番外編2「歴戦の豪剣士が、辺境の温泉宿で胃袋と骨抜きにされた話」
◇ギルバート視点
冒険者って生き物は、引き際が一番難しい。
魔獣の首を狩り、未踏の迷宮の最深部を暴き、国中から『剛剣』のギルバートと持て囃されて二十年。
気づけば背負い込んだ黒鋼の大剣の重みよりも、身体の奥底に巣食った古傷の重みの方が遥かに重くなっていた。
「チッ……古龍の呪毒の疼きが、また背骨を焼きやがる」
街道を一人とぼとぼ歩きながら、ギルバートは苦虫を噛み潰したような顔で腰を押さえた。
膝の関節は油の切れた錆びた蝶番のようにギシギシと軋み、剣を一振りするたびに電撃のような激痛が走る。
王都の最高位神官に金貨百枚を積んで治癒魔法をかけてもらったが、「肉体の過度な摩耗と蓄積した呪毒は、神の奇跡でも誤魔化せません。命が惜しければ即刻引退なさい」と無慈悲に宣告されたばかりだった。
三十五歳。
戦士としてはまだ老け込む歳じゃねぇはずだが、身体は完全に限界の悲鳴を上げていた。
引退して片田舎の安酒場で管を巻きながら野垂れ死ぬか、それとも名誉のために魔獣の腹の中で果てるか。
そんな自暴自棄の思いで東街道を歩いていた時、ふと目に飛び込んできたのが、あのヴェルデ荒野から真っ直ぐ立ち上る一本の白煙だった。
呪われた毒煙と恐れられる死の荒野。
死に場所にはちょうどいいと、半ばヤケクソで砂塵の中へと踏み込んでいったのだが――
「……おいおい、死神の代わりに、とんでもねぇ別嬪が現れやがったぞ」
煙の元にあった小さな掘っ立て小屋の前で出迎えてくれたのは、息を詰まらせるほど美しい白銀の髪の娘だった。
藍色の着物をキリリと着こなし、澄んだアメジストの瞳でこちらを見つめて深々と頭を下げる。
その瞳に見つめられた瞬間、なぜか全身の痛む関節の場所や魔力脈の詰まりをすべて見透かされたような、不思議な戦慄を覚えたのを今でも鮮明に記憶している。
そして現れたのが、前掛けを締めた日焼け面の青年――大将、トウマだった。
「重症だな。まずは身体の悲鳴を止めよう」と、金も取らずに案内されたのが、あの丸太造りの湯小屋だった。
◆ ◆ ◆
あの湯に入った瞬間の衝撃は、俺の人生の全修羅場を合わせても敵わないほど凄まじいものだった。
服を脱ぎ散らかし、手桶の湯を浴びた瞬間から、肌が驚きで総毛立っていた。
そして、恐る恐る湯船へと巨躯を沈めた、その刹那――
「ぐ、あ……あぁぁぁぁぁぁっ!?」
叫ばずにはいられなかった。
苦痛じゃない。
あまりの快感と解放感に、脳天を雷でブチ抜かれたのだ。
長年、俺の背骨と両膝を万力のように締め上げ、骨の髄まで蝕んでいた重苦しい激痛が、まるで熱湯をかけられた氷のように、ジュウジュウと音を立てて溶けていったのだ。
硫黄の香りと極上のとろみを持った湯が、皮膚の毛穴という毛穴から雪崩れ込み、傷ついた筋繊維と詰まりきっていた魔力脈をガシガシと洗い流していく。
「温けぇ……痛みが……消えていく……!? 嘘だろ……あの大司教様でも治せなかった古傷が……!」
気づけば、湯船の縁に頭を乗せて、人目も憚らず号泣していた。
どれだけ屈強を気取っていても、毎晩激痛で眠れず、剣を握る手が震える恐怖に怯えていたのだ。
それが、たった一杯の湯に浸かっただけで、綺麗さっぱり消え去った。
全身の血がドクドクと巡り、十年前の全盛期以上の力が腹の底から湧き上がってくる。
「生き返った……! 俺は……俺はまだ戦えるぞ!」
湯小屋の壁をぶち破らんばかりの勢いで立ち上がった俺を待っていたのは、更なる衝撃の伏兵だった。
◆ ◆ ◆
「湯上がりにどうぞ」と大将が運んできた木製のお盆。
そこに載っていたのは、プルプルの白身に包まれた丸い温泉卵と、湯気を立てる厚切りの蒸し豚だった。
卵を口に流し込んだ瞬間、俺の舌は狂喜乱舞した。
とろりとした濃厚な黄身のコクと、源泉の微かな塩気、そして出汁醤油の旨味が爆発した。
「う、うめぇぇぇぇぇっ!?」と絶叫し、続いて蒸し豚に食らいつく。
歯を立てる必要すらない。
肉が舌の上でホロホロとほどけ、甘い脂と肉汁が口いっぱいに広がった。
地熱蒸気で余分な脂が落ちているから、いくらでも腹に入る。
添えられた蒸しキャベツを噛めば、果物かと錯覚するほどの強烈な甘みが弾けた。
胃袋を鷲掴みにされた。
いや、胃袋だけじゃねぇ。
魂まで丸ごと、この大将と若女将に根こそぎ奪い去られたのだ。
「頼む! 俺をこの宿の常連第一号にしてくれ! 用心棒でも薪割りでも何でもタダでやってやる!」
気づけば、王国最高峰のSランク冒険者としてのプライドなんぞドブに捨てて、大将の両肩を掴んで必死に頭を下げていた。
情けねぇと思うか?
