第15話「大温泉街の誕生と領民の祝祭」
東街道の地平線の彼方に、白く柔らかな湯煙の柱が見えた時、トウマとセレスティアの乗る快速馬車の窓から、セレスティアが身を乗り出すようにして声を上げた。
「トウマ様、見てください! 街の入り口に、あんなにたくさんの人が……!」
馬車が街道の坂を越えて温泉街の正面大通りへと差し掛かった瞬間、大地を揺るがすような大歓声が爆発した。
「帰ってきたぞぉぉぉぉっ! トウマ様と若女将がお帰りになられたぞぉぉぉぉっ!」
見渡す限りの人の波だった。
バックス棟梁率いる大工たち、鍛冶屋、陶芸職人、仕立て屋、街の商店主たち、そして滞在していた冒険者や旅の商人たちまで、街中の住民数百人が通りの両脇を埋め尽くしていた。
誰もが満面の笑みを浮かべ、手に手に色鮮やかな野の花の花束や、手作りの紙吹雪を高く掲げている。
馬車が『燈火亭』の前の大広場に停まると、バックス棟梁が真っ先に駆け寄り、トウマの右手を両手で力強く握りしめた。
その目には、大粒の熱い涙が光っていた。
「トウマ殿! 王都からの早馬で知らせは聞いたぞ! 王国の横暴を完全に跳ね返し、このヴェルデを『独立永世温泉特区』として認めさせただと!? しかもトウマ殿とセレスティア様が、わしたちの正式な共同領主に就任されたと!」
「ああ、棟梁。王国の勅書も、帝国の不可侵条約も、すべてここに揃っている。もう誰も、この街を奪うことはできない。ここは永久に、俺たちの自由で温かい街だ!」
トウマが黄金の王璽が押された勅書を高く掲げると、広場は割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。
大人たちが抱き合って涙を流し、子供たちが歓声を上げながらトウマとセレスティアの周りを跳ね回る。
「トウマ様万歳!」「若女将万歳!」「ヴェルデ温泉街万歳!」の合唱が、秋晴れの青空へとどこまでも響き渡った。
◆ ◆ ◆
その日の夕暮れ、ヴェルデの街は、開拓以来最大規模となる『大祝祭』の熱気に包まれた。
夕闇が迫るにつれ、街の大通りの両脇に並べられた数百個もの竹灯籠に、一斉に柔らかな火が灯された。
トウマの温泉蒸気を利用して光る特製のガラス行灯が、立ち上る白い湯煙を幻想的な琥珀色と桜色に染め上げていく。
かつて乾いた黄塵が吹き荒れていた荒野の面影はどこにもなく、そこにはまるでおとぎ話に出てくる桃源郷のような、息を詰まらせるほど美しい夜景が広がっていた。
「さあ野郎ども! 今夜は無礼講だ! 飲んで食って、温泉に入って、朝まで祝い明かせぇぇぇっ!」
ギルバートの豪快な乾杯の音頭と共に、広場の中央に設えられた巨大な宴席が一斉に沸き立った。
振る舞われたのは、街の豊かな実りを総動員した、前代未聞の極上温泉料理の数々だった。
地熱蒸気釜で丸一日じっくり蒸し上げられ、箸で触れるだけでホロホロと崩れる「温泉蒸し極上豚の丸焼き」
畑から朝一番で収穫された甘熟トマト、茄子、キャベツ、南瓜を豪快に盛り付けた「特製温泉温野菜鍋」
出汁の香りが広場いっぱいに漂い、一口すするだけで旅人たちの胃袋と心を芯から温めていく。
源泉のミネラルでふっくら炊き上げた銀シャリの麦飯おにぎりと、香ばしい川魚の塩焼き。
そしてデザートには、エメラルドグリーンに輝く完熟「温泉メロン」がピラミッドのように積み上げられ、子供たちや女性客が目を輝かせて歓声を上げていた。
通り沿いの中央大足湯にも、無数の人々が腰を下ろしていた。
酒杯を片手に足を温泉に浸し、極上の湯加減に深くため息を漏らす。
「最高だな……こんな美味い飯と、こんな気持ちのいい湯が、この世にあるなんてよ」
「ああ。わしらは本当に、最高の領主様と若女将に出会えた。この街に来て、本当に良かったよ」
職人たちがしみじみと語り合い、隣に座った旅の商人たちと笑顔で杯を交わす。
身分の貴賤も、出身の国も関係ない。
温かな湯煙と大地の恵みの下では、誰もが一人の人間として、心からの安らぎと笑顔を分かち合っていた。
