第3話「丸太の湯小屋と初めての湯浴み」
荒野の朝は、青く澄み切った冷気と共に明けた。
東の地平線から昇る朝日が赤茶けた大地を琥珀色に染め上げる中、トウマの掘っ立て小屋の裏手からは、白く柔らかな湯煙が真っ直ぐに空へと立ち上っている。
「おはよう、セレスティア。身体の具合はどうだい?」
トウマが薪割りの手を止め、汗を拭いながら声をかけると、小屋の扉が控えめに開いた。
現れたセレスティアの姿に、トウマは思わず目を細めた。
昨夜の泥だらけのドレスは水洗いして干してあるため、彼女が身につけているのはトウマの予備の麻のシャツと作業ズボンだった。
大人の男物であるため、肩は大きく落ち、袖や裾を幾重にも折り返してあるが、それがかえって彼女の華奢さと小柄さを際立たせていた。
だが何より、昨夜の土気色だった顔色が、薄い桜色を取り戻していた。
「おはようございます、トウマ様。……あの、お借りしたお洋服、少し不格好で申し訳ありません」
セレスティアは照れくさそうに頬を染め、折り返した袖口をぎゅっと握りしめた。
「いや、とても似合ってるよ。よく眠れたかい?」
「はい……! 生まれて初めてというくらい、深く、温かい眠りでした。悪夢も一度も見ませんでした。昨夜いただいたスープのおかげです」
「それはよかった。胃が動いて体温が戻った証拠だな。……よし、それなら予定通り、約束の『特効薬』を試してもらおうか」
「特効薬、ですか……?」
小首をかしげるセレスティアを促し、トウマは小屋の裏手に整備したばかりの湯小屋へと案内した。
頑丈なトドマツの丸太を組み上げ、隙間に漆喰代わりの耐火泥を塗り込んだ、素朴ながらもしっかりとした造りの小屋だ。
木製の引き戸を開けると、ふわりと温かい蒸気と共に、心地よい硫黄と新鮮な木の香りが鼻腔をくすぐった。
「わあ……っ」
セレスティアの口から、感嘆の吐息がこぼれた。
湯小屋の中央には、平らな川石を丁寧に敷き詰め、滑らかなヒノキに似た芳香木で縁取られた、四角い湯船が設えられていた。
底から滾々《こんこん》と湧き出る無色透明の湯が、縁から静かに溢れ出している。
朝日が湯煙を通り抜け、水面にキラキラと光の輪を描いていた。
「これが、俺の自慢の温泉だ。昨夜話しただろ? 弱アルカリ性の硫黄塩化物泉で、肌の汚れや古い角質を落として、切り傷や筋肉痛、冷え性を劇的に治してくれる。……もちろん、男の俺は外で見張りをしているから、鍵をかけてゆっくり入るといい」
トウマは清潔な麻の手ぬぐいと、畑のハーブから抽出したオイルで作った手作りの無添加石鹸を桶に入れて手渡した。
「まずは湯船に入る前に、手桶の湯で身体を軽く流して、湯の温度に身体を慣らすんだ。のぼせそうになったら無理をせず、縁に腰掛けて休むといい。誰にも邪魔されない、君だけの時間だ」
「トウマ様……本当に、私のような者がこんな素晴らしい場所に……?」
「遠慮はいらないよ。お湯は入ってくれる人がいて初めて喜ぶんだからな。さあ、身体の芯まで温まっておいで」
トウマが優しく笑って戸を閉めると、中からカチャリと木製の閂が下りる音が響いた。
◆ ◆ ◆
湯小屋の外で、トウマは薪を割りながら耳を澄ませていた。
やがて、ザバァン……と湯が静かに波打つ音が聞こえてきた。
トウマの口もとが自然とほころぶ。
一方、湯船の中では、セレスティアが至福の衝撃に包まれていた。
「……あ……ぁ……っ……」
つま先を浸した瞬間は少し熱く感じられた湯が、ふくらはぎ、太もも、そして腰へと浸かっていくにつれ、驚くほど滑らかに肌へと馴染んでいった。
肩まで湯に沈んだ瞬間、セレスティアの喉から、甘い吐息が零れ落ちる。
まるで、温かな絹のヴェールに全身を包み込まれたかのような感覚。
肌の表面を軽くとろりとした湯膜が覆い、毛穴の一つひとつから、荒野を彷徨っていた日々の冷えと緊張が、音を立てて抜けていくようだった。
擦り傷だらけだった手足の痛みは不思議と染みず、むしろ傷口を優しく癒やすような柔らかな刺激が広がる。
(温かい……なんて温かくて、気持ちがいいのかしら……)
セレスティアは湯船の縁に頭を預け、目を閉じた。
王都にいた頃、公爵邸の大浴場には湯が張られていたが、それは魔導具で沸かしたただの熱湯に過ぎなかった。
湯上りにはすぐに肌が乾燥し、冬場は身体の芯まで温まることなどなかった。
だが、この湯はまったく違う。
熱が皮膚の表面だけでなく、血液を巡って内臓の奥深くまで浸透し、凍りついていた魂そのものを解きほぐしていくようだった。
セレスティアは手桶ですくい上げた湯を、自分の白銀の髪にゆっくりとかけた。
泥や埃でごわついていた髪が、湯を通すだけで驚くほどしなやかさを取り戻していく。
手作りの石鹸を泡立てて肌を撫でると、心地よいハーブの香りが立ち上り、昨夜までの悪夢のような追放の記憶が、真っ白な泡と共に洗い流されていくようだった。
ふと、セレスティアは目を開けた。
湯気の中に、無数の微細な光の粒子が舞っているのが見えた。
(……やっぱり。この場所は……)
セレスティアの瞳――アメジストの瞳が、淡く神秘的な紫の燐光を帯びていた。
彼女が生まれ持った特異な才能。
それは、世界を満たす精霊や大地の生命エネルギーの流れを、色彩として視認できる【精霊眼】だった。
王都の魔導院で行われた適性測定では、炎や雷といった破壊的な属性魔力の「量」だけが計測された。
繊細な自然の調和を感じ取るセレスティアの力は数値に現れず、彼女は「魔力ゼロの無能」と切り捨てられたのだ。
だが今、彼女の瞳には、息を詰まらせるほど美しい光景が映し出されていた。
トウマの掘り当てた湯船の底からは、純白と黄金に輝く温かな精霊たちが、まるで歓喜の歌を歌うように無数に湧き上がっていた。
それらは湯煙に乗って舞い上がり、セレスティアの傷ついた肌に優しく触れては、その傷を癒やして消えていく。
さらに湯小屋の壁の隙間から見える裏手の畑には、緑と黄色の豊かな精霊たちが土壌を包み込み、瑞々《みずみず》しい野菜たちと戯れていた。
(トウマ様は、大地の声を聞くことができる方なのだわ……この地は呪われた死地などではない。トウマ様の清らかな魔力と技術によって、世界で一番豊かな光に満ちた聖域に生まれ変わっている……!)