冗談じゃねぇ。
あの極上の湯に入り、あの神がかりの飯を食っちまったら、どんな百戦錬磨の戦士だって同じことをするはずだ。
それからの日々は、冒険者人生の中で一番充実していた。
仲間の冒険者どもを「騙されたと思って一度来い!」と首根っこ掴んで連れてきちゃ、全員湯船で泣かせて常連に引きずり込んだ。
非番のたびに荒野へ駆けつけ、巨木を軽々と運んで宿の拡張を手伝い、大露天風呂の岩を並べた。
大将が作った温泉メロンを食った時なんぞ、「うめぇぇぇっ!」と叫びすぎて顎が外れそうになったし、セレスティアの嬢ちゃんが開発した湯の花石鹸の凄さにも度肝を抜かれた。
そして、あの王都の豚男爵と近衛兵どもが乗り込んできた時だ。
「おいおい、豚の脂の匂いがプンプン鼻について、せっかくの朝の湯上がりが台無しじゃねぇか」
大剣を引っ提げて広場に飛び出した時の爽快感は、古龍の首を刎ね飛ばした時以上だった。
大将と若女将の笑顔、そして俺たちの居場所を踏みにじろうとする不届き者を、この手で叩き潰せるのだ。
さらにクラウスの旦那が快速馬車でバリケードを粉砕し、エレノアの皇女様が浴衣姿で現れて一喝した時の、あの豚どもの情けない顔といったら!
極めつけは、モルグ山の崩壊現場だ。
大将が神業みてぇな土水調律で暴走源泉を鎮めた後、崩落したVIPパビリオンの瓦礫の下から、泥まみれで泣き叫ぶレナードのばか王子をこの腕で引っ張り出して泥の上に放り投げてやった時の快感!
権力を振りかざして威張り散らしていた奴らが、自然の怒りの前で無様に這いつくばる姿は、まさに最高のカタルシスだったぜ。
◆ ◆ ◆
今、俺はヴェルデ大温泉街の中央大足湯にどっかりと腰を下ろし、特産の地酒を煽りながら、夜空に咲く温泉蒸気花火を見上げている。
隣には、酒を酌み交わす大工のバックス棟梁や、笑い合う職人たちの顔。
通りを行き交う旅人たちも、誰もが幸せそうに湯上がりの団扇をパタパタと仰ぎ、屋台の温泉饅頭を頬張っている。
「大将と若女将は、どこへ行ったんだ?」
棟梁が尋ねてきたので、俺はニヤリと笑って、奥の丘の上の離れ露天風呂の方を指差した。
「野暮なこと聞くんじゃねぇよ、棟梁。今夜はあの二人の特別な夜なんだからよ」
星降る露天風呂で、きっと大将は嬢ちゃんに格好いいプロポーズを決めているはずだ。
あのお人好しで芯の強い大将と、誰よりも健気で気高い若女将。
世界中で一番お似合いの二人が、この街の頂点に立っている。
「へっ……俺の冒険者人生の後半戦は、この温泉街の用心棒頭で決まりだな」
足元からじんわりと染み渡る温泉の温もりに目を細めながら、ギルバートは木升の酒を一気に飲み干した。
膝の上に置いた愛刀の黒鋼の大剣を軽く叩く。
明日も朝早くから、温泉街の周辺警備と街道の見回りだ。
それが終われば、大将が作る熱々の温泉粥と、瑞々《みずみず》しい温泉トマトの朝飯が待っている。
そう考えただけで、腹が鳴り、胸の奥が熱くなる。
骨抜きにされた胃袋と身体が、今日も最高に軽かった。




