳴を止めるのが先決だ。さあ、肩を貸すよ」
トウマとセレスティアに支えられ、ギルバートは半信半疑のまま、裏手の丸太小屋へと足を踏み入れた。
◆ ◆ ◆
衣服を脱ぎ捨て、手桶の湯を浴びた瞬間から、ギルバートの皮膚は驚きに粟立っていた。
肌にまとわりつくような、極上のとろみ。
そして、恐る恐る湯船へと巨躯を沈めた。
チャプン……と湯が波打ち、ギルバートの肩まで熱い湯が満ちた、その刹那――
「ッ……ぐ、あ……あぁぁぁぁぁぁっ!?」
ギルバートの口から、雷鳴のような咆哮が迸った。
あまりの叫び声に、外で待機していたトウマとセレスティアが「大丈夫ですか!?」と声を張り上げたほどだった。
だが、それは苦痛の叫びではなかった。
歓喜の絶叫だった。
「な、なんだこれはぁぁぁぁぁっ!? 湯が……湯が身体の芯に染み込んでくる……っ!?」
湯に触れた瞬間、長年彼を苦しめ続けていた背中と膝の奥底の「鉛のような重み」が、まるで温かい太陽に照らされた残雪のように、急速に溶け出していったのだ。
硫黄のミネラルと高濃度の有効成分が、皮膚呼吸を通じて傷ついた筋肉繊維の隙間へと浸透していく。
詰まりきっていた魔力脈がパチパチと音を立てて開通し、滞っていた血液が怒涛の勢いで全身を駆け巡る。
「温けぇ……痛みが……消えていく……? 嘘だろ……あの古龍の呪毒の疼きまで……!」
湯船の縁に両腕を乗せ、ギルバートは湯の中に顔を埋めるようにして号泣した。
どれほど腕を磨いても、身体の老いと傷には勝てないと絶望していた。
冒険者としての寿命が尽きかけ、生きる気力を失いかけていた。
そのすべての苦悩と痛みが、この乳白色の柔らかな湯煙の中に、跡形もなく溶けて消えていく。
「生き返る……俺は……俺は生きてるぞ……っ!」
◆ ◆ ◆
一時間後。
湯小屋から出てきたギルバートの姿は、先ほどの満身創痍の大男とは別人のようだった。
肌にはツヤが戻り、顔色は見事な血色に染まり、ぎらぎらとした野生の眼光が力強く甦っていた。
何より、先ほどまで引きずっていた右足を力強く踏み鳴らし、背筋をピンと伸ばして立っていた。
「大将! 嬢ちゃん! 身体が羽のように軽い! 関節の痛みが綺麗さっぱり消え失せやがった! あんな神業みてぇな湯、大陸中どこを探したってねぇぞ!」
興奮冷めやらぬギルバートの前に、トウマが木製のお盆を運んできた。
「はは、効果があってよかったよ。……さあ、湯上がりにはこれが一番だ」
お盆の上に置かれていたのは、二つの器だった。
一つは、小鉢に盛られた、プルプルの白身に包まれた丸い卵――温泉源泉の絶妙な地熱温度でじっくり茹で上げた「温泉卵」だ。
トウマ特製の出汁醤油がひとかけされ、刻んだ青葱が散らされている。
もう一つは、湯気の立ち上る木皿。
畑の地熱蒸気釜でじっくりと蒸し上げられた厚切りの野生豚と、甘熟キャベツや人参の温野菜盛り合わせ、それに大盛りの麦飯だった。
「こ、これは……?」
「温泉の源泉で作った半熟卵と、温泉蒸気で余分な脂を落として旨味を閉じ込めた蒸し豚だ。まずは卵を、つるっといってみてくれ」
ギルバートは生唾を飲み込み、木匙で温泉卵をすくった。
口に含んだ瞬間、舌の上で白身がとろりと崩れ、濃厚な黄身がジュワリと広がった。
源泉の微かな塩分と出汁醤油の旨味が、黄身のコクを極限まで引き立てている。
「う、うめぇぇぇぇぇっ!? なんだこの濃厚さは! 卵が口の中でとろけやがった!」
間髪入れず、ギルバートは蒸し豚の塊を口へと放り込んだ。
歯を立てる必要すらないほど、肉はホロホロと柔らかく崩れた。
豚肉の甘い脂と肉汁が溢れ出すが、地熱蒸気で余分な脂が落ちているため、驚くほど後味がさっぱりしている。
添えられた蒸しキャベツを口に運べば、砂糖でも加えたのかと錯覚するほどの強烈な甘みが弾けた。
ギルバートは無言で、憑りつかれたように皿を平らげた。
米粒一つ残さず綺麗に平らげると、ドンッとお盆を置き、トウマの両肩を鷲掴みにした。
「大将! 頼む、俺をこの宿の常連第一号にしてくれ!」
「えっ?」
「金なら払う! いや、金だけじゃ足りねぇ! 俺の剣をこの宿に捧げる! 魔獣避けの結界張りから荒野の警備、力仕事まで何でもタダでやってやる! だから頼む、俺をここに通わせてくれ! この湯と飯がなきゃ、俺はもう生きていけねぇ!」
王国最高峰のSランク冒険者が、涙目で必死に懇願する姿に、トウマとセレスティアは顔を見合わせて吹き出した。
「大歓迎ですよ、ギルバートさん。……心強い用心棒さんができて、俺たちも百人力です」
トウマが右手を差し出すと、ギルバートはその手を砕けんばかりの力で握り返した。
こうして、ヴェルデの湯と滋味は、最強の冒険者の胃袋と魂を完全に射止めた。
この出会いが、やがて街道を越え、大陸全土を揺るがす大温泉街の伝説へと繋がっていくのだった。




