番外編1「冷たかった世界が、春の陽だまりに染まるまで」
◇セレスティア視点
冷たい世界だった。
王都ベルガルドの宮殿も、実家であるローゼンバーグ公爵邸も、豪奢な白大理石の床と金銀のシャンデリアで飾られていたけれど、セレスティアにとっては息をすることさえ苦しい氷の檻にすぎなかった。
「魔力適性値、ゼロ。……なんという出来損ないだ」
魔導院の厳格な測定器の前で告げられたその冷酷な宣告を、セレスティアは今でも鮮明に覚えている。
王太子の婚約者として幼い頃からあらゆる礼法と教養、歴史や語学を叩き込まれ、身を粉にして期待に応えようと尽くしてきた日々は、その一言ですべて無価値な塵へと変わってしまった。
セレスティアには、視えていた。
空気に舞う大気の精霊の微細な揺らぎ、庭園の土の中で眠る大地の精霊たちの温かな息吹。
花の蕾がほころぶ瞬間の甘い光や、澄んだ泉から立ち上る清らかな青い波動。
だが、宮廷の魔導具が測るのは、炎を爆発させたり氷の刃を放ったりするような、暴力的で荒々しい魔力の「出力」だけだった。
自然の調和を感じ取るセレスティアの【精霊眼】は、彼らの粗雑な物差しでは測れず、ただ「魔力を持たない無能」「出来損ないの穀潰し」と切り捨てられたのだ。
「公爵家の名折れだ。王太子殿下の婚約者としての席は、新たに現れた聖女候補へ譲ってもらう」
実の父の冷たい瞳。
義母と異母妹の醜い嘲笑。
そして、かつて甘い愛の言葉を囁いていた元婚約者レナード王太子の、汚らわしい害虫を見るような冷酷な蔑みの眼差し。
セレスティアは地下の冷たい独房へと幽閉され、ある嵐の夜、泥だらけの襤褸をまとわされ、見せしめのように国境の荒野へと放り出された。
(もう、誰も私を必要としてくれない……)
吹きすさぶ黄塵と、肌を切り裂く鋭い砂利石。
底の抜け落ちた薄い靴で歩き続けるうちに、足の裏は血豆と切り傷で真っ赤に染まり、飢えと渇きが喉を焼いた。
過酷な夜の寒さに晒され、ついに膝が折れて赤茶けた岩場に倒れ伏した時、セレスティアの心は凍りついていた。
早く死んでしまいたい。
この冷たい土の中で、誰にも知られずに静かに消えてしまいたい。
薄れゆく意識の向こうで、足音が聞こえた。
きっと誰かが自分を嘲笑いに来たのだと思った。
だが、その時――
「……こんな冷たい地面で死なせてたまるか」
低く、しかし驚くほど温かい声が降ってきた。
そして、泥にまみれて凍てついていたセレスティアの身体を、大きな、逞しい両腕がふわりと抱き上げたのだ。
その腕から伝わってきたのは、大地の温もりそのものだった。
作業着から漂う干し草と豊かな土の香り、そして微かな硫黄の湯煙の温かさ。
セレスティアの凍りついていた世界に、生まれて初めて触れた本物の「陽だまり」だった。
◆ ◆ ◆
目覚めた掘っ立て小屋でいただいた、あの最初の一皿のことは、一生忘れることができない。
木匙で口へと運ばれた、真っ赤な温泉地熱トマトのスープ粥。
一口含んだ瞬間、セレスティアの全身を走った衝撃は、言葉を失うほどだった。
太陽の恵みをいっぱいに浴びた大地の甘みと、温泉水で炊かれたお米の滑らかな優しさが、石のように冷え切っていた内臓を、下腹の奥底からポカポカと解きほぐしていった。
宮殿の晩餐会で出される、高価なスパイスとバターで塗り固められたどんな贅沢料理も、あのスープの足元にすら及ばなかった。
料理を作った人の心――「食べて元気になってほしい」という純粋な祈りと慈愛が、ひと匙ごとに身体の細胞一つひとつへと染み渡っていったのだ。
気づけば、大粒の涙が止まらなくなっていた。
自分の存在を丸ごと肯定され、包み込まれるような温もりに触れた瞬間だった。
そして、あの丸太の湯小屋での初めての湯浴み。
無色透明の柔らかな温泉に肩まで沈んだ時、セレスティアの喉から零れた吐息は、魂の解放そのものだった。