セレスティアの胸が、熱い感動で震えた。
自分を無能と嘲笑った王都の者たちの狭量さと愚かしさが、この雄大で清らかな自然の奇跡の前には、あまりにも小さく、色褪せたものに思えてならなかった。
◆ ◆ ◆
「お待たせいたしました、トウマ様」
湯小屋の戸が開き、セレスティアが姿を現した。
その姿を見た瞬間、トウマは手にしていた薪を思わず取り落としそうになった。
「セレスティア……」
息を詰まらせるほどの変化だった。
湯上りの彼女の肌は、まるで内側から光を放つ真珠のように透き通り、ほんのりと桜色に上気していた。
泥にまみれていた白銀の髪は、朝の光を浴びて絹糸のように艶やかに波打ち、風に軽やかに揺れている。
そして何より、アメジストの瞳には澄み切った知性と、眩いばかりの生命の輝きが宿っていた。
着ている服は相変わらずトウマの作業着のままだが、その佇まいは、一国の王女ですら霞むほどの気品と神聖な美しさを放っていた。
「どうだったかい、お湯は?」
トウマが照れ隠しに頭を掻きながら尋ねると、セレスティアは満面の笑みを咲かせた。
それは、彼女がこの荒野に来て初めて見せた、心からの、無垢で輝かしい笑顔だった。
「最高でした……! 全身の痛みが嘘のように消えて、羽が生えたように身体が軽いです。トウマ様のお湯は、本当に奇跡の特効薬ですね」
「はは、気に入ってもらえて何よりだ。肌もツヤツヤになってるぞ」
「あの、トウマ様。……私、トウマ様にお話ししなければならないことがあります」
セレスティアは真剣な眼差しでトウマを見つめ、一歩前に進み出た。
「私には、魔力がないわけではないのです。王都の魔導具では測れなかったのですが……私には、大地の精霊やエネルギーの流れを視ることができる【精霊眼】という力があります」
「精霊眼……?」
「はい。トウマ様が調律されたこの温泉には、傷を癒やし生命を活性化させる至高の光の精霊たちが、数え切れないほど集まっています。そして畑の土にも、豊かな大地の恵みが満ちています。トウマ様の技術と心は、大地そのものに愛されているのです」
セレスティアは両手を胸の前で祈るように重ね、紫の瞳を潤ませながら言葉を続けた。
「私を救ってくださったトウマ様のために、私のこの眼を役立てたいのです。湯脈の細かな変調や、土壌の精霊たちの機嫌、そして訪れるお客様の身体の不調を、私の眼で見極めることができます。……お願いです。私を、トウマ様の温泉宿で働かせていただけないでしょうか? どんな雑用でも、帳簿の管理でも、何でもいたします!」
深く頭を下げるセレスティアの姿に、トウマは驚き、そして胸の奥が熱く震えるのを感じた。
無能などと罵られ、捨てられた少女が、誰よりも尊い力と真っ直ぐな感謝の心を持って、自分と共に歩もうとしてくれている。
トウマは微笑み、彼女の華奢な肩に手を置いた。
「頭を上げてくれ、セレスティア。雑用係だなんてとんでもない」
セレスティアが顔を上げると、トウマは力強く頷いた。
「俺は湯守と農業しか能のない男だ。宿をやるなら、接客や帳簿、細かい気配りをしてくれる相棒がどうしても必要だったんだ。君のその素晴らしい眼と聡明な力があれば、百人力どころか千人力だよ」
「トウマ様……!」
「二人でやろう。この荒野に、誰も見たことがない最高のおもてなしと癒やしの温泉宿を創るんだ」
差し出されたトウマの大きく武骨な手を、セレスティアは両手で包み込むようにぎゅっと握りしめた。
大地の温もりと、精霊の光が混ざり合う。
荒野の片隅で、運命の二人が交わした誓いは、やがて王国全土を揺るがす奇跡の始まりとなった。




