第2話「土の温もりと最初の一皿」
パチパチと乾いた薪が爆ぜる音が、静まり返った木組みの小屋の中に響いていた。
土壁で囲まれた簡素な室内は、中央に据えられた手作りの石造り暖炉のおかげで、外の凍えるような夜風が嘘のように柔らかな熱気に満たされている。
さらに床下には、源泉から引いた温泉の温水パイプが巡らされており、足元からじんわりとした天然の床暖房のような温もりが立ち上っていた。
トウマは清潔な木桶に汲んだぬるま湯に麻の布を浸し、固く絞った。
ベッドに敷き詰めた干し草のクッションの上で、少女は今なお浅い呼吸を繰り返している。
顔色は先ほどよりわずかに赤みを取り戻していたが、額には脂汗が滲み、悪夢に魘されているのか眉間に深い苦悶の皺が刻まれていた。
「……う……あ……お父様……どうして……私は……何も……」
震える唇から漏れ出る、か細いうわ言。
トウマは息を潜めながら、彼女の額に温かい濡れ布をそっと当てた。
そして、泥に汚れた頬や首筋、無数のかすり傷がついた細い手足を、傷口を刺激しないよう細心の注意を払って拭っていく。
「ひどい冷え方だ。胃の中も完全に空っぽだな……」
トウマは前世の旅館で培った経験から、衰弱した人間の状態を冷静に見立てていた。
長旅での疲労困憊に加え、何日もまともな食事を口にしていない。
急に固形物や油っこいものを胃に入れれば、拒絶反応を起こして吐き戻してしまうだろう。
今必要なのは、芯から冷え切った内臓を優しく温め、大地の滋養を無理なく吸収できる極上の流動食だ。
トウマは暖炉の上に吊るされた鉄鍋へと歩み寄った。
鍋の中では、極小のとろ火でコトコトと煮込まれたスープが、ふつふつと湯気を立てている。
昼間に収穫したばかりの、あの真っ赤な温泉地熱トマト。
皮を湯剥きし、果肉を丁寧にすり潰して煮詰めたものに、畑で採れた甘みの強い玉ねぎの微塵切りと、大根に似た根菜をじっくりと煮溶かしてある。
出汁には、干し椎茸に似た香気豊かな野生の乾燥茸から取った澄んだスープを使用し、調味料は一摘みの粗塩と、微量の天然ハーブのみ。
さらに、裏手の田んぼ代わりの温水プールで育ち始めたばかりの早生米を極限まで柔らかく炊き上げた、重湯に近い温泉粥を合わせてある。
余計な香辛料や動物性油脂は一切使っていない。
素材の持つ純粋な甘みと、大地の生命力だけを凝縮した、究極の滋養スープ粥だ。
「ん……っ……」
ふいに、ベッドの方から小さく衣擦れの音が聞こえた。
トウマが振り返ると、干し草の上で少女の上体が微かに揺れていた。
長い銀の睫毛が震え、アメジストの瞳がゆっくりとまばたきを繰り返す。
焦点が定まらない様子で天井を見つめていた彼女は、やがて自分が温かな毛布に包まれ、見知らぬ小屋の中に横たわっていることに気づいたようだった。
「……ここは……?」
掠れた声。
直後、彼女の身体がピシリと硬直した。
紫の瞳に、猛烈な警戒と恐怖の色が宿る。
反射的に毛布を引き上げ、ベッドの隅へと後ずさろうとしたが、極度に衰弱した身体はいうことを聞かず、か細い手首が力なくシーツの上に滑り落ちた。
「動かない方がいい。君はひどく衰弱して、荒野の岩場の前で行き倒れていたんだ」
トウマは両手を胸の前に掲げ、武器も悪意もないことを示しながら、低く穏やかな声で語りかけた。
驚かせないよう、距離を保ったままゆっくりと木製の椅子に腰を下ろす。
「俺の名はトウマ。この荒野で小さな畑を耕しながら、温泉を掘って暮らしているただの農夫だ。君に危害を加えるつもりはまったくないから、安心してくれ」
「と……うま……様……?」
少女は怯えた瞳でトウマを見つめた。
日焼けした肌、飾らない麻の作業着、そして何より、悪意や欲望の欠片もない澄んだ琥珀色の瞳。
その温和な佇まいに触れ、少女の強張っていた肩から、ほんのわずかだけ力が抜けた。
だが、依然として瞳の奥の深い哀しみは消えない。
「……なぜ……助けたのですか……」
俯いた少女の口から、ポロポロと重い言葉が零れ落ちる。
「私は……ベルガルド王国のセレスティア・フォン・ローゼンバーグ……いえ、もう貴族でも人間ですらありません……無能の烙印を押され、家を追われ、すべてを奪われた忌み子です……関われば、あなたにも災いが及びます……」
「セレスティア……それが君の名前だな」
トウマは彼女の絶望的な警告を遮ることも否定することもなく、ただその名前を大切そうに繰り返した。
そして、暖炉の鍋から木椀へと丁寧にスープ粥をよそい、木匙を添えてベッドの脇の小机へと運んだ。
ふわりと、甘く芳醇な香りが室内に広がる。
完熟トマトの爽やかで濃厚な酸味と、じっくり炒め煮にされた玉ねぎの香ばしい甘み、そして大地の滋養を凝縮した茸出汁の深い香気。