擦り傷だらけの手足から痛みが引いていき、肌がまるで生まれたての赤子のように潤っていく。
何より、セレスティアの【精霊眼】が捉えた、湯煙の中で舞い踊る無数の光の精霊たちの美しさは、神々の庭園のようだった。
トウマという人は、大地と心を通わせることができる、世界で唯一の奇跡の湯守なのだと悟った。
そして、そんな素晴らしい人が、自分のような追放された無力な娘を「君が必要だ」と受け入れてくれた。
(この人のために、私の命のすべてを捧げたい)
その想いは、日を追うごとに、尊敬から深い敬愛へ、そして抑えきれないほど甘く熱い恋心へと変わっていった。
早朝、朝露に濡れた畑で黙々と鍬を振るうトウマの逞しい背中。
泥にまみれた手で汗を拭いながら「おはよう、セレス」と優しく微笑んでくれる、澄んだ琥珀色の瞳。
お客様の健康を気遣い、湯畑の水門をミリ単位で調整する真剣な横顔。
帳簿付けや接客に追われるセレスティアの元へ「無理をするなよ」と、そっと温かい野草茶を手渡してくれる不器用な気遣い。
そのすべてが愛おしくて、彼の隣にいられるだけで、セレスティアの心は春の野花のように温かく色づいていった。
宿が大きくなり、職人たちが集まり、街ができていく日々は、まるで夢のようだった。
トウマが育てた野菜の良さをどう活かすか、湯の花をどう加工して石鹸にするか、夜遅くまで灯油ランプの下で二人で顔を寄せ合って語り合った時間。
トウマの手がふいにセレスティアの指先に触れるたび、胸がトクンと跳ねて、顔から火が出るほど赤くなったこと。
そのすべてが、セレスティアにとって生涯消えない宝石のような記憶だった。
◆ ◆ ◆
王都の使者やバルトロ男爵が押し寄せてきた時、セレスティアは微塵も怖くなかった。
かつてあれほど恐ろしかったレナード王太子や宮廷の権力など、トウマと築き上げたこの温かな街の前には、あまりにも色褪せた、浅ましい影にすぎなかったからだ。
「俺の仲間と、俺の大切な人に……気安く触るな」
トウマが自分の前に立ち塞がり、悪徳貴族の手首を掴んでそう言い放ってくれた瞬間。
セレスティアの胸の奥で、カチリと最後の鍵が外れた。
この人の隣こそが、自分の生きる場所なのだと。
この人の温もりを守るためなら、世界中を敵に回しても戦えるのだと。
王都の暴走事故を救うために快速馬車で駆け抜けた時も、トウマは隣で私の手をずっと握りしめていてくれた。
『セレス、君の眼を信じている』という言葉が、どれほど私の背中を押してくれたことか。
国王の前で名誉を回復された時も、公爵家の地位や王都への復帰など、私の心には一片も魅力的に思えなかった。
なぜなら、私の本当の居場所は、王都の冷たい大理石の宮殿ではなく、トウマの温かい笑顔が咲くヴェルデの街にあったからだ。
そして迎えた、あの星降る露天風呂の夜。
湯煙が満天の星空へと溶け込む中、トウマから左手の薬指に指輪を嵌められた瞬間、セレスティアの視界は涙で滲んでしまった。
大地の源泉が生み出した、世界でたった一つの紫金色の結晶石。
「俺と結婚してくれないか」という、飾らない、しかし岩のように確かなプロポーズ。
重なり合ったトウマの唇から伝わってきた熱さは、かつて荒野で行き倒れていた自分の手を握りしめてくれた、あの日と同じ、絶対の温もりだった。
冷たく凍てついていた世界は、もうどこにもない。
トウマの愛という眩い陽だまりの中で、セレスティアの心は、永遠に咲き誇る花となったのだ。
(トウマ様……あなたと出会えて、私は本当に世界一の幸せ者です)
眠るトウマの穏やかな寝顔の隣で、セレスティアは左手の薬指に輝く指輪をそっと胸に抱きしめ、至福の微笑みを浮かべた。
明日も、明後日も、そしてこの命が尽きるその日まで。
最愛の湯守の隣で、若女将としての幸せな朝を迎えるために。