宴の席には、エレノア皇女とクラウス会頭の姿もあった。
エレノアは湯上がりの麻の着物を優美に着こなし、木升に注がれた温泉仕込みの地酒を傾けて微笑んでいた。
「素晴らしい祝祭ですね、トウマ。帝国の大宮殿で開かれるどんな贅を凝らした晩餐会よりも、この場所の笑顔は温かく、心を満たしてくれます。……わたくしも、この街の永住者になりたいくらいです」
「エレノア様には、いつでも一番の貴賓室をご用意しておきますよ」
トウマが笑って答えると、クラウスもまた眼鏡の奥の目を細めて深く頷いた。
「ええ、我が商業連合もこの街に総支局を構えることに決定いたしました。ヴェルデは、東西の大陸を結ぶ最大の交易と癒やしの都として、これから更なる黄金期を迎えることでしょう」
◆ ◆ ◆
祝祭の夜が更けゆく中、広場の片隅で、トウマとセレスティアは並んで立ち、活気あふれる街の光景を見つめていた。
セレスティアは今夜のために仕立てられた、美しい紅梅色の着物に、若草色の帯を締めていた。
灯籠の柔らかな光に照らされたその横顔は、言葉を失うほど神々しく、そして幸福に満ちていた。
かつて王都で無能と罵られ、泥にまみれて泣いていた少女は、今や誰もが敬愛し、守りたいと願う、街の誇り高き若女将となっていた。
「信じられません……ほんの数ヶ月前まで、ここには冷たい風と、乾いた土しかありませんでした」
セレスティアの紫水晶の瞳が、潤みを帯びて街の灯りを見つめる。
「それが今では、こんなにもたくさんの人々の笑顔と、温かな灯火で満ちています。……トウマ様、あなたがこの荒野に種を蒔き、湯を湧かせ、命を吹き込んでくださったからです。あなたに出会わなければ、私はとっくにあの冷たい土の中で朽ち果てていました」
「いや、俺一人の力じゃないさ」
トウマは首を横に振り、優しく微笑みかけた。
「君が俺の隣にいて、俺の手を取ってくれたからだ。君のその澄んだ瞳と優しい心が、荒れ果てていた俺の心にも、この荒野の大地にも、一番大切な温もりを与えてくれたんだよ。セレス、君こそがこの街の最初の、そして最高の奇跡なんだ」
「トウマ様……」
セレスティアが胸に手を当て、感極まったようにトウマを見つめる。
その時、広場から「あ! トウマ様と若女将だ!」「二人ともこっちへ来てください!」「胴上げだぁぁぁっ!」という威勢のいい声が上がった。
バックス棟梁やギルバート、大工たちが笑顔で押し寄せてきて、トウマとセレスティアを取り囲んだ。
「わっ、おい、ギルバートさん!?」
「がっはっは! 観念しな大将! 今夜の主役はあんただ!」
ワッショイ、ワッショイ! と威勢のいい掛け声と共に、トウマの身体が夜空へと高々と放り出された。
続いて、大工たちの奥方や女性客たちによって、セレスティアもふわりと宙へと抱え上げられた。
宙に舞った二人の視界に、満天の星空と、地上に広がる無数の灯籠の光の海、そして自分たちを見上げて手を叩き、涙を流して笑う領民たちの温かな顔が飛び込んできた。
さらに夜空には、トウマが調律した温泉蒸気と魔導粉末による、色鮮やかな七色の花火が次々と大輪の華を咲かせた。
祝宴の喧騒が心地よい潮騒のように遠のき、やがて深夜の静寂が街を包み始めた頃。
胴上げの熱狂からようやく解放されたトウマとセレスティアは、二人並んで『燈火亭』の裏手へと続く小道をゆっくりと歩いていた。
夜風が火照った頬を撫で、どこか遠くで虫の声が小さく響いている。
「ふふ、皆様、本当に楽しそうでしたね」
セレスティアが帯を整えながら、くすくすと楽しそうに笑った。
その無邪気な笑顔を見つめながら、トウマの心には、温かい決意が静かに満ちていた。
二人で歩んできた軌跡の集大成。
その最高の答えを、今夜、彼女に伝えなければならないと。
天と地の光が一つに溶け合う、奇跡の夜。
不毛の死地と呼ばれたヴェルデ荒野は、大陸全土にその名を轟かせる、希望と癒やしの大温泉街として、永遠の歴史を刻み始めたのだった。