その香りが鼻腔をくすぐった瞬間、セレスティアの小さなお腹から、ぎゅるるる……と切ない音が響いた。
セレスティアは恥ずかしそうに顔を真っ赤にし、両手でお腹を押さえて身を縮こまらせた。
「難しい話は後だ。まずは腹を満たして、身体を温めよう。……食べられそうかい?」
「ですが……私には、お代を払えるようなものは何も……着ている服さえ、泥だらけで……」
「代金なんていらないよ。俺が丹精込めて育てた野菜と、この土地の温泉の恵みで作ったスープだ。美味しく食べてくれるのが、農民にとって一番の報酬だからな」
トウマは笑いかけ、木匙にひとすくい、湯気の立つスープ粥を掬い上げた。
ふうふうと息を吹きかけて適温に冷まし、そっとセレスティアの唇の前へと差し出す。
セレスティアは戸惑い、紫水晶の瞳を揺らしながらも、抗いがたい空腹と立ち上る芳しい香りに引かれ、おずおずと小さな口を開いた。
とろりとしたスープが、彼女の舌の上に滑り込む。
その瞬間、セレスティアの瞳が大きく見開かれた。
最初に広がったのは、今まで口にしたどんな高級料理とも違う、野菜の濃い甘みだった。
まるで太陽の光と温かい大地の抱擁をそのまま液体にしたかのような、優しく力強い旨味。
温泉水で極限まで柔らかく煮込まれた米粒が、噛む必要すらないほど滑らかに舌の上でほどけていく。
喉を通り抜けた瞬間、冷え切って石のように固まっていた胃袋の底に、ポッと小さな灯火が灯った。
熱が、波紋のように内臓から全身の血管へと広がっていく。
「……あ……っ……」
セレスティアの喉から、小さな吐息が漏れた。
気がつけば、彼女の大きな瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていた。
一度溢れ出した涙は止まることを知らず、白く透き通るような頬を伝い、干し草のシーツを濡らしていく。
「おい、どうした!? 熱すぎたか? それとも口に合わなかったかい?」
慌てるトウマに、セレスティアは必死に首を横に振った。
「ちが……違います……っ。こんなに……こんなに温かくて、優しい味……生まれて初めて食べました……っ」
嗚咽が、少女の小さな胸を震わせる。
「王都では……婚約者だった第一王子のレナード殿下に『魔力を持たない無能の穀潰し』と罵られ……新たに現れた聖女候補の嘘を信じた家族からも見捨てられ……私は冷たい牢屋に閉じ込められていました……誰も私の言葉を聞いてくれませんでした……皆が冷たい目で私を嘲笑い、汚らわしいものを見るように石を投げて……」
過酷な追放劇。
名門公爵家に生まれながら、王族の理不尽な身勝手と宮廷の醜い権力闘争の犠牲となり、名誉も居場所もすべてを奪われて死の荒野へと追いやられた絶望。
その冷たい記憶が、スープの温もりに触れたことで、せき止められていた涙となって溢れ出していた。
トウマは何も言わず、ただ静かに彼女の背中に手を添えた。
大地の温もりを宿したトウマの大きな手のひらが、震える華奢な背中を優しく撫でる。
「辛かったな。もう大丈夫だ」
トウマの声は、静かだが岩のように揺るぎなかった。
「無能だなんて、誰が言ったか知らないが、そんな言葉に意味なんかないよ。君は今、こうして生きてここにいる。それが全てだ」
「トウマ様……」
「俺はここで、世界一の温泉宿を作ろうと思ってるんだ。人を癒やし、笑顔にして、明日へ生きる活力を取り戻してもらうための場所だ。……だからさ、セレスティア。もし行く当てがないなら、ここにいればいい」
セレスティアは涙で濡れた瞳を上げ、信じられないものを見るようにトウマを見つめた。
「ここに……いていいのですか……? 私のような、何の力もない者が……?」
「何の力もない人間なんていないさ。それに、うまい飯を食って『おいしい』って笑ってくれる人がそばにいてくれるだけで、料理人や農家にとっては最高にありがたいんだよ」
トウマは木匙を彼女の手に握らせた。
手袋越しではない、トウマの手の温もりが、セレスティアの冷え切っていた指先へと伝わる。
「さあ、冷めないうちに全部食べてくれ。おかわりもたくさんある。しっかり食って、しっかり寝て、明日は俺自慢の温泉に入ろう。嫌なことなんて、全部その湯に流しちまえばいい」
セレスティアは木匙を両手でしっかりと握りしめた。
その瞳には、先ほどの絶望と諦念の暗い影はもうなかった。
まだ微かに震えながらも、そこには微かな、しかし確かな生の光が宿っていた。
「……はいっ……! いただきます……トウマ様……っ!」
一口、また一口と、セレスティアは涙を拭いながらスープ粥を口へと運んだ。
その小さな身体を包む小屋の中には、大地の温もりと、新しく芽吹いた希望の香りが満ち満ちていた。




